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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 アンチモン鉱山

 アンチモン鉱床

 おもに合金として活字や種々の器物の鋳造に用いるアンチモンの主要鉱石は輝安鉱である。アンチモンを目的に稼行された市ノ川・万年・弘法師・藤ノ川・倉川・日吉などの鉱床は、いずれも単純輝安鉱の鉱脈で、石英や炭酸塩鉱物などわずかな種類の脈石鉱物を伴い、柱状や釘状の輝安鉱を含む石英質または粘土質鉱石からなっている。四国のアンチモン鉱床は、いずれも石鎚山第三紀浅成鉱床区として一括される新しい火成活動に関係をもって生成されたものである。地質区分のうえからは、石鎚山第三紀地質区とよばれる石鎚山周辺地域に分布し、古期岩層・古第三系または新第三系を母岩とする輝安鉱の鉱脈であって、市ノ川をはじめ弘法師・万年・横道・富重などがこれに属している。このほか、既存の層状含銅硫化鉄鉱床に重複してアンチモン鉱化が行われたものもあって、これには別子・優量・栃ノ木・銚子滝などの鉱床がある。

 市ノ川鉱山

 西条市にある市ノ川鉱山は、日本で最大のアンチモン鉱床であった。古くは大宝元年(七〇一)に伊予からすずかねを献じたとあるのは市ノ川産輝安鉱であろうといわれている。開発の記録は寛永七年(一六三〇)から知られ、宝暦一〇年(一七六〇)ごろは隆盛をきわめた。明治時代にはいっては、同七年(一八七四)に再開されて稼行が盛んとなり、三三年までの二六年間の生産量は精鉱中含有金属量一万六六〇〇トンに達し、世界有数のアンチモン鉱山となった。これは出鉱量が多大であるのみでなく、産出する輝安鉱の結晶が大きなことでも海外に知られる存在であった。明治末年ごろに衰微し、その後大正四年(一九一五)から数年間好況をみせたものの、以後は小規模な探鉱と採鉱を続けたが昭和三二年五月に休山した。

 その他の鉱山

 砥部町の弘法師鉱山は、明治四三年(一九一〇)ごろから開発され、大正初年ころが最も盛んであったが湧水のために縮小を余儀なくされた。戦後は、二七年に再開されて小規模な稼行をみたがまもなく休山した。四〇年にはまた再開され、四六年まで稼行した。また砥部町の万年鉱山は、江戸時代に大洲藩主によって相当稼行されたといわれ、殿様ひの名称をはじめ昔をしのばせる旧坑が多数ある。明治以降の記録では、明治二六年(一八九三)に稼行を開始したが、その後は昭和一六年と二三年、二八年と再三にわたって稼行がみられ、二八年から三五年までの間には浮選機を設けて生産が行われた。しかし、昭和一六年から三五年の間の生産量の合計は三〇八トン(品位三九・八%)と少ない。