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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 愛媛県の塩田

 愛媛の塩田

 『愛媛県統計書』によると明治三五年(一九〇二)には新居郡の多喜浜・前浜、弁財天浜・前浜、越智郡の堤浜・深浦浜・恵生浜・掛ノ浦浜・古江浜・瀬戸浜・四通浜・小嶋浜・本荘浜・亥ノ谷浜・松竹浜・口総浜・宗方平・波止浜、温泉郡の馬磯・中台浜・御手洗浜・新浜・小松原浜、伊予郡の新川浜・本郡浜、西宇和郡の日吉崎浜、北宇和郡の梶ノ内浜など二七塩田(三五九・六ha)、釜数二一○、製塩額三一万一七一九石、価額三五万一〇三八円と記録されている。これらの塩田は四次にわたる塩業整備事業によりつぎづぎと姿を消してきたのであった。第一次の明治四三・四四年(一九一〇~一一)で松山以西の塩田、第三次の昭和三四・三五年で、波止浜、多喜浜の大塩田が消滅している。最後に残った伯方塩業関係の塩田も昭和四五・四六年に廃田となった。古代から続いた予州塩業も時代の波にはどうすることもできなかったのである(表4-22)。
       
 多喜浜塩田

 多喜浜塩田は元禄一三年(一七〇〇)に黒島の年寄役五兵衛・竹屋源八・讃岐屋新左衛門・奥村丈助らにより計画され、宝永元年(一七〇四)に信濃の人深尾権太夫を迎えて着工、正徳四年(一七一四)に汐留工事を終わり、享保四年(一七一九)に十三間浜の新開堤を完成したが、翌五年(一七二〇)の権太夫死去により頓挫することになった。
 その後黒島の好兵衛・武左衛門らが先進地の安芸国御調郡吉和の塩業家天野喜四郎らに交渉した結果、享保八年(一七二三)に米屋喜四郎・津保屋善左衛門・樽屋与一郎・米屋保三郎・米屋忠左衛門・天野屋七右衛門ら六名が西条藩の許可を得てこの地に来住し着工、翌九年(一七二四)一一戸分の塩田一六町六反歩(約一六・六ha)を完成した。その後さらに一八年(一七三三)塩田二六町八反(約二六・八ha)を、宝暦九年(一七五九)百四町歩(約一〇四ha)を、文化六年(一八〇九)四〇町歩六反(約四〇・六ha)を、さらに慶応元年(一八六五)四〇町歩(約四〇ha)をというように継続事業として築造された。
 多喜浜塩田は多喜浜古浜・多喜浜東方・久貢新田多喜浜西分・北浜沖浜・三喜浜の五つからなり、総面積二四〇町歩(約二四〇ha)に及び、日本屈指の大塩田に成長していった。
 塩田は各藩が財源を得るため競って開発したもので、多喜浜塩田もまた西条藩主松平氏がその大半の権利を持っていた。明治一七年(一八八四)の台風の際北浜十六番浜の堤防が破壤され、災害を蒙った地元住民が損害賠償金を松平氏に要求した。このため松平氏は将来を考えて、自己所有の塩田を多喜浜の地元塩業家に払下げた。
 その後明治二六年(一八九三)資本金参万円、二七戸(一塩戸は一・五haまたは二haの塩田)をもって東浜産塩株式会社が発足し、他の一九塩戸は個人所有のまま経営が続けられた。製塩業は天候に支配され、また生産過剰などにより塩価の高低があり経営には常に困難を極めていたが、政府は日露戦争後の明治三八年(一九〇五)から塩の専売法の実施を行い、経営は安定した。
 満州事変勃発後、石炭・カマスなどの価格上昇により収支償なわず、個人経営の一九塩戸は昭和一三・一四年にその小作を放棄返還したため、地主が直営とした。さらに苦難が続き、終戦後の昭和二二年には黒島埋立地に四八〇〇万円を投じて四重効果の真空式機械製塩工場を建設し、年産一万トンの生産を見るに至ったが、経済の一大変動によりまた幾多の道を歩んだ。昭和二七年に及んで従来の入浜式製塩が立体的な流下式製塩に改められ、三二年にはいよいよ生産過剰の現象を見るに至った。そこで三三年政府は塩田の整理統合を断行し、多喜浜塩田は同年九月に製塩を中止して現在に及んだ。
 塩田跡はゴルフ場、木材センター用地、貯木場、工場敷地、宅地、道路化が進んでいる。

 波止浜塩田

 天和三年(一六八三)野間郡波方村(現越智郡)の浦役人長谷部九兵衛の意見に従い、郡代官園由藤太夫の指揮のもと松山藩営工事として築造された。
 当時、塩田築造技術は秘法になっていたため、長谷部九兵衛は対岸の安芸国竹原(現広島県竹原市)に渡り、苦心のすえ技術を会得して帰ったと伝えられている。工事は天和三年(一六八三)一月一日着手、同年三月九日汐留が完了した。この工事には風早・野間・越智三郡を中心に領内一円に人夫を徴している。同年竣工の塩田は三三軒であった。その後貞享四年(一六八七)に四軒、元禄四年(一六九一)には六軒が築造されたが、宝永二年(一七〇五)の分け浜(分割統合)により三六軒となった。畝数四〇町九反七畝一四歩(約四〇・九七一四ha)、高五九一石七斗一升二合である。享保一一年(一七二六)の竹原塩浜覚書(竹原市立図書館蔵)によると、波止浜の塩浜軒数は三六軒で、竹原浜七二軒の半分にすぎないが、生産量は竹原の七割から八割と多く、その上、運上銀は銀一〇貫目内外で非常に安いことが強調されている(竹原浜の運上銀は四三貫目)。ちなみに、享保元年(一七一六)の波止浜塩の領外売りは一四万八五〇〇余俵(五斗二升入り)で、代銀は一四〇〇貫余にのぼっている。当時の塩問屋は町年寄の富田屋(古川家)に小松屋が加わり二軒になっている。
 塩買船は各地から入津しているが、売買には水塩・入銀の法が採られた。これは瀬戸内十州塩田全域に早くみられた独特の塩販売方法である。簡単にいえば塩の先買で、春から夏にかけての産塩を前年の暮に買い付け、実際に現金を渡しておく。「春塩買い」ともいった。
 その後、波止浜では化政期(一八〇四~三〇)に四軒、天保期(一八三〇~四四)に二軒と塩田開発が進み、幕末ごろには四二軒、浜総畝数四八町一反七畝八歩(四八・一七〇八ha)になっている。
 昭和一五年に真空式工場が建設されており、かん水輸送装置、流下式転換も先駆的で規模も大きく、個人持分も均等で全国の模範であった(写真4-9)。
 波止浜塩田は、昭和三四年に第三次塩業整備により廃止され、天和三年(一六八三)以来二七〇年余に及ぶ製造の幕を閉じた。塩田跡はゴルフ場、自動車教習所、工場敷地、住宅地などに利用されている。

表4-22 愛媛県における塩業整備による製塩地(塩田)の変化

表4-22 愛媛県における塩業整備による製塩地(塩田)の変化