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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

5 泉及び地下水による灌漑

 泉及び地下水
       
 昭和五〇年度の農業用水実態調査によると、県内の地下水の利用か所は二九六か所、受益面積二八八三haである。地域別にみると、松山平野一四五、新居浜平野九三、今治平野三七である。松山・新居浜の両平野は、中央構造線の内帯に属し、いずれも扇状地的三角州を呈している。これらの扇端部に湧泉帯が発達している。
 湧泉の数を地形図(五万分の一)によってみると、松山南部三五、今治東部九、新居浜六、西条二、土居二合わせて五四を数え、その受益面積七一八haとなっている(昭和五〇年)
 重信川沿岸にある夫婦泉や、左岸の砥部町の赤坂泉などは現在でも揚水機によらないで、自然湧水のまま使用されている(写真4-1)。赤坂泉は天明年間(一七八一~八八)の開さくによるもので、泉の湧出するつぼの面積は一六八六㎡(五一一坪)、続く下つぼの面積は一八三一㎡(五五五坪)、水路の長さ二九〇m(一六二間)、幅一八m(一〇間)もある。この泉は伊予市の八倉・宮下、松前町の徳丸・出作の共有泉である。なお、この泉だけでは不足するので、その補給は、重信川の川床に伏せた馬蹄形の集水暗渠から、堤防の下を通って取水する赤坂用水樋管かある。
 明治末の水田灌漑状況を、農商務省農務局の「田の灌漑排水に関する状況調査」(明治四二年)によってみると、当時の温泉郡の水田の一三%、宇摩郡・越智郡それぞれ一〇%、新居郡三四%、周桑郡二八%、伊予郡二〇%が泉を用水路としていた。
 周桑平野では江戸時代から湧水に人工を加えた地下水利用が盛んであったが、干ばつが続くと自然の湧出水では間に合わず、踏車、はねつるべなど揚水灌漑が行われていた。灌漑のための労力が著しく多かった年には、その労力に対する部分的負担、補償として、地主から小作者に特別に″与荷米″を供与する与荷の慣行が生まれていた。大正年間の初めに揚水機が普及したことによってこの慣行は消滅した。さらに、昭和四二年に完成した農林省道前道後平野農業水利事業により、両平野の水利状況は著しく改良された。