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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

5 宇和海沿岸北部

 品種構成の特色

 八幡浜市と西宇和郡にわたる宇和海沿岸北部も柑橘栽培の盛んな地域である(図4―15)。昭和五五年の栽培面積は五四九八haで県内の一八%、出荷量は同じく一二万二九一六トンで県内の二一%を占める。品種構成では夏みかんと早生温州が多い。三四年の品種構成は夏みかん五八%、普通温州二八%、早生温州一一%と、夏みかんが圧倒的な地位を占めていた。しかし、四〇年代に入ってからは、早生温州や甘なつみかんの新植が多く、また、四九年以降は普通なつみかんや普通温州みかんが、いよかんなどの晩柑類に高接更新されたので、品種構成は大きく変わった。五五年の品種構成は、早生温州二九%、普通温州二一%、普通なつみかん一%、甘なつみかん二六%、いよかん一七%などとなっている。
        
 日之丸みかん

 早生温州みかんの栽培の中心地は八幡浜市の向灘と同じく真穴地区である。向灘地区に温州みかんが導入されたのは明治二七年(一八九四)であった。段畑の甘藷と麦に代わって、しだいに栽培面積が増加し、昭和三三年頃には八〇haとなった。当時は普通温州を主体としたが、その後早生温州が多く導入され、五五年の一三七hの柑橘園のうち四九%が早生温州、中生種の南柑二〇号が一九%、普通温州が三二%となっている。三三年頃は経営規模二〇アールと極めて零細であったが、その後、柑橘園の増加に伴って経営規模は拡大してきた。しかし、五五年では六四アールとなったが、南予地域の柑橘栽培地帯のなかでは経営規模がなお極めて小さい。
 向灘のみかんは「日之丸みかん」と言われ、全国でも最も優秀なみかん産地として有名で、京浜市場の建値の基準となる。みかんの品質が優れているのは、結晶片岩の風化した沃土、南向きの山腹斜面で日照に恵まれていること、温暖多雨な気候条件など、自然条件に恵まれていることによるが、農家のすぐれた栽培技術に負うところも大きい。年間三回程度の耕起、有機質肥料の投入、予備枝を残す剪定技術、年間四回程度の摘果、同じく一○回程度の消毒と、その細心の管理技術は他に例を見ない。一ha当たりの収量も五六年には四一トンに達し、県内平均の二四トンの一・七倍にも達する。しかも、㎏当たりの販売単価が五五年の県内平均四六円に対して二・四倍の一一四円にも達するので、土地生産性でも県内平均の四倍に達している。一〇アール当たり八〇万円の粗収入をあげる農家もあって、柑橘専業で今日も高収益をあげている農家が多い。
 八幡浜市・西宇和郡管内は西宇和青果農協の集荷圏である。現在、みかんの八〇%は東京市場に輸送されている。西宇和青果農協は一〇の地区別選果を実施していて、選果場ごとにマークをつけて出荷しているが、それは地区内に品質の差異が大きいことを配慮した措置である。向灘の農家を傘下におさめる「日之丸」は一〇の選果場の一つであるが、その銘柄「日之丸みかん」は、品質が高くて有名な西宇和青果農協管内でも最もすぐれている。四九年以降県内各地で盛んに行われている高接による品種更新は、向灘地区ではほとんど実施されていない。それは農家が現行の温州みかんの栽培に誇りをもち、将来ともに温州みかんの専作地として発展していこうとする意欲を示しているものと言える。

 向灘の生産基盤

 向灘のみかんは品質にはすぐれているが、その生産条件は決して良好とは言えない。栽培地は二〇から三〇度の急傾斜地で、足の踏み場にも困るほどの段畑である。肥培管理・剪定消毒・収穫・搬出ともに緩傾斜地に比べて作業能率は極めて悪い。特に搬出には苦労してきた。昭和五七年にようやく一本の農道が中腹に開通したが、それまでは一本の農道もなく、運搬は索道とモノラックに頼った(図4―16)。農道の開通が遅れた最も大きな理由は、経営規模が小さいので農家が土地の提供をこばんだことである。索道は二五年頃から架設され、三〇年すぎには広く普及した。索道の架設前には、もっぱら人の背に頼る搬出であって最も苦労した。索道の基点今中継点と園地を結ぶには、現在はモノラックであるが、それは四〇年代になって急速に普及した。モノラックは個人敷設が多く、索道は共同架設が多い。

図4-15 愛媛県の柑橘類生産量と分布(昭和55年)

図4-15 愛媛県の柑橘類生産量と分布(昭和55年)


図4-16 八幡浜市向灘の索道とモノレール(昭和57年3月)

図4-16 八幡浜市向灘の索道とモノレール(昭和57年3月)