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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 いも類

 甘藷

 いも類としては、甘藷(さつまいも)と馬鈴薯(じゃがいも)が主な作物である。甘藷は南予地域の宇和海沿岸の段畑地域や越智郡の島しょ部が主産地であった。水田に乏しいこれらの地域では普通畑で夏は甘藷が冬は麦が栽培され、甘藷は麦と共に重要な主食となっていた。段畑地帯では、秋に甘藷が収穫されると、蒸した甘藷が主食となり、次いで四月頃からは切干しいもを煮た「かんころ」が主食となった。この段畑地帯に米食が普及したのは、戦時中の米の配給にはじまって、昭和四〇年頃からである。また甘藷は二〇年代には切干しに加工され、一時重要な現金収入源となった時期もあった。
 甘藷の栽培面積は明治・大正年間には一万三〇〇〇haから一万四〇〇〇haもあった。その六一%にあたる八五〇〇haは宇和四郡で占められ、県内最大の甘藷栽培地域であった。これらの地域では反当収量も県内で最も多かった。旱ばつに強く、台風の被害にも耐える甘藷は、この地域の最適作物であった。昭和三五年には宇和四郡の甘藷畑は県内の六四%にあたる六八二〇haもあったが、この頃から、食生活の変化によって、甘藷畑は急速に減少する。五六年の県内の甘藷の作付面積は明治・大正時代の二〇分の一に当たる七八三haにしか過ぎない。うち四一%が宇和四郡で栽培されているが、もはや昔日の面影は見られない。これに次いで甘藷の作付面積が多いのは、新居浜・西条・今治・松山・大洲などの都市近郊の野菜栽培地帯であって、甘藷は今や野菜栽培の一環として栽培されているものが多い。宇和四郡に次いで甘藷栽培の盛んであった越智諸島の甘藷はほとんど消滅した。

 馬鈴薯

 馬鈴薯は昭和以降栽培面積の増加した作物である。明治三七年(一九〇四)の県内の栽培面積はわずか一三〇haであったが、大正五年(一九一六)には三三七ha、昭和八年には六七〇haとなり、一七年には一〇○○haを超した。明治・大正年間の県下一の主産地は上浮穴郡で、冷涼な気候を生かして種馬鈴薯の生産が多かった。しかし、種馬鈴薯は昭和初期から北海道の生産が増加したために衰退した。
 五五年の県内の馬鈴薯の栽培面積は九一四ha、うち秋植え馬鈴薯が一四四ha、春植え馬鈴薯が七七〇haである。栽培地は県内全域に広がっているが、なかでも栽培面積が比較的多いのは新居浜・西条・松山などの都市近郊地域である。他に宇和島市の水荷浦地区が多いが、これは段畑を利用した早出し馬鈴薯であって、出荷先は京阪神地方である。