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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

三 人口重心の移動

 地域全体の人口分布の様子やその分布の変動を総括的にみる場合、人口の重心を求め、その位置や軌跡を考えることがある。人口重心とは、人口の一人一人が同じ重さをもつと仮定した場合、その地域内の人口を全体として平衡の位置に保つような人口の中心点をいう。都道府県の人口重心は、各市町村の人口重心がそれぞれの市町村役場にあるものとして計算される。
 先に示した図3-1によると、南予地域の人口減少率が激しく、東予・中予は増加あるいは小さい減少率で推移している。このことは県内の人口重心が徐々に北東方向に移動していると予想される。実際、大正九年(一九二〇)の愛媛県の人口重心は、砥部町千里口付近にあったが、昭和三五年には松山市久谷字榎付近へ移動した。この四〇年間に直線距離にして約五・一㎞北東に移動したことになる。この後も、北々東方向への移動がみられ、五五年には北緯三三度四五分五九秒、東経一三二度五一分五五秒の地点で、これは重信町大字上村上ノ段付近である。三五年の地点に比べて北々東へ約四・六㎞移動したことになり、人口重心の北北東方向への移動が着実に進行しており、南予地域の人口の割合が減って、中予・東予地域の割合の増加傾向がうかがえる(図3-4)。


図3-4 愛媛県の人口重心の移動(大正9~昭和55年)

図3-4 愛媛県の人口重心の移動(大正9~昭和55年)