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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 火山活動と準平原の形成

 激しい活動の時代

 久万層群堆積後も日本付近は大陸のへりの状態を続け、新生代第三紀の中新生という時代を迎える。およそ二二五〇万年前のことである。それまで平穏であった日本付近は、このころから急激に活動をはじめ、現在の東北地方を中心とする激しい地殼変動や火山活動がおこった。その結果、中新世中期の初めごろ(約一五〇〇万年前)の日本列島付近は、かなりの地域が海の底に水没し、大陸の縁辺の状態にかわって多くの島が浮かぶ海域に変化してしまった。また、現在の日本海にあたる地域にも多くの割目ができて陥没がはじまり、海が侵入しはじめた。
 西南日本でもかなりの地域が沈降したが、四国や九州、山口県南部を含む地域一帯は人きな島として残り、小さな湖の分布する森林原野の状態になっていた。山口県大島の南に位置する平郡島からは、当時の植物として、ヤナギ、クルミ、シデ、アサダ、ニレ、カエデ、モモ、クロモジなどの化石が産出している。
 また、この前後に、現在の石鎚山周辺や高縄山地付近、松山付近、忽那諸島などで火山の大噴火がおこった。石鎚山周辺から皿ヶ嶺、三坂峠にかけて広く分布する石鎚層群や興居島に小規模に分布する興居島層群などの安山岩類や火山砕屑岩はこの時代に噴出したものである。また、更に南の面河川沿いや、宇和島東南の高月山および滑床溪谷付近に分布する花崗岩もこの時代につくらわたものである。なお、現在の日本海南部地域まで退いた大陸縁辺部と四国・九州、山口県付近にひろがる大きな島との間にはほぼ東西に連なる細長い海が存在していた。この海は、古瀬戸内海とよばれている。

 準平原の形成

 第三紀中新世末期から鮮新世(五〇〇万年前~二〇〇万年前)前期にかけて、瀬戸内海沿岸地域は再び陸地となって安定する。その結果、土地は長い間風雨にさらされ、川によって削られて、次第になだらかな地形に変わってきた。このような長期間の浸食作用によってつくられたなだらかな地形を準平原とよぶ。四国対岸の中国山地では、この時期に形成された準平原がその後の土地の隆起によって持ち上がり、現在は海抜四〇〇~七〇〇mの高さに発達する浸食小起伏面として広く分布している。
 一方、愛媛県においても、石鎚山や皿ヶ嶺の周辺に隆起した準平原の残存と考えられる浸食小起伏面が分布していることは既に述べた。それらは一一〇〇~一二〇〇mの海抜高度をもつ平坦面と、一七〇〇~一八〇〇mの海抜高度をもつ平坦面とに区分され、前者は皿ヶ嶺面、後者が瓶ヶ森面とよばれている。このうち瓶ヶ森面は古第三系の久万層群を切って発達していて、石鎚層群が堆積する前に形成された不整合面の剥離面であると考えられている。これに対して、皿ヶ嶺面は、石鎚層群を切って発達していて、皿ヶ嶺の北麓に発達する後期鮮新世に堆積した郡中層に対比される面であると考えられている。このことから、皿ケ嶺面によって示される準平原の形成期は鮮新世後期であり、四国山地はそれ以後の時期に隆起したと考えられている(写真2-10)。