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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)水軍の祭りで島おこし②

  イ 平成の時代絵巻

 越智 敬治さん(越智郡大三島町宮浦 昭和21年生まれ 53歳)

 大三島町には日本総鎮守である大山祇(おおやまずみ)神社があり、昭和時代の初期までは、参拝客を運ぶ船の着く宮浦(みやうら)港と参道に当たる宮浦新地(しんち)商店街は参拝客でにぎわっていた。昭和30年 (1955年)には、鏡(かがみ)村と宮浦村が合併し、翌年には岡山(おかやま)村と合併し現在の大三島町ができている。昭和31年には、戸数2,916戸、人口1万3,147人であったが、平成11年の統計(「統計からみた愛媛県の地位」平成11年度版、愛媛県統計協会)では戸数2,062戸、人口4,746人と激減している。昭和40年には、フェリーが就航するようになり、観光客も年間25万人となった、さらに昭和46年には宮浦と宗方(むなかた)間にバスが開通した。昭和50年代には、交通手段が船から車に代わり、商店街にある旅館への宿泊客は減るが、情報化時代とも相まって、大山祇神社の名前は全国に知れるようになり、観光客は増加してきた。昭和54年には大三島橋が開通をするなど、陸路の整備に伴って観光客も50万人と増加している。しかし、これをピークに観光客は昭和57年には35万人、昭和60年には30万人と減少している。平成11年のしまなみ海道開通以降の新しい観光時代を迎えて、地元の活性化への取り組みを、越智敬治さんに聞いた。

  (ア)三島水軍に鶴姫あり

 「この大三島町では、昭和62年より県の補助事業を受けて、宮浦港での花火大会をしていたのです。しかし、どこでもしているようなことではなく、何か他と違ったイベントを考えようということで、商工会が中心になって、検討会を開き、大山祇神社ゆかりの鶴姫(写真3-2-29参照)を題材にしたイベントを考えてはどうかという意見が出ました。そして、検討を重ねて、大内軍との戦の出陣を再現したイベントを実施することになったのです。」
 この鶴姫は、大山祇神社大祝家の息女として生まれ、生来利発だったので人々から三島神社の化身と信じられていたという。天文10年(1541年)三島水軍が周防(すおう)大内軍を迎え撃った合戦で兄の三島城陣代(じんだい)祝安房が討ち死にした。その時、留守を預かる鶴姫は男も及ばぬ兵術で全軍を指揮、敵を撃退したという。その後、陣代となった一族の越智安成は、三たび攻め寄せた大内軍との激戦で壮烈な最期を遂げた。安成と恋仲であった鶴姫は夜襲をかけて敵を敗走させた。しかし、意中の人を失った姫は、城に帰ったその夜、一人で小船を漕ぎ出して入水して果てたといわれている。大山祇神社の数多い宝物の中でも異彩を放つ『紺糸威(おどし)胴丸』(国指定重要文化財)は、悲しい海のロマンを秘めて若くして散った鶴姫が、大三島合戦に着用した胴丸である

  (イ)三島水軍鶴姫祭りの始まり

 「(越智さん)昭和20年代までは、大山祗神社の春と秋の例大祭は、宮浦の町が4月と10月の祭りでめしが食えるというくらい盛んでした。特に春の例大祭には、入り江の中が大漁旗を立てた漁船でいっぱいになり、参道は人がいっぱいでまともに歩けないぐらいのにぎわいでした。しかし、その例大祭も、祭礼の行われる日が休みでなくなったり、交通体系の変化や過疎になってきたということで、だんだん寂れてきたのです。そして、商店街の方でも何か人を呼ぶようなことをしてほしいといった意見が出てきたのです。そこで、島の観光ピーアールも兼ねて、平成7年の大山祇神社の旧暦4月の春季例大祭に合わせて、三島水軍鶴姫祭りは行われることとなったのです。平成9年からは、大三島町の年間のイベントが、4月の終わりに大山祇神社横の藤公園で行う藤祭り、5月には大山祇神社の春の例大祭、9月から10月にかけては各地区の秋祭りがあり、6月から8月にかけてはイベントが何もないということで、その間に開催することになりました。さらに、盆のころには周辺の地域で人集めのイベントがあるし、御串(みくし)山の下にある鶴姫に縁のある阿奈波(あなば)神社(図表3-2-10参照)の例大祭に日程を合わせようとしました。しかし、ちょっと難しいので、8月の第4土曜日と翌日曜日にしたのです。
 次に、鶴姫の行列づくりをどうしたらいいのかということでいろいろ考えました。最初の開催年である平成7年には、人を集めなくてはいけないということで、我が子を見に親御さんたちが集まるようにと町内の小学校4年生以上の小学生全員に出てもらいました。そして、地元の銀行からも出ていただき、関係の人や役場の協力もあってどうにか行列の形にしたのです。しかし、さらに盛り上げようと、秋の例大祭に参加している各地域の人たちにも参加してもらったのです。3年目の平成9年からは、鶴姫行列を中心に行うようになり、小学校4年生以上の小学生全員と中学校1年生を入れた150名前後の行列にしたのです。この行事は、小学校の学校行事にも入れていただいており、小学生の思い出づくりにもなっています。
 また、鶴姫祭りは、鶴姫行列が中心なのですが、大三島の人たちに島では見れないような民俗芸能も見てもらおうということで、毎年、県下および周辺の県の伝統芸能の人たちを招いて、さまざまな芸能を演じてもらっています。また、芸予諸島物産展というのも開いています。」

  (ウ)平成の行列仕立て

 「行列の形態は、全国の時代行列を行っている所に見学に行き、参考にしました。行列のことですから見栄えも必要ですからいろいろ工夫しています。行列の中心になる鶴姫をどこに配置するかで苦労しまして、最初の2年間は、鶴姫を先頭にして行列の人たちと一緒に歩いてもらったり、後ろにしてみたりしました。また、だれが鶴姫か分からないということで、船型の山車をつくってそれに鶴姫に乗ってもらうようにしました。行列は5隊で構成していますが、鶴姫の乗る山車の配置は、年によっていろいろ変えます。昨年(平成10年)は最後の隊の前に配列しました。鶴姫役も、最初は銀行の女性行員になってもらったり、地元の娘さんになってもらっていたのですが、それでは話題性に欠けるというので、平成9年から新聞で公募するようになりました。また、平成9年からは、衣装を夏でもあるし海賊のことだからもっと簡単なものにしました。鎧兜(よろいかぶと)や衣装は業者に借りますが、それ以外の弓や長刀(なぎなた)や槍(やり)などの小道具は宮窪町の水軍資料館などに見に行って参考にして作りました。
 昨年(平成10年)は、午後2時からコミュニティセンターで行列に参加する人たちの着付けをしました。鎧兜は貸衣裳屋に来てもらって着付けてもらい、子供たちの着付けはお母さんたちに手伝ってもらいました。そして、午後4時ころには着付けも済み、宮浦港の新桟橋広場を太鼓の音を合図に出発して、宮浦の踊り子連40名を先頭に、御串通りを通って新しくできた県道大三島上浦線を通って大山祇神社まで行進しました。行列の到着後、その年に呼んでいた肱川(ひじかわ)町の山鳥坂鎮縄(やまとさかしめ)神楽や日吉(ひよし)村の花とび踊りや瀬戸田町の島衆(しましゅう)太鼓を公演してもらいました。その後、行列参加者全員で神社に参拝し、その後、行列が再び出発しました。
 行列の1隊は、烏帽子(えぼし)姿の少年武者、鎧兜の武将、戦国小姓(こしょう)の少女、胴丸の武将、16名の雑兵などで構成しました。鶴姫は準鶴姫2名や雑兵5名が乗る船型の山車に乗り行進しました。
 行列は、神社を出発した後、商店街を通り御串通りを通って(口絵参照)、宮浦港桟橋に到着し、港では点灯されたかがり火の下で、用意された8隻の船に乗り合わせ、阿奈波神社(写真3-2-30参照)に海上より参拝した後、解散となりました。今年(平成11年)は、しまなみイベントの大三島武者歴史祭りの行列が鶴姫祭りの行列の後ろに続きました。
 大山祇神社への参拝も船の時代は宮浦港から商店街を通っていたのが、車の時代になってからは、商店街を通らずに参拝するようになりました。それで、こういったイベントを行い、商店街に人を呼ぶようにと考えています。しかし、鶴姫行列が通るときには人が商店街にたくさん集まるけれども、それが済むと、人がいなくなるという問題もあります。また、大山祇神社への観光客は、阿奈波神社や入り日の滝などの大三島の他の観光地をあまり知らないので、これからは、そういった観光地も観光パンフレットなどをつくってもっと宣伝しないといけないと思っています。その一つの取り組みとして、商店街や阿奈波神社までの海岸線に灯籠(とうろう)を整備して(写真3-2-30参照)、夜には灯をともして風情を演出しているのです。」

図表3-2-10 大三島町宮浦港周辺図

図表3-2-10 大三島町宮浦港周辺図

国土地理院発行2万5千分の1地形図「木江」「木浦」より作成

写真3-2-30 阿奈波神社から宮浦港までの海岸線

写真3-2-30 阿奈波神社から宮浦港までの海岸線

平成11年7月撮影