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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)紙でまちがわく

 青年会議所とは、明るい豊かな社会の実現を目指す20歳から40歳までの青年経済人の団体のことで、略称をJC (Junior Chamber)という。日本では昭和24年(1949年)に東京青年会議所が発足したのが第1号で、全国に次々と誕生することになる。愛媛県においては、昭和27年2月に八幡浜青年会議所、8月に松山青年会議所ができている。川之江青年会議所は、今治青年会議所の協力のもと、昭和47年(1972年)に全国で503番目、四国で24番目の青年会議所として始まった。
 この青年会議所は、市民運動の先頭に立って、総合的なまちづくり推進の一翼を担い、地域に密着した独自の活動を繰り広げている。川之江市においても、青年会議所が始めたイベントが、市挙げてのお祭りである紙まつりとして市民に親しまれるようになってきた。

 ア ペーパーカーニバルへの取り組み

 **さん(川之江市川之江町 昭和17年生まれ 57歳)
 昭和57年に青年会議所理事長であった**さんは、後に紙まつりに発展することになるかつてのペーパーカーニバルのことを次のように語った。
 「青年会議所は、自己を開発する勉強をしながら、明るい豊かな社会を目指す運動をする団体なのです。そして、その運動を推進していくなかで、統一デーを設けて運動しようということになり、若人の集いや金生(きんせい)川の清掃とか市内廃品回収などをしていたのです。しかし、もう少し市民サイドに応(こた)えるものをしようということで、昭和50年(1975年)には『川之江の教育いまむかし』という郷土文化展を開催しました。そこでは、寛政(1789~1801年)の三博士(*9)の一人として知られた尾藤二洲(1745~1813年)にまつわるもの、近藤篤山(1766~1846年)などが使った教材、明治・大正・昭和から現代までの教科書や賞状や学校の写真など川之江の教育にまつわる500点余りのものを、川之江市民会館で展示したのです。また、川之江の歴史などをまとめた小冊子を作って、市内の小学校などに配布しました。しかし、こういった文化事業に対して市民の反応はもう一つで、青年会議所の自己満足に終わってしまったのです。
 それで、今の川之江市には何が必要なのかということをもう一度見直そうということになり、昭和52年(1977年)の統一デーには市内の無作為に抽出した500家庭を対象に第1回市民アンケート調査を行いました。その分析結果から、市民の連帯意識が薄いということが分かりました。そこで、『❜77見つめよう我がまち 創ろう未来の川之江』という報告書で次のような提言をしました。川之江の生活基盤が紙によって支えられていることを認識し、紙に感謝すること。また、市民と紙とのかかわりあいを正しく理解し、地場産業を核としたまちづくりを推進すること。そのためには、市民と企業と行政とが一体となって取り組む必要があること。これらを実行するためには、市民が気軽に参加できる産業祭りを行う。以上のような提言です。全国では、青年会議所が起こした祭りとして広島市のフラワーフェスティバルとか観音寺市(香川県)の銭がた祭りとか、さまざまな祭りがあります。この川之江市では、地場産業として盛んなのは製紙業ですから、ペーパーカーニバルということになったのです。
 そこで、商工会議所、観光協会、行政などいろいろな団体にこの話を持ち掛けたのですが、最初はどこも相手にしてくれなかったのです。しかし、何とか説得をし、青年会議所主催で市・市教育委員会・愛媛県紙パルプ工業会に共催していただいて、昭和53年に『紙で心を結び、ふれあいの輪をひろげよう』のテーマのもと第1回ペーパーカーニバルを行いました。すると、マスコミに取り上げてもらい、ものすごい反響がありました。そのお陰で、翌年の第2回ペーパーカーニバルでは、青年会議所を中心に市内23団体を取り込んで実行委員会をつくり、祭りを続けていくことになったのです。そして、昭和55年から名称を第3回紙まつりと変え、市内29団体の協賛を得て、にぎやかに開催されたのです。」

 イ 紙まつりの誕生

 (ア)企業と市民と行政が一体となって

 **さん(川之江市川之江町 大正11年生まれ 77歳)
 愛媛県紙パルプ工業会の祭り実行委員として紙まつりの始まりからかかわってきた**さんに話を聞いた。
 「最初に青年会議所の方から、紙まつりの話があった時に、どういった祭りになるのかと考えたのです。紙業界が表にでれば産業祭ということになってしまうので、市民祭りというからには、市民の方が企画をしてそれに紙業界が参加するという形にした方がいいと思ったのです。そこで、市民を代表する青年会議所や市役所が前面に出て、そのバックアップを紙業界がするという形をとってスタートしたのです。
 この紙まつりは、市民の大半が紙産業にかかわっているということからすると、勤労者としての紙への感謝の祭りということでもあると思うのです。しかし、実際は、製紙業も手すきではなく、機械化されてきたので、紙に対して感謝するという意識は薄いと思います。
 当初、企画は青年会議所がして、市が事務局を担当し、その開催される行事の中へ紙業界が参加するという形を取っていました。しかし、この川之江市ではほとんどの業種が紙にかかわっているということで、市内のあらゆる団体を取り込んで実行委員会組織をつくったのです。そうして、はじめて市民祭りらしいものができたのです。今年(平成11年)の第22回紙まつりは、川之江市役所・法皇(ほうおう)青年会議所・愛媛県紙パルプ工業会・川之江市観光協会・川之江商工会議所・川之江市紙組合・川之江市商店街の7団体が事務局団体で、漁業組合・森林組合・婦人会などの40団体が参加しています。」

 (イ)紙の祭りづくり

   a まずは紙への感謝が大切

 第3回紙まつりは、名称の変更だけでなく内容も大きく変わることになった。
 「(**さん)川之江市は、市内を流れる金生川の豊富な水と自生するミツマタなどの原料によって手すき和紙づくりが昔から盛んでした。そこで、紙に感謝しようということで、第3回紙まつりからは、神事を取り入れることになりました。」
 「(**さん)わたしは、神事の最初の企画・運営をしました。
 御神水は、新宮(しんぐう)村の熊野(くまの)神社の宮司さんに祭りの二日前に銅山(どうざん)川から竹筒で水をくんできてもらい、お祓(はら)いをしていただいたものです。ミツマタは我々が採ってきて、同じ熊野神社でお祓いをしていただきました。そして、それを祭りの当日、市体育協会の人たちのリレーで、神事が始まるころに紙まつり会場の紙神社(写真3-2-13参照)に持って来るようにしたのです。
 川之江八幡宮の宮司さんからお聞きして、神事の進め方やお供え物のリストを作ったりしました。また、神事で使ったミツマタや水は船に載せて沖に流したり、手すき和紙の原料として使ったりもしました。」

   b 川之江をすき込む紙おどり

 「(**さん)この紙まつりも何年か行っているうちに、実行委員会がつくった祭りに市民が見に来るだけでは、本当の市民参加のお祭りではないと思うようになりました。そこで、どうすれば市民が祭りに参加できるかということを考えました。そして、踊りをつくってみたらと思ったのです。そこで、昭和56年(1981年)にわたしは紙まつりに踊りをということを実行委員会に提案しました。が、反対されました。しかし、わたし自身が踊りが好きなこともあり、絶対つくろうと思いまして、何回か市役所に陳情に行き、ついに市から援助をしてもらうことになりました。そして、音楽プロデューサーの方に相談にいって、作詞・作曲・振り付けをお願いしたのです。その踊りの歌詞に、川之江の歴史や文化を盛り込んでもらいたいということで、その方に手すき和紙の工場で和紙作りの工程を見てもらったり、市内の名所旧跡を見てもらったりしたのです。また、市民の方から川之江市の方言を募集したものですから、『ほんじゃきんど(そうだけれども)』という言葉も入っていますし、一番の歌詞には金生川の水、二番には平家の落人伝説のある切山(きりやま)という言葉が入っています。リズムは何種類かつくっていただきましたが、阿波おどりの調子のものが一番いいということになりました。踊りのおはやしは、太鼓をたたき、撞木(しゅもく)で鉦を打ち、三味線と横笛で行うようにしました。
 最初、その踊りを婦人会の人たちの前で踊ってみせて、その人たちに踊ってもらうように頼んだのです。そうすると大笑いされまして、『そんなお尻振るようなかっこうの悪い踊りなんか、だれも踊りはせん(しない)よ。』と言われました。しかし、そこを、ぜひにと頼み込んで、結局、川之江町、金生町などの婦人会と青年会議所のメンバーも加わって全部で7連が昭和56年の第4回紙まつりの時に市民会館の広場で踊りました。これが、紙おどりのスタートなのです。
 その後、この紙おどりが各町内会から各企業の参加へと発展し、最終的には市民が自主的に参加する市民祭りの一番の目玉になるように、土曜日は連を出している各町で踊り、日曜日には踊りの審査と踊り納めとして踊り子全員が出て踊りました。
 昭和57年わたしが青年会議所の理事長とまつり実行委員長を兼ねていたときに、青年会議所の社会開発運動の全国表彰にこの祭りを申請し、努力賞になりました。」


 ウ 神まつりらしさを求めて

 **さん(川之江市川之江町 昭和23年生まれ 51歳)

 第10回紙まつりの実行委員長であり、ペーパーカーニバル時代からかかわっている**さんに紙まつりの特徴的な催し物について聞いた。
 「第1回ペーパーカーニバルの時には、当時休業していたボウリング場を借りて紙みこしや紙の太鼓台や熱気球を作りました。この熱気球は、タケで骨組みを作り、和紙をコンニャクのりではって作りました。熱気球というのは、気球の中と外の温度差で上がっていくのですが、祭り本番で失敗しないように、祭りの前日の夜に、実験しました。その時は、夜でもあり、バーナーで気球内の空気を暖めると、うまく温度差ができて上がったのです。それで、うまくいくと思っていたのですが、本番は昼間なので温度差がなかなか生ぜず、いくらバーナーで暖めても上昇しなかったのです。そこで、バーナーを2本にしてさらに温度を上げると、熱気球は2mくらい上昇してから燃えてしまいました。
 第2回ペーパーカーニバルの時には、タケで骨組みを作って純信(じゅんしん)さん(*10)の巨大な像を作りました。当時、お祭りの会場にはまだ旧川之江小学校の体育館が残っていたので、体育館をバックに倒れてもいいように、足が片方だけ動くように作りました。また、何年か使えるような御所車や動くてんびんを作りました。てんびんというのは、昔からこの地域の夏祭りにいろいろな絵を描いて中にろうそくをともして、絵が浮かび上がるように作ったちょうちんのことです。動くてんびんはその中に電灯を入れて車を付けて引き棒で引っ張るものです。そういった造形物にはいろいろな賞が与えられていました。子供たちも学校単位や地域単位で絵を描いて、動くてんびんの絵として、祭りの時に引っ張っていました。
 紙製品の展示即売会を旧川之江小学校の体育館で行い、初めて市内の紙製品を一か所に展示したときには、『このようなものも川之江でできているのか。』という感動がありました。そのうち、展示の方は感動が少なくなってきて、即売会の方が主になりました。
 昭和58年(1983年)の第6回紙まつりには、世界一に挑戦ということで大型紙すきを行い、100m²の和紙をすき上げました。また、この祭りの時から、ドリームバッグと名付けた地元の紙製品を詰め合わせたものを販売しました。これは地元の紙製品を生かしたものが何かできないかと考えたものです。初めて売り出したときには、そのなかに抽選券があることも手伝いまして、ものすごい行列になって、あっというまに売り切れになったのです。その後、平成2年の第13回紙まつりからは、ドリームバッグは無漂白古紙再生の統一ブランドトイレットペーパー『かみえもん』の詰め合わせに変わりました。かみえもんというのは、この紙まつりのキャラクターです。
 昭和62年の第10回紙まつりの時は、わたしは紙まつりの実行委員長だったのですが、そのころは、紙おどりが中心でして、参加団体も一番多かったのではないでしょうか。ですから、祭りの前には青年会議所のみんなが手分けして、踊りの講習のため各地域を回っていました。もちろん、わたしたちも踊りの練習や楽器の練習をしました。最初三味線も弾いていたのですが、野外ではあまり音が響かないのでやめました。そして、大鉦・小鉦・小太鼓・大太鼓が中心となりました。」

 エ 新青年会議所の旗の下に

 **さん(川之江市川之江町 昭和38年生まれ 36歳)

 現在(平成11年)川之江青年会議所は伊予三島青年会議所と合併をして法皇(ほうおう)青年会議所となり、両地域の活動にかかわっている。その会長の**さんに、現在の青年会議所の紙まつりへの取り組みなどを聞いた。
 「川之江市だ伊予三島市だといっても、車で5分くらい離れているだけです。同じ目的で活動している団体が近くに二つあるのだったら、一つになって、もっと大きい宇摩地区(伊予三島市、川之江市、土居(どい)町、新宮村、別子山(べっしやま)村)全体が豊かな社会になるような活動をしようということになりました。それで、川之江青年会議所は伊予三島青年会議所と3年前(平成9年)に合併しまして、法皇青年会議所になったのです。ただ、二つの青年会議所が合併して法皇青年会議所として社団法人となるには、それぞれの市の推薦が必要ですし、社団法人を持ったもの同士が一つになるというので手続き上困難なことがいろいろとありました。しかし、合併することによって、ほとんど同じ活動を実施しますので、活動を一度に行うことができるという利点があります。その後実施した法皇青年会議所の活動の一つとして紙まつりがあります。紙まつりのメインは紙おどりであり、青年会議所もさまざまな形でかかわっています。会場である栄(さかえ)町商店街の各所に配置された各連が一斉に踊り始めて、商店街を通って審査会場のあるおまつり広場まで回ってきます。そして、1連ずつステージで踊り、それを審査するのです。また、青年会議所は独自で踊りの連をつくっていたのですが、最近は、鳴り物の楽器のできない連に青年会議所の連中が大勢手伝いに行っているので、青年会議所としては単独で連をつくれなくなりました。しかし、踊り連は、平成10年で17連出ており、1連200名くらいの所もあり盛り上がっています。
 紙まつりは市民の祭りということで、さらに多くの市民が参加して手作りの祭りで盛り上がるように工夫していきたいと思っています。」


*9:江戸後期、寛政時代に幕府の教学刷新の中心となった朱子学者で、古賀精里(1750~1817年)、柴野栗山(1736~
  1807年)、尾藤二洲の3人をいう。
*10:「土佐の高知のはりまや橋で」と歌にうたわれて有名な土佐五台山竹林寺の脇寺妙高寺の僧純信(本名岡本要)のこと
  である。いかけやの娘お馬と駈け落ちした後、関所破りの罪で捕らえられ、川之江に住むようになり寺子屋を営んでいた
  が、慶応3年(1867年)に没する。

写真3-2-13 紙まつりの神事

写真3-2-13 紙まつりの神事

平成11年7月撮影