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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)街をにぎわす踊りの祭典

 祭りは、その地域に住む人々が普段の生活「ケ」を忘れ、一つの節目を祝う「ハレ」を楽しみ、後のくらしの活力とする意味合いが大きい。その「ハレ」を演出するのに踊りは大切な手段である。四国では、全国的に知られる徳島県の阿波おどりや高知県のよさこい鳴子おどりが有名である。昭和39年(1964年)は、東京オリンピックの開催された年であり、日本が太平洋戦争から復興したことを世界に知らしめた記念の年でもあった。その年に隣の香川県高松市では、阿波おどり、よさこい鳴子おどりに続く踊りの祭典を目指して高松おどりがお目見えした。そこで、松山市としてもこの際、名物の踊りをつくろうということで誕生したのが松山おどりである。

 ア 伊予の松山鼓踊り

 **さん(松山市南梅本町 昭和13年生まれ 61歳)

 昭和41年に松山市内各所で行われていた盆踊りを統一する形で松山おどりが始まった。その当時の様子を当時松山市観光課で松山おどりにかかわっていた**さんに聞いた。
 「昭和40年に松山の新しい踊りをつくろうということで、内子(うちこ)町出身でよさこい鳴子おどりの作曲もされた方を松山にお招きして検討していきました。そして、四国は八百八タヌキ(*8)といわれるほどのタヌキ王国であるのでその腹鼓(はらつつみ)ということと、松山は能楽ファンの多いということを考えて、能の舞いをヒントにマンボ調の軽快なリズムを取り入れた『伊予の松山鼓踊り』という踊りができました。そして、振り付けも作曲者と高知市在住の日本舞踊のお師匠さんとに考案していただきました。その年には、まだ一般に知られていないので、街頭踊りはしませんでしたが、松山城のロープウェイ山頂の広場で、日本舞踊の教室の生徒さんや婦人会などが中心に、夜間照明を付けて盆踊り形式で踊りました。伊予の松山鼓踊りは小道具として鼓が必要です。それで、松山市役所でベニヤ板に、ペンキを塗りひもをつけた小道具の鼓をたくさん作り、貸し出していました。」
 昭和41年には街頭踊りとして第1回松山おどりを開催している。その様子は、「8月13日の本番日、松山の夏の夜を踊る第1回『松山おどり』は、一番町(いちばんちょう)、大街道(おおかいどう)、湊町(みなとまち)、市駅前の繁華街で華やかに催された。北条市や温泉(おんせん)郡などの遠征組と市内職域団体、婦人会、各商店街、各町内会含め踊り子隊45連、約3,000人が参加(⑧)」とある。
 昭和43年の第3回松山おどりでは、新しくつくられた西海(さいかい)旅情の歌と踊りが披露された。また、堀之内(ほりのうち)の市営球場で全国的にも珍しい試みである音楽と踊りと花火による「ミュージカルナイター」が開催された(⑧)。

 イ 野球王国の野球拳おどり

 松山おどりは伊予の松山鼓踊りを中心に踊られていたが、今一つ盛り上がりに欠けた。そこで、四国の他県に負けない強力な踊りが必要との市民の声に、昭和45年(1970年)の第5回松山おどりから野球拳おどりが登場した。この野球拳おどりができるまでの様子を**さんは次のように語った。
 「踊りを発展させるためには、踊りに使う歌がみんなによく知られているものでなければいけません。そこで、全国的によく知られている松山発祥の御座敷遊びの『野球拳』を元歌にしようということになったのです。そして、その年の松山おどりに間に合わせるために、NHK松山放送管弦楽団指揮者の方に急いでお願いをして、『野球拳』を踊り用に編曲していただいたのです。曲の録音も、急なことでもありバンドを組む時間がないので、県立高等学校ブラスバンド部にお願いをしてNHK松山放送局のご協力もあってNHKのスタジオで行いました。このときは、製作費用もなく、すべてボランティアによるものでした。このテープは、平成10年まで使っていました。振り付けは、当時の愛媛県邦楽連盟舞踊部会長にお願いしたのです。
 伊予の松山鼓踊りの時には、踊り子は舞踊教室の関係の方が多くて、職域で連を出すことが少なかったのですが、野球拳おどりになってからは、企業を中心とした職域の連が多く出るようになってきたのです。」
 野球拳は、大正13年(1924年)伊予電鉄(現伊予鉄道)野球部が香川県に遠征をした時の歓迎親睦会で、副監督であった川柳作家の前田五剣(伍建)が即興でつくった歌である。その後、昭和29年(1954年)にはレコード化されて大ヒットして全国的に有名になり、愛媛の代表的な歌となった。また、野球拳おどりがつくられる前年の昭和44年は、第51回全国高等学校野球選手権大会で、地元の高等学校が優勝したこともあり、松山市は野球で盛り上がっていた時期でもあった。
 また、この大会より、毎年祭りの最後を飾ってきたミュージカルナイターがミュージックナイターと名称を変えている。
 昭和47年からは、松山おどりから松山まつりに名称を変更し、重信(しげのぶ)川出合(であい)大橋上流の川原で行われる本格的な花火大会を加えて、祭りの期間も1日増えて、県都の夏を彩る祭りとなった。さらに、野球拳おどりのレコード(45回転)も製作し、普及に努めた。衣装は、浴衣が主流だったが、短パンや法被も加わるようになった。

 ウ 情熱の野球サンバ

 **さん(松山市福音寺町 昭和13年生まれ 61歳)

 (ア)野球サンバの始まり

 松山まつりも野球拳おどりが定着してきた。その反面、野球拳おどりに飽きてきて新しい踊りへの要望も出てくるようになってきた。その様子を、**さんは次のように語った。
 「野球拳おどりは定着してきたのですが、まだほかにもいい踊りがあるのではないかということで、いろいろなものが考えられてきました。昭和50年(1975年)の第10回松山まつりのときには伊予万歳の三番叟の曲をアレンジし、歌詞は『松山名所づくし』を一部変えた『新伊予万才』を野球拳おどり大会の前夜祭に披露したこともありました。しかし、これは野球拳おどりに取って代わることはありませんでした。それ以外にも、マンボ調にしてみたらという意見があったり、いろいろな意見が出ていました。そんななか、わたしは昭和60年ころに広島市のフラワーフェスティバルで本場ブラジルから招待されてきたサンバの優勝チームの本格的なサンバを見たのです。そして、これだと思い、祭り実行委員会に諮ったところ、サンバでつくってみようということになり、曲を有名な作曲家に依頼して、野球サンバをつくりました。振り付けは同じ祭り実行委員の**さんに相談しました。」

 (イ)サンバはリズム

 野球サンバの振り付けや野球拳おどりの指導もしていた**さんは野球サンバについて次のように語った。
 「野球サンバの曲はできたけれど、野球サンバの踊りはまだできていなかったのです。わたしは野球拳おどりの指導をしていましたが、『どこかちゃんとしたサンバチームをつくって、これが野球サンバだという踊りを、みんなに見せよう。』ということを**さんたちと相談していたのです。ちょうどその時に、わたしに野球拳おどりに参加するので指導してほしいといってきていた企業チームがありました。そこで、わたしたちはその企業に、野球サンバを踊ってくれるよう、サンバチームの様子を長い用紙に描いて頼みに行きました。企業の方からは『絵を見ると楽しそう見えるが、本当にこんなことができるのか。』と不安いっぱいのお言葉をいただきました。しかし、何とか了解を得まして、サンバチームづくりをスタートさせたのです。
 わたし自身もサンバを研究しなくてはいけませんから、日本で一番盛んな東京都浅草の『浅草サンバ祭り』を参考にさせていただくため、毎年優勝しているチームのリーダーにお会いしました。チームの編成や衣装デザイン、装飾の部品の購入方法、練習方法などに至るまで、いろいろなことを教えていただきました。そして、サンバの主役であり練習時間が一番長くかかる打楽器の生演奏をするパーカッションチームづくりからスタートすることにしたのです。そこで、浅草サンバ祭りの演奏を、ボランティアとして指導しているプロの演奏家に指導をお願いし、正しいサンバチームをつくることを条件に、松山のその企業まで来てもらったのです。
 最初に、ブラジルから輸入したタンボリンという、ばちでたたく小さい打楽器から入りました。ところが音が違うし、みんなのリズムもまったく合わないのです。しかし、先生はサンバは体のリズムだからと、足さばきなど根気強く指導してくれました。他に、アゴーゴ(鉦(かね)のような音がするもの)とかアピート(笛)の吹き方とか、肩につってたたくスルドという大きな太鼓のたたき方とか、いろんな楽器を熱心に教えていただいたのです。しかし、少しもうまくならなくて、自分たちだけで行うと、みんなの音が合わず、まったく雑音にしか聞こえないのです。これでは、見に来てもらった人たちが『サンバってこんなにうるさいだけのものか。』とがっかりされます。それで、浅草サンバ祭りの演奏を担当する人たちの中から何人かに来てもらって、パーカッションチームを編成し、サンバチームを出場させることになったのです。そして、平成元年の第24回松山おどりの時、花火の下で踊ったのが野球サンバの元年なのです。」

 (ウ)サンバのチームづくり

   a サンバの衣装は手作りで

 「(**さん)サンバチームの踊り子隊にはいろいろな役があります。まず先頭を正装をして歩くコミッサン・ド・フレンチ(長老)、中年のご婦人で派手な衣装を着て回転を中心にして踊るバイアーナ、チームの女王のような旗を持って踊るポルタ・バンディラや、それ以外にいろいろなふん装をして踊る人たちがいます。昔のブラジルで一般の人々が、一年に一度貴婦人などのまねをしていいということで始まったのがサンバだったそうです。だから、そういう人たちは、毎日こつこつとお金をためて、光るものを買いためて衣装を作り、祭りの当日そのきらびやかな衣装を着て踊ったのです。それで、サンバチームはきらびやかな衣装が必要になってきます。こういった衣装は本場ブラジルのサンバチームの写真を見ながら、いろいろと工夫をして作りました。例えば、長老役の人の服は、貸衣裳屋さんで借りてきましたが、帽子だけは貸してくれませんでしたので、厚紙で作りました。バイアーナやポルタ・バンディラ役の人の大きいスカートを膨らませるため、針金を使ったり、タケを入れたりと苦労しました。今から見れば貧弱なのですが、当時としては豪華でして、見る人が驚いていました。スパンコールという小さな装飾部品があるのですが、買えば高いので、ガラス屋に鏡を持っていって、1辺が2cmの正方形に切ってもらって、それをボンド(接着剤)で布にくっつけて作りました。ですから、一踊りしますと大分はげたりしましたが、結構効果がありまして、今でもその当時の物を使っています。また、針金で頭に果物の飾り物を付けたり、光る色紙テープで、衣装の至る所を飾ったり、発砲スチロールに色を塗って作ったわらじのようなステーキを衣装に付けたりと、どの衣装も出場者の皆さんや愛好者の方々の工夫による苦心の作品なのです。こんな調子でスタートしたのですが、浅草サンバのスタートよりは衣装もずっと整っていて、浅草サンバの人に非常に優秀だと褒められました。
 とにかく、急ごしらえなので、初年度は衣装も非常に簡単なものでしたが、前の年のものに、毎年何か飾りを付け加えるので、年を追うごとに豪華になってきました。連続優勝している浅草サンバのチームにわたしたちの衣装をお貸しし、それを着て出場されたこともあります。もちろん、その年も優勝でした。」

   b 野球サンバを続けて

 「(**さん)わたしがかかわってきたこのサンバチームは、最初企業の社員さんたちが踊っていたのですが、次第に社員以外の若い子たちがぜひ踊りたいとたくさん参加してくれるようになり、今では社員さんたちには踊り子のメークを手伝ったり、衣装を運んだりする裏方をしてもらっています。また、小さい子供たちもチームに参加したい希望者が多くなったので、真ん中に幼稚園の先生に入っていただいて、その周りに長い布を配して、それを子供たちに持たせて参加させました。チームの編成をする時、踊り子さんの踊りのレベルや体の大きさなどが違う人たちがいますから、それを調整するのが大変です。
 パレードは、大街道アーケード街から千舟町(ちふねまち)通りに抜けるコースでL字型になっています。大街道のアーケード街を通る時は、柱があり広がって踊れないのですが、千舟町通りを通る時には広がって踊れるので、体制を整えて新たにスタートして本格的に踊る(口絵参照)のです。
 このサンバチームで踊っている人たちは、優勝ということにはあまりこだわっていません。むしろ、日ごろは、いろいろな職場で仕事をしている人から他県に就職して行った人たちまで松山まつりの時だけに集まってきて、『今年はどんな衣装で出ようか。』とすっかり『サンバ同窓会』で楽しんでいます。ある意味で、お祭りの本来のよさが出ているチームではないかと思います。」


*8:日本の三大タヌキといった場合、「伊予の松山騒動八百八狸物語」「証城寺の狸ばやし」「文福茶釜」が挙げられる。