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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)れんげの里に春が来る

 レンゲは、マメ科の越年生の草で根に根粒バクテリアという細菌が共生しており、空中の窒素(N₂)を固定して蓄える。そのためレンゲはかつては緑肥(りょくひ)として水田に栽培されていたが、現在では各地に野生化している。平地のほとんどを水田化し南予第一の穀倉地帯になった宇和盆地は、「れんげの里」としてよく知られていた。宇和町がれんげの里と呼ばれるようになったのは、水田が広がりそこにレンゲがたくさん生えているというだけでなく、採種用レンゲの栽培が盛んに行われ、全国的にも宇和レンゲとして知られていたということもある。ここでは、宇和町のレンゲ栽培や農業の移り変わりを見ながら、現在町の大イベントとなった「れんげ祭り」の移り変わりを見ていく。

 ア 宇和レンゲ

 **さん(東宇和郡宇和町大江 昭和4年生まれ 70歳)

 化学肥料が普及するまでは、水田や畑の自給肥料は、草肥(くさごえ)・人のし尿・わらなどであった。この他にも、緑肥・焼土・堆肥など人手を加えた肥料がある。レンゲは、この緑肥の代表的なもので、これ以外に青刈(あおかり)ダイズがあげられる。愛媛県での緑肥としてレンゲが使用された記録をみると、江戸時代の慶応年間(1865~68年)に伊予郡稲荷(いなり)村(現在の伊予市稲荷)の浅田嘉蔵が肥料として水田にレンゲを栽培していたのが初めである。当時の人はその意義を知らず、水田を花壇にする奇人として驚いていた(④)と伝えられている。その後、その意義が理解され、明治初期からその使用が増え、県内一円に普及したようである。
 宇和盆地では、初めレンゲ種子は個人的に採種販売されていた。その後、緑肥の増産につれて需要が増した大正4年(1915年)、西山田の是沢光義が中心となってレンゲ採種組合を結成した。ついで山田地区、郷内(ごうない)地区とが入って広がっていった。山本寅平らが率先して増産品種の選定、在来品種の除去、調製等に力を入れた。昭和36年(1961年)には宇和レンゲとして農林省の指定を受けて、農家の現金収入源としてさらに町内に普及した(⑤)。
 昭和24年(1949年)から昭和62年(1987年)にわたって、農業改良普及員をしてきた**さんは、レンゲ栽培について次のように語った。
 「宇和町は気候的にレンゲの栽培に適していたということと、レンゲ栽培に必要な集団的な農業の体制ができていたということもあり、盛んに裏作として栽培されていました。その他裏作として、昭和30年代はコムギ・ハダカムギも栽培しましたが、あまりよくなくて、結局米単作のようなことになりました(図表3-2-3参照)。
 レンゲの採種は、昭和30年代に宇和盆地の中心地である岩木・清沢(きよさわ)地区で盛んに行われていました。採種用のレンゲは『山下改良』といい、在来種に比べてずっと背が高くて地上60cmくらいにまっすぐに立っており、花の色が淡いピンクでした。レンゲの栽培には窒素の少ないPK肥料(P=リン酸、K=カリウム)という化学肥料をまいたりしました。レンゲは、湿気が多いと成育や収量が悪くなります。非常に良くとれた所で、1反(約1,000m²)で5、6斗(1斗は約18ℓ)くらいとれていました。
 宇和町では、レンゲの種まきは、イネ刈りの前の9月のイネがまだ青々と立っているときにしました。採種用のレンゲは、種とりをする5月の少し前に花検査といいまして、他のレンゲや雑草が生えていないか、水田を1枚ずつ調べていました。レンゲの種は、5月ころにレンゲを手刈りで収穫し、よく乾燥させたものを、むしろの上でかりさお(からさお(*6))というものでたたいて種を落として集めていました。たくさん作っている農家では、コギドウという動力脱穀機を使って種をとっていました。種の大きさはゴマ粒くらいの大きさで、偏平な形です。種は紙袋に入れて組合に出していました。
 レンゲ栽培の盛んだったのは、岩木地区でして、米作りの組合もきちんとしていました。そのころ、宇和町で一番よく植えられていたイネは、金南風(きんまぜ)(昭和32年から昭和44年まで栽培)という多収穫の品種で、その後、わせの日本晴(にほんばれ)になり、現在ではコシヒカリ、アキタコマチとなりました。そして、イネの栽培体系が変化をして、田植え時期が次第に早くなってきました。そのため、長く成育させなければならない採種用のレンゲの栽培がだんだんと困難になってきました。
 また、レンゲはウシの飼料として青草の時に刈って、サイロに詰め、乾燥飼料としていました。機械化や化学肥料の普及により、ウシを飼わなくなり、レンゲ栽培も次第に減少していったのです。」
 昭和40年の宇和町の作付面積を見ると、ムギ類が278ha、ナタネが26ha、レンゲが643haである。その当時は、松葉(まつば)城跡から春の宇和平野を眺めるとムギの緑、ナタネの黄、レンゲの赤と三色の花毛せんに覆われ、その周辺に桑園と村落が点在する典型的でのどかな美しい農村風景が見られた(⑤)ようである。

 イ 集団転作

 米の生産過剰が進み、昭和45年から米の生産調整が実施され、強化されてきた。また、この時代は高度経済成長の時代でもあり、宇和町の農家も兼業化が進んだ。しかも、商品化農業への転換はまだまだ進んでいない状態であった。このことは、高度に機械化された稲作体系を構築していた宇和町の農業にも大きな影響を与えた。宇和町では昭和53年(1978年)度から10年間の事業年度を持つ水田利用再編対策事業が実施された。この事業によって、水田を次の三つのタイプに分けて稲作を休止することになる。まず、一つ目は水稲以外の作物へ転作すること。二つ目は預託を申し出ている水田を農協が委任を受けて転作希望者にあっせんをすること。三つ目は土地改良事業でほ場(畑)整備等の工事を実施し水稲の作付けをしないようにすることである。宇和町では、組織的な水稲栽培の伝統や集団的な耕作の効率化等を考慮に入れ、一つ目の集団転作を進めていくこととなった。その様子を**さんに聞いた。
 「日本の減反政策は、昭和45年(1970年)から始まりました。昭和53年には、宇和町においても集団転作を進めることにしました。転作作物は栽培の難易度や収益性などを勘案して決めました。しかし、昭和20年(1945年)代の食料難の時代から米作りを推進してきたわたしにとっては、まさか米を作らずに他の作物を作ろうとは夢にも思いませんでした。
 転作をしていくためには、個人で転作するよりも、集団化、団地化して地域で計画的に転作をするほうが転作料の加算や、経営の効率をよくすることができるのです。それで、ビールムギの契約栽培や飼料ムギ栽培なども集団で行いました。また、花蜜(かみつ)レンゲの転作も勧め、ミツバチを飼う養蜂家を宇和町に6軒くらい入れまして、レンゲ蜜をとらせたりもしました。
 しかし、2年くらい水田にしなかったら、再度水田にするには秋に除草剤散布、春には大型トラクターで4回も5回も土をすきこんで雑草を除去しないといけないので大変です。」
 昭和56年度の町の広報誌で、農業振興構想シリーズを6回出しているが、その中で、各地区の地区役員の構成のモデルを挙げている。それによると、農家の兼業化や農家以外の人たちが宇和町へ移り住んできている状況でも、地域挙げての集団転作を推し進めていかなければならないとのことである。そのために、営農部長という区長とそれ以外に農業関係者の中から地区の代表者を置くように勧めている。
 減反政策により、農業の変化だけでなく、むらの組織にまで変革をもたらしたのである。

 ウ れんげ祭りの始まり

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和13年生まれ 61歳)

 昭和40年代には、高度経済成長によるさまざまな変化に伴って、純農村地帯であった宇和町にも新しい動きが見られるようになった。その一つに、地域おこしの一環としての「れんげ祭り」があった。その始まりの様子を、れんげ祭りに最初からかかわってきている**さんに聞いた。
 「宇和町では昭和46年(1971年)に第1回町民体育大会や芸能大会などが始まりました。昭和48年には、近世の古い町並みを残す中町(なかのちょう)通りとその周辺が『宇和文化の里(*7)』として愛媛県に選定されました。昭和49年にはレンゲが宇和の広さと豊かな田園を象徴し、その集団の美が町民の和を表すものとして町花に制定されました。このようななかで、町の宣伝に何かしようという気運が高まっていたのです。そして、昭和51年に県内の民間放送会社が宇和町を取材することになりました。それで、町花のレンゲを活用した宇和町の宣伝になるれんげ祭りが始まったのです。当時は、県下では花をテーマにしたイベントはまだ少なかったと思います。
 そして、昭和51年5月5日の子供の日に第1回れんげ祭りが、町食品衛生協会と町観光協会の企画共催で郷内(ごうない)地区のレンゲ田において行われました。この時は、町内の人たちがたくさん詰め掛け、思い思いにござを敷いて酒を酌み交わして、農繁期を前にしたひとときを楽しんでいました。催し物としては、町内の民謡クラブの人たちの踊り、俳句愛好会による句会、茶席を設けての野だてなどでした。
 第2回れんげ祭りは、昭和52年5月3日に、会場を国道56号沿いの上松葉(かみまつば)にあるレンゲ田で行いました。催し物としては、俳句愛好会による句会や茶の野だてに加えて、郷内地区に明治23年(1890年)から伝わる七福神踊りや化粧回しに法被(はっぴ)姿の小学生による相撲甚句(すもうじんく)などの郷土芸能の熱演がありました。そして、この第2回れんげ祭りからは、主催が町観光協会となりました。」

 エ れんげ祭りを支えて

 集団転作が進んでくると、水田は限られた所だけになり、レンゲも化学肥料の使用により、成育しているところが少なくなってきた。そういったなかで、れんげ祭りのシンボルであるレンゲ田の管理維持の様子を**さんに聞いた。
 「れんげ祭りは、会場となる上松葉の地区の人たちの全面的な協力で開催することができるのです。例えば、上松葉の水田では田植え時期を1か月くらい遅らせてもらったり、短期間での田植えの準備で、大変な苦労をかけています。また、れんげ祭りを上松葉地区の年間のお祭りという位置付けで取り組んでもらっています。
 会場を飾るレンゲは、観光協会が地元有志の協力をいただき管理していますが、この地域の水田は水はけが少し悪いので、レンゲの育ちがよくないのです。毎年、レンゲのじゅうたんをつくるのに苦労します。会場となる水田のレンゲの種まきは、9月中旬にしていましたが、昨年(平成10年)からイネ刈りが済み、種をまいて、薄く耕起する方法を実験的に行っています。
 現在は町内の水田にレンゲを成育させてれんげの里をイメージアップさせるために、転作作物として、花蜜レンゲ以外に景観作りのためのレンゲも奨励されています。」

 オ 町挙げてのお祭りへ

 昭和51年から始まったれんげ祭りは、最初は町内の花見会のようなものであったが、回を重ねるごとに催し物も増え、町を挙げての一大イベントになってきた。その様子を、**さんに聞いた。
 「昭和56年(1981年)の第5回れんげ祭りには、催し物も子供のど自慢、子供相撲大会、もちつき、宝さがし、模型飛行機大会、川柳会、俳句会、囲碁大会、アマチュア無線公開実験、素人モデル撮影大会などと増加し、訪れた観客数も町内外から約2,000人と増加しました。昭和58年の第7回からは、会場に多数のこいのぼりを流したり、初のカラオケ大会を開いたり、生活改善グループのレンゲみそ即売などもあり、観客数も約7,000人でした。」
 レンゲみそは、宇和町の新しい特産品を目指して、昭和57年に農業改良普及所の指導を受けた町内の生活改善グループによって、20数種類のなめみそを試作して開発された。昭和59年には、岩木地区の生活改善グループの有志たちによって農作物加工組合が設立され、本格的に製造体制に入った。レンゲみそは、その年から県の特産銘柄産地に認定された岩木地区のダイズのほか、ハダカムギ、コムギを主原料に、ゴマやショウガを調合して塩漬けのレンゲの花を添えたなめみそで、独特の風味がある。
 「平成3年からは、れんげ祭りを統計的に見て晴れの日が多いという4月29日のみどりの日にすることになりました。平成5年の第17回れんげ祭りでは、宇和町合併40周年記念の年でもあるので、日本一のもちつき大会をしようということになりました。一度に大きなもちをつくために大きいうすを宇和町の名木である宇和ヒノキで農業後継者の若者がつくり、大きいきねを長さ8mほどのヒノキの丸太でつくりました。日本一のもちつき大会では、大きなきねを100人ほどがロープで引っ張り上げ、それを大きなうすにある蒸したもち米に落としてもちをつき上げました。これは、日本一のもちつき大会ということで、れんげ祭りの目玉になりました。それ以外にも、商工会青年部が10石(1石は約180ℓ)釜で3,000人のイモがゆを一度につくるというので、会場に大きなおくどさん(かまど)をつくりました。また、どろんこサッカーを会場の中に泥田をつくって行ったり、県内在住の外国人を招待して国際交流ふれあいコーナーやかかしコンクールや太鼓競演や人力車コーナーやれんげ迷路や県立砥部(とべ)動物園からの移動動物園などが加わり、雨降りにもかかわらず15,000人の人出でした。
 平成4年ころからは、観客も2万人くらい来ていただくようになり、町では一番のイベントになりました。この祭りだけは、町を挙げてしようという気運が高まって、今年(平成11年)で23回となりました。農協もこの祭りで宇和町のイチゴ、お茶等の農産物の宣伝に本格的に取り組もうという姿勢がうかがえます。」


*6:豆類、粟などの脱穀や麦打ちに用いる農具。柄となる竿(さお)の先に、枢(くるる)(回転装置)をつけ、それに打棒を取
  り付け、柄を振りながら打棒を回転させて脱穀するしくみのもの。
*7:文化財が集中して残っている地域や、考古学・民俗学あるいは歴史上重要な地域を定め、よりよい環境のもとにこれを保
  存し、県民文化の振興に寄与することを目的として県教育委員会が昭和46年に設置した「文化の里」の一つである。

図表3-2-3 宇和町の作付面積の比較

図表3-2-3 宇和町の作付面積の比較

『宇和町誌(⑤)』より作成。