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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)まちに人形芝居の灯をともして

 **さん(松山市古三津 明治43年生まれ 89歳)
 **さん(松山市中須賀 昭和5年生まれ 69歳)
 伊予源之丞は、古く淡路から三津浜(みつはま)地区に伝わった人形(でこ)芝居で、現在、古三津(ふるみつ)町の人々が主体となって座を継承し、その保存に努めている。古老の言によれば、地域の守護神三穂(みほ)神社(現在の恵比須(えびす)神社)の祭礼に、不景気打開のための余興として、操り芝居を上演することになり、淡路の人形芝居を呼んだという。時代は不詳であるが、享保年間(1716~36年)からという(⑦)。

 ア 伊予源之丞の時代変遷

 明治の初め、三津新町で荒物屋を営んでいた宝来(ほうらい)屋新造が、「宝来座」という一座を組織し、三津の三穂神社で人形芝居を始めたのが、この座の起源である。明治20年(1887年)以降、大型頭(かしら)の淡路人形を導入し、大正時代に入って吉村座(松山市吉田(よしだ))、泉座(松山市泉)・上村六之丞(ろくのじょう)(松山市)をあわせて60人を超える大きな座となり、県内各地のほか、九州、当時の朝鮮(ちょうせん)半島、中国大陸まで巡業の足を延ばしていたが、大正12年(1923年)に巡業に失敗して一時解散状態に追い込まれた。しかし、有志によって再興され、昭和10年(1935年)には上村冶太夫(松山市三津)を吸収して、現在名の「伊予源之丞」と改称したのである。当時、淡路人形の本家『上村源之丞』に比肩するものとされ、盛況を極めたといわれる。戦時中一時中断状態になったが、昭和34年(1959年)久松鶴一氏の尽力で、愛好者、座員等が一体となって「伊予源之丞保存会」を結成して再発足し、翌35年には古三津の宮前(みやまえ)公民館に「文楽保存研究会」も結成された(⑧)。

 イ 明治男の気骨が生きる

 (ア)芸はけいこそのもの

 伊予源之丞保存会会長の**さんは、けいこの大切さを次のように語った。
 「芸はけいこに始まり、そのけいこには切りがありません。これは文楽に限りません。どの道でもけいこがなければ上達しません。人形芝居では、足の遣いに10年、左(手の遣い)に10年、頭(かしら)に10年ともいいますが、まあ、練習も30年たってやっと一人前といわれるゆえんです。けいこがすべての基本です。現在、わたしは週に1回高等学校の生徒を指導していますが、彼女たちは3年間という限られた練習期間になりますから、その(人形の)気持ちになって演じなさい、自分の遣う人形はどういう役目の人形かと分かったら、その気持ちにならないといけませんとよく言うのです。しかし、二十歳前の子たちですから、そんな気持ちにはなれないかもしれません。だから、上手とか下手とか言うが、舞台に出て(拍)手が鳴ったら上手にできたのだと思いなさい、自分の遣っている人物になりきって、見る人を感激させ見る人の気持ちをとらえたら、本当に上手にできたと思いなさいとわたしは彼女たちに言っています。また、いくら下手でも、まだお客さんが見てくれるうちは、全く下手だとは言えなくて、お客さんが見てくれなくなったら全く下手だということになるのだから、けいこは大切だともわたしは彼女たちに言っているのです。そういう気持ちで今の若い連中には教えています。そのためにも、浄瑠璃の言葉と所作をしっかりと覚えるようにと教えています。要は芸を志す者はけいこを嫌がったらいけないということです。けいこを怠ると、芸に進歩が見られませんし、芸そのものが止まってしまいます。」

 (イ)人形浄瑠璃芝居との出会い

 愛媛県西条(さいじょう)市の出身であるが、縁あって当地(松山市古三津)に住むことになった**さんは、人形浄瑠璃との出会いを次のように語った。
 「ある日、かつて浄瑠璃を語っていた方の家をうかがいまして、そこに無造作に積んでいました本を手にして読んだのです。その文章の滑らかなことや物語の筋立てがおもしろくて、引き込まれました。だれが書いた本かと見ると、近松門左衛門(1653~1724年)という人でした。それから他の浄瑠璃本も読みあさりました。そのとき、その方が浄瑠璃のおもしろさ・機微が分かるのは50歳を過ぎてからだと言いました。家業にいそしんでいたわたしも、もう50歳に近づいていたのですが、浄瑠璃に対する関心が高まってきていました。そんなとき伊予源之丞の保存会が昭和34年(1959年)にでき、また、県の民俗資料指定もあり、昭和35年にはこの宮前公民館に文楽保存研究会が設置されました。わたしはこんな近くに人形浄瑠璃芝居の一座があったと知り、驚きもし、またうれしくもなりました。早速に子供を連れて練習を見に行きましたが、よそ者がと奇異な目で見られたのを今も覚えています。それでも、わたしの熱心さを見て取った方の勧誘もあって、昭和36年には入会させてもらいました。当時は、会員も30人を超すほどの盛況でした。」

 (ウ)一座に入った以上は

 「わたしの入会した昭和36年ころには、30名以上の会員のうち、浄瑠璃を語る人だけでも10人前後はいました。三味線を弾く人も6人はおりました。ところが、昭和34年の県民俗資料指定の興奮も去って、1年たち、2年たつうちに会員がどんどんやめていきまして、あっと言う間に15、16人になりました。ただ、わたしは一座に入った以上は、どうせするのなら徹底的にしようと思って続けました。当時、堀之内(ほりのうち)(松山市)にあった愛媛県民館で文楽の合同公演大会が定期的に開かれておりまして、その時には初めから覚えてやろうと思い、いつも人より先に出掛けて行って、まず見よう見まねで人形に着物を着せていました。浄瑠璃芝居の人形の衣装は、一つの公演ごとに衣装付けが行われ、公演が終わると、またばらばらにして収納するのです。その衣装の縫い付けなども、おのずと覚えていきました。浄瑠璃芝居の舞台は、船(ふな)(舟)底(ぞこ)舞台(*12)といわれ普通の平舞台とは違っています。平舞台の所では最前列に80cm前後の手すりを設けて人形芝居の舞台を作るわけです。これらを終えまして、公演が始まると、できるだけ舞台に近いところに陣取り、浄瑠璃をしっかりと聞き、人形遣いの動きを見つめていました。そのころわたしは、50の齢にかかっていたのです。あれからもう35年以上もたちました。思えば、昭和49年(1974年)のアメリカ合衆国ワシントン州で開催された世界環境衛生博覧会では、通産省の命を受けて全日本デーで4日間出演したのは今でも記憶に新しいです。国内でも、北海道、東北、関東、中国などの各地方で上演してきました。ただ国内公演も平成2年を境に行われなくなってしまいました。今では会員も10人程度になりましたが、一座は継承していきたいものです。」

 ウ 人形芝居の灯をともし続けたい

 (ア)分家に残存した芸が本家に里帰り

 伊予源之丞保存会の**さんが、芸能の里帰りとでもいえるおもしろい話を語った。
 「今年(平成11年)の5月1日の三光(さんこう)神社(松山市船ヶ谷(ふねがたに)町)、7月9日の恵比須(えびす)神社(松山市三津)の祭礼では、親を求め旅に出た娘巡礼の段で評判の『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』、めでたい豊漁祈願の『戎舞(えびすまい)』、『玉藻前旭袂(たまものまえあさひのたもと)』を奉納しましたが、ちょうどこの3本は今年繰り返し練習していました。『戎舞』は本来の人形芝居の中にもあり、正式の文言もあります。けれど、それに尾ひれを付けると言いますか、ちょっとめでたく脚色してできるのです。その部分が地声の歌になり、歌の文言に特色が出せるわけです。『玉藻前旭袂』には、案外と外題が多いのです。わたしたちの演じている『玉藻前旭袂』は九本の尾を持つキツネの七変化の物語です。俗に、『七化け』と言っています。もともとは淡路で習ってきて、三津に持って帰ったものです。ところが、家元の淡路では昭和45年(1970年)の国立劇場での上演記録は残っているそうですが、その遣い手が高齢者であったこともあり、いつの間にか途絶えてしまっていたのです。当地の人がいろいろと調べていると、『七化け』が松山市三津で演じられているということが分かりまして、ぜひとも教えに来てくれと依頼があったわけです。分家に習い本家に何とかして復活させたいということなのです。それからビデオを送ったり、明くる年には、浄瑠璃の語りは皆同じですから、浄瑠璃の写しを送りました。淡路では、1年間猛練習しまして、その浄瑠璃を語れるようになったそうです。それから、わたしたちのする芝居をビデオに撮りに来まして、伊予源之丞の出し物になっていた『七化け』をみごとに本家の淡路で復活させました。今は上手に演じていると言っていました。たしか平成8年の夏に淡路で再上演に至ったと聞いています。」

 (イ)木工・木彫りの腕を生かして

 「(**さん)わたしは人形遣いが人形を知らないではいけないだろうと思いまして、天狗久(てんぐひさ)(天狗屋久吉、1858~1943年、木偶(でこ)人形制作者)作の戎舞の等身大の頭をまねて自分で作ってみた(写真3-1-27参照)のです。表情が難しくて、わたしの作ったのは若い(未熟な)のです。やはり名人の作には及びません。それから、人形芝居の舞台の前部には手すりを設けています。だから、人形芝居には下駄(げた)(*13)は不可欠なのです。下駄は全部わたしがキリで作っていますので軽いのです。会長さんが指導に行かれている高等学校にも5足ぐらい作ってあげました。主(おも)遣いが高い下駄を履いてくれると、頭を高く持ち上げられます。すると、中腰に構えて足を遣う人も楽になります。それと、8寸(1寸は約3cm)下駄のような高い下駄を履くと、主遣いもひじを伸ばして頭を持ち上げる必要もなく、ちょっとひじを伸ばすだけでよく、全然負担が違うのです。ひじが楽なのです。そうするためには、足を高くしないといけません。個人的に親しい他の一座の方にも8寸下駄を作ってあげました、喜んで愛用してもらっています。わたし自身のものを作るときには、いろいろな大きさの下駄を余分に作っておいて、頭を遣うときに子役だったら小さな下駄を、立ち役だったら大きい下駄を持って行くのです。役に応じて使い分けているわけです。」

 (ウ)後継者の育成

 **さんは、芸の在り方と技の向上について次のように語った。
 「(**さん)芸の源流は源流として守る必要はありますが、時代の移り変わりに対応することも考えていかねばいけないのです。見てくれる人が分かって楽しみ喜んでくれる、そんな演目の上演も大切です。とりわけ、衣装は大切です。当時の生活では、衣装はこうであったという写実性はもちろん大切だとは思います。その時代では、庶民はお古を着ていたし、それに旅でもしていればあかもつくだろうし、汚れもするし、ほこりにまみれてもいたでしょう。それが自然の姿であるというのも事実です。しかし、わたしたちは舞台で、観客を相手に人形芝居を演じているのですから、人形芝居を見に来てくれた人が、それで楽しみ喜んでくれたかということも考えねばいけないと思うのです。観客への気配りです。とりわけ、今はテレビに映る、写真で紹介されるということが多くなっていますから。演じる側の目線と見る側の目線の違いを考える必要もあると思います。淡路の人形芝居は衣装が豪華で、人形頭の大きさと衣装の豪華さ(写真3-1-28参照)を競い合ってきました。衣装などは、幕あいに旗ざおにつるして、うちの一座はこんな衣装を持っていると観客に披露します。すると観客から大きな拍手が起こります。舞台に出る人形に普段着は着せない、そんな心意気があるわけです。県内で年1回行われている文楽の合同公演大会、これにはいい刺激を受けています。同じように、わたしたちは県外の会とも積極的に交流したり、参加し合ったりしており、これによりものすごく目が肥えます。いろんな一座が上演するし、本場淡路の人も演じるので、それらの芸を見て習うことは大切だと思うのです。三津の宝来屋も何年聞か淡路に行って本格的に習ってきたでしょう。それに、私財もなげうって、人形頭とか衣装その他を買いそろえて、古三津に基盤を置いたわけです。古三津は昔から芸にやかましい土地柄でしたが、そこに根付くことができたのも習う姿勢にあったと思うのです。」

 (エ)まちに人形芝居の灯をともして

 「(**さん)まちに人形芝居の灯をともしていくのはたしかに苦しいですね。まず、経済面です。町とか芸能後援会とかのバックアップが大きければ、地域の活動はもちろんですが、広域的な活動も可能になります。それがまた、芝居に対する理解者や協力者を広げていくことにもなるのです。支援が少なければ、結局は自己負担になってきます。
 それから、常に後継者育成を念頭においた平素の取り組みが大切になってくると思い、現在は、後継者育成のための期待を若手に求めて指導しています。直接わたしたちの練習風景や人形を見るとかの機会を持てるようにしています。婦人会でも子供たちに教えたらいい、子供文楽を発足させてはと言ってくれています。若い子に種をまいておくと、大人になったら何人かは地元に残ってくれるので、将来に役立つと思います。だが、将来のことだけを言ってはおられませんので、とりあえず今をどうするかも大きな課題なのです。人形遣いには人数が要ります。人形芝居の人形1体には3人が付きます。人形芝居は3人遣いで所作も細やかになり、わたしたちの平素の生活における喜怒哀楽の激しい情念が描き出せるようになるのです。ところが最近は、あまり頭が動かないなあと思ったら人形を一人で持ったり、二人で持ったりしているところもあります。だから、人数確保は急務なので、近辺にいる人たちにも接触の輪を広げるようにしています。
 剣道場の道場主が腕の達者な者の中から師範代を何人か選び、その中から人格的にも優れた者を師範に選んでいくのと同じです。後継者を育てるのは、習うより教える方が難しいという思いで日々臨むのが大切だと思います。自分の芸を自分だけでしまい込むのではなく、どう伝えていくか、これがなかなか難しいのです。これを克服して、まちに人形浄瑠璃芝居の灯をともし続けていきたいものと考え、またそれはできるとも信じて精進しています。」


*12:文楽専門の劇場では、舞台の前方を全面にわたって1尺2寸(約36cm)の深さに掘り下げている。ここを船底とよび、
  舞台面からさらに1尺6寸(約48cm)の高さの「手すり」を設け、都合2尺8寸(約84cm)の高さを稼いで、この上を
  地面に見立てている。
*13:人形芝居に使う下駄には、大(高さ1尺2寸、約36cm)、中(8寸、約24cm)、小(5寸、約16cm)がある。

写真3-1-27 戎舞の人形頭の習作

写真3-1-27 戎舞の人形頭の習作

平成11年11月撮影

写真3-1-28 かつて着用された豪華な衣装

写真3-1-28 かつて着用された豪華な衣装

平成11年7月撮影