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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)舞い継ぐ三番叟

 祝福芸としての三番叟(さんばそう)は、祝言師(しゅうげんし)の舞う舞として、また、幕開きに祝儀として行う舞として、各地で広く舞われ愛好されてきた。現存するものは減少してきてはいるが、現在でも、演目の一つとして伊予万歳や文楽、また神楽(かぐら)などの中にも見られる。ここでは、南予(なんよ)地方の宇和町田野中(たのなか)に伝承されている五穀豊穣(ほうじょう)を祝う三番叟と西海(にしうみ)町福浦(ふくうら)に伝承される豊漁を祝う三番叟に焦点を当て、地域とのかかわりを探った。

 ア 田野中の三番叟

 **さん(東宇和郡宇和町田野中 大正14年生まれ 74歳)
 **さん(東宇和郡宇和町田野中 昭和10年生まれ 64歳)
 **さん(東宇和郡宇和町田野中 昭和15年生まれ 59歳)
 **さん(東宇和郡宇和町田野中 昭和14年生まれ 60歳)
 東宇和郡宇和町は県の西南部に位置し、周囲を山々に囲まれた海抜200m前後の盆地の町である。地味は肥沃(よく)で良質の宇和米を産し、古くから南予の穀倉地帯として名高い所である。田野中は町の北東部にあり、世帯数79戸、人口は300人余りの地区である(①)。
 田野中の三番叟の由来は、今から約100年前にさかのぼる。当時地芝居があったが、あるとき**さんのお父さんが歌舞伎役者を雇って帰り、この人から三番叟を習って舞うようになり、地域に広めていった。毎年地域の五穀豊穣を祈る時に舞った。ほかに新築祝いや浜の大漁に呼ばれて祝うこともあった。この三番叟には11組の舞があったが、その中の1組が残って現在舞われている。その芸態は太鼓、謡曲に合わせて舞う袖の舞、鈴の舞、扇の舞の3部からなっている。昭和41年(1966年)に保存会ができ、会長は**さんのお父さんであった(⑥)。

 (ア)田野中の三番叟のいわれ

 田野中芸能保存会の前会長であった**さんは、この三番叟を最初に伝承したお父さんについて次のように語った。
 「わたしたちの地区は昔から地芝居である村芝居が非常に盛んな所でして、わたしの父親の小さいときからですので、もう100年余り村芝居はずっと続いております。明治中期、徳島から歌舞伎役者の光蔵という人を雇って三番叟を始めたといわれています。大正10年ころになり、『今までの三番叟ではもういけない。本物の三番叟にしよう。』ということで、わたしの父親とそのグループの方々が、京都から歌舞伎の本役者を呼んできて、この人を師匠として熱心に習ったのです。習った連中は皆農家の人で、米作りをしており、朝は朝星、夜は夜星(早朝から夜遅くなるまで)と働きながら、晩飯もあたふたと食べた後集まって、夜には京都から呼んだお師匠さんに習ったようです。お師匠さんは昼間は遊んでいますが、日役(ひやく)(日当)は払わなければならず、どこからの援助もないわけですから、数人の愛好者といいますか、好きな者がお金を出し合って、お師匠さんの手当を出したのです。だから、1日でも早く帰ってもらうために、もう夜も寝ずに練習したのです。その苦労を重ねて習得した芸が次第に定着してきたのです。」

 (イ)戦後の地芝居と三番叟のにぎわい

 戦後に演じられた地芝居の数々について、**さんは次のように語った。
 「地域に定着した三番叟も昭和16年(1941年)ころから、戦争で若者はどんどん戦地へ出ていくということで、一時的に中断せざるを得なかったわけです。そして、昭和20年の終戦後ぼつぼつと若者が帰ってくるようになってきました。しかし帰ってきても、ラジオはガンガンという雑音が聞こえるだけだし、何の娯楽もなく、毎日が食べることに追われる生活でした。ところが、ある時昔の芝居の台本が見つかり、若者たちが集まり地芝居を復活させました。そして、戦後に演じられたのが、当時の人々に親しまれていた『膳所(ぜぜ)騒動』とか『白浪(しらなみ)五人男』とかの芝居です。戦地から次々と若い人が戻ってきてましたから、芝居がようやくできるようになったのです。これらの芝居の前に、昭和21年(1946年)1月2日に三番叟が上演されました。これに師範学校(*10)生として学徒動員に駆り出され、戦後帰郷していたわたしは、何もしていなかったので、『三番叟を舞ってくれませんか。』ということで三番叟を舞うことになったのです。戦後第1回目の三番叟を上演するために、まず舞台づくりから始めました。ここら一帯は全部田んぼですから、舞台づくりは稲木(いなぎ)(刈り束ねた稲穂を掛け並べて干す木組み〔写真3-1-15参照〕)の材料となる木を使いました。稲木をあちこちから集めてきて立て、そこに横棒を組んで、板を渡して桟敷をつくりました。板は昔から壁を塗るために、ほとんどの農家は持っていましたので、それを借りてきて下に張って、その上にむしろや畳を敷いて、周りには『隣のおばちゃん、障子貸してな。』と借りてきた障子を立てて舞台をこしらえました。昭和20年(1945年)の暮れに1回三番叟を舞う練習をしました。舞台正面の背景はもちろんですが、花道も裏は全部障子です。昔の農家は障子がたくさんありましたから。また、障子の奥には化粧室なども用意されていました。着る物のないころでしたから、衣装も大変でした。外三番(そとさんば)は剣道袴(はかま)に金や銀の鶴(つる)・亀(かめ)をかたどったものを張ったりし、内三番(なかさんば)も花嫁衣装を急ぎ準備したりしました。現在の宇和町文化会館の舞台の背景は、立派な錦(にしき)松の絵になっていますが、もともとはこの上演から後(第1回上演後)、父が描いた松だったのです。もちろん、現在の背景と比べると雲泥(うんでい)の差(非常に大きな差)があり、また大きさも随分と違います。」

 (ウ)寿式三番叟の芸態とその特色

 田野中芸能保存会の会長の**さんに、寿式三番叟の芸態と特色について聞いた。
 「寿式三番叟では、舞台の中央に内三番一人が正座し、その両側に外三番二人も正座します。今までのところ、内三番は男性が女装して舞っております。外三番は二人いて、上手(かみて)を『白き丈(じょう)』、下手(しもて)を『黒き丈』と呼びます。二人は黒白をはっきりするという意味が含まれているとも聞いていますが、色の黒い・白いで名付けられています。その違いは化粧で判断できるようになっています。隈(くま)を入れた『黒き丈』、優しい顔につくった『白き丈』となっています。寿式三番叟の芸は柝(き)(拍子木)が打たれるなかで幕が開き、『前うた(舞)』で始まります。三人は座ったまま歌舞伎風のこまやかな所作をつけ、四方固めのあいさつの舞をします。続いて、『内三番の舞』でゆっくりとしとやかな舞が舞われ、『外三番袖(そで)の舞』となり、囃子(はやし)と謡(うたい)に合わせて外三番が舞台いっぱいに舞います。その後、舞はなく、身振り手振りのせりふが主体の、『内三番と外三番の掛け合い』が行われます。そして内三番が上手に退場後、『外三番鈴の舞』、『外三番扇の舞』という一連の流れで幕となります。現在残っているのは、この一組の舞になっていますが、当初は11組の舞に仕込まれていたと聞いています。今となってはそれを継承できなかったことが残念に思われます。
 三番叟は、毎年宇和町文化会館で行われる『ふるさと芸能祭』を中心に上演していますが、会場の舞台後部には立派な錦松の幕が準備されています。その舞台中央奥には白い布を掛けた供物台(くもつだい)が用意され、その上には紅白のお鏡(もち)とダイダイをお正月のときのようにお三方(さんぼう)に載せて置き、その両側に一升(いっしょう)だるのお神酒(みき)と撒餅(さんぺい)(もちまき用のもち)一対を供えます。ある漁村では、魚介類を供えるとも聞いたことがありますが、豊漁を祝う儀式なんでしょう。ここは稲作の盛んな所ですから、米や穀物を供え、五穀豊穣を祈り、祝うことになります。この違いもおもしろいですね。登場人物は、先程も話したとおり3人ですが、他に囃子方が3人と黒子が2人います。囃子方は、謡と太鼓の役、三味線役、柝(拍子木)の役です。加えて、化粧師さんとか、御幣づくりをしてくれる人とか、おもちづくりをする人とか、そういう表からは見えない人も必要になります。この人数をそろえるのが大変で、このことはこれからの三番叟の後継の問題とも絡んできます。」

 (エ)三番叟を継承し、次代へつなぐ

   a 後継者育成の現状

 「(**さん)伝統は継がなければということで、今は保存会の世話をしている17、18人がグループを作って運営に努めています。踊る人は3人でいいのですが、囃子方からはじめて黒子に化粧師、その他雑用と多くの人が必要です。この人数を確保するのが課題です。それに、女性の踊り手がおりませんので、今も男性ばっかりで演じています。娘さんにしてもらっても、嫁に行ってこちらにいなくなると後が続きませんから。こちらに嫁に来た人がしてくれれば、後ずっと続いてできますが、よそから来た人は知らない世界に二の足を踏んでしまいます。踊りは一人が欠けると、初めからやり直しになってしまいます。謡と太鼓は、**さんがしていますが、この人の後継者もぼつぼつ考えなければと言っているのです。この謡と太鼓を継いでもらえたら、当分は三番叟は続くのではと考えています。三味線を弾く方はまだ40歳代ですから、まあぼつぼつとやれば跡継ぎもできようかと考えています。」

   b 踊り手も今は安泰

 かつて三番叟の踊り手として舞台の経験もある**さんは、踊り手確保や舞台上の苦労を次のように語った。
 「以前は、若い踊り手さんを得るために世話人さんは東奔西走しました。話に行ってみると、本人は踊ると言っても親が納得しなかったり、親が踊らせると言っても子供が受けなかったりということもありました。世話人さんは苦労の連続でした。ところが、幸いわたしの息子が地元に就職してくれまして、これで、親子二代の踊り手ということになりました。親から見れば、まだまだと不満や欲も出てきますが、本人は本人なりに頑張っているようです。それでも、当分の間踊り手の心配をせずに済むようになって一安心していますが、女性の加入とか、次につながる人の確保は大切だと思います。例えば、黒子さんなんかも大変です。外三番がたすきを掛けるのですが、長い袖を後ろのたすきの所へもっていき、背中で背合わせのような形にしますが、これは踊り手だけではとうていできません。それで外三番の黒き丈・白き丈の二人にそれぞれ黒子が手助けに入ります。黒子はこれだけではありません。激しい踊りですので、差している扇子を落としたり、踊りに夢中になっているうちに腰ひもが緩んだり、時にはわらじのひもが解けるなどといろいろアクシデントが起こります。これを気づかれないように黒子が気配りするのです。」

   c わたしの後継は今の踊り手から

 現在、謡と太鼓の役として舞台を支えている**さんは、役の難しさと後継者の育成について次のように語った。
 「わたしのしている謡と太鼓の後継者は、今踊っている三人の中からと考えています。わたしの技を覚えてもらって、それに自分の踊った経験を生かして、謡もできる、太鼓も打てる、そんな人が育つのを期待しています。踊りの経験のない者ではおそらく無理で、舞台の経験のない者が、『太鼓を打ってみなさい。』と言われたって、拍子が分からないから戸惑うだけです。経験があると、ここでは強く打つとか柔らかく打つとか、そのめりはりもいろいろとできます。だから、今は踊り手に、『踊りながら一つのリズムを習っていきなさい。』と常々言っております。リズムを習うということは、言い換えると、どういう言葉が謡い手から出ているかということも一緒に習うことになるのだということです。しかしいざ踊りだすと、それに一生懸命になりまして、リズムを習うことができていません。今の踊り手さんが後を継げるのはもう少し先になるでしょう。技としては、舞台の広いとか狭いとかでの間の取り方、締め方もあり、なかなか難しいのです。」

   d 潤いのある文化を後世に

 「(**さん)田野中地区は今は戸数67戸、昔は80戸くらいあった土地です。現在、『田野中芸能保存会』は田野中の地区全員が会員になっており、盛んに活動しておりますけど、地区の人170名、その皆が皆三番叟に関心があるかというとそうでもありません。だから、その存続が危ないという事態も何回かありました。危機というのは人数がそろわない、踊り手がいないということで、3年ほど空白の時期もありました。急に一人が欠けて、その後を構えるのに苦労したこともあります。田野中の芸能には、地域特有の盆踊り歌もありますが、これも今正調で歌えるのは、**さんだけです。踊りは踊れるが、歌えないというのが現状です。三番叟だけでなく、これの後継者の育成も急がれます。ところが、『生活が大事だ。潤いなんか必要ない。』という声もあります。しかし、芸能は一端途絶えたら、その復活はなかなか困難で無理だということは具体的に見たり、聞いたりもしています。今、保存会の世話役の人たちは、それを肝に銘じてよく頑張ってくれていると思っています。細々とでも続けていれば、必ず理解者が、後継者が出てくるものです。一人やる気がある人がいれば、必ずその人のそばに寄ってくる者がいると信じています。潤いのある伝統文化を保存・継承することは必要だと思います。その文化の一端にでも触れた者が次代へつなぐ義務があると思うのです。」

 イ 福浦の三番叟

 **さん(南宇和郡西海町福浦 昭和18年生まれ 56歳)
 **さん(南宇和郡西海町福浦 大正元年生まれ 87歳)
 **さん(南宇和郡西海町福浦 大正9年生まれ 79歳)
 **さん(南宇和郡西海町福浦 昭和31年生まれ 43歳)
 西海町は、県の西南端に位置し、美しいリアス式海岸があり、天然の良港も多い。福浦は町の南部にあり、昔から漁業の盛んな地で、今も水産加工業が盛んである (①)。

 (ア)式三番叟(しきさんばそう)が祭りを仕切る

   a 式三番叟が舞う

 地元の長老**さんが、福浦に伝わる式三番叟について次のように語った。
 「福浦に伝わる式三番叟の由来は定かではありませんが、もう160年はたっているでしょうか。わたしが舞ったのが80年くらい前になりますが、わたしの先代、先々代も舞っていました。家内の父がまだ幼いころ、祖父が背負って舞って評判になったという話もありますから、舞い始めて160年ぐらいにはなるでしょう。もともとは豊漁の祝い事として、上方の歌舞伎役者を呼んで演じてきたものですが、それが地元に定着して、欠かすことのできない行事になったのです。というのは、この福浦の若宮神社の祭礼では、宮出しをして方々のお旅所を巡行した神輿(みこし)は、宮入りの直前にこの上の広場(*11)の土俵前のお旅所に据えられ、その前で三番叟が舞われた後に初めて宮入りができるのです。だから、この三番叟の舞がなければ、神輿も動かせないのです。式三番叟が祭りを仕切る。それほど、この三番叟は、この地区では重要な位置付けを持っているのです。この地区の行事に限らず、町の文化祭とか、何か大きな行事があれば、必ず町を代表する芸能の一つとしての役割を持っているのです。」

   b 式三番叟のあらまし

 現在、福浦の式三番叟の舞の指導をしている**さんに、三番叟について聞いた。
 「福浦の式三番叟は、子供が主に舞ってきたという歴史があります。ところが、今の子供たちは神や仏のことにあまり関心がありません。だから、舞い手になった子供たちには、事あるごとに若宮神社の祭りの意義とか、式三番叟のいわれとか意味合いをしっかり言って聞かせます。つまり、この地は昔から有数の漁業の盛んな地で、若宮神社の祭りはその豊漁の感謝とまた次の年の豊漁祈願の祭りであることや、式三番叟は、11月3日の氏神様の祭礼で、ご神体がお社にお帰りになられる前に奉納の舞をして、それを見ていただいてからお帰りになられるのだということをです。意味合いが分かっているのと分からずにいるのとでは、舞が大きく違ってきます。分からないままで舞うのは単なる形だけになってしまいます。また、舞台正面奥の供物台に置かれた供物についても同じです。供物には山海の珍味ということで、三方には尾頭付きの魚、それに魚介類の乾物や旬(しゅん)の果物や山菜などが添えられ、そしてお神酒が供えられるということです。これらのことからも地区民の豊漁に対する熱い思いを語って聞かせるわけです。すると、子供たちもなぜ舞台を清めるのかという意味が分かってくるのです。
 舞台には、初めに下手から女装の露払いが塩をまいて辺りを清めながら出てきます。舞台を清め、神前を清めるというわけです。清め終えた後、舞台正面に向かって右端に正座します。すると、次に姫三番の内三番、黒木浄土、白木浄土の外三番の三人が同じく塩をまいて辺りを清めながら出て来ます。これも露払い同様、外三番二人が姫三番を中央に挟む形で正座します。そこで三番叟の舞が始まります。まず、正座したまま歌舞伎風の所作であいさつの礼をします。あいさつが終わると、姫三番、黒木浄土、白木浄土が立ち上がり、姫三番は正面中央に下がり立って待ちます。黒木浄土、白木浄土が扇子の舞を奉納しますと、続いて姫三番が舞います。その後、黒木浄土・白木浄土と姫三番の掛け合いが行われます。

   黒、白『あ~ら めでたやな 中の大夫殿に ちょと言上(ごんじょう)申す』
   姫  『ちょうど参って候う 今日の式三番叟 沖は大漁 陸萬作(おかまんさく) 所も富貴繁盛(はんじょう)と舞い納
      むること 何よりもってやすう候え まず浄土殿の舞を見申し その後座敷へ 参ろうずることに候う おん舞い
      候え。』
   白  『だがお立ちにて候う』
   姫  『おん舞い候え』
   黒、白『おんなおり候う』
   姫  『あ~ら やうがましやな さあらば鈴参らせん。』
   黒、白『こなた こそ』
     (姫は姫三番、黒は黒木浄土、白は白木浄土を示す。)

 掛け合いは、以上のとおりです。
 この掛け合いの後に、姫三番から黒木浄土と白木浄土に鈴が手渡されます。そして、姫三番は露払いと一緒にその場を離れ、正面左へ姿を消します。そして、二人の浄土が舞を奉納します。二人の浄土は背中にアバ(漁網を浮かばせる浮き)を負って鈴の舞、御幣の舞と続けて勢いよく舞います(写真3-1-20参照)。これは海の幸に感謝する意味があります。これが現在舞われている式三番叟のあらましです。」

 (イ)三番叟とアバ

   a アバを背負われるは網元の誇り

 「(**さん)昔は漁の盛んな地には網元がおりました。この福浦にも網元が何軒もありました。網漁を行う網元は必ずえびすアバ(網地の中央部、特にふくろの上部につける浮き)を所有していたのです。そのアバは、網船と網船とをつなぐ中心になる舳先(へさき)の部分につないで出漁、操業したそうです。しかも、このアバは大きく、魚をとる前には大事に保管されていました。秋祭りが近づき、旅役者さんのやってくるころになると、船を係留して祭りの準備に入ります。網元にとっては、その年自分の所のアバを三番叟の黒木浄土に担いでもらって踊ることがすごい自慢でもあり、誇りでもあったわけです。これがずっと戦後も続いていたのです。まさに『沖は大漁、陸萬作』の喜びですよ。しかも、このアバが大きいものですから、だれがどこから見てもアバを背にして踊っているのが分かったものです。」

   b 三番叟とアバの復活

 「(**さん)旅芝居の一座も三番叟を舞っていましたが、アバは使われなかったので、アバを背負うことは廃れてしまってずっとなかったのです。昭和40年代になると、旅役者も次第に来なくなり、三番叟も舞うことが困難になってきました。昭和46年(1971年)ころに地元の人々だけで三番叟を復活させようとした時にも、アバをどうするか気になっていたのです。それが平成5年、ある方の所にアバの現物が残っているというので、見せてもらって作ったのが今使っているアバです(写真3-1-21参照)。ただ、これは原寸とは違って子供用に合わせて小さく(原寸の約半分)し、しかも、まったく同じ形のものを2個大工さんに作ってもらいました。それでわたしの代になって平成5年から再び三番叟を舞う時にアバを担ぐことが復活できました。本来は黒木浄土が背負うものでしたが、縁起物でもありますし、黒木浄土一人だけが背負って、白木浄土が背負わないというのもどうかと思いました。それに舞うのは子供ですから、不満や不公平感を抱くとか、そういうことを考えまして、形のまったく同じものを二人に背負わせることにしました。」

 (ウ)伝承、そして継承

   a 伝承保存の中心は地区住民

 長年福浦地区に居住し、三番叟にもかかわってきた**さんに、地域の人々と三番叟とのかかわり合いについて聞いた。
 「三番叟を仕切っていたのは、わたしの主人が携わっていたころは消防団でした。わたしの息子が携わっていたころは青年団が仕切っていました。旅芝居も消防団か青年団が世話をしていました。11月3日の夜の秋祭りを見るための桟敷が広場にたくさん並んでいまして、その桟敷席を皆さんがお金を出して買っていました。それをみんな楽しみにしていたのです。その設営から管理までの責任も消防団とか青年団がしていました。今は福浦地区が中心になって運営し、地区の人が応援し協力して盛り上げてくれています。保存会はありませんが、そういう意味では、地区が保存会といってもよいでしょう。この上の若宮神社も、今は神主さんがおりませんので、福浦の地区の人たちが管理しています。」

   b 三番叟存続の危機は

 「(**さん)この式三番叟は、(太平洋)戦争中も中断せずにできました。ただ、戦後旅回りの一座が盛んに来てくれていた間はよかったのですが、旅芝居が衰退して、次第に来なくなり始めたころからは困りました。それでも三番叟を舞うことを条件に、ぼつぼつと旅芝居の一座を雇っていました。昭和45、46年(1970、71年)にはかろうじてやってきてくれました。戦前から戦後も式三番叟の指導をしてきていたわたしの母らが、昭和46年前後から、『地元の人による三番叟を復活させねばいけないね。』と言い始めたのです。それで、わたしたち有志が集まって、母や土地の長老たちから話を聞き、地元民による三番叟の復活に取り組みました。それほど三番叟にこだわっていたのです。ところがいかんせん、文献も記録・資料もまったくないので、長老たちの記憶と幸いにも三番叟を見てきた人の話を聞いて、三番叟を見よう見まねで繰り返し舞いながら今の形に決めてきました。正確にはとうてい思い起こせませんし、姫三番と翁の掛け合いもあいまいなままに決めました。まず、踊りの原形を復活させることを心掛け、それで精一杯でした。謡や太鼓、三味線のことまで考える余裕などありませんでした。危機と言えばこの時期であったでしょう。その後は、わたしが指導に当たってきまして、30年近くにもなります。」

   c 三番叟の継承

 現在の舞い手の保護者でもある**さんと舞い手の指導に当たる**さんは、最近の子供たちの練習や保護者の協力について次のように語った。
 「(**さん)今の舞い手は3年継続で舞っていますから、子供たちもほぼ芸の意味も理解し、その気になって舞っているようです。最初の年は、10月初めから練習を始めまして、約23日間くらい集中して行い、秋祭りに臨みました。しかし、今では数日の練習で臨めます。昔は舞う機会が秋祭りだけでしたから、3年間でも覚えきれないところもありました。が、今は町の文化祭、いろいろなイベントや祝い事にも招かれたりして舞う機会が多くなったせいか、覚えも早いようです。指導に当たっている**先生も、気を遣われているのがよく分かります。今は子供をたたくのはいけないと言いますが、でも、親としたらちょっと悪いとこは、とりわけ芸能などでは、理論で教えるのも大切と思いますが、体で覚えさせる、体得させることも大切だと思うのです。子供たちはこの式三番叟を楽しみにし喜んで舞っているようです。」
 「(**さん)30年ほど前の復活直後は女の子だけで始めましたが、今は、子供も人数が少ないですから、男の子とか女の子とか関係なしに舞っています。今は白木浄土の役には男の子が入ってます。また、子供の家庭に不幸事が起こったら神前での祭礼行事には絶対に出られません。また、神事では忌みごとが多いので、そのあたりの気遣い、気苦労もあります。また、動きも男の子と女の子とでは勢いが違う、これをどう調和させて舞いを整えていくかというのも大変です。また、子供の舞ですから、お母さんの協力は欠かせません。例えば、衣装の管理なども地区に任せずに、その年その年のお母さん方にお願いしています。そうしないと、1年間箱の中に入れているとどうしようもなくなるのです。だから、その年から3年間携わるお母さん方にきちんと管理・保管してもらい、きちっと次の方に引き継いでもらっています。姫三番の衣装などは近くの美容院で中振り袖の使わなくなっていたものなどを頂いて、使わせていただくのです。衣装もしっかりと管理してもらいますし、当日の着付けと化粧などもいろいろな人の協力をいただいて行っています。1着100万円で2着ある本物の歌舞伎で使う千早(ちはや)(写真3-1-22参照)は、子供には大きいので、その着付けも苦労します。鈴の舞の直前に、この袖を背中に寄せて後ろで束ね、この背にアバを負って舞うのが鈴の舞、御幣の舞です。こういう苦労がありますから、代替わりするときには、子供も親もして良かった、させて良かったと皆さんに喜んでもらっております。
 どの地方でも芸能の後継、あるいは中断しているものの復活については苦労されているとよく聞きます。難しい問題だと思います。一人の力には限界もあるでしょうし。まあ、わたしたちのとこは、地区が一体となって取り組んでくれている点では恵まれています。舞い手も、子供たちの人数は減ってはいますが、高齢のための継承困難という難題はありません。しかも、舞い手は4人という点でも心配は少ないです。よく言われる謡や三味線・太鼓の問題などもありません。ただ、拍子木一つでリードするわけですから間を取るのが大変です。会場の広さなどにも影響されて、なかなか間が取れないのです。今、わたしの後を継ぐことのできる人は一人おりますが、他の地区に住んでいます。式三番叟は福浦の地区が仕切っていますので、この方が福浦に帰ってくれればよいのです。しかし、帰ってくれない場合でもそうは心配しておりません。と申しますのも、最低3年間は、わたしと一緒に苦労し、わたしの指導も見て、着付けも見たり体験し、拍子木も聞いてきたお母さん方がおられますから。」


*10:旧制度で、教員、特に小学校教員の養成を目的とした学校。
*11:若宮神社の境内に通じる階段の上り口の広場。以前は、現在の福浦公民館やその駐車場を含む周辺の広場が宮入り直前
  の最後のお旅所になっていたが、現在はかつて医院と保育所があった所が遊園地になり、お旅所になっている。その園に設
  けられている土俵(薬師相撲が行われる土俵)が演舞場となって、その正面に据えられた神輿に三番叟を奉納する。

写真3-1-15 稲木のある風景

写真3-1-15 稲木のある風景

平成11年10月撮影

写真3-1-20 アバを背負って舞う鈴の舞

写真3-1-20 アバを背負って舞う鈴の舞

平成11年6月撮影

写真3-1-21 三番叟のために作られたえびすアバ

写真3-1-21 三番叟のために作られたえびすアバ

平成11年7月撮影

写真3-1-22 三番叟で外三番が着用する千早

写真3-1-22 三番叟で外三番が着用する千早

平成11年7月撮影