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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)受け継がれる伊予万歳

 **さん(松山市菅沢 明治38年生まれ 94歳)
 **さん(北条市別府 昭和6年生まれ 68歳)
 軽快に三味線が鳴り響き、太鼓と拍子木がリズムを刻む。調子のいい唄に合わせて、ひらひらと扇が舞い、体がリズミカルに動く。伊予万歳は松山平野およびその周辺地域で、盛んに行われている祝福芸能である。後継者難に悩みつつも伝統を継承し、現在も、松山市・北条(ほうじょう)市を中心に、伊予市・伊予郡や上浮穴(かみうけな)郡などにも広く愛好者がいて、郷土芸能としての人気も高く、地域に定着している。
 伊予万歳の由来は、宝永年間(1704~11年)に松山藩士が書いた『年中行事覚』によれば、「そもそも当地正月に行はれる万歳は、御当家真常院様の御代(みよ)、上方より万歳太夫(たゆう)を招きあって、年の初めを祝ひ給ひしなり」と記されている。真常院は久松家初代の松山藩主定行(1587~1668年)のことで、寛永12年(1635年)に、伊勢(いせ)の桑名(くわな)より松山に移封しているから、すでに江戸時代初期に始まったものといえる。すなわち正月行事として上方から万歳太夫を招いたのが起源とされている。が、一方では源流を愛知県の「知多(ちた)万歳」と見る説もある。当時は本来の万歳の「柱づくし」などの物づくしであったと思われるが、その後文化・文政期(1804~30年)になって、村の祭礼等で興行されるようになる。このころから太夫、才蔵のほかに次郎松を加えて劇的な趣向や踊りを加味して芸態も多様化していった。しかし、明治になると伊予万歳は衰退し、松山市土居田(どいだ)の澤田亀吉がわずかにその芸を伝えていた。明治29年(1896年)、澤田亀吉は東京の久松家邸に招かれて芸を披露し、大好評を博したことがきっかけとなり、伊予万歳は広く世に知られるようになった(④)。
 その時のことが、『万歳やその亀といふ翁あり』(内藤鳴雪)『澤亀の万歳見せう御国ぶり』(正岡子規)と俳句に詠まれている(⑤)。
 以来、滓田亀吉の万歳は、中予全域に普及し、農村娯楽として祭礼・縁日・宴席の余興に盛んに行われるようになった。

 ア 才蔵が踊る

 伊予万歳の古典的な形は太夫(たゆう)(芸能の座の長または主だった者)と才蔵(太夫の相手をするこっけいな役の者)との掛け合いであった。その後、太夫は一座の監督的な立場となり、まじめな才蔵に、こっけいな役の次郎松が加わるという趣向となっていた。そのなかでも即興舞に近い才蔵踊りは、まさに腕の見せ所でもある。才蔵踊りのおもしろさと難しさについて、北条万歳保存連合会並びに別府双葉会の会長である**さんに話を聞いた。

 (ア)「才蔵踊り」は伊予万歳の華

 「昔は伊予万歳は各地に伝わり、風早(かざはや)万歳(*5)、五明(ごみょう)万歳、三津(みつ)万歳と土地の名を付けて呼ばれていました。そのうち風早万歳は澤田亀吉さんの流れを一番素直に受け継いできており、そこが魅力的なのだと思うのです。では、澤田亀吉の流れとは何だということになるのですが、伊予万歳は、万歳独特の芸題の口上を述べる前付けの才蔵踊りがあって、主演目の踊りがあって、舞い納めとして後付けの才蔵踊りがあって、この三つの踊りが一つのセットになっています。だから、外題(演目)が10あったら、才蔵踊りは前付けが10と後付けが10で合わせて20になります。この才蔵踊りには決められた形がありません。豊年踊りには豊年踊りという手踊りの形が決まっていますので、上手・下手が分かりにくいのです。ところが、才蔵踊りというのは自分が才蔵踊りのリズムのなかで、自分で踊りをつくっていくわけです。そこに、踊りの習熟の程度などで上手と下手がはっきり見えてくるのです。それで、変化のある形のものを常に10か15用意していて、自分の頭の中でイメージを描きながら、才蔵のリズムの中で自分で踊りをつくっていくのです。即興的に振り付けていくのです。ですから、才蔵踊りのおもしろさと難しさはどの踊りの部分が出てくるか分からないところにあるのです。」
 才蔵踊りの習得について、**さんは次のように語った。
 「才蔵踊りは踊りも自由なように、歌のリズムも自由であるので、そこに魅力があるのです。体の動きのなかで、流れによってあのリズムが出る、このリズムが出る、それは、その人の個性、その人の分(持ち前)なのです。どうしても習熟度が必要になります。ですから、一般に才蔵踊りを踊るためには、5年から10年は必要であると言われるのです。本当に習熟するといったら10年かかると言われています。器用な人は3年ぐらいで才蔵踊りを踊り始めるけれども、奥が深いというのは踊れば踊るほどに分かってくるのです。才蔵は見て取れとよく言われますが、上手な人の踊りを一生懸命見て、習ったものです。そして、才蔵踊りができて初めて万歳を習ったということになるのです。いくら手踊りを五つ六つ習い覚えても、才蔵踊りができるまでは万歳を習得したとは言えないのです。才蔵は他流試合もできるのです。他地区の祭りに出かけて行って踊らせてもらったりもします。名所づくしでは、奥行き4、5m、幅6、7mの舞台に我はと思ういろいろな地域の才蔵が出て踊るわけです。才蔵の群舞です。観客までが出て踊ります。伊予万歳の圧巻です。戦前から昭和30年代ころまで技の向上のために、盛んに才蔵踊りの大会までが開かれて優劣を競い合っていました。同じように、才蔵の相手の道化役の次郎松の技を競う大会もありました。」

 (イ)伊予万歳の衣装

 「風早万歳のもう一つの特徴は衣装にあります。太夫さん3人は、黒の紋付きを着て座って歌い囃(はや)しますが、踊り子は、紋付きの両袖(そで)を取り肩から落とすのです。すると、両袖取ったら長襦袢(じゅばん)(*6)が出てきます。そして、袖が触れて邪魔になるからたすきを掛け、頭には頭巾(ずきん)を着ける。これが本来の衣装です。昭和に入ると、男の長襦袢ではちょっと地味ですので、女の長襦袢を着けるという人が各地で出てきました。そして、着物も腰の方で邪魔になるということで、長襦袢の着流しになってきたのです。今の万歳というのは非常に派手な花柄などの長襦袢の姿になっています。袴(はかま)がついたのは戦後です。戦前は着流しとへこ帯(男子の浴衣帯、子供のしごき帯。三尺帯。)で踊っていました。やはり万歳本来の衣装は忘れてはいけません。」

 イ 各地に息づく伊予万歳

 現在、五明地区を中心にした「石手つくし会」の指導を主に、また頼まれれば他の会の指導もしているという**さんは、松山地方の伊予万歳について次のように語った。

 (ア)芸は身を助ける

 「現在、松山市には溝辺(みぞのべ)・伊台(いだい)・内宮(うちみや)・食場(じきば)・菅沢(すげざわ)などに10人前後の会員で活躍している伊予万歳のグループがあるにはありますが、合同の話し合いは現在でもなかなかできません。それぞれが個々に愛好者グループとして頑張っています。昔は方々で、大会がありましてね、技を競い合っていたものです。
 芸は身を助けると昔からよく言いますが、わたしは7歳のときから伊予万歳を習い始めていました。そのわたしが11歳で奉公に出るとき、近所のおばさんが芸を身に付けたらと忠告してくれまして、それが本格的に伊予万歳とかかわるきっかけになり、15歳で舞台に立つことになりました。その芸がわたしの人生の節目節目で大いに身を助けてくれました。もし芸がなかったら、いろいろな賞をもらうこともなかったでしょうし、人中に立ち交じることも、多くの人から招待を受けることもなかったでしょう。伊予万歳に出会えて本当に幸せ者だと感謝しています。」

 (イ)伊予万歳の真骨頂

   a 扇子のつかいと目・足の動き

 「(**さん)もともとは、男の芸であった伊予万歳も、今ではある程度年齢がいくと男性ではもうできません。骨が硬くなっているというか、科(しな)がつくれない(体裁をつくれない)のです。年を取ると踊っても手を上げて左右に揺するだけです。第一目というものが死んでいます。踊りは体を動かし、手が動くと目がそれを追っていきます。目をつかったら、今度は体が一緒に動くはずなのに、年を取るとそれができないのです。わたしが教えるときは腰で踊れと言います。扇のつかい方と目や足の動きが伊予万歳の踊りの特徴です。足は腰のことでもあります。扇子のつかい方は8の字に描くことと、その反対に描く返しの技の二通りです。特に、返しの技というのは、右手に持った扇子を左に8の字に回しながら動かしていき、型を決めたときは扇子を左手に持ち替え、扇子の表面を裏面に変えるものです。これは自分で手探りで作り出したものです。伊予万歳をはじめとして踊りや芸事には、もうこれでいいということは絶対にありません。だからこそ、芸は身を助けることにもなるのです。」

   b 伊予万歳は時代を写す

   (a)徳若万歳から郷土芸術伊予万歳へ

 「(**さん)最初のころの伊予万歳は、上方(大阪)から万歳太夫を雇ってきて、座敷で踊ってもらっていたのです。演目は『式三番叟(さんばそう)』と『柱揃(そろ)え』の二つでこれよりほかにはありません。澤田亀吉さんが紹介したのも、これ以外にはありません。座敷芸ですから時間にしてほんの20分程度です。これは太夫と才蔵との掛け合いが始まりでしたが、これに次郎松が加わりました。踊る人間(才蔵)とおどける人間(次郎松)がほお被(かむ)りして踊るのです。この二つの演目だけでは寂しいなあということで、後に先輩の皆さんやわたしたちが演目を増やしていったのです。
 また大正の前までは、『徳若(とくわか)に御万歳(*7)』と歌っていたのですが、大正から昭和にかけては『日本帝国(ていこく)御万歳』と歌うようになっていました。終戦後、時代の変化にふさわしい言い方はないだろうかと考えていたところ、偶然にも郷土芸術という言葉を耳にしたのです。ああこれも郷土芸術に間違いない、これも地域の芸術だと思って、『郷土芸術 伊予万歳…。』という口上から始めたわけです。『松づくし』もこれとほぼ同じころに、亡くなった師匠とわたしが日本三景の一つの松島(まつしま)(宮城県仙台(せんだい)市)へ旅行したとき、そのきれいな景色を、なんとか扇子をあつらえて、演じようではないかということがきっかけで、出来上がったのです。松山地方の伊予万歳の履歴というのは、大体簡単に言えば、こんなことになります。」

   (b)時代を反映する伊予万歳

 「万歳を踊るとき、頭巾を被(かず)いているでしょう。あれは武士が甲(かぶと)の下に着ける頭巾(ずきん)のことです。万歳はカラーの襦袢(じゅばん)を着ているがどうしたことかといわれますが、戦(いくさ)に行くときには、赤い物を身に着けていたら玉(弾丸)に当たらないとか、青い物を着ていたら刀で切られないとか言って、鎧(よろい)の下には赤や青の着物を着ていたのです。太平洋戦争の時でも、千人針(*8)を作っていたでしょう。あれと同じことです。割衣装(わりいしょう)はわたしが軍隊を除隊して松山に芝居を見に行ったとき、初めて目にしたのです。22、23歳のころでしたか。これはよいものだと思ったのですが、なにしろ1着4円と高いのです。当時、1俵(60kg)の米も4円でした。そこで、村の万歳を踊るグループで貯金しようということになり、賃稼ぎに精出すことになったわけです。もみ摺(す)りとか、道路工事のバラス(*9)入れとかの仕事をして、賃稼ぎに精出しました。割衣装の購入には実に苦労しました。その割衣装は三味糸(しゃみいと)で縫って縫い玉を作り、それを引くと衣装が変わる仕掛けになっています。三味糸は強いから何度でも縫い直しがきくのです。しかも、この仕掛けを使ったら、拍手喝さいでした。昭和3年(1928年)ころまでは、ついな(同じ)着物の着流しで、ついな踊りを踊っていたのです。それが今度は、『三番叟』や『柱揃え』を踊るたびに衣装が変わるわけです。着物も立派なものに変わってきました。
 また、伊予万歳は、もともとイネの刈り取りを終えた田んぼに小屋を作って演じていました。囃子方(はやしかた)は、粗末なすだれを垂らした舞台の奥で囃(はや)していたのです。だから、暑いときなどは、裸同然の下着姿などでも囃していました。ところが、お客さんは軽快なリズムで囃す太夫(たゆう)さんや三味線弾きや太鼓打ちも目にしたくなります。そこで、師匠が囃子方も表舞台に出すことにしました。そうすると、衣装が問題になってきたのです。それで紋付き、袴(はかま)姿となり、今のように舞台で囃すようになったのです。」

 ウ 伊予万歳を伝える熱き思い

 (ア)足腰の立つ間は精進

 「(**さん)芸はすればするほど奥が深いのです。ここまで至ったがと思っても、何かまだ物足りないものを覚えるのです。ああしてみたら、こうしてみたらと、いつも思案にくれる。これが芸事です。だから、また研究もし、工夫もしてみるのです。学校には卒業がありますが、芸には卒業がありません。お客さんがあっての芸ですから、いつもお客さんを頭に置いておくということが大切です。お客さんが来てくれる、見てくれる、喜んでくれる。そのお客さんの思いを無にしないために、新しいものを求めていかねばならないのです。お客さんがさらに喜んでくれる。芸がまた身を助けてくれているのです。
 この伊予万歳は、300年以上にわたって続いてきています。松山の城がある間は、もう絶対になくならないと信じています。わたしも足腰の立つ間は、万歳のために精進していきたいと思っています。わたしとともに70年間にわたって万歳を共通の場として過ごしてきた妻が、つい先般亡くなりましたが、『あなた万歳はやめたらいけませんよ。』という最期の言葉が今も心の中で響いています。今までわたしを生かしてくれた万歳をこれからも大切にしていきたいものです。」

 (イ)わたしたちの責任

 「(**さん)伊予万歳の扇子の持ち方や回し方は、扇子の要(かなめ)を持って回す普通の場合とは違います。万歳では、扇子の端の親骨を持って、手首をつかって扇子の先を8の字を描くように回す、それが基本になるのです。ところが、わたしたちの日常生活では利き手に得手、不得手があります。で、不得手の手首を回すのは初めのうちはなかなか難しいわけです。だから、これを習い覚えるのに1か月くらいかかります。それができてはじめて万歳が舞えるのです。子供は体が柔らかいから早く覚えるのですが、大人の方はこれを難しいと最初から決め込んでしまうので扇子をうまく回すまでに時間がかかるのです。この扇子を回すのは、力の入れ方と回すこつが大切なのです。また、腰を据えるのも一つの基本です。教え方に問題があるとも言えます。今、わたしたちは小・中学校の生徒の指導にも力を入れています。特に、他県や中央の舞台に出演し、他の芸を見ることは、子供たちの目を肥やし、技を深めるということで、学校に支障がなければ可能な限り子供たちを連れて行くよう心掛けています。地元の県立高校の行事にも積極的に参加して、若者の関心付けにも十分な配慮をしています。若い人を大切にしていきたいものです。
 北条市では、昭和45年(1970年)大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会にアヤメ会、双葉会の出演が決定して、これを機に伊予万歳(写真3-1-13参照)が市の無形文化財に指定されまして、一気に万歳への関心が高まりました。昭和49年(1974年)には、市の指導もあって各会を連合した保存会も誕生し、昭和50年代には戦後の万歳の全盛期を迎えた次第です。その後子供や青年も少なくなり、今では20歳代から40歳代半ばくらいの年代の人たちがあまりいないのです。その結果、子供と50歳以上の人たち、そして子供から手が離れた婦人たちが会員の中心となっている状態です。全国の万歳サミットに参加してみますと、万歳のよさが外から見えますし、万歳のすごさを痛感します。平成10年の長野オリンピックの文化芸術祭にも出演しましたが、外国公演同様、あの衣装と扇、それにリズムがなんともいえないようで、外国人にも素晴らしいものに映り、すごい人気を博しました。こういう場を、一つでも多くつくって、先輩の残してくれた風早万歳の素晴らしい芸を、次代に伝えていく責任がわたしたちにはあるのではないかと思い、今わたしは、伊予万歳の伝承と後継者づくりに力を入れております。」


*5:現在の北条市一帯。松山市の北、斎灘(いつきなだ)に西面している。古代からこの一帯を風早(速とも書く)の地と称
  し、風早郡とも呼称していた。
*6:着物のすぐ下に着る、着物の着丈と同じ長さの襦袢(和服用の下着)。
*7:いつも若々しく長寿を保つようにの意の祝い詞。
*8:一片の布に千人の女が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫い玉を作り、出征兵士の武運長久・安泰を祈願して贈ったもの。
*9:バラストの略。線路や道路に敷く小石や砂。

写真3-1-13 伊予万歳「松づくし」

写真3-1-13 伊予万歳「松づくし」

平成11年9月撮影