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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)町に幟(のぼり)がひるがえる

 **さん(東宇和郡野村町野村 大正15年生まれ 73歳)
 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和7年生まれ 67歳)
 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和15年生まれ 59歳)
 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和19年生まれ 55歳)
 野村町は愛媛県の南予地方、松山市から南西約60kmのところにあって、ミルクとシルクの町として知られる。この野村町の乙亥(おとい)相撲は約150年の伝統を誇り、今も町中がわき上がる地域の一大行事である。野村町は、嘉永5年(1852年)に当時の野村、阿下(あげ)が大火に見舞われ、目にあまる惨状であったといわれている。そこで当時の野村の庄屋緒方惟貞(1822~83年)が、二度とこのようなことがないようにと火伏せ(火災を防ぐ)の神、愛宕(あたご)神社を再建し、その年より100年間、毎年旧暦10月の乙亥(*10)の日に、火災なきことを祈願して、三十三結びの相撲を奉納したのが乙亥相撲の始まりであるといわれる。100年目に当たる昭和27年(1952年)に願相撲は終わったが、引き続き乙亥相撲として続けられることになった。この乙亥相撲は、昭和57年(1982年)からは、野村町観光協会が主催し、全国から招待した一般実業団や大学生の有名アマチュア代表選手と、大相撲の幕下以下の若手有望力士との対戦で行われるアマとプロ対決の大相撲大会で地域の一大イベントに発展した(⑩)。
 乙亥の日の由来についてはいろいろあるが、特に家を新築する時の棟上げの吉日で早く家が建つようにとの願いを込めてこの日にしたともいう(*11)(⑩)。
 **さんは野村町観光協会副会長や乙亥相撲部会長を務めたこともあり、若いころから乙亥相撲にかかわってきた。**さんは招待力士を自宅に泊めたこともあり、乙亥相撲をずっと見守ってきた。**さんは町観光協会の乙亥相撲部会事務局長である。**さんは、中学校2年生で乙亥相撲の初土俵を踏み、以来25歳まで取り続け、その後も乙亥相撲にかかわり続けて現在は町観光協会の乙亥相撲部会長である。4人から乙亥相撲の話を聞いた。

 ア 乙亥相撲の主催者

 「(**さん)もともと旧野村町の各地区に区長さんがいて、その集まりが野村専務区長会で、そういう人たちが乙亥相撲を仕切ることになっていました。太平洋戦争のために昭和18年(1943年)ころから相撲を取る若い者が少なくなって、専務区長会でも世話できないようになり、青年団が野村町の青年だけで相撲をしていました。その時でも願相撲の三十三結びだけは絶やすわけにはいかんかったんです。戦後は昭和22、23年ころに専務区長会が立ち上げたんです。わたしが乙亥相撲にかかわり始めたのが昭和25年(1950年)ころでした。土俵、桟敷造りを請け負いました。その当時は、相撲桟敷を請け負った者が、それを造るだけではなくて、入場料などを仕切ったんです。勧進元(かんじんもと)(*12)の専務区長会から請け負い、それ以上の収益が出たら勧進元へ渡し、不足は自分が負担するんです。だから主催の専務区長会があって、そのほかに土俵、桟敷を造り、入場料の徴収を仕切る責任者や力士を集め、宿・食事・給金などの世話から相撲の取り組み・進行などの一切を仕切る責任者などがいたんです。昭和57年に主催が観光協会に移行するまでは、いろんな人が請け負ったりしたが、主催は専務区長会でした。」
 「(**さん)力士を集めるのは、昔から相撲を取ったような人がいて、そのかかわりがないと集まらんのです。そういう人たちの中に、春日さん、丸八さん、若虎さんらがいて力士関係のことは仕切ったんです。戦前から戦後にかけてしばらくの間は、相撲を取る人はあちこちの宮相撲などの相撲の場を渡り歩いていたんです。そしてそのまま野村に居ついた人もいます。」
 「(**さん)大相撲の先代の玉の海、片男波(かたおなみ)親方は、戦後の混乱期の中で、野村に来て5、6年も丸八さん、若虎さん、春日さんらが世話していたと思います。それが野村と片男波部屋とのかかわりとして今も続いているんです。」

 イ 東西の対抗相撲

 「(**さん)昔はテントもなく、田の中に土俵も桟敷も造っていました。この乙亥相撲は野村の町の中央を流れている川を狭んで、東側と西側の対抗の相撲でした。町を二分して川の東と西が張り合うていたんです。向こうが強いのを出したら、こちらもそれに対抗できるようなのを出すというように、面子(めんつ)を賭(か)けてするんです。そして勝負がもつれて、物言(ものい)いでもついたら、お客さんも入り乱れて、土俵上で血の雨が降るようなこともありました。力の入った相撲の時にはもう夜中まで、観客がワーワー言っていました。そんな時には町の中でもワーワー言って騒いでいました。そういう状況はわたしの子供のころに見慣れた風景でした。」
 「(**さん)東西に別れての対抗は、そりゃあ盛んでした。両方ともに裕福な人が何人かいて、乙亥祭りのしばらく前から、強い力士を連れてきて、めしを食べさせ、けいこをさして、小遣いを与えて遊ばせながら、家に囲うていたんです。だから、際どい勝負にでもなったら、1時間でも2時間でももめ繰り返して(もめ続けて)、その声がワーンワーンと鳴り響いていました。だから遅い時は、終わるのが夜中の12時ころになったりしていました。」
 「(**さん)わたしら小さいころは東にだれやら来ている、西へだれやら来ているといって、夜、見に行ってました。当時は、東西に別れて、そりゃあ熱が入っていました。ひいきの者が勝ったら帽子が飛ぶんですよ。その帽子を投げてくれた人のところへ持っていったら、代わりに祝儀を出してくれる。今度は反対側も負けずに帽子を飛ばすんです。それこそもうわき上がっていました。観客も西、東にきれいに分かれて座っていました。わたしらは東でしたので、どんなことがあっても西には座らなかったです。」

 ウ ごひいき筋

 「(**さん)昔は、強くて勝ったり、ええ相撲を取ったりすると、尾鰭(おひれ)のついた花(懐紙などに巻いた祝儀のお金)が飛ぶんです。ぎっしり祝儀袋に詰まるくらいの花をもらう人もいました。勝った力士には、土俵上で行司さんや呼び出しさんが『ただいまの勝ち相撲、石ケ嶽(いしがだけ)(*13)に〇〇様ごひいきとあって金一封をくださある。』と披露して渡してくれるわけです。強くなって、うまくておもしろい相撲を取ったら、ごひいき筋も応援してくれるんです。相撲を取る方も必死ですが、観客も一緒になって熱を入れて盛り上げてくれたわけです。だから負けても負けても、もう一番もう一番と言って飛び出して行くんです。それで熱気がどんどん膨らんでいったんです。」

 エ 相撲本番

 (ア)三十三結び・飛びつき5人抜き

 「(**さん)乙亥相撲は願相撲の『三十三結び』から始まるんです。もともとは33番の相撲を奉納しますという意味だったと思うが、わたしが知ってからは33番とか33組とかの数は関係なしでしております。それに今は3人抜きと5人抜きの抜き相撲で、一人の力士が、3人ないし5人連続で勝ち抜かない限りその取り組み相撲は終わりません。だから休みなしです。3人とか5人抜くと、その者は控えに残って、残りの者が続けてするんです。これはだれが出てもいいんですが、わたしが中学校2年生で相撲を取り始めた昭和32年(1957年)ころは、中学生も青年もみな同格でした。親子ほどに年も違い、体格が違うても一緒に相撲を取って、その中で強いか弱いかなんです。これを4、5本もすると、『飛びつき』の声が掛かる。この飛びつきというのは5人抜きです。最初だけ仕切りをして相撲を始めるが、後は仕切りも待ったもない。力士は東西南北の土俵下に待機していて、勝負がついたら次の者はどこから飛びついていってもよい。勝った力士は最初に土俵に上がってきた者との勝負で、5人抜くまで続くんです。だから勝ち抜いた者は、すぐに片手を土俵について、出てくる者をキョロキョロ探すわけです。手をついている限り、相撲は始まってないから負けないが、土俵からいったん手を離すと、後ろから突き飛ばされても仕方がない。そんな相撲です。見る者は何か起こるか分からんだけにおもしろいが力士は気が抜けずきつかった。こうした相撲の間に、勧進元がそれぞれの力士がどれだけの力があるかをチェックして、役相撲の取り組みを決めていきました。その三十三結びや飛びつき5人抜きの中で、次の役相撲の小々五人とか小五人とかへ出る者が決まるんです。その中で飛び抜けて強い者は、中(ちゅう)五人へ、あるいは大(おお)五人へと抜てきするというふうでした。だから力士はいつでもいいかげんな相撲は取れないんです。皆必死でしたから、見る方も興奮したものです。」

 (イ)お好み相撲

 「(**さん)『お好み相撲』というのは、お客さんから『〇〇という力士は、からはこまい(体は小さい)がおもしろい相撲を取る、〇〇と取らせてみるか。』とか『ありや、こまいがなかなか強い、〇〇と取らせてみたい。』といった申し出で取らせた相撲です。その時はお客さんから懸賞金が懸かります。昭和30年ころで何百円もの懸賞金でした。呼ばれた者は名誉でもあるし、懸賞金がすごい。それこそ必死でした。こうしたのが何番も入ったものです。でもこれはお客さんの申し出だから何番になるかは流動的でした。」

 (ウ)中三役から末三役へ

 「(**さん)中三役(なかさんやく)と末(すえ)三役は、中入り休憩前の三番と打ち止めになる最後の三番の勝負で、儀式的な要素がありました。だから、前花(まえばな)といって前もってプロとアマの両力士が同額の祝儀を受けます。
 中三役は、勝負の後で力飯(ちからめし)(食べると力が強くなるという飯)の赤飯(せきはん)を重箱二つと御樽という酒をもらうんです(今は丸桶(おけ)二つと一升瓶(びん)2本。)。それを、お互いに相手方のタマリ(相撲の土俵下の力士の控えどころ)に持っていき、観衆のお客さんにも縁起物として、食べてもらい、飲んでもらうんです。力飯を食べたいと言う人がみんな待ちよるんです。重箱を回すと、皿とか紙とかへ一箸(ひとはし)ずつ取って次へ回す。子供や赤子にもちょっとでも食べさせたいと言う人が待っているんです。それが中三役で、そこで小休止です。」
 「(**さん)末三役というのは、中三役も同じですが、東と西から小結、関脇、大関が3人ずつ出て一番ずつの勝負をするんです。この三番の取り組みは、招待した力士と選手の中から選ばれたプロとアマの最強の3人ずつの最後の相撲になるんです。それぞれに名誉を賭けての力の入ったものです。勝ち力士にはそれぞれ、『小結に叶(かな)う、あるいは関脇に叶う〇〇』との勝ち名乗りとともに、1m余りの孟宗竹に御幣紙を付けたボンデンと弓矢が与えられます。最後の取り組みになる2日目の大関の一番は、行司が『乙亥相撲、番数も取り進みましたるところ、この一番にて千秋打ち止めにござりまする。』と披露して。『ハッケヨイ』と取り組ませます。がっぷり組んだところへ行司が割って入って、待ったをかけるんです。そして『両々とも、御名人に、御名人になりますれば、この相撲、愛宕神社にお預けし、また明年取って御覧に入れまする。』と言って、それで乙亥相撲の打ち上げになるんです。
 その後、力水の桶を土俵に上げ、徳俵(*14)を掘り起こして、土俵の東西の仕切り線の辺りに置きます。引き分けた大関同士がその徳俵の上に立って、末三役の時に使ったボンデンを真ん中に立て、それに手を掛け、相撲の関係者一同が土俵の回りに立って円陣を組みます。行司は塩をまき、口上を述べて最後を締めます。
   『沖は大漁、陸(おか)は満作。所、富貴繁盛と打ちましょう、シャン シャン シャン。もう一つ打って祝いましょう、
   シャン シャン シャンのシャン。』
 この最後の締めの手拍子を観客も一緒になってやり終えた時に、世話をする我々はほっとできるんです。」

 オ 現在の乙亥相撲

 現在の乙亥相撲の状況について**さんと**さんに聞いた。

 (ア)一般相撲

 「(**さん)現在の乙亥相撲は、11月の大相撲九州場所が終わった直後の火、水曜日に行っています。平成10年度から、1日目が地元青年の対抗、2日目が小・中学生の相撲と1日目と2日目の相撲を入れ替えました。1日目の夜はお祭りで青年は無礼講で飲むことが多く、1日目で相撲を終えたいとの希望が前々からあったんです。小・中学生の個人戦はトーナメントで団体戦は地元の対抗相撲です。青年の団体戦は野村町が15チームくらいで、後は日吉(ひよし)村、城川(しろかわ)町、宇和島(うわじま)市、内海(うちうみ)村など町外からの参加があり、1チーム5人ずつの対抗戦にしています。個人戦はトーナメントで、団体戦はリーグ戦を行いますが、個人戦も団体戦も、出場者の提出名簿を見て、今までの実績を考慮して2部に分けて、相撲部会長を中心に組み合わせを作ります。これが一般の相撲で、二日間とも、朝8時過ぎから午後の1時過ぎまでかかります。地元の人にとっては、子や孫あるいは近所の知人の晴れ姿を見るとあって、選手への掛け声も飛びかって、プロとアマとの勝負とは一味違う楽しみなんです。太鼓を持ち込んだり、垂れ幕を掛けたりして応援合戦も結構にぎやかです。平成11年から、青年の部は、野村町内14チームを2部に分けた団体戦と、県内市町村対抗戦(野村町、城川町、日吉村、宇和島市、内海村、明浜(あけはま)町、松山市)が初めて行われ、町外のチームはこの部所で戦うことになりました。」

 (イ)神事とアトラクション

 「(**さん)一般相撲の後で神事とアトラクションがあります。相撲の関係者、役員は乙亥相撲の1週間ほど前に愛宕神社に行って祈願祭をし、それから本格的な準備に入ります。乙亥相撲当日には、愛宕神社の神輿が土俵に上がり、御神体をお祀(まつ)りして祝詞も上げ、お祓(はら)いを行います。もともと愛宕神社へ願を掛けての奉納相撲ですから、100年という期限が過ぎてもこの神事は続いています。その後で、主催者のあいさつ、アトラクションとして、乙亥太鼓の演奏、稚児の土俵入りや大相撲幕内力士による高校生への指導が続きます。2日目のアトラクションでは、神事はなく高校生の代わりに、小・中学生が束になって、力士に指導を受けるぶつかり稽古(けいこ)がおもしろ、おかしく披露されるんです。」

   a 稚児の土俵入り

 「(**さん)稚児の土俵入りは、時間帯を設定しておいて、24人(平成11年は玉春日関と舞の海関がそれぞれ12人ずつ、二日間で48人であった)を連続して行います。招待した関取(せきとり)(十両以上の力士)が、稚児を一人一人抱いて、右足で2度、左足で1度四股を踏み、その後で稚児の両足を土俵につけて、四方の皆さんにあいさつの礼をして土俵を下りてくるんです。稚児は0歳から2歳までで、のしめ(お宮参りの晴れ姿の着物)を着せている者もあれば、裸のまま横綱のように綱を回しのように締めている稚児もいるんです。言うても2歳までの子だから寝ているのもいれば、泣くのもいるし、にこにこするのもいます。希望者は多過ぎるくらいです。二日間で50人ほどですが、人気のある力士でも来るとなると、どうにもならんくらい希望者が殺到するんです。決定は厳正な抽選で行います。抽選漏れした者には、プロの写真屋による関取に抱かれた写真を撮れるような世話もしているんですが、どうしても土俵入りをさせたいと言って、決定した後でも『一人くらい何とかなるだろう。』と言われたりすることも多いんです。なにせ今はじいちゃん、ばあちゃんが熱心で、何としてでも、孫の土俵入りを見たいと言うんです。」

   b ぶつかり稽古(けいこ)

 「(**さん)もう一つの呼び物は幕内の関取に稽古をつけてもらうことです。1日目は高校生。これは一人ずつのぶつかり稽古です。2日目は、小・中学生の3人から5人が束になって掛かっていってのぶつかり稽古です。はね飛ばされては飛びついていく。見ている者も楽な気持ちで手をたたき笑いながら観戦するんです。子供たちは真剣です。プロの関取に胸を借りるんだからうれしいし、思い出にもなるんです。このアトラクションで一息入れて、その後からがプロとアマの対戦になります。」

 (ウ)役相撲

 「(**さん)役相撲というのは、招待力士(序の口・序二段・三段目・幕下、平成10年から郷土出身の力士は全員招待力士の中に加えるようになった)や招待選手(高校・大学・実業団)による相撲で、小々五人、小五人、中五人、特別中五人、大五人、特別大五人、中三役と末三役と呼んでいます。
 特別大五人というのは、最高に強いアマ5人とプロ5人ずつを選んでの相撲のことです。幕下の上位力士と全日本のトップクラス、三段目あたりの力士と四国四県の強いアマ連中、序二段の力士と高校生くらいの取り組みをめどに、プロとアマの対決にするわけです。このプロとアマの対決が役相撲で、5人ずつの抜き相撲なんです。だから対戦相手の5人に連続して勝たないと優勝者が決まらんのです。一人だけ強い者がいて、他との力の差があり過ぎるとあっさり勝負がついてしまう。そうなるとお客さんからクレームがつくんです。『今年は何だ。相撲がおおちょらせん(対戦相手がふさわしくない)じゃないか。』と存分に嫌味を言われることもあるんです。逆に、力が伯仲して熱戦が展開されるとヤンヤの喝さいで見ている者も興奮して相撲が盛り上がるわけです。ところが力が伯仲し過ぎると4人目で負けたり5人目で負けたりしてなかなか勝負がつかないんです。そうなると急きょお客さんに断って3人抜きに切り替えたりします。何にしても力士の実力を見抜くこと、そしてよい取り組みを作ること、それが勧進元の手腕ですから取り組みを作る方も必死です。」

 カ プロカ士の招待

 (ア)プロとアマの対抗

 大正時代の野村町は県下屈指の養蚕の町であったが、その蚕の飼育技術が低く作柄は不安定であった。そんな中で、町の中央を流れる川の東側と西側とで相撲に勝った方が作柄がよいという縁起を担(かつ)いで、強い力士を競争で招待し始めた。大正10年(1921年)ころ松山市内に「高之浜」という、髷(まげ)を付けたままのプロ上(あが)りの力士がいて、県下を回って相撲による賞金稼ぎをしていた。その力士を雇った家主は、乙亥祭りの当日まで家に閉じ込め、他人の目に触れないようにして、当日の対抗戦を勝ち取った。他方の家主もこの力士を倒すためにプロの「虎林」という力士を招待して対抗したのがプロ、アマ対抗の始まりである。また、戦争中はプロ・アマの対抗は中止されていたが、昭和29年(1954年)に西方の大五人に大相撲力士を五名招待し(最初に来たのが当時幕下の琴ヶ浜ほか4名)以後現在に続いているということである(⑩)。

 (イ)乙亥の招待者

 「(**さん)わたしらが知っている昭和の初めや昭和10年代は町の東西に分かれて力士を呼んでいました。東の方へは高知から、『鷲尾山』『高潮』、西の方へは松山辺りから『高之浜』『朝霧』というのが来ていました。当時の野村には名士というか資産家というか、そういう人が何人もいて、それぞれの地域で名の通った相撲取りやプロ上りの力士を呼んできて、家に抱えるようにしていました。」
 「(**さん)戦後は九州、大阪、東京からも招待しました。わたしの相撲の師匠、春日山(兵頭茂、春日さんと呼ばれている)は自分で相撲を取っていましたので、相撲仲間やその方面の知り合いも多かった。双葉山(*15)、愛媛県出身の横綱前田山(先々代の高砂親方)、初代片男波親方(二代目玉の海)らとも親交があったそうです。そうした友達や知人の関係で、強い力士をこの乙亥相撲に連れてこれたんでしょう。」
 「(**さん)春日さんはもともと相撲取りだったのが、海軍に行って、そこで九州の坂本さん、江熊さんなどとも知り合ったらしい。そのころは海軍相撲といって、戦艦内で、あるいは戦艦対抗の相撲があったとか聞いたが、ものすごく相撲が盛んであったらしい。坂本さん、江熊さんは海軍相撲最高の七段というから強かったです。春日さんは五段だったと聞いている。坂本さんはアマチュア相撲の神様といわれていました(坂本政美:昭和21年[1946年]の第1回から第10回までの国民体育大会相撲競技大会一般個人の部で6回優勝(⑪))。それに、元プロにいたと思うが、宇和島の弾丸田島のあだ名が付く有名な相撲取りが、春日さんのところで世話になっていました。それらも春日さんが乙亥相撲に出したんです。この人は昭和35年(1960年)ころまで来たと思います。」
 「(**さん)坂本さん、江熊さん、田島さんは、みな九州佐世保の海軍相撲時代の春日山と兄弟弟子なんです。坂本、江熊さんらは、引退した後も、九州の後輩たちを乙亥相撲に連れてきてくれました。田島さんは和霊山の四股名を持ち、弾丸田島の名のとおり、ぶちかましてぐいぐい押し込んでいく力士でした。わたしに、勧進元の在り方を3年間みっちり仕込んでくれた人です。この人たちは、乙亥相撲の力士としてだけでなく、その発展にずいぶん寄与してくれました。」
 「(**さん)昭和29年(1954年)に大相撲力士を招待していますが、その後、東京の学生相撲から力士を呼んだんです。そのころは中央大学、拓殖大学、東京農業大学などが強かったですが、大学生のバリバリの5人と大相撲の力士5人を招待して取り組ませたことがあります。この時、平(中央大)、大森(中央大)、福田(東農大)らが来たんです。その後にも学生相撲を招待していますが、当時幕下筆頭の大鵬(後の横綱)と平(中央大)とを取り組ませたことがあります。あの時はわたしの家へも招待しました。この招待した大学の連中が企業に入社して、そのまま相撲を取っていたんです。それで後には企業からも力士を呼んでくるようになったんです。だから、戦後の乙亥相撲へはまず海軍相撲上がりが来て、その後大相撲、学生相撲それから実業団相撲を招待するようになったんです。」
 「(**さん)プロがするのは初めは大五人だけでしたが、今は招待する人数が増えて、中五人、小五人の中にも入るようになっています。特別大五人のプロに対抗する招待者は日本のアマのトップ級で、その連中は全日本の五本の指に入る者も多い。平聖士さんは全日本アマチュア相撲選手権大会で何回も優勝した人です。」

 キ 乙亥の町

 (ア)150本の幟(のぼり)がひるがえる

 「(**さん)わたしらが相撲を取っていた時分は、まだ幟が町に立つということはなかった。それが、20年前ころから一つのにぎわいとして、乙亥相撲に幟を立てることを考えたわけです。個人名を入れた幟を作る希望者を募集したら、商売をしている人は宣伝にもなるからと応募してくれる者もあり、にぎわいにもなるんだったらということで、だんだん増えてきたんですよ。昔は『祝乙亥相撲』と書いて、下に個人名を入れたりしてました。今は、昔からの幟と、『玉春日関へ』などの関取名を書いて、下の方へ〇〇よりと個人名を入れたような幟があります。乙亥相撲が近づくと、今は150本くらいの幟が立つが、野村の町への入り口、町の通り、役場周辺や会場の周囲などに、本場所のにぎわいと同じように風にはためいて、野村の町を相撲一色に染めてくれるんです(写真2-3-26参照)。乙亥相撲の象徴みたいになって、『今年も乙亥が来たなあ。』と誰もがその日を待ちこがれるんです。」

 (イ)乙亥祭りは無礼講

 「(**さん)乙亥の二日間のお祭りは、無礼講ですから、それこそ、どこへ行っても遠慮するなと言っていました。どの家も来る者はだれでも喜んで迎えたものです。だから、町外から来た人に、どこでも入って飲んでいって下さいと言ったもんです。1日目が終わると、関取やその他の招待力士を皆それぞれに招待して飲ませたり食べさせたりして記念写真を一緒に撮ったりするんです。招待したいという希望者は多いから観光協会で調整をするんです。有名な関取でもが来たら、今でも、もう座敷いっぱいに人が集まってきています。写真も関取らと一緒に撮っているものの、どこの人やら分からんから、送りようがないんです。それでも今は昔ほど盛んにはしなくなった。時節柄、不景気だから、それ自体しない人も出てきたんでしょう。わたしの家内らは『乙亥やめて、秋祭りにしては。』と言うこともあるけど、『乙亥は乙亥。やめるわけにはいくまい。』と言っています。本当にだれが来ても、何人来てもいいんです。『この人はどこの人だろう。』と思うても『まあ、よう来て下さった、飲んで下さい。』と言って迎えたもんです。」

 (ウ)悲喜こもごも

 「(**さん)戦争前もそうでしたが、昭和20年代ころまでの乙亥相撲は大祭りだったから、人がどこからこれほど集まるんだろうというほど集まって来ていました。町外どころか県外からも、特に高知からは大勢来ました。街中に露天商がびっしり並びました。野球もない、サッカーもない時代に、一年中で燃える時いうのは、乙亥ですよ。年間で遊ぶといったらこの時です。ウシ売ったり、養蚕、紙(泉貨紙)でもうけたりした人が、一年間の買い物をする場が乙亥であり、散財するのが乙亥でした。今でこそ3,000人も入る大テントが出来たからいいけど、当時は青空天井だから雨が降ったら中止でした。力士は集めたが相撲は取れないとなるとお客さんは来ない。わたしとこは商売していましたが、女の子を3人ほど雇うて材料の仕入れをしていました。それだのに客なしでは全部おじゃんですから、ばく大な損失ですよ。ところが天気になったら、わんさと人が来るから笑いが止まらんくらいもうけた。だから、おふくろは夜中の12時ころまで空を見上げて、そりゃあ真剣でした。無礼講の接待を含めて、乙亥相撲と野村の生活とは切っても切れないんですよ。」


*10:乙(おと)とは、年下の者、次の、末のなどの意味を表し、亥は十二支の11番目を指す。10月の乙亥の日とは、10月最
  後の亥の日を指している。
*11:竹内照夫「干支物語」には、10月の亥の日は古くは三輪宝と書いて建築を始めるのに吉祥の日とされていたのが逆に
  なってしまったという説もあると記されている。
*12:社寺や仏像の建立や修理のために、広く人々に、それが善根功徳になると勧めて金品の寄付を募ることを勧進という。
  後にはそれを名目としてお金を取って興業することを勧進興業といい、それを主催するものを勧進元という。
*13:大正期から昭和20年代までは、野村の各小部落ごとに、その地区の化粧回しと四股名があり、最も強い力士に、名誉と
  して与えられ、相撲の場で披露もされていた。例えば石窪組の石ヶ嶽、氏宮組の氏見川などである。
*14:丸い土俵のうち、東西南北の中央に4か所、一俵ずつ外側へずらして埋めた俵。
*15:1912~1968年。第35代横綱。全勝優勝8回。69連勝の記録を持つ名横綱である。

写真2-3-26 幟がひるがえる乙亥相撲

写真2-3-26 幟がひるがえる乙亥相撲

平成11年11月撮影