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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)精霊と競う

 大山祇(おおやまずみ)神社は、大三島町宮浦(みやうら)にあって、平安時代から日本総鎮守と呼ばれ、全国に祀(まつ)られた御分社は1万余社にのぼっている。神社は海の神、山の神、武の神としても信仰され、神社には武将たちが奉納した甲冑(かっちゅう)刀剣類をはじめ、国宝・重要文化財は多く、特に武具類の国宝に至っては日本全国の8割強を占めている(⑥)と言われ、大三島は国宝の島と呼ばれている。その大山祇神社は全国でもまれな一人角力(ひとりずもう)を今も神事として取り行っている。この一人角力は、力士の取り組む姿だけがあってその相手が目に映らぬところからそう呼ばれるようになったそうである(⑦)。

 ア 一人角力の歴史

 一人角力は、毎年旧暦5月5日の御田植(おたうえ)祭と旧暦9月9日の抜穂(ぬきほ)(稲刈り)祭において、大山祇神社の御棧敷殿(さじきでん)と神饌田(しんせんでん)(神に供える米を作る田)の間に設けられた土俵で行われる行事である。この角力については、「三島大祝安積の松山寺社奉行所差出書」(宝永4年[1707年])に、5月5日・9月9日に相撲を取らせたとあり、また、大三島の瀬戸(せと)地区(現上浦町(かみうらちょう)南東部にある地区)の向雲寺住職慈峯が享保20年(1735年)に「端五(5月5日)神事の節於宮浦邑の斎事有其内瀬戸の独り相撲と名乗る儀式あり役人は甘崎(あまざき)(瀬戸に隣接する地区)より出候得共瀬戸と名乗る」と記しており、古くからの神事であったことが察せられる(⑦)。
 今も、一人角力は神事の一つとして、春の御田植祭の時には、御田植神事の前に、そして秋の抜穂祭の時には、抜穂神事の後に行われており、稲の精霊と人間が角力をとり、精霊が勝つことによって、春には豊作が約束され、秋には収穫を感謝するという神事である。全国的にも珍しく、昭和39年(1964年)に県の無形文化財の指定を受け、昭和52年に無形民俗文化財の指定替えになった。
 三島喜徳宮司によると、「すもうは一般には『相撲』の字を当てるが、大山祗神社では、相撲を含めた広義の力くらべである『角力』の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神様との力くらべを表します。」とのことであり、ここでは一人角力で記すことにする。その一人角力は、江戸時代は現在の上浦町瀬戸の力士によって行われ、それも一番勝負であったといわれている(⑦)。また、明治以降の力士として、堀田金八(1838~1904年)、藤原岸蔵(1848~1916年)、藤原初治(1857~1929年)、越智直治(1936年亡〈89歳〉)、松岡栄太郎(1870~1953年)、藤原忠八(1910~95年)などの氏名が記されており、いずれも10年20年と奉仕してきたようである(⑧)。

 イ 一人角力に二人の力士

 **さん(越智郡大三島町宮浦 大正6年生まれ 82歳)
 昭和35年(1960年)ころからは上浦町甘崎の元岡敬氏が一番勝負を披露し、三番勝負は藤原荒市氏が同時に取っていた。また行司は藤原百千氏一人であったという(⑧⑨)。そして一人角力が昭和39年(1964年)に県の無形文化財の指定を受けた時、この三人はともに、その無形文化財の保持者として認定されている。
 昭和29年(1954年)から30年余り大山祇神社に勤め奉仕し、一人角力の復活にかかわったという**さんに話を聞いた。
 「わたしが小学生ころだから、大正の終わりか昭和の初めころに、通称『まんにいさん』という人が一人角力を取っていた記憶があります。いつごろまで取っていたかは定かでないですが、この人は台(うてな)(大三島町宮浦の隣接地区)の一番奥の方に一人で住んでいました。その当時50歳くらいだったか、相撲を取る勢いがあったから40歳代だったかもしれません。今の大山祇神社の大鳥居を入って、欄干(らんかん)橋を渡るとしめ鳥居(しめ縄を張ると鳥居の形になる石。しめ石ともいう。)があります。そこを左に入った所の、今の商店街の辺りに小学校がありました。その小学校の前の川のすぐ横に御桟敷殿があって、その前で、御田植祭をして、一人角力をしていたと思います。
 わたしは戦後早いうちに大三島へ帰ってきまして、昭和30年ころには大山祇神社へ奉仕していました。そこで、先代の宮司さんから、一人角力を復活させてみるかと言われて、適任者を探し始めたんです。瀬戸の一人角力という古い記録が残っていたものだから、瀬戸へも行ったんです。そこの総代さんに相談すると紹介してくれたのが甘崎に住んでいた元岡敬さんだったんです。元岡さんは当時の村相撲や宮相撲の行司をしていて、役者ごとも好きな人のようでした。その元岡さんも子供のころ、一人角力を見たことがあったそうです。その元岡さんに一人角力を取るように頼んだところ、承知してくれたんです。そのころ大三島町明日(あけび)の通称『荒さん』(藤原荒市さん)もいたので宮司さんに相談したところ、『古いのと新しいのとでしよう。』ということになったんです。それで、元岡さんには一番勝負の古い型、荒市さんには三番勝負の新しい型をしてもらうようにしたんです。古い型というのは、神社の御田植祭りのことを書いた何かに、腕の押し出し方と足の運び方の図があったように記憶しています。いずれにしても突いて押されてが中心の突き押し相撲の勝負だったように思います(*9)。新しい型は三番勝負というのは決まっていたけど、どんな型にするかというのは決まっていなかったんです。ただ、精霊と取るんだから畏怖(いふ)心を持って取り組もうということだったと思います。
 昭和30年代には、遠く東京都や仙台(せんだい)市などから招待を受けて行きました。ところが、舞台に上がると、一人角力に二人が出てきてどうするんだろうとかいう観客の声が聞こえるんです。だから、一人角力の古代と近代の型を見ていただきますと説明を入れると、なるほどなあと納得してもらったりしました。御田植祭や抜穂祭でも、宮司さんの指示で二人にしてもらいながら、古代の型、近代の型と説明したものです。
 一力山(いちりきざん)という四股名(しこな)(力士としての呼び名)は行司の藤原百千さんが付けたと思います。それは藤原荒市さんに付けたもので、それ以前には無かったと思います。元岡さんの一番勝負の時は、古代の型と説明は入れても、四股名は言わなかったです。」

 ウ 再度の復活

 **さん(越智郡大三島町大見 昭和36年生まれ 38歳)
 **さん(越智郡大三島町肥海 昭和47年生まれ 27歳)
 **さん(越智郡大三島町浦戸 昭和49年生まれ 25歳)
 この行事は、元岡氏が引退した後、藤原荒市氏一人による三番勝負の一人角力がずっと続いてきたが、その一力山の藤原荒市、行司の藤原百千両氏が高齢のため昭和59年(1984年)を最後に引退し途絶えていた。それを中学生が受け継ぎ、さらに今年(平成11年)になって青年によって再度復活した。復活にかかわった**さん、**さん、**さんに話を聞いた。

 (ア)中学生による復活

 「(**さん)わたしは平成3年から平成8年まで中学生の一人角力にかかわってきました。その間、行司の藤原百千さんからも教えられ、ビデオで勉強しながらの指導でした。平成2年、県の行事で、愛媛県地域生活文化研究発表会が県民文化会館で行われ、大三島町からは一人角力をはじめ、各地域の伝承芸能を出したんです。それが中学生に一人角力を取らせるきっかけでした。平成3年からは、大三島町教育委員会の協力で、毎年11月3日の文化の日に、中学生による『ふるさと伝承文化発表会』を始めたので、中学生で受け継いで発表してきたわけです。そして、平成6年には、宮司さんの承諾もあって、6月13日(旧暦5月5日)の御田植祭において、一人角力を10年ぶりに復活させたんです。大三島中学校の生徒会の役員が熱演し、続く抜穂祭(旧暦9月9日・写真2-3-15参照)にも、一人角力を奉納しました。地域の方々からは、誇るべき伝統行事が久しく途絶えていただけに、喝さいを浴びて本当に喜んでもらいました。そして昨年(平成10年)まで大三島中学校の生徒会役員が中心になって受け継ぎ、神事に組み込まれて奉納してきました。」

 (イ)青年による15年ぶりの復活

   a 力士と行司の誕生

 「(**さん)一人角力を町の行事としても復活させようという話は、昨年(平成10年)の秋口ころにありました。町長さんが発起人として音頭を取って、力士と行司を募集してみようということになったようです。わたしの家は代々神主ですし、一人角力も神事ですので、行司は神主の仕事の一つでもあり、何の抵抗もなく、せっかくの話だからしてみようという気持ちになったんです。」
 「(**さん)わたしは、大学を卒業後すぐふるさと大三島に帰ってきました。故郷に骨を埋めるつもりですから、どうせ島に帰ってきたんだから、何かしてみたいし、自分にできることならするべきだろうと思ったんです。一力山と行司の藤原百千さんがやめてから大人の一人角力を復活させるのは15年ぶりになります。」

   b 四股を踏み、形を身につける

 「(**さん)今年(平成11年)復活するに当たって苦労したのは、一人角力を、一人ではなく間違いなく稲の精霊と一力山の二人で角力を取っているらしく見せることの難しさでした。また、ワンパターンになって、見る者が退屈することのないように気を遣いましたが、これも苦労しました。一人角力の復活といっても、決まっているのは行司の口上と2勝1敗で精霊が勝つということだけです。それで、今までの一人角力のビデオテープを検討し、多くの方々の話に耳を傾けながら、お互いに意見を出し合って、どのようにするかを話し合いで決めてきました。
 練習は、大三島町のコミュニティセンター2階の会議室に、太い白い綱で土俵を作ってしました。本格的な練習は5月の10日前後から始めて、6月18日(旧暦5月5日)の本番に備えました。」
 「(**さん)最初はどうしていいか分からなかったけれど、まずは四股(しこ)を踏むことから始めました。その四股がなかなか踏めないんです。大相撲のビデオを見ながら練習してもなかなか形にならないんです。初めは1、2日でできると思っていたのですが、その四股を踏むことだけに何日もかかりました。
 次には相撲の形を作っていこうということでした。とにかく相手なしで一人で角力を取るわけですから、戸惑いました。時々、だれかに実際に相手になってもらって、仕切り、立ち会い、組み合うわけです。相手がいて、組み合った手の位置、投げの打ち合いで足が上がる、その上がり方、体の倒れ方、あるいは投げを打たれた瞬間にどうこらえるか等々いくらも形が出てくるわけです。組み合って、その状態で相手がのいた時、腰の位置は、手の構えはどんな形になっているのか、どこに力が入っているのか、それを一つ一つ体で覚えていったんです。」

   c 精霊と取り組む

 「(**さん)一人角力は中学生の時には、神事とはいえ、学校行事の一つだったわけです。今回は社会人であり、祭りとして、しかも神事に参加するということですから、どうしても神様を強く意識して取り組むことになりました。大三島の大山祇神社は格別に格式の高い神社ですし、地域に入ると、人々の意識の中に神様がいるわけです。大山祇神社は、神社そのものが神様なんです。その神事となると技を考えるときも、その基準は、これで神様に対して不敬になるかならないかということになるんです。それを考えながら、その動きや技を取り入れるか否かを決めました。それほど神様の存在を強く意識しました。そんな中で角力を取ることになるんですが、まず組み合った時の差し出した片手は、精霊の回しを持っているんです。そして反対側の手は一力山の回しに手を掛けていますが、それは、精霊が一力山の回しに手を掛けているのを表しているんです。したがって両手で一力山と精霊の二人を表現しているわけです。
 一力山が両手で自分の片方の足を持ち上げて片足で踏ん張っている時は、神様に両手で足をとられた形です。土俵際に詰まって、両手を自分の腰に回しながら伸び上がり、弓なりになって耐えている状態は、精霊に寄られたりつり出されようとするのを、必死でこらえている一力山の懸命な姿であり、それを体全体で表現し、両手は攻めている神様のものなのです。投げを打つのも、右手が自分の回しにあって右足が上がっているのは、神様が左から打つ投げに思わず足が上がったものです。左手が左の回しに掛かり、右足も右手も上に上がっているのは、一力山の右からの投げ、両回しを取った神様の左からの投げとお互いの投げの打ち合いの状態です。とにかく二人で角力を取る様子を、それらしくどのように表現するか、あれこれ話し合ったものです。」

 (ウ)行司の立場から

 「(**さん)動きのパターンは作ったから、それに合わせて動くように気を付けました。力士の動きに合わせて立つ位置を変えながら、次はこう動くというのを覚えていくんです。図に描いて正確に動くことはできませんが、動きの基本は、力士の前や後ろに行かない、できる限り力士の横にいて、それも斜め前に動くようにするということです。つまり、一力山の前には組み合っている精霊がいるわけですから、その二人の動きが一番よく見える位置に立つことです。
 角力に入る時、行司は一力山と一緒に土俵まで進んで、西土俵の外で正面の御桟敷殿に向かい一礼します(精霊は御桟敷殿を背に東、一力山は神饌田を背に西から土俵に入ることになる)。一力山は蹲居(そんきょ)(相撲で仕切りに入る前の、向かい合う姿勢)し、行司は立つたままで、軍配を胸の高さまで上げて
   『東西(とうざい)、ただ今より執(と)り行います角力神事は、古式により、稲の精霊と取り組む一人角力、一人角力
  にございます。』
と口上を述べます。その後、一力山は土俵の外で四股を踏み、力水(ちからみず)(力士が相撲を取る前に口に含んで力をつける水)をつけるまねをして、土俵に入り、塩をまくんです(今年から初めて実際に塩をまいた)。一力山が蹲居の姿勢を取ったところで、わたしも土俵の中に入り、『こなた精霊、精霊。片や一力山、一力山。』と取り組みを披露するんです。」

 (エ)三番勝負

 三番勝負について、力士役の**さんの話を要約してみた。

 〇 一番目
   一力山は仕切り線まで進み、「見合って、ハイッ。」との行司の声で立ち上がる。一力山が突き押しで出るが、突き戻さ
  れ、四つに組む。やがて左右の手を入れ替えて、組手を変える瞬間に体を入れ替えたり、土俵を回ったりして、静から動
  へ、また動から静へと変化をつける。次第に精霊に圧倒されていき、ついには青房(あおぶさ)(土俵の北東部)下へ押し出
  され、その力強さで、あおむけに倒される。行司は「勝負。」と言いつつ、さっと軍配を東の精霊に上げる。一力山は土俵
  の外で倒れるが、決まり手は押し出しだそうである。
 〇 二番目
   行司の「見合って、油断なく、ハイッ。」の声で勢いよく立ち上がる。一力山の左手は下手回(したてまわ)しへ、右手は
  高く上げて、精霊の肩越しにと意表をついた形をとるが、それでも結局は、精霊に押し込まれる。俵に足を掛けながら懸命
  にこらえた後で、精霊をやっとうっちゃって一力山が勝ちを拾う。
 〇 三番目
   三番目に入る前に一力山は、もう一度四股を踏み、力水をつけ、体調を整え、塩をつかんでさっとまく。その後、両手で
  顔をパッパッとたたいて気合を入れて蹲居(そんきょ)の姿勢を取ったところで、行司は「勝負にございます。」と観客にも
  披露し、最後の仕切りに入る。勢いよく立ち上がった瞬間、精霊の張り手に、顔がガクッと右を向く。それでも回しに掛け
  た手は離さず、ともにがっぷり四つに組む。差し手を組み替え、土俵際の投げにも耐えて、中央に寄り戻す。さらには押し
  合いとなり、左足を取られ、踏んばりこらえると今度は右足を取られ、それにも耐えて組み合うなど土俵狭しと動き回る。
  お互いにさまざまな技を競いつつ、最後は精霊と一力山がともに投げを打ち合って、一力山は左肩から落ちるように、投げ
  飛ばされて精霊の勝ちとなる。

 (オ)角力を取り終えて

 「(**さん)本番はやはり緊張しました。神事ですから、もし、たたられたらどうしようか、我々がしたことで、不作になったらどうしようなどと本当に思いました。伝統あるものを受け継ぐ、しかも神事との結びつきを考えると生半可な気持ちや、いいかげんな態度ではできないぞと本当に緊張しました。力を入れて角力を取るとか、何とかいうより、神様に対して、不敬に、失礼にならないようにと思うだけで必死でした。ただもう、全力で神様と向かい合っているという気分でした。一人角力だけど、実際に力いっぱい出し切ってしなければできません。不謹慎になりたくありませんし、ましてたたりは受けたくもありませんが、土俵に上がると、それさえ忘れて、全力で神様に向き合えるんです。
 練習の中でいろんな角力の型を体で覚えるように努めました。だから、ある程度、体が自然に動くまでにはなりましたが、一番一番が生のものですから、その度ごとに幾らかずつ違ってくるんです。でも、実際に取っているとその時の精霊とのかかわりで自然に体が動くんです。夢中だったです。三番を取り終えると、汗ぐっしょりになって、ぐったりするような疲れも覚えますが、力を出し切った後の心地よい疲労感と取り終えたという、ほっとした安堵(あんど)感でさわやかな気分にもなります。
 終わってからスーパーマーケットなどへちょっと買い物に出かけても、『お兄ちゃん頑張ったね。』『よくやってくれたね、50年頑張ってよ。』などと言われたりすると、こちらも嬉(うれ)しくなるし、頑張ろうという気になりますよ。」
 「(**さん)わたしは緊張というより、この勝負の間はものすごく気合が入っています。ですから土俵上へ一歩踏み出した時から、周囲の雑音はほとんど耳に入っていません。ひたすら角力と勝負に集中しています。その意味では、緊張しているのかもしれません。でも、やり遂げた後は、すうっと力が抜けるような安らぎがあっていいものです。」


*9:山上伊豆母氏は、『風俗』第2巻第4号の中で「古い型と目される一番勝負の順序は、四股を踏む・水を飲む・塩をま
  く・行司口上・土俵上に三歩出て天を見上ぐ・半歩下がる・仕切り・立って突き押しの構えを見せながらじりじり左へ回る
  (土俵三周)・足をとられ・押し倒される」と記している。

写真2-3-15 抜穂祭で新穀を供える乙女たち

写真2-3-15 抜穂祭で新穀を供える乙女たち

中央の御桟敷殿には神輿が出御している。平成11年10月撮影