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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)笹と竹鈴に祈りを込めて

 **さん(川之江市金田町 大正15年生まれ 73歳)
 川之江(かわのえ)市は愛媛県東端に位置し、古くから海陸交通の要衝として栄えてきた。昭和29年(1954年)に川之江・金生(きんせい)・上分(かみぶん)3町と、金田(かなだ)・川滝(かわたき)・妻鳥(めんどり)3村が合併して市制をしき、近年は「紙のまち川之江」として隣接地の伊予三島(いよみしま)市とともに、全国有数の紙の産地となっている。また、伝統工芸品である水引(みずひき)(*10)細工の産地としても有名である(⑩)。
 同市金田町金川(かなかわ)の大西神社(写真2-2-27参照)に伝わる奉納踊りは、轟(とどろき)城(城跡は現川之江市金田町)の城主であった大西備中守元武父子の霊を慰めるために始められたものであり、昭和59年(1984年)に市の無形民俗文化財に指定されている。

 ア 奉納踊りの復活

 現在、伝承文化芸能保存会の会長をしている**さんに話を聞いた。
 「奉納踊りは、大西軍記によると、天正5年(1577年)に土佐を本拠とする戦国大名長宗我部によって非業の最期を遂げた大西備中守元武、小次郎父子の霊を慰めるために始まったといわれていますが、その由来に基づいて大踊り、小踊り、笹(ささ)踊りの三つの踊りができたと聞いています。
 大踊りと小踊りは西金川の氏子によって約300年前から奉納されており、平素、氏子が大西神社に願をかけるとき、『願いがかなえば踊りを踊ってあげます。』と言ってお祈りをし、願解(がんほど)きとして踊っていたようです。小踊りは5月4日の夕刻6時ころ、大踊りは5月5日の朝6時ころに、昔の通夜殿(つやでん)(神社・仏閣に参ろうして終夜祈願する建物)を芝居小屋にして奉納されていたようです。
 笹踊りは東金川の氏子によって巫女(みこ)(神社に属し、神楽を舞ったり神事に奉仕して神職を補佐する女性)姿にササを手に持って踊っていたと伝えられています。これらの奉納踊りはいずれも明治時代の初めころまでは続いていたようですが、その後中断していたので、わたしたちはお宮の氏子さんたちが踊りを奉納しているのを見たことがありません。しかし、太平洋戦争直後のわたしが20歳代のころは、この金田村にも150名ほどの青年団員がおり、有志による芝居を奉納していました。当時は各種の狂言など本格的な芝居を下金川と東金川地区の青年が一年交代で奉納していました。昔は親子二代が同居していた農家が多く、団員が大勢いましたが、現在は地元工場での勤務も3交代制になり練習が難しくなってきたので団員による芝居は中止になったようです。その団員が不足してからの芝居は、雇い役者による芝居になり、現在も続いています。
 昭和33年(1958年)に奉納踊りの復活の話が持ち上がり、NHKの取材や撮影の折には西金川の婦人部が踊り、古老が歌詞を頼りに何とか覚えていた曲をうたったようです。明治20年(1887年)ころの記録として、氏子さんのお宅に歌詞が残っていました。その方たちがNHKの取材の折にうたっているんです。その時の踊りの振りなども断片的に分かっていたものをたどったお陰で、何とか踊りを公演することができたのではないでしょうか。またその後、当時の公民館長らが奉納踊りの復活を住民に持ち掛けましたが、運営や経費などの面で宮総代会で反対され、そのままになっていました。その後生活も安定し、少しゆとりもできてきたのでしょうか、昭和54年(1979年)には金田町の青年団有志によって踊りが復活され、大西神社の例大祭に奉納されてきました。しかし、昭和62年には団員不足でまた中断しています。ただ、その当時のビデオテープが残っていたお陰で、踊りの振り付けを地元の舞踊の専門家にお願いし、その後子供の指導をしてもらっていました。しかし、その方がもう高齢なので後継者がいるかどうかを一番心配していましたが、今年(平成11年)の川之江市郷土芸能祭から、婦人ともしび会の方たちに、踊りの指導をしていただくことになりました。昭和50年代の青年団有志が踊っていたころの、当時一番若かった子たちが、38歳ほどの母親になっており、現在はその子供たちが小学生として踊りに参加してくれています。その母親たちに街で会っても、『おじちゃん。』と声を掛けてくれるのはうれしいものです。踊りの練習は祭りの前のほんの4、5日ですが、同じ目的をもって練習したことがお互いの思い出になっており、わたしにとっては財産なんです。
 踊りの継承については宮総代をしていたころに、わたしなりに考えたんです。従来のように大人がすれば何度も中断していますので、公民館で運営の骨子を作って小学校に協力をお願いしようと考えたんです。たまたま、青年団が活発に踊りを奉納していたころの昭和59年に市の無形民俗文化財に指定されているので、何とか続けていってはどうかと相談したところ、当時の宮総代会や地域の皆さんの要請もあり、平成4年に地区公民館活動の一環として伝承文化芸能保存会を発足させて、会を運営していくことになったんです。この伝承文化芸能保存会の会長は、金田公民館の館長が務めることになっています。この金田地区は金川と半田に分かれていて、公民館長は交互に選出されています。現在、館長は半田地区から出ていますが、金川にある大西神社の伝統芸能だけに、わたしが前公民館長の立場で世話をしています。運営に関しては、市の社会福祉協議会や大西神社などからの補助もあるので、予算面では心配はなくなりました。それと踊りの高価な衣装も神社の方で一括購入してもらいました。男子の衣装は、裃(かみしも)ですから調達は簡単だったのですが、女子の衣装は特殊なものですから京都であつらえました。
 保存会結成後、地元の川之江市立南小学校に最初に参加者を募ったところ、わずかに3人でした。しかし、わたしが対象児童のいる家庭を戸別に回って勧誘すると20名前後がすぐに集まりました。それ以後は順調に人数の確保ができており、なかには小学校4、5、6年生と続けて踊ってくれる子もいます。踊りに参加してくれた子供たちには、神社を背景に記念写真を撮り全員に配付しています。また、その写真を大きく引き延ばして額に入れ、神社の拝殿に掲げています。」

 イ 奉納踊りの内容

 「大西神社の拝殿前の石段を6段下りた広場の奥に芝居小屋があり、向かって左側の側面に花道が設けられています。間口が6間(1間は1.8m)、奥行が3間半の舞台で、この地に移築する前は通夜殿であったといわれています。最近の5月4日の祭礼には、三つの踊りのうち、笹踊りと小踊りだけを奉納し、そのあと雇い役者による奉納芝居が上演されます。祭りの当日には芝居小屋の前に仮設テントを張って椅子(いす)を並べます。見物人は例年300名ほど集まり、出店も10店ほど出てなかなかのにぎわいです。また、祭り当日の神社への寄付者は刻々とその場の掲示板に氏名が張り出されます。今年(平成11年)は雨にたたられましたが、それでも例年並みの人出がありました。
 大踊りの踊り手は大人の男子7人が烏帽子(えぼし)に裃姿で踊っていました。そのうちの5人が扇子を持ち、二人が太鼓を首に掛けてたたきながら輪になり、輪を大きくしたり小さくしたりして踊り、歌い手は舞台の横に座ってうたっていました。しかし、現在はこの大踊りは踊っていません。小踊りの踊り手も7人ですが、11歳から12歳の女の子が受け持ちます。巫女(みこ)姿で、竹鈴(竹の筒に小石を入れたもの)を持って踊ります。歌い手は重(おも)太夫といって男の子7人が担当します。真ん中の一人が太鼓をたたき、左右の6人が歌います。小踊りには、音の唄(うた)、小鼓の唄、きりぎりすの唄の三つがあります。きりぎりすの唄の歌詞は次のとおりです。

   ぼんさしのすむきりぎりす ぼんさしのすむきりぎりす
   はた織るぼうずははたのきりぎりす 羽根のおどしはおもしろや

 笹踊りは金田町東金川の氏子によって200年くらい前から奉納されてきました。その後、中断していたものを復活し、現在は小踊りとともに踊っています。踊りは女の子が巫女(みこ)姿でササを手に持って踊ります。
 大西備中守親子の命日にあたる旧暦7月9、10日に夏祭りとして輪越(わごし)なども行ってきましたが、わたしが宮総代を務めていた平成の初めころに皆と相談して、祭りの日を旧暦から新暦に変えたのです。その理由は、旧暦の7月中旬といえば新暦では8月末ころになり、夏はもう終わってしまうではないかという氏子の意見を取り入れて決めたように思います。新暦の7月9、10日の夏祭り(輪越祭り)は、各人が自分の干支、年齢、性別を記した紙の人形を持って参拝し、神主の祈禱、お祓(はら)いを受けて、家族の安全や病気平癒を祈願します。
 笹踊りの歌詞の内容は次のとおりで、昔の金川村の気候、風土などがよく表現されています。

   阿波が恋しや元武様よ 松の小枝も阿波に向くよ
   金川あらせが坂下吹けば 私しゃ稲刈りゃやめにしょう
   金川あらせが明六つ吹けば 沖の白帆が動き出すよ
   金川あらせが暮六つ吹けば 浴衣へぐれて乙女泣くよ
   法皇山(ほうおうざん)にたなびく雲は 雨が降るとの知らせかや

 境内には2、3軒の屋台が出る程度ですが、涼みがてらに家族で参拝する人もあり、結構にぎわいます。」


*10:進物用の包み紙などを結ぶのに用いる紙糸。細いこよりに水糊(のり)を引いて乾かし固めたもの。

写真2-2-27 大西神社境内

写真2-2-27 大西神社境内

平成11年5月撮影