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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)海上に継獅子が立つ

 九王(くおう)は越智郡大西町の北部の地で、斎灘(いつきなだ)に面し、九王・鴨池(かもいけ)の両海岸などの長い海岸線を持つ。このうち、九王海岸は高縄(たかなわ)半島の西岸に位置し、大きく西方に突出する宮崎半島と鳶鴉(とびからす)山との間にある波静かな深い入り江である。その北部と南部は急傾斜の岩石海岸であるが、中央部は約1kmにわたる砂浜で、付近には集落が密集している。その西端の龍神ヶ鼻(りゅうじんがはな)に龍(りゅう)神社(写真2-1-18参照)があり、また集落の東方にある丘陵上には富山(とみやま)八幡神社がある。龍神社は江戸時代には、松山藩の雨乞いの祈禱所として、近郷住民の信仰を集めてきたといわれ、また富山八幡神社は九王地区の氏神である。この両神社の祭礼の練りにおいて、船上の継獅子(つぎじし)が演じられる。継獅子とは獅子舞のうち、とくに今治市、越智郡などで広く発達し演じられる曲芸的な立ち芸のことである(⑫)。
 **さん(越智郡大西町九王 昭和6年生まれ 68歳)
 **さん(越智郡大西町九王 昭和24年生まれ 50歳)
 **さん(越智郡大西町九王 昭和46年生まれ 28歳)

 ア 神輿の舟渡御と船上獅子舞

 (ア)九王の龍神社の祭礼

 龍神社と富山八幡神社の祭日は、もとは旧暦の9月7日で、昭和7年(1932年)から5月20、21日となり、町村合併による祭日の統合で昭和40年(1965年)から5月19、20日となった。近年は5月の第3日曜日となっている。ちなみに今年(平成11年)は5月16日であった。
 「この祭には、奴(やっこ)、櫓(やぐら)、お箱が獅子とともに神輿の渡御に供奉(ぐぶ)する(⑬)。」あるいは、「古くは大名行列風の奴が出たり、太鼓や牛鬼が出たが、大正初年以来中絶したという(⑭)。」と報告されているが、現在は獅子のみが供奉している。このうちの奴の道具が存在していたことを、**さんと**さんが記憶している。**さんは、獅子にはシシコ(獅子子)から途切れなくかかわり、24歳での頭取を最後に昭和30年に引退し、現在は神社総代の一人である。**さんは、昭和43年に18歳で獅子連(獅子連中のこと、以下「獅子連」とする)に入ってから26年間在籍し、その間十数年間は獅子連長を務め、人不足で消滅の危機の時代を支えて今日の活性化の基礎を築いた。**さんは奴の道具について回想し、次のように語った。
 「今でこそコシグラ(神輿庫)の場所が変わったけど、祭りの道具類はそれまでは昔の庄屋の家(村瀬家)に預かってもらっていました。当時その家には村瀬家の分家が住んでたが、その方に預かってもらっていました。だから、そこのコシグラ、シシグラ(獅子庫)に奴道具などがあったのをわたしらは見ました。しかし、何分古いんで使えないし、虫が入っていました。だから、新しいコシグラ・シシグラができた時分に処分したと思います。」
 **さんが相づちを打って語る。「奴道具もありました。屋号は新家(しんや)というところでした。」
 櫓については、現役の獅子連の世話人の一人である**さんが次のように解説した。
 「ここ(大西町)では宮脇に残ってるだけです。1間角の台の真ん中に太鼓を乗せて、子供が2、3人座ってたたいて歩くくらいのもんです。」
 現在の九王には、櫓の現物はもちろんなく、3人の話者も記憶にないという。
 現在、コシグラ・シシグラは九王集会所の隣に併設されていて、道具類が収納されている。また、その脇には船小屋が併設され、シシブネ(獅子舟)及び神輿を乗せる舟であるミコシブネ(神輿舟)が納められているが、いずれもコウロク(地区の無償奉仕作業)で建てられたという。また、龍神社の社殿は、旧社殿が平成3年9月26日の第19号台風によってことごとく流失したので、2年がかりで再建されたものである。

 (イ)神輿舟と獅子舟

 神輿の海上渡御に供奉してシシブネが出る。その舟の上で華麗な継獅子が演じられる。これが九王の獅子舞の最大の特徴である。
 **さんと**さんが、ミコシブネについて次のように語った。
 「(**さん)昔は、九王の人が持っているタコ舟を借りて組んでいました。20尺くらい(約6m)の伝馬船(てんません)(*30)のことで、櫓(ろ)で手漕ぎするものです。しかし、今は安全性を重視するから、その船はもうなくなりました。昔のはこんまい(小さい)伝馬船で、危なかったんです。」
 「(**さん)ミコシブネは上に座板を張りませんでした。3寸(1寸は約3cm)か3寸5分(1分は1寸の10分の1)角の神輿の長柄(ながえ)(輿などの台の下に平行に添えた長い棒)を2本、2杯の舟にわたしてロープでくくってました。それだけの簡素なものでした。」
 現在使っているものは、6、7年前に作った、3杯の舟をくくったものであるという。このミコシブネには、四周に斎竹(いみだけ)を立て、しめ縄を張る。
 シシブネについては次のような調査報告がある。
 「シシブネは、漁船二隻をもやって(つないで)四周に斎竹を立て、シメナワを張る。舟はくくりつけてある。八分板を並べ舟ばり(丸太)三本入れてくくりつけ、その上に板を張ってむしろを敷く。十四畳くらいの広さになる。(⑬)」
 この報告について、**さんが自分の経験を次のように語った。
 「丸太ではなく、3寸か3寸5分の角材の上に座板を張ってむしろを敷く。昔は荒縄で1枚ずつその座板を締めていきました。角材は神輿の長柄で、昔からのが何本もコシグラに置いてあるので、それを利用して使ってたわけです。2分角の角材で高さを調節する。最初、2本の長柄をボーンと入れといて、その間にパッパーと適当に板を入れ、くぎを全然打たずに板を並べる。そうしたら、しまうのもしまいやすい。」
 現在使われているシシブネには、神社紋と「龍神社・富山八幡神社、九王獅子連中」の文字が染め抜かれた2本の幟(のぼり)が立ててある。

 (ウ)神幸

 午前8時30分ころ龍神社から神輿3体が宮出しされ、与市(よいち)が浦から海上渡御となる。シシブネはミコシブネを先導するが、やがて海岸線に沿って移動し、波打ち際から10m余りの地点に錨(いかり)を打ち停船する。その間、ミコシブネは引き舟にひかれて、シシブネよりはるか沖を回り、やがてシシブネの隣にとめる。また、神主や神社総代の一行が乗った舟はシシブネとミコシブネの間を縫った形で動き、やはりシシブネのそばに寄る。9時30分ころから船上で勇壮華麗な継獅子が演じられる(口絵参照)。
 演技が終わると、シシブネを先頭に舟々は海岸線に沿って進み、九王の原山(はらやま)に一行は上陸する。午前10時過ぎに九王海岸に沿う狭い道を通って九王の地蔵堂に至る。この道はかつての波止浜(はしはま)街道の一部である。今はもう見ることができないが、昭和40年代までは立派な松並木が残っていたという(⑮)。地蔵堂はお旅所である。ここでは祝詞があげられ、獅子は「場づかい」をする。11時前後に神輿は手前にある裏参道を通って富山八幡神社に上がり、向こう側にある表参道から下りる。獅子はこの神輿を出迎えに行き(コシムカエという)、社号石(神社名を刻んだ石)のところで場づかいをする。また、旧県道のお旅石(社号石の下(しも)にある)から上(かみ)の方向(北方にある波方(なみかた)町小部(おうべ))を向いて道中芸をしながら移動する。今は、場所が狭いので場所を変更し、県道(大西・波止浜港線)で行っている。
 それが済むと、獅子は神輿を先導して旧県道を旧庄屋の屋敷前まで戻る。今その屋敷跡には塀の一部が残っている(写真2-1-20参照)。この旧庄屋の屋敷前で獅子は場づかいをし、サカムカエをして、午後0時30分ころ、「打ち上げ」すなわち獅子の芸が終了となる。
 **さんが記憶をたどって語った。
 「ほうや(そうだ)、お庄屋の門前のとこ(所)まで行ってました。昭和43年(1968年)にわたしが獅子をしたときには、サカムカエはやんで(やめて)いたけど、子供のとき、昭和35、6年ころまではしていたのを確かに見ました。お庄屋に至るまでの間には、昔青年会場があって、昭和40年ころから、お庄屋の門前まで行かずに、その青年会場前まで行くようになった。」昭和40年前後に、この場づかいやサカムカエが中止になったらしい。サカムカエの内容については、次のような報告がなされている。
 「サカムカエは旧庄屋で行われた。どんぶり鉢ヘハシを五、六本入れて、むしろの上へ出す。酒のさかなをそろえて、そこそこへころげる(ころがる)まで酒を飲ました(⑬)。」
 この後、神輿3体は九王地区の各地域を練り、午後6時過ぎに陸路を通って龍神社へ宮入りをする。最近では神輿の練りは古くからの集落以外に、新しい住宅団地にも広げてきているようである。このことについて**さんと**さんは次のように語った。
 「(**さん)宮入りするのは神輿だけで、獅子はお庄屋の前で場づかいをしてそれでおしまい。終わると、祝儀を空けて(獅子への寄付を分配して)祝い酒を一杯飲んで、それから神輿をかきに行くんです。年分(としぶん)(年配)の人は家に帰ってお客さんの相手をする。今は、神輿をかく人がいないので、神輿の来るそばの家々に、半強制的な形で、人を出してもらってかくようにしている。」
 「(**さん)今年は九王団地で呼んでいただいたので、午後1時前後に、九王団地集会所前で獅子をしました。」
 「(**さん)一応獅子は、昭和45年くらいまではコシムカエをして終わっていたわけです。だけど、わたしが中心でしていたときに、新しくできた九王団地や若狭(わかさ)団地では見に行けない人がいるので、『来てやってくれんかろか(やってくれまいか)』と言われて、それから行き出したわけです。それまでは絶対よそへは行かんかったんです。一応打ち上げたんだから、昔は絶対太鼓を鳴らさなかったんです。しかし、時代の流れとともに、今はそういう風な仕方をするんです。」

 イ 多彩な獅子つかい

 (ア)獅子つかい

 獅子は神輿の悪魔払いの役である。獅子つかいの基本には「曲(きょく)」と「練る」の二つがあるという。曲は獅子頭を上下動させる使い方であり、練るは獅子頭を左右に動かしながら足を前にけ上げ、跳び舞うつかい方であって特に基本とされている。以下、祭りにおける獅子つかいについて、森正史氏の報告論文(⑭)を参考にし、話者3人の話を要約整理する。

 ① つかいこみ
   獅子の胴幕であるユタン(油単)の周囲を数大で持ち、太鼓が鳴ると同時に獅子つかいたちが神前に向かって走り込む。
  本殿に上がる石段のところで、トンと太鼓の音がすると2度上がり下がりし、2度目に下がると獅子の腹を返す。神輿に神
  霊(しんれい)移しをしているときに獅子は出る。ユタンを広げ、獅子連の10人から15人が中に入る。以前は社殿の前を2
  周していたようだが、今は社殿の前で獅子頭を振るようである。
 ② 宮出し
   「テンテコテン テンテコテン」の太鼓の音に合わせて、宮出しのときの獅子つかいをする。ユタンの中で獅子つかいた
  ちは順々に左から回りつつ、獅子の動きを切らない(途切らさない)ように頭つかいが替わっていく。獅子の宮出しは、お
  宮からしめ石(社殿の前にあってしめ縄を張る石)の外までで止める。
 ③ 道中芸
   獅子は神輿の海上渡御の先導となる。露払いをしながら進むが、神輿が鳥居を出ると鳴り物はスリガネに変わる。といっ
  ても、鉦(かね)を使うのではなくて太鼓を使う。お旅所までの道中芸には、船上の場合と下船後のお旅所までの道中の場合
  とがある。演技の流れは次のようである。
   1 練る
   2 ダイバ(提婆)
     天狗(てんぐ)面を着け、笹(ささ)と刀の採り物で悪魔払いをする。
   3 立ち芸
     二継ぎ、三継ぎ、四継ぎなどをする(口絵参照)。
   4 もちつき
     二人の少年が獅子にまたがり、一人がきねでもちつきの所作をし、一人がもみ手をする。これを縁起もちという。
    もちを観衆に投げる。
      (以上が獅子舟での演目である。)
   5 スリガネ(三番叟(さんばそう))
     二人の少年が若者の肩の上に立ち、三番叟を踏む。
   6 立ち芸
     二継ぎをお旅所まで2回する。
   7 オヤス
     お多福面を着けた少年がユタンの穴から首を出す。
       (以上は上陸してからお旅所までの道中芸である。)
 ④ 場づかい
   特定の場所での獅子つかいを場づかいという。お旅所である地蔵堂での場づかいでは、立ち芸として二継ぎ、三継ぎ、四
  継ぎをする。四継ぎは大変難しいので、場づかいでは一度しかしない。場づかいでの演技に全部参加したことがあるという
  **さんが、次のように演技の流れを整理する。
   1 練る  2 ダイバ  3 練る  4 曲
   5 マエギ
     獅子頭持ちとユタン持ちの大人二人で演じる。別に脇差(わきざし)(*31)と御幣を渡す役の付添いがつく。獅子は脇
    差をくわえて、頭を上から下へ振る。脇差を後ろのユタン持ちに渡す。次に付添いが御幣を渡す。獅子は頭を振り、最
    後には御幣をくわえて振る。
   6 二継ぎ  7 オヤス  8 練る
   9 キツネ
     キツネ面を着けた少年が種々の曲芸をする。
   10 練る  11 三継ぎ  12 練る  13 四継ぎ  14 練る  15 五継ぎ
   16 コロゲ
     獅子に火吹き男がからまり、獅子を驚かして組み打ちをする。
   「練るが演技の途中にあるのは、次の芸に行くときの流れ、芸の流れをスムーズにするためのつなぎの獅子づかいであ
  る。途中でお花(獅子への寄付)を披露するのもこの練るで行う。」
 ⑤ コシムカエの道中芸
   1 練る  2 曲  3 二継ぎ  4 オヤス  5 練る

 以上で、「打ち上げ」となり、獅子の芸は終了となる。このうち、五(いつ)継ぎについて、**さんから「昔は五継ぎもしていた、二頭立てて。」と切り出すと、**さんが次のように語った。
 「昭和何年までかは知らないが、この**さんがしてたころは五継ぎも舟とお旅所でしていました。これはある程度人数がそろわなかったらできません。わたしらが獅子連にいたときに一遍、怪我して入院した人がでた。冗談抜きでそれはもう大変でした。獅子が崩れたとき、子供は下で受け止めることができるけど、大人はよう受け止められませんからね。」
 さらに、**さんが「昔は六(む)継ぎをしたことがある。」と言うと、**さんは「ワーワー言いながら練習しているときに挑戦したが、まともには立たなかった。」と応じた。

 (イ)継獅子の構成と獅子連

 四継ぎ獅子は総勢9名でする(写真2-1-23参照)。一番下はダイ(台)といい、若者が肩組みして固める。ダイの上に乗るものをナカダイ(中台)といい、肩の上に立つ。その上をコウツカイ(子使い)といい、やはりナカダイの肩の上に立つ。その上にシシコ(獅子子)という獅子頭をかぶった少年が立つが、コウツカイがそれを支えて操る(⑭)。
 五継ぎの場合は、一番下がダイ、その上がナカダイで肩車になって座る。その上もナカダイといい、やはり肩車で座る。その上にコウツカイが立ち、一番上にシシコが乗る。三継ぎの場合はダイ、コウツカイ、シシコの構成である(⑭)。
 獅子連とは青年たちによる祭礼奉仕団で、昔の若者組の伝統につながっている。かつては年齢階梯(かいてい)制があり、15歳で加入し、25歳になるかあるいは妻帯すれば脱退する規定であった(⑬⑭⑮)。**さんが獅子連在籍当時のことを次のように語った。
 「獅子連には小学校6年生のときから入った。子役のときから途中辞めることはなしにずうっと入っていました。まずキツネをして、後はずうっとナカダイをしました。だから、わしの肩へは大分の者が立ってるんです。それでこなに(このように)背丈が仲びなんだんです。25歳くらいで頭取になって、その年に結婚して卒業したんです。昔は若い衆が大勢おりましたから、継獅子連に入るには競争率が非常に激しい時代でした。それで小若(こわか)い衆(しゅ)の親の中には我が子のために、役者どりする人(役を決める人)に頼みにいった人もおりました。」
 **さんが獅子連に加入した昭和43年(1968年)には、旧来の組織は壊滅状態であったという。その当時の様子を、**さんが語った。
 「わたしが入ったのは昭和43年で、それまでは高校出て皆獅子連に入り、数えの24歳で引退すると聞いていたけれど、そういうことはもうやめようというときでした。その年は、24、5歳までの現役は5、6人でした。それで、年分(年配)の人や引退した人に協力を求めなかったら、もう獅子連は自然に消滅するから、九王地区ではもう年齢には関係なく行おうとしていた時期でした。すでに昭和40年ころから、引退した人に手伝ってもらっていたわけです。」
 場づかいの5番目の演目にマエギがある(写真2-1-24参照)。このマエギを振る(演じる)のは、獅子連の主役である獅子連長の役であり、それをしおおせる(成し遂げる)と獅子連長を引退して「神輿守り」の頭取になる慣習があった(⑬)という。現役獅子連の世話人である**さんによると、マエギを振るのは今も獅子連長の役とのことである。**さんは獅子連の運営についての苦労を次のように語った。
 「マエギを振るのは、昭和45年までは獅子連長の役という、ならわしでした。翌年、新しく獅子連長になった人から代りを頼まれ、それからわたしが10年くらいずっとマエギを振ったんです。しんどいから代わってするとか、立ち芸を続けてはできないから代わるとか、昔みたいに人が大勢おったら一人に一つずつの役を与えることができたけど、次第に人がいなくなり、一人がいろんな役をしなければいかんようになったんです。獅子を絶やさんように、わたしもいろいろ考えてしたことでね、なにもわざと変えたわけでもないんです。今、九王には、亥の子組(子供の組)はあるが、若連中(青年団)はなくなって、かつてのような獅子連の組織はないんです。若い者がいたら勧誘して、『してください。』あるいは『助けてください。』と言ってしてもらっている。それくらい人がいないんです。」
 こうして時代の激しい変化のなかで、地区の人々の支持と熱意を背景に、青年たちは苦境をしのいで現在の獅子連につなぎ、今日この伝統芸である九王の継獅子を演じているのである。


*30:荷物などを運送する甲板のない木製の小船、はしけともいう。
*31:江戸時代、武士が腰に差した大小両刀のうちの小刀。

写真2-1-18 大西町九王の龍神社

写真2-1-18 大西町九王の龍神社

平成11年5月撮影

写真2-1-20 旧庄屋の屋敷跡

写真2-1-20 旧庄屋の屋敷跡

残る土塀に面影がしのばれる。後方の山頂に富山八幡神社の社殿がある。平成11年12月撮影

写真2-1-23 見事な四継ぎ獅子 

写真2-1-23 見事な四継ぎ獅子 

大西町九王団地集会所の前にて。平成11年5月撮影

写真2-1-24 マエギを振る

写真2-1-24 マエギを振る

九王地蔵堂の前にて。平成11年5月撮影