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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)春を呼ぶ大三島の神楽

 瀬戸内海のほぼ中央にある芸予諸島の中で、最も大きい島が大三島である。北は広島県竹原(たけはら)市、西は広島県の大崎上島(おおさきかみじま)、南は愛媛県の大島、東は広島県の生口(いくち)島と愛媛県の伯方(はかた)島である。島の東半分が越智郡上浦(かみうら)町、西半分は越智郡大三島町である。この芸予諸島を縫って、平成11年5月、「しまなみ海道」が開通した。この海道の中心部大三島町には、互いに隣接する明日(あけび)地区と大見(おおみ)地区とに神楽が伝存している。これは「大三島の神楽」と称され、昭和43年(1968年)に愛媛県の無形文化財に指定され、昭和52年には愛媛県の無形民俗文化財に指定替えとなった。出雲流の採り物神楽の系統に属する(②)。

 ア 神楽を舞うて半世紀

 **さん(越智郡大三島町明日 大正12年生まれ 76歳)

 (ア)明日の「おみとびらき」

 明日の神楽には、10年に一度行われる大(おお)神楽と毎年行われる小(こ)神楽がある。大神楽は昭和12年(1937年)を最後に廃絶し、現在は「おみとびらき」と称する小神楽のみが行われている。現行の小神楽は「ごしんたく」「岩戸開き」「神迎(かみむかい)」の3曲を主としている(③)。
 かつての明日の神楽については、明日の元八幡(はちまん)神社宮司であった川崎弘美氏が、昭和41年(1966年)12月の段階のものとして次のように記録している。
 「氏子中が願主となって大体10年目ごとに、それも吉凶があった年を機会に、神主並びに舞太夫(まいだゆう)(神楽の舞人)十数名によって行われる大神楽に限って、社頭(しゃとう)(社殿またはその付近)で行われずに神楽屋敷と呼ばれた神主の屋敷内の広場で行われた。そうしてこの大神楽が奉納されない年、すなわち、毎年は『御美戸開(おみとびらき)』と称して新春を祝福し、その年の五穀豊穣(ほうじょう)と氏子安全を祈念する小神楽が、旧正月4日の部落初総会で日程が決められ、月のうちに社頭で行うことを年中行事としている。(中略)その初総会ではまず神楽のことが議せられた後に他の議事に移る慣(なら)わしであったのも、神事を先にする古制の名残として面白い。(中略)この『おみとびらき』は規模が小さく、舞太夫数人によって祓(はら)いの意義をもつ数曲が舞われてから、神主によって開扉(かいひ)(本殿のとびらを開ける)せられ、祝詞(のりと)(祭りの儀式で神に唱える言葉)奏上の後、氏子の依頼による神札(かみふだ)(守り社)が都度(そのたびごと)神前に供せられ、一曲舞われると舞太夫はその神札を中啓(ちゅうけい)(*3)にいただき、再び舞い納めて、『ゆらゆらと神舞い上がる松の葉の二葉の松の雲にそうまで』の神歌(かみうた)(*4)を唱和祝福してから、願主に授与せられるが、この神札をうけることを『ゴシンタクを受ける』と称するところに、神降(おろ)しをして神託をきく神楽の本質が言語の上に保たれていて意義が深い。(④)」
 神楽が現在どのように行われているか、長年舞太夫を務めてきた**さんが語る。
 「昔は明日の総会は12月末と正月と2回していたが、今は一遍になりました。12月末の総会でお神楽の日取りを決めるんです。まあ大体は神主さんの都合と舞太夫の関係によりますが、旧正月過ぎての日曜日ですね。会場は八幡神社の拝殿で、準備としてはお宮の掃除を氏子総代が行います。支度としては、舞太夫が、当日の朝8時ころから昼にかけて身を清めて宮司の家に集まり、神札、御幣(ごへい)とボンデンを作ります(写真2-1-1参照)。神札は明日地区の全戸数分で100体、御幣は120本くらい作ります。御幣の余分の20本は他の土地に住んでいる子供の分までもらいに来る人のためです。舞ったら、御幣は願主に渡します。以前は御幣は渡していなかったんです。でも、残してももったいないから、10年前くらいからあげるようになったんです。ボンデンは1本作ります。これも希望する人がおったら(いたら)あげます。体が弱い者がおるけんくれ(おるからください)とか言うたらあげるんです。」
 祭礼の当日、午前中は諸準備が行われ、午後1時から「おみとびらき」が始まる。以下、**さんの話を基にその流れを整理すると次のようになる。
 神札と供物はあらかじめ神前に供えられる。①修祓(しゅうふつ)(お祓(はら)いをすること)、②神饌(しんせん)(神に供える飲食物)の献上、③宮司が本殿の扉を開ける、④祝詞の奏上、⑤「露はらい」を舞う(「神迎」か「二天」を舞太夫の長が舞う(③))、⑥御初穂料(おはつほりょう)(神仏に寄付する金銭、米穀)を供える、⑦「ごしんたく」を舞う、⑧舞太夫は神札と供物を扇で受け、「ゆらゆらと神舞い上がる松の葉の二葉の松の雲にそうまで(④)」と口上を唱える、⑨舞太夫が氏子の願主に神札と供物を授ける。
 このうち、口上の和歌は、神楽本(明日八幡神社宮司川崎家所蔵、「しょうぎょう」という)の目録で「異国(本文では『異国之次第』)」と題する詞章(ししょう)(能など演劇的作品の文章)の一つとして記されているものである。

 (イ)舞うて舞うて半世紀

 **さんは、神楽を舞い続けて50年に当たるということで、平成8年には感謝状を受けている。その思い出を語ってもらった。
 「初めてお神楽を舞ったのは昭和24年(1949年)正月です。それから今まで休みなしです。昭和21年の秋に復員して、昭和22、23年は舞いませんでした。終戦(太平洋戦争終戦)までは昭和20年5月に死亡したおやじが舞っていました。わたしは現在94歳になる小笠原光次郎さんらと一緒に習い始め、舞いました。ところが、昭和30年ころ、こんなばかげたことできるかいというんで一度はほとんどの者がやめたんです。その後再び、わたしと従兄弟(いとこ)など3人で舞っていましたが、今から20年くらい前に3人くらいで舞っていたのではいかんけに(いけないから)舞太夫を増やそうやないかということで、勧誘して現在の数になったんです。」
 平成11年現在、舞太夫は、**さんが最年長で、52歳が4人(うち1人は太鼓)、48歳1人、47歳1人で、数は少ないが一応しっかりした組織になっている。舞太夫は元々神道の信者がすることになっていたが、現在は明日の住民、八幡神社の氏子であればよいことになっているという。
 明日の神楽の芸態と衣装について、**さんに語ってもらった。
 「神迎と露はらいは大体同じ舞です。露はらいは一人で舞うんです。もう20年くらい前に前任者が亡くなってからわたしがずうっと舞ってきました。鬼の面ともいう鼻長面(はなながめん)を着け、頭には毛かぶと(荒い毛をあしらったかぶり物)を着けます。衣装は千早(ちはや)(*5)に陣羽織(じんばおり)、たすき掛けで白足袋を履きます。手には本当は真剣を持つんだが危ないから、ボンデンと扇を持つんです。ごしんたくの舞は人数の決めは無いんで6人いたら6人で舞います。以前には舞い手がいないので二人くらいで舞ったこともあるんです。白衣、白袴(はかま)に白足袋、烏帽子(えぼし)を着け、手には御幣と扇を持ちます。舞い方や所作はどれも同じで、ただ持ち物が違うだけです。なお、おはやしは大太鼓一つで、舞う間始めから終わりまで同じ調子でたたきます。」
 氏子たちの参拝が絶えたところで神楽を終えるが、例年午後4時ころになるという。終わり次第、直会(なおらい)に移る。その会場は、もとは宮司の家であったが、3年前から明日の集会所に変えたという。なお、練習は本番の1週間前から集会所で毎晩行う。前々は**さんの家で長らくしていたそうだが、場所を集会所に変えてからは夜も太鼓のけいこができるようになったという。
 新年を迎えると、明日の八幡神社では太鼓が打ち鳴らされ、**さんたちのいつに変わらない伝統の舞が舞われることになる。

 イ 大神楽と小神楽

 **さん(越智郡大三島町大見 大正9年生まれ 79歳)

 (ア)大見神楽の今昔

 大見の神楽は、大見八幡神社と姫坂(ひめさか)神社との1年交代で交互に行われる。旧暦1月12日が常例である。10年に一度の大神楽と毎年の小神楽とが行われてきた(③)。
 大見の神楽の時代による変化と現状について、**さんは『大三島町の祭り(⑤)』の中で次のように記している(一部修正)。
 「昭和30年ころから過疎化による後継者不足や舞太夫の老齢化により、舞太夫が年と共に減少して、昭和50年代にはわずか5、6人となり、従来10年に1回行われていた大神楽は中絶している。また、境内に作られていた神殿(かみどの)(*6)も拝殿内に移され、垢離(こり)取りも行われていない。神楽の宿(当家(とうや))も集会所に変更されており、すべてが簡略化されているため、かつての神楽神事の荘厳さが極めて薄くなっている。(中略)旧暦1月11日、世話人は午前8時ころ集まり、当家行事をする。舞太夫は午後1時ころに集まって小道具を作り、神楽の準備をする。夕食後、本馴(ほんな)らしとして御神託(ごしんたく)を舞い納めとする。同1月12日、世話人全員が午前6時ころに集まり、朝食等の準備をする。宮司と舞太夫の御爛酒(おかんしゅ)や朝食が終ると、内舞(うちまい)に移り、御神託を奉納する。午前10時ころ、行列を組んで神殿に入る。神楽舞は、露払い、手草(てぐさ)(*7)、注連口(しめぐち)、神迎、籤舞(くじまい)、二天、四天、舞上(まいあげ)の8曲程度を演ずる。神楽終了後は鏡餅(もち)を切り分け、神楽で使われた小道具と共に参拝者に配る。夜、直会となる(⑤)。」
 それでは**さんの記憶に残る昔の大見の神楽とはどのようなものであったのか、再び『大三島町の祭り』によると、次のように記されている(一部修正)。
 「恒例の大神楽には、大見中の全戸主が1か所に集まり、神楽を祝い酒宴が盛大に行われる。警護班(3家に限られていた)12名をもって会場を護衛し、幼児5名が裃袴(かみしもはかま)姿でオオサイを務め、カヨイ5名、座持ち2名その他多くの世話人をもって会場の運営に当たり、村を挙げての大行事であった。大神楽は終戦後2回行われたが、近年は中断している。」「大見は穏穩地土居(おんじどい)(1組)、奥土居(2組)、鳴瀧(なったけ)土居(3組)、中上居(4組)、下土居(5組)の5区に分かれる。部落の1年間の神事一切を行う組を神(かみ)土居といい、数字の逆回りで順送りされる。神土居では、前年末の常会で翌年の神事の宿や神楽の当家、世話人など重要な役割が決められる。旧暦1月5日、横注連(よこしめ)おろしといい、大世話人5名が当家に集まり、宿や神社に注連を張り、神楽の役取りをして目録を作る。夜は、宮司や舞太夫を招待して目録の承認を得、酒宴を催す。翌6日から神楽の練習を始める。同1月11日、当家に世話人10名と舞太夫全員が集まり、世話人は神殿作り、もちつき、料理の手配など当家行事を行い、舞太夫は神楽に使う小道具を作る。夕食後、本馴らしとして御神託を舞い納める。同1月12日、午前5時、舞太夫全員は海岸に集まり、潮垢離を取る。午前8時半ころ、関係者が当家に集まり、御爛酒や朝食が終わると、内舞に移り、御神託を奉納する。午前10時ころ、行列を組んで神殿に入り、控室で衣装替えなど準備をする。神楽は目録15曲のうち大神楽では全曲、小神楽では8から10曲程度奉納した。当時は経験豊かな舞太夫が多く、本当に中身のある神楽神事であった。(⑤)」
 執筆した**さんは、記憶にある昔の大見の神楽について次のように語った。
 「この記録でいう昔とは、だいたい昭和40年(1965年)までのことです。おやじが昭和29年に亡くなり、翌30年からわたしは神楽を始め、今まで続けてきました。この記録は自分自身の体験の記録です。自分が始める以前のことはおやじや師匠、年寄りの舞子さんから聞いた話だが、ほとんどが我々がしてきたことにつながるんです。その人らが言っていたとおりに我々はしてきたんです。」

 (イ)神楽にかける情熱

 今年(平成11年)、**さんは、大見八幡神社に伝わる神楽本(「執行表」と称する次第書写本4冊)を整理校訂して、新たに神楽本を編集した(写真2-1-4参照)。伝わるものは、明日八幡神社宮司川崎家蔵の神楽本を原本とする明治22年(1889年)の写本である。
 編集のねらいについて、**さんは次のように語った。
 「大見で神楽が始まったのは明治22年です。でもそれを思いついたのは明治2年(1869年)からなんです。当時、明日八幡神社の太夫さんが大見八幡神社の宮司を兼務していて、明日八幡では参拝者の前で御神託を舞って清めているので、大見でも同じようにしてはどうかという話がありました。そこで村人の一人が明日に伝わるしょうぎょうを苦労して写したんです。それが変体仮名(*8)で書いてあるんで、読めない字があるんです。慣れると読めるが、今の人にはちんぷんかんぷんです。それで今年、わたしが詞章を一筋一筋判読して整理し、かい書で下書きし、清書して、大見八幡神社の宮司に渡したんです。」
 **さんの家は代々、神楽に深くかかわっていたという。そのことについて**さんに聞いた。
 「祖父は自分では舞わなかったんです。いわゆる大世話人だったんです。大世話人は地区のお神楽など行事、その他全般にわたってかかわるんです。そして三大祭り(1月の神楽、8月の獅子舞、9月の姫坂神社の祭礼)の宿に当てられたり、その経費を負担したりするもので、大正初年ころまではその形が続いてたんでしょう。
 おやじは大正2年(1913年)から神楽を舞い始め、亡くなる昭和29年(1954年)まで舞いました。おやじは兵隊に行く直前に、乗り合わせた広島県竹原への通い船が沈没したが、命拾いをした。それで家に帰ってきて、皆に頼んで神楽を舞わしてくれ言うて舞い出してから、ずうっと舞ってるんです。神楽いうもんは口だけのもんじゃない。本当に音もしない、目にも見えないが、神さんが存在してるんだと感じたのだと思うんです。とにかく神楽に対しては、おやじは根性入れてしてるもんだから、寝ても起きてももう一年中、スサノオノミコト(*9)のせりふをひっきりなしに言ってました。子供のわたしは一緒に寝てたもんだから、それを覚えるのが早かったんです。おやじがしているのが自分の耳に残ってるもんだから、字は読めなくても所々読んでつないでいったら、おやじの言うた言葉につながったんです。それで今に覚えてるんです。忘れようとしても忘れられんのです。死の前年まで舞えたのは、死を乗り越えて神楽を始めたという動機があり、神楽はやめないという信念があったのでしょうか。おやじは晩年には長年の積み上げでしょうか、長せりふの上、足なんかでも細くなりその弱った体で矛(ほこ)を持って舞いながら飛び上がり、すねで板の間に降りるというスサノオノミコトの荒舞をしてました。それでわたしらは人間には半分精神的な面があるなと思いました。」
 **さんは大神楽で大事な子役を演じたことがある。これが神楽との長いかかわりのスタートになった。以下、神楽との付き合いについて語ってもらった。
 「わたしにとっての第1回目は大正末年の6歳のとき、大神楽で羽織袴になってオオサイをやったことです。オオサイというのは、三方(さんぼう)を抱えていってお客さんの前に座り、カヨイ(子供の役の一つ)が持ってきて置いた杯にお神酒をついであげる役です。
 おやじが亡くなりましたときには、わたしは舞は全然知らずに出て、太鼓たたきをしていました。舞は御神託を舞ったのが初出場です。そのあと、皆からおやじさんの跡を継いでスサノオノミコトをしたらと言われたので、そんならと言うてそれこそ血の出るような練習をしました。演目としては夜覇餓岐(やえがき)(荒神(こうじん))のなかにあります。今にその時覚えたスサノオノミコトのせりふを覚えています。これには左大臣、右大臣も出ますがそれをうっちゃって、自分一人が舞をします。荒舞、荒っぽい舞です。それが舞としては最初の舞です。今は舞子(舞太夫)が足りないんでこの舞はしません。
 横注連(よこしめ)おろしが神楽行事の始めです。横注連おろしとは、神楽宿の表にお注連を張るんです。それから宿の座敷で毎晩午後7時から10時ころまで十日間くらい練習します。大世話人の連中はせんべいなどを用意し、お茶を練習後に出します。途中では出しません。飲んだり食ったりしては練習になるかという具合です。年寄りが教えてくれますが厳しかったですね。神楽をする人の中では特別の階級は無かったが、経験の深い人を奉っていました。何事も相談しながらしました。舞子に入ると、神さんにお仕えするということから、勝手にやめるということなんかは無かったですね。神を敬い自分の生活にけじめをつけ、でたらめはしないし、神事として御爛酒は飲むが、練習のときは一切せなんだ(しなかった)ですね。奉仕のときはお神酒が出ますから頂ける人は頂き、終わって今日はゆっくりしてくれと言われたときにはたっぷりと頂きました。しかし、太夫(宮司)が一声『これでお開きにしましょう』と言うと、なんぼ(いくら)飲んでいてもピシャリとやめました。そうしたけじめが舞子のうちにはありました。」

 (ウ)潮垢離や神殿のこと

 今は失われつつある、神楽をめぐる事柄について**さんに聞いた。
 「神楽を舞う日の早朝、潮垢離を取っていました。乳首のあたりのとこまで潮に入り、陸へ向き直って体を沈めるんです。頭までズンブリと3回くらい入るんです。ズブズブ入るんではない。潮の中に入る時は、かしわ手打って神さん拝んで、沖に出るんです。我々は神さんに守られているという安心感がいつもあります。また沖で3度くらい潮に潜るんです。それから陸に上がって、たき火で体を乾かすんです。海岸に行くときにタバコ殼といいまして、タバコの葉をとったあとの茎を1束皆担いで行くんです。あれは燃えるのも早いし、燃えかすも少ないんです。それに火をつけて海に入ります。ちょうどそれがパアーッと燃え上がったところへ帰ってきます。そこで体を乾かしといて当家に帰り、御爛酒に臨んだもんです。」
 舞を舞う神殿はかつては境内に特別に設営していた。神殿は3間(1間は6尺で、約1.8m)四方の方形、注連縄を張りめぐらし、サカキの枝を垂らした間に種々の図形を切り抜いた紙(「おみどり」という)をつけ、四方の柱には四方固め(御幣にもちを付けたもの)を結び付けるなどの飾り付けをし、そのなかに諸役と参列者が着座(「神殿入り」という)し、その外に一般参列者が立つのが通例である(③)。その位置は、大見八幡神社では拝殿に向かって右側にある平地、姫坂神社では拝殿に向かって左側の平地である。平成11年の神楽では、久し振りに神殿を姫坂神社境内に設営したという。これは大三島町当局の肝入りがあり、文書写真記録に残すという事業もあり、また新たに舞子が12名も入ったこともあって、特別にできたのだという。このことについて**さんが語る。
 「昭和50年(1975年)過ぎには、人が少なくなりまして、神殿造るのがなんじゃ(大変だ)から、神社の拝殿で舞おうじゃないかということになりました。八幡さんも姫坂さんも拝殿にお注連を張って舞っていたんですわ。その当時は、舞子が5、6人になって、御神託以外は舞えないんです。それで拝殿で舞っていたんです。
 昔はね、檜(ひのき)丸太で4本の柱を立てて、6畳の間くらいにしまして、床には踏み台といいまして5分(1分は1寸の10の1、1寸は約3.03cm)か6分の杉板を張って、神楽台を造るんです。平成11年のときはセメントの型板を借りてきましてそれを敷いたんです。準備は大変でしたが、人がいたのでできたんです。屋根は無いんです。運がええというんかやっぱり神さんの御利益といいますか、わたしが神楽をしだしてから、雨にあってお神楽が延びたことはないんです。幕を跳ね上げるような風にはあいましたけどね。不思議ですね。そのかわり、粉雪の中で舞ったことがあります。」
 現在の舞太夫は、70歳代3名、60歳代1名の古参と30、40歳代12名の経験わずか1、2年の新参者である。**さんたち古参の舞太夫には、新加入の舞子さんたちを指導して、長く伝えられてきた大三島の神楽を後世に伝えていこうとする情熱が息づいている。


*3:親骨の上端を外へそらし、畳んでも半ば開いているように作った扇。
*4:神徳をたたえる歌、神楽に用いられる歌謡、神楽歌。
*5:白の裾の長い小忌(おみ)の肩衣(かたぎぬ)の一種、袖を縫わずにこよりでくくったもの。
*6:こうどのともいう。備中神楽などで、荒神などの諸神を勧請して祭りを行い、行事として神楽を演ずる場として建てられ
  る仮屋のこと。
*7:竹や木の葉をたばねて、歌舞するときに手に採るもの
*8:現在普通に使用されている平仮名と違う字源または崩し字の仮名のこと。
*9:記紀などに見える神、アマテラスオオカミ(天照大神)の弟、凶暴であったため高天原(たかまのはら)を追放されて出雲
  に下り、ヤマタノオロチを退治する。

写真2-1-1 明日八幡神社神札と御幣

写真2-1-1 明日八幡神社神札と御幣

(左)神札、(右)御幣。平成11年7月撮影

写真2-1-4 新編集の大見神楽神楽本

写真2-1-4 新編集の大見神楽神楽本

平成11年7月撮影