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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)神輿が練る①

 ア 四角さん八角さん

   (ア)阿沼美神社の四角・八角

 江戸時代松山藩は、松山城の周辺に鎮座する阿沼美(あぬみ)神社(味酒(みさけ))・雄郡(ゆうぐん)神社(小栗(おぐり))・
伊佐爾波(いさにわ)神社(道後(どうご))の城下三社の祭礼を「三祭」と称した。このうち延喜式(えんぎしき)内の名神大社阿沼美神社(*12)(写真1-3-31参照)の神輿(みこし)は、神官大山為起(*13)(1651~1713年)が17世紀末の元禄年間に京都で作らせたといわれ、18世紀末の松山藩の記録に「味酒の神輿三体、八角は大山積大明神、四角は水神、チキは雷神也と云ふ。」と書かれている。(21)「チキ」は屋根に交差した千木(ちぎ)をつけた神輿で、八角・四角の前に宮出ししてお旅所まで御幸するだけで町内巡行はせずに宮入りしていた。(22)四角型(黒色)と八角型(金色)の神輿は「四角さん(町方の神輿)」「八角さん(村方の神輿)」と呼ばれ、その鉢合わせ(神輿のぶつけ合い)は町人対農民の力比べといわれた。明治維新時、政府は文明開化を提唱、愛媛県も旧習の風俗をただそうとする禁令をしばしば布達した。神輿については、明治7年(1874年)9月「祭礼悪弊制止の告諭」、9年9月「神輿渡御につき注意」、11年10月「神社祭典・神輿渡御の節乱暴防止の諭達」などを出して、敬神の主意を奉じて、神輿渡御で門戸を破損したり、粗暴な挙動をしないように説諭した。明治45年(1912年)には、神輿を破損する行為は神社祭礼を忘却するもので神に対し不敬であると訓令した。(23)
 これらは神輿の鉢合わせが盛んに行われていたことに対する警告であったが、松山地方では鉢合わせは、神の霊威を高め御魂の発動を促進誘発する行為「神輿振り」として歓迎する空気が強かった。明治43年(1910年)10月の阿沼美神社(松山市古町)の祭りでは、午前6時、千木・八角・四角神輿を順次拝殿よりおろし、お堂を数度回ったあと宮出しをした。祭りの名物鉢合わせを見ようとして出掛けた見物人は5,000人、その中で、「モーテーコーイ モーテーコーイ」の声勇ましく、四角・八角の鉢合わせが行われた。(24)
 大正時代や昭和初期も、阿沼美神社の宮出しは相変わらず鉢合わせが人気で、松山の地方祭礼といえば直ちに四角・八角を連想させるほどであった。(25・26)太平洋戦争中、神輿の練りを自粛する中で四角・八角だけは昭和18年まで鉢合わせを継続したが、19年は警察の命令でついに中止、昭和20年7月26日の松山空襲により両神輿も焼失した。戦後、四角・八角が再登場するのは昭和22年(1947年)からで(27)、昭和30年代には名物の四角・八角神輿の鉢合わせが境内を埋めた見物人をわかせて「けんか神輿」の盛況を取り戻した。

   (イ)四角神輿の運営

 西原 仲禎さん(松山市萱町 昭和36年生まれ 38歳)
 現在四角神輿と八角神輿(写真1-3-32参照)は、それぞれの保存会が運営している。四角保存会会長で今年四角会総取締に選ばれた西原さんに、「四角さん(四角神輿)」の運営、祭りまでの準備について聞いた。
 「四角さんは代々氏子の集まりを中心に運営されてきました。昔の祭りは生活と密着していましたから、地域の氏子青年団の40歳代の長が青年たちを集めてかき夫の組織を作っていったのがならわしでないかと思われます。現在の四角会は、役員30名余りで構成してます。役員は、総取締長・副取締長・取締役・相談役などがあります。取締役になるには、最低5年以上かき夫の世話をし阿沼美神社の行事や会合に参加できるという条件を満たす必要があります。昨年(平成10年)総取締・副総取締・取締長等の頭取が引退したので、今年から我々新しい組織役員の体制で運営しています。四角保存会・四角会の会合は年3回開きます。正月(初詣(もうで))、春4月(花見)、祭りの前の9月上旬(初顔合わせ会)です。9月の会合では祭りの運営・運行を取り決めています。
 鉢合わせ相手の八角会とは、阿沼美神社が主催する秋季例大祭準備会はじめ2、3回会合して、練り運行時間の打ち合わせや鉢合わせの取り決めをいたします。幟(のぼり)を立てるなど神社の正装をする10月2日の祭り予備日に四角・八角の神輿を神輿倉(くら)から出して、神社の千木神輿とともに拝殿へ奉納します。千木神輿は四角・八角のかき夫10名程度が1年交代で出向いてかき、北・南・中央の3か所に設けられたお旅所を巡行します。お旅所は、年々に神社氏子総代会で依頼して設置してもらっています。千木・八角・四角の宮出しの順番は昔から変わりません。八角会との話し合いで取り決めた運行計画は松山東署に提出し、子供神輿や道後神輿など市内の神輿の責任者と一緒に警察からの注意を受けております。かき夫は150人ほど必要です。氏子だけでは賄えないので、堀江(ほりえ)地区や北条(ほうじょう)市・伊予(いよ)市など他の地区からも来てもらっています。安全のためかき夫は登録して保険をかけていますし、応援地域から取締役も選出しています。氏子5割・地域外5割のかき夫比率でしょうか。大学生のアルバイトはひところ多かったのですが、現在ではまったくいなくなりました。体力を使うのでしんどいことはしないということでしょうか。神事に対する若者の考え方も変わってきました。
 人集めとともに苦労するのは運営資金集めです。年々150万円程度の準備費用がかかります。神輿は平成6年に新調しましたが、鉢合わせや運行(巡丁(じゅんちょう))で傷むので、毎年30万円から40万円の修理代が必要となります。神輿の専門店に頼むと高いので、かき夫仲間の大工たちが手作りで修理しております。昔の鉢合わせは、八角の方が百姓神輿でかき夫の足腰が町人神輿の四角より決まっていて強いといわれ、実際四角の方がよく負けていたのですが、今は互角の状態です。ただ、きらびやかな色と型で八角の方が人気があるようです。」

   (ウ)四角・八角神輿の運行

 西原さんに、四角さん八角さんの運行と宮出しについて聞いた。
 「四角・八角の宮出し・鉢合わせは午前6時、その後巡丁(町内運行)・お旅所を回り、午後4時ころ再度神社前で鉢合わせして、さらに巡丁して午後7時30分ころ鉢合わせ・宮入りをします。
 早朝の白みかけた空の下、がっしり組み合ったかき夫たちが続々と阿沼美神社に入って来て、『モーテーコーイ モーテーコーイ』の掛け声とともに金ぱくの八角と漆黒の四角が神社本殿からかつぎ出され、本殿周囲を3周していよいよ鉢合わせとなります。神輿の屋根に上って手を振り回し斜(はす)に構えて、300kgの大神輿をぶつけ合います。
 指揮者としては、天候、観客の人数、周囲の状況に応じて、適切な距離間の判断をし、事故がないように努めています。そのために1回あたりの鉢合わせ時間をできるだけ短縮し、速やかに神輿を分けるようにしています。危険を感じたら神輿を安全な場所に誘導して、かき夫と見物人の安全に気を付けています。かき夫には指揮者の指示に従うよう求め、不適当と認められる人を神輿に触れさせないようにしていますが、かき慣れない人が多いと概して事故につながる恐れがあります。
 現在の宮出しは、神事にこだわりながらも和気あいあいとした祭りに変わっています。安全対策・事故防止も徹底しなければなりませんが、少子化、若者の考え方の変化、都市のドーナツ化などで、先々の神輿運営や運行の手順などを思案しています。」
 阿沼美神社では平成8年に大きな事故があったので、神社・氏子総代会は安全対策が不徹底であるとして四角会・八角会に神輿鉢合わせの自粛を求めた。この結果、今年(平成11年)は宮出し・宮入り時の鉢合わせは行わず、巡丁のみにとどめた(写真1-3-33参照)。

  イ 道後八町八体神輿

   (ア)伊佐爾波(いさにわ)・湯神社の道後神輿

 伊佐爾波神社(写真1-3-34参照)は道後八幡宮(どうごはちまんぐう)とも称し、道後湯月谷に鎮座する延喜式内社である。近くの湯神社と合同して行われる秋の神輿祭礼は、江戸時代以来にぎわいを見せてきた。
 明治時代、伊佐爾波・湯両神社から出る神輿は、「道後の宮出し」として「三津(厳島神社)の宮出し」「古町(阿沼美神社)の宮出し」と並んで、その鉢合わせが人気であった。明治43年(1910年)10月の祭りは、道後伊佐爾波・湯神社の神輿宮出しを見物しようと伊予鉄道電車で出掛ける者が多く、午前4時過ぎになると、神社前に集まった若衆がときの声をあげ、まず湯神社より小唐人(ことうじん)(現在の松山市大街道1、2、3丁目、一番町、二番町)の神輿が最初に出、ついで伊佐爾波神社より湯之町(ゆのまち)を先頭として大唐人(おおとうじん)(現在の松山市三番町1、2丁目)・道後(どうご)村・築山(つきやま)・持田(もちだ)の4体が「ヨッショ ヨッシヨ」の掛け声勇ましく宮出しして、道後温泉駅前から道後公園にかけて鉢合わせを演じた。(23)
 道後神輿は、湯之町・道後村・築山・持田・大唐人・小唐人の神輿に大正11年(1922年)から溝辺(みぞのべ)と子供神輿が加わって8体となった。道後温泉駅前や道後公園での各神輿入り乱れての練り・鉢合わせは、「道後神輿合戦」として人気を博し、毎年数万の観客を集めた。やがて戦時色が強まり、道後神輿が勢ぞろいしての伊佐爾波・湯神社の宮出し・鉢合わせは、昭和12年(1937年)に中止された。(26・28・29)
 太平洋戦争後の道後神輿宮出しは昭和21年(1946年)から復活、溝辺・湯之町・築山・小唐人の神輿が復員青年にかかれて町に出た。(30)翌22年10月の祭りは、午前5時前の市内電車がすでに満員、道後駅から伊佐爾波神社までは絶え間ない人の行列が続いた。午前6時東の空か白むころ青年たちが続々と詰め掛け、太鼓の音を合図に「ワアー」という掛け声とともに溝辺の神輿が宮出しの先頭を切ってなだれをうつように長い石段を下りると、引き続いて小唐人・大唐人・湯之町・築山・持田・道後村の神輿が後を追い、道後駅前でしばらくもみ合って、大街道へ繰り出した。(31)

   (イ)道後八町八体神輿の勢ぞろい

 平野 昌弘さん(伊予郡砥部町宮内 昭和16年生まれ 58歳)
 道後伊佐爾波神社は、戦後も古町阿沼美神社・三津浜厳島神社と並び松山地方秋祭りの三大神輿鉢合わせの拠点であった。しかし昭和35、36年鉢合わせのトラブルから神輿が集まらなくなり、昭和37年10月の秋祭りには伊佐爾波神社から大人神輿が出なくなった。(32)道後八町神輿のうち大唐人神輿の頭取、また松山の神輿祭りの振興に活躍している平野さんに、道後神輿が宮出しをしなくなった原因と復活までの経過を聞いた。
 「まず戦争で男がいなくなり終戦後も男が少なかったことによるかき夫の不足があげられるでしょう。また各地区の氏子神輿を守らねばいかん、勝った負けたの意識が強かったようで、鉢合わせの勝敗にこだわることがいきおいけんかや人身事故につながっていたのでしょう。そのほか、祭りの祝いや接待を質素にしようといった新生活運動などいろいろな要素が重なって、各地区が神輿を倉にしまってしまいました。道後村だけが神輿を出し続け(写真1-3-35参照)、他は出なくなったのです。その後20数年間、伊佐爾波神社の神輿宮出しは道後村以外は途絶え、昭和58年湯之町が神輿を修復してようやく宮出しを復活、道後神輿と鉢合わせをしました。続いて溝辺神輿が出て3体で鉢合わせとなりましたが、トラブルがあって溝辺は下がり(退き)ました。昭和60年小唐人神輿が出て、平成元年築山、平成2年大唐人神輿と続き、平成5年に溝辺神輿が再登場しました。この年小唐人から分離した北小唐人神輿もお披露目(ひろめ)、7年には持田神輿の参加で、今日の八町八体の神輿がそろったのです(図表1-3-8参照)。築山の栗原照男さんを総代とする道後神輿の連合組織は今から10年前、大唐人神輿が加わった平成2年に5体の神輿頭取の話し合いでできました。」


*12 : 延喜式(967年施行)の神名帳に記載されている神社
*13 : 貞享4年(1687)松山藩主に招かれて阿沼美神社神官を25年間つとめ、神道の指導者、国学者・歌人として知られた。

写真1-3-31 阿沼美神社

写真1-3-31 阿沼美神社

平成11年10月撮影

写真1-3-32 街角での四角・八角神輿

写真1-3-32 街角での四角・八角神輿

平成11年10月撮影

写真1-3-33 町内を巡丁する四角神輿

写真1-3-33 町内を巡丁する四角神輿

平成11年10月撮影

写真1-3-34 伊佐爾波神社

写真1-3-34 伊佐爾波神社

平成11年10月撮影

写真1-3-35 道後神輿の宮出し

写真1-3-35 道後神輿の宮出し

伊佐爾波神社にて  平成11年10月撮影