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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)だんじり、太鼓台が競う秋

 ア 西条祭り

 **さん(西条市喜多川 昭和5年生まれ 69歳)
 現在の西条祭りは、10月14日から17日まで順次祭礼が行われる石岡(いしおか)神社・伊曽乃(いその)神社・飯積(いいづみ)神社の秋祭りの総称で、最近は9、10日を祭礼日とする嘉母(かも)神社の祭りも加えるようになった。なかでも伊曽乃神社(写真1-3-10参照)の大祭が西条祭りの中心である。この期間、市内に繰り出すだんじり(楽車・屋台)、みこし(御輿太鼓)の総数は120台余りを数える。15日早朝の宮出しにだんじりが勢ぞろいし、16日の統一行動は決められた順番に行列を組み昔ながらのコースを巡行する。その途中で見せる御殿前(西条市明屋敷(あけやしき))の華麗な練り、そしてフィナーレを飾る加茂(かも)川の川入りでのかき比べで祭りは最高潮に達する。

 (ア)伊曽乃神社大祭の見せ場

 西条祭振興会長の**さんに、祭りの魅力や見せ場について聞いた。
 「祭礼の見せ場の一つは、早朝のだんじりやみこしの姿です。15日の伊曽乃神社境内での早朝の宮出しと16日早朝のお旅所を囲む70余台のちょうちんをともしただんじりの光景や百数十個のちょうちんを付けただんじりやみこしの練りなど、夜が明けきらない中での祭りの風景は、西条でなければ味わうことのできないものです。
 二つ目の見せ場は、16日の午前7時ころに一番屋台(だんじり)が西条藩陣屋跡(現在西条高校のある場所)の御殿前に整列し始めてから御神輿(ごしんよ)が来てだんじりと入れ替わりに出発するまでの間です。その間はだんじりやみこしの昼の顔をゆっくりと見ることができます。三つ目の見せ場は、観光客がたくさん来ている加茂川への川入りです。現在は全部のだんじりやみこしが土手に勢ぞろいした中を御神輿が加茂川の清流へ入り、その後でそれを川原で待っていた神戸(かんべ)地区のだんじりが一斉に川の中へなだれ込み、宮入りを阻止しようとします。水の多いときは腰までつかりながらかき比べをするのです。この御神輿とだんじりが入り乱れて練る時には、あかね色の夕陽に映えた御神輿の神々(こうごう)しさとだんじりの彫刻の彫りの見事さや漆塗りの美しさに数万人の観衆が酔いしれます。
 西条祭りは行列が基本です。並ぶ順番も道順も決まっています。平成5年に西条市教育委員会から無形民俗文化財に指定された理由は、御神輿を中心としただんじり・みこしの統一行動という祭礼形式にあるのです。」
 御神輿の巡行(神幸)は、15、16日の2日間にわたり行列を整えて36か所の神楽所を渡御する行程である。だんじりは、15日早朝伊曽乃神社を宮出しして地区の町内に帰って自由運行する。16日早朝、78台のだんじりと4台のみこしが御神輿の駐泊する常心(西条市大町)御旅所に勢ぞろいして、神戸(かんべ)地区の中野(なかの)を1番に11番まで、大町(おおまち)地区の12番から39番、神拝(かんばい)地区の40番から62番、玉津(たまつ)地区の63番から65番、西条(さいじょう)地区の66番から78番、御神輿のお供だんじり本町(ほんまち)、みこし1番中西(なかにし)、2番喜多浜(きたはま)、3番下喜多川(しもきたかわ)、4番朔日市(ついたちいち)の順序で、定められた行程(図表1-3-4参照)、延べ51kmにおよぶ統一運行に出発する。

 (イ)祭りの運営

 **さんに、祭りの運営について聞いた。
 「それぞれのだんじり・みこしには総取締や副取締がいるのですが、伊曽乃神社大祭は神戸・大町・神拝・玉津・西条の5氏子地区の氏子総代の中から年番常務総代が輪番で大祭委員長となって取り仕切るのです。昨年の年番は玉津地区、平成11年は西条地区です。この氏子総代会と一体となって祭りの運行に当たり御神輿を警備し、だんじり・みこしの秩序正しい巡行を求めるのが、鬼頭(おにがしら)会です。江戸時代の『伊曽乃大社祭礼絵巻』に、鬼頭は鬼の面をかぶり面と同じ色のじゅばんと股引(ももひき)(男用の下着)を着用し、白い房を付けて登場しています。現在は大総取締の下に12名の神輿係(御神輿の警護をする)と19名の屋台係(だんじり・みこしの運行を指導する)がいて、それぞれ赤筋・青筋のたすきを掛けて、2日間朝早くから夜遅くまで警護・指導をしています。また西条祭振興会は、各地区の自治会長らが名を連ねて、大所高所から祭りの運営にかかわっているのです。祭り1か月前の9月には、西条祭振興会役員とだんじり・みこしの各総代が石岡・伊曽乃・飯積・嘉母神社の氏子総代で構成する西条市平和祭典運営協議会の役員を加えて一同に会し、平和な祭典にするための話し合いを持ちます。ここで協議した決議事項は、チラシにして各だんじり・みこしの役員・かき夫など関係者に配布して、平和運行への協力を求めるのです。」

 (ウ)平和運行のための願い

 平成10年の「楽しい平和な祭典をするためのお願い」は、「1.伊曽乃神社の祭典を盛大かつ平穏裡(り)に行うため、伊曽乃神社・西条祭振興会・屋台(だんじり)みこし総代及び西条市平和祭典運営協議会は、本祭典が事故なく終了するよう協力する。」と誓い、18項目にわたり次のような注意書きを並べている(以下、主なものを抜粋する。)。

  2.だんじり・みこしは許可された運行コースを正しく回るとともに、各だんじりの間隔は最小距離にして運行すること。
  5.御旅所を出発する際は、だんじり・みこしは番号の若い順に次々と順序よく出発すること。
  7.各屋台は、16日朝の御旅所の出発時間を守り、渡御(とぎょ)行列(御神輿の御旅所巡行)に協力し、当日夕方の加茂
   川川入りの時間を考慮して行動すること。
  9.だんじり・みこし代表者は、それぞれの参加者を参加者名簿に登載して届け出を行い、参加者は所定の番号札を必ず着
   装すること。
  11.だんじり・みこしが見物人の多い場所を運行するときは、かき夫全員で特に危険防止に注意すること。
  12.けんかを挑発したり、またはけんかをしたり、これに応戦したりしないこと。
  14.未成年者に禁酒・禁煙を徹底し、未成年者に酒・煙草をすすめないこと。

 このほか、かき夫の服装は各だんじり・みこしで統一し、だらしのない服装の厳禁、ゴミ袋を携帯して運行途中のゴミ収集を行うことなども取り決めており、けんかなどをしただんじり・みこしは直ちに運行をとりやめて自地区に帰り解体し、西条祭運営委員会の決定で翌年の運行を中止することもあるなど厳しい罰則も定めている。
 伊曽乃神社鬼頭会からは、「秋季大祭屋台・みこしの運行に関する要望」が示される。これには、鬼頭・校区別運営委員配置表、屋台・みこし責任者一覧表が掲げられ、神社・御旅所の屋台奉納、御殿前・武丈(ぶじょう)土堤などでの屋台・みこしの据え場所、巡行、整列の順序、時間などについて細かく規制して、何事も「鬼頭の指示により」行動することを強く要請している。

 (エ)西条祭りの総括者として

 西条祭りの総括者の一人である**さんに、西条祭りの在り方や問題点について聞いた。
 「毎年伊曽乃神社・鬼頭会・西条祭振興会など関係者が数回の会合を持ち、古きよき時代の形を残しながら、今の時代に合った西条祭り、西条らしい祭り絵巻を後世に残そうと努力しているのです。本来各町や村の神社の祭りであったのが全市に広がり、老若男女が一つとなり、楽しみながら文化財としてのだんじりを大切に保存し次の世代へ継承していこうとしています。またその気持ちが現在の100台余りのだんじり・みこしの平和運行につながっていると、わたしたちは誇りに思っています。このけんらん豪華で日本一を自負しております西条祭りを保存伝承していくために、祭り行事の内容や歴史的な経過などを皆さんに正しく伝え、地域の連帯感を盛り上げる努力をして、祖先や郷土が大切にしてきたものを守っていきたいと思っています。
 祭りが盛大になると新しい悩みも出てきました。観光的要素が強まりテレビカメラが待ち構えて中継するほど有名になった加茂川の川入り(写真1-3-13参照)の場合、だんじりが78台みこしが4台と増えた今、どんなにしても昔の時間帯では神様(御神輿)は帰れないし川入りも難しいのです。鬼頭会要望書でも『御神輿の御仮殿最終待機時間は午後5時15分を限度とし、川入りに出発する。』と、見切り発車やむなしの措置を取っています。さらに鬼頭らを悩ますのは紛れ込んでくる他の地域からの飛び入りの参加者です。テレビカメラに向かって川の中で跳んだりはねたりしている男女はたいがいこの連中です。あくまで神事であるという本当の祭りの精神に徹している人がだんだん少なくなっています。」

 イ 祭りにかかわる親子三代

 **さん(西条市大町 昭和6年生まれ 68歳)

 (ア)だんじりを作った祖父、資金を出した父

 西条祭りには、熱心にかかわっている人たちがたくさんいる。**さんも、祖父、父の代から熱心にかかわってきた一人である。
 **さんに、おじいさん、お父さん、本人の西条祭りのかかわりについて聞いた。
 「祖父は腕のよい大工で、原之前(はらのまえ)のだんじり(神拝地区、明治25年製作)の製作を手伝って技術を学び、大南(おおみなみ)(大町地区、大正14年製作)、川原(かわら)町(大町地区、大正15年製作、現在愛媛県歴史文化博物館に展示されている)、大師(だいし)町(西条地区、昭和8年製作)のだんじりを作りました。祖父の兄、息子、おいもだんじりを作っています。わたしの一家は父の勤務地の佐世保(させぼ)海兵田(長崎県佐世保市)から西条市に帰ってきて、大師町に昭和13年(1938年)、わたしが小学校2年生まで住んでいました。祭りの時わたしは祖父が作っただんじりに付き回っていましたが、その後間もなく四軒町に転宅しました。四軒町は武家屋敷の町で、昔からだんじりがありませんでした。父はだんじりのない町の子供はかわいそうに思ったのか、祖父に子供だんじりの製作を頼みました。戦争(日中戦争)中で資材が不足していましたが、たまたま大師町だんじりの余った材料があったので、祖父も引き受けてくれました。父は海軍に入っていたので、軍人恩給をもらっていました。それの何年分かをだんじりにつぎ込みました。祖父の大工手間賃は小遣い程度でしたが、彫刻にはそれなりの製作費を支払わねばなりませんでした。母は父のだんじりバカにはあきらめ顔で、『よその人は恩給をためて家を建てるのにお父さんはだんじりを作った。』とよく皮肉を言っていました。
 子供だんじりの大きさを決めるのには、高学年の小学生10人くらいでどの程度の重さのものがかけるかが問題でした。昔よく夕涼みなどに使われていた幅1m・長さ1.8mほどの縁台を子供10人くらいにかつがせ、その上に柱の切れ端を乗せて大きさを決めました。2年ほどかけて昭和15年(1940年)伊曽乃神社の国幣中社(こくへいちゅうしゃ)(*4)昇格の年に親だんじりの3分の1程度の大きさの子供だんじり**が完成して、その年の祭りに奉納しました。宮司が大変喜ばれ、宮司の乗っておられる輦台(れんだい)(土台につけた長柄を数人で担ぐ乗り物)の前を行けと言われて、勇んで渡御行列に参加しました。宮入りの後、かいていた子供たちは社紋の入った落雁(らくがん)(きな粉と水あめなどを材料に練り固め型に入れて乾燥した菓子)をもらい、おいしくいただいたことを今でも覚えています。この子供だんじりを作った当時、祖父は72歳でした。
 父は昭和16年に戦地に出征しました。**だんじりは子供連中がかき、1番だんじりの前を露払いとして太平洋戦争の終わりころまでかき続けました。子供だんじり**は四軒町子供だんじりとして届けていましたが、昭和43年わたしが駅西に転宅したことで駅西子供会のだんじりとして15年間奉仕しました。そのころには子供だんじりも増え9台になりました。昭和58年駅西で親だんじりが新調されたのを機会に子供だんじり**は御用済みとなり、昭和60年に西条こどもの国での展示用に寄託しました。」

 (イ)だんじりの製作工程

 「祖父よりだんじりの製作について聞いた話ですが、大正13年(1924年)ころ大南(常心下組)のだんじりを新調することになり、祖父が請け負いました。高知の山林に出向き大きなヒノキの丸太を二つに割ってもらい、節(ふし)、柾目(まさめ)・木目(もくめ)(木の切り口に見られる年輪・繊維などの模様)を確かめてよいものを持って帰り、それぞれの部材に製材して乾燥させ製作にかかりました。祖父は氷見(西条市の北西端)の住まいから大八車(大きな荷車の一種)に道具一式を積み常心(西条市中心部大町地区)に仮小屋を建ててだんじりの本体を切り組み加工したということです。組み立てには、くぎなど金物は一切使用せず、木をつなぎ合わせる込み栓(せん)や楔(くさび)を用いて締め固めをします。祭りが終わると収納箱に仕舞えるようにバラバラに分解します。祭りの都度組み立て分解を繰り返しますが、込み栓や楔で締め固めをするので150年から200年は使用に耐えられるようです。次は彫刻師の仕事になります。祖父は高松の佐々木篁に彫りを依頼したのですが、彫刻師の手間賃は大工の2倍は払われたようです。
 だんじり1台の大工手間賃は二階造りで120人役、三階造りで150人役であったそうです。大工1人役の日当は米5升(1升は1.5kg)が相場とのことですが、だんじりを作ると7升くらいの日当になったということです。大正時代末期の米1俵(40升)の値段が13円ですから、大工手間賃150人役は341円、彫刻師の手間賃はその2倍の682円、木材費・製材費等が477円で、だんじり本体の値段は締めて1,500円程度であったようです。娘の嫁入り支度が、このだんじりを製作してもうけた金で人並みにできたと聞いています。」

 (ウ)お祭り好きの親子

 「父は昭和21年(1946年)に戦地から無事に帰ってきましたが、外地で何が一番つらかったかと聞くと、お祭りができなかったことだと言っていました。父は楢(なら)の木(き)(氷見地区)の生まれですので、父の故郷の石岡神社の祭りは10月14日と15日です。15日の朝ちょっと氷見へ行ってくると出ていきました。10時ころ胸を押さえて帰ってきました。お旅所に行ったところ西泉(にしずみ)のだんじりと上之川(かわのうえ)のだんじりがけんかを始めたので止めに入ったところ、青年に飛行靴で胸をけられて痛いとのことでした。病院へ行きましたが、応急手当だけして胸を押さえていました。伊曽乃神社の宮出しには行けぬと残念そうな顔で、『気をつけてかいて行けよ。』と子供だんじり**を送り出しました。全行程を巡行して加茂川の東土手に帰ってみると、親父は胸を押さえながら来ていました。祭りが済み病院へ行き精密検査をすると、あばら骨が三本折れていました。それで父親は3か月間仕事を休みました。昭和50年のある日親父は病の床に就きました。医者から今夜限りの命だと言われました。午前2時ころ突然目をあけて、『**、3時がきたぞ、ちょうちんに火をつけたか、早よう行かんとお旅がせるぞ(御旅所が込む)。』と、ぼそぼそつぶやいて伊勢音頭を歌い始めました。父はお祭りをしながらあの世へいった幸せ者でした。」
 **さんは、いままでの成果として平成10年に『西條のおまつり』を出版した。本のカバーには、お孫さんがかいた祖父製作の大南だんじりの絵を使っている。
 **さんの一家のような家族挙げての祭り好きが各町内にたくさんいて、西条祭りを市民の祭りとして盛り上げている。

 ウ 新居浜太鼓まつり

 新居浜太鼓まつりは、豪華で勇壮な太鼓台の運行で知られる。市内の統一秋祭りは、昭和41年(1966年)から毎年10月16日から18日にかけて行われ、平成11年には川西9台・川東8台・川東西部6台・上部17台・大生院(おおじょういん)4台、計44台の太鼓台が参加した。太鼓台は各自のコースを練り歩くが、時間と場所を定め、指揮者の吹き鳴らす笛の音に合わせて「かき比べ」の妙技を披露して観客を熱狂させる。鳴り響く太鼓の調子に合わせて150余名のかき夫が一斉に両手を伸ばしきって長さ10m以上の四本の棒で重さ2t以上の太鼓台を支え、その最上段を飾る8本の純白の大房が垂直に揺れ動く瞬間こそ新居浜太鼓台かき比べのだいご味である。よく比較される西条のだんじりが典雅な祭りなら、新居浜の太鼓台は民衆の町にふさわしい躍動の祭りといえよう。

 (ア)太鼓台の始まり

 **さん(新居浜市土橋 昭和34年生まれ 40歳)
 西条のだんじり、新居浜の太鼓台と並び称せられる隣り合わせの町の二つの祭りの形態の違いはいつころから生じたのであろうか。長い間「太鼓台の謎」といわれてきた。『新居大島秋祭の一考察(⑩)』によると、神輿御幸(みこしみゆき)に屋台・太鼓台が供する新居大島(にいおおしま)(新居浜市東部に位置する島)の八幡宮祭礼に新居浜・西条の祭りのルーツが残っているということである。また、新居浜市立図書館が発行した『新居浜太鼓台(⑪)』によると、新居浜の祭礼にはかなり早い時期にだんじりが登場し、やがて太鼓台に取って代わる過程が明らかにされている。
 市立図書館でこの本の編集にかかわった**さんに、新居浜の太鼓台の始まりと変遷について聞いた。
 「現存する記録に太鼓台が登場してくるのは江戸時代後期の文政年間(1818~30年)です。当時は神輿太鼓と呼ばれていたようですが、時代が下って太鼓台と称するようになりました。古い写真や市外に流出して現存する古い太鼓台などをいろいろと比べますと、太鼓台は明治時代中ころから急速に巨大化しています。その背景には、別子銅山の近代化に伴う新居浜の発展があったと考えられます。」
 住友の企業城下町としての新居浜の繁栄が祭りを盛大にし、太鼓台を改良巨大化し今日の豪壮けんらんな形になったようである。
 『新居浜太鼓台(⑪)』には、「新居浜金子(一宮(いっく)神社の神域、現川西(かわにし)地区)の太鼓台が8台相並んで元気そのものの青年にかつがれて、金色燦瀾(けんらん)として秋の空に踊っている。その前後に老若男女が何百名何千人となって付き添って進みゆくさまは、さながら町村そのものが動き出したような感じがする。」といった昭和2年(1927年)の祭りの様子が紹介されている。昭和11年(1936年)10月の祭りを見物した歌人吉井勇(1886~1960年)は「方々に旅するがこれほどの祭りは珍しい。」と語り、「秋祭り 太鼓屋台に夕日さすころともなれは 旅も寂しき」と詠んでいる。「祭りの賑(にぎわ)いは太鼓台にあり、それもけんかである。」「太鼓台のけんかは普通の争いと異なる性質のものである。」「これによって民心は作興(さくこう)(ふるいおこる)し、地方一年の生活内容は充実する。」といった市民の感想もある。
 太鼓台にけんかは付き物といった風潮は、太平洋戦争後も続いた。

 (イ)太鼓まつりの運営

 昭和26年(1951年)、太鼓台を盛大にし地区相互の親ぼくをはかって平和運行しようと新居浜市太鼓台運営協議会が発足した。昭和29年には新居浜市連合青年団が太鼓台運営委員会を設立して、太鼓台のスムーズで平和な運行への啓発活動をすることを決議した。
 運営委員会は、川西(国領(こくりょう)川以西、9自治会)、川東(かわひがし)(国領川以東)、上部(じょうぶ)(市南部)の3地区ごとに太鼓台を持つ自治会で組織され、太鼓台の運行計画の立案や条件・遵守事項などの取り決めを行ってきた。この3地区による運営委員会方式が長らく定着していたが、平成3年に川東運営委員会から垣生(はぶ)・沢津(さわづ)地区の6自治会が脱退、川東西部(せいぶ)運営委員会を結成して多喜浜(たきはま)・神郷(こうざと)8自治会(現在9)の川東と分かれたので、現在は4地区の運営委員会が「新居浜太鼓まつり」をそれぞれ別個に運営している(⑫)。
 新居浜太鼓まつりは、関係者の平和運行への努力と願い(*5)にもかかわらず、太鼓台の激しいかき比べによるトラブル(けんか)や事故がしばしば起こった。市には新居浜太鼓祭り推進委員会が設けられ、市内4地区の運営委員会・協議会の正副会長と市行政・各種団体や警察、神社の関係者が集まって平和で楽しい祭りを実現する方策を検討してきた。平成11年の新居浜太鼓まつりは、4地区運営委員会で各自治会長が「太鼓台の平和運行を順守する。」ことを誓約したり「けんかは絶対しないようかき夫に徹底させたい。」との共通認識で臨んだので、秋晴れのもと市内各地で平穏に太鼓台の運行と統一寄せ・かき比べが行われた(写真1-3-17参照)。

 (ウ)上部地区太鼓台運営委員会

 **さん(新居浜市船木 大正13年生まれ 75歳)
 **さんに、17台の太鼓台が平和運行を続けている上部地区の祭りの運営について聞いた。
 「わたしは、昭和52年以来20年間ほど上部地区太鼓台運営委員会の事務長など役員を務め、平成8、9年には会長に推挙されて、現在は顧問格で祭りにかかわっています。上部太鼓台の運営委員会は、船木(ふなき)地区(元船木(もとふなき)・高祖(こうそ)・長野(ながの)・池田(いけだ))、角野(すみの)地区(喜光地(きこうじ)・北内(きたうち)・新田(しんでん)・中筋(なかすじ))、泉川(いずみかわ)地区(上泉(かみいずみ)・松木坂井(まつきさかい)・下泉(しもいずみ))、中萩(なかはぎ)地区(土橋(つちはし)・上原(うわばら)・本郷(ほんごう)、萩生(はぎう)西・岸(きし)の下(した)・萩生東)にある17自治会からなります。役員は、会長1名(2年ごとに船木、角野・泉川、中萩3地区の持ち回り)、副会長2名、地区長4名、事務局長、会計・監査、3地区から1名ずつ推挙される顧問(元会長など)で構成されます。これら本部運営委員に対し太鼓台を持つ各自治会には、大人太鼓台に委員長・副委員長・青壮年部長、子供太鼓台に委員長・副委員長の運営委員がいます。毎年5月の通常総会には、執行部など本部委員と各太鼓台の委員が出席して、昨年の祭りを反省し今年の祭りの申し合わせ事項を決めます。会議は、総会のほか臨時総会、部会(大人太鼓台部会、子供太鼓台部会、本部委員会、平和運行対策委員会)、執行部会、代表者会があります。定例の代表者会は年4回開きますが、臨時の代表者会を何回も持つ年もあります。これらの組織運営は、上部地区太鼓台運営委員会会則で定めています。」
 **さんから提供された会則では、第1条で「新居浜市地方祭、上部地区太鼓台の相互の信頼と協調により、平和と幸福で安心して参加でき、明るく市民に親しまれる太鼓祭りであるよう運営し、郷土の観光開発、発展に寄与し、無事故で楽しい行事遂行を目的とする。」とうたっている。平成8年5月の通常総会で決定した「申し合わせ事項」は、太鼓台の運営については運営委員会の決定事項に従い、太鼓台の鉢合わせ、人間同士のけんかは絶対にせず、平和で明るい統一行動を実施することを誓っている。
 毎年作成される『上部太鼓台運行表』には、平和運行のための申し合わせ、確認・注意事項、運営委員会会則、新居浜警察署からの「太鼓台を運行するみなさんへ」の呼びかけや許可条件、17台の太鼓台と13台の子供太鼓台の30分ごとの運行コース、山根(やまね)グランドでの上部地区太鼓台統一かき比べをはじめ、船木、角野・泉川、中萩各地での見せ場となる統一寄せ・かき比べ(写真1-3-18参照)の次第・演技略図が記載されている。
 **さんに、『上部太鼓台運行表』作成の過程を聞いた。
 「かき夫一人一人に徹底さすには日時がかかりますので、5月に総会を開いて早めに申し合わせ事項を決めておきます。最終的な協議・確認は、執行部と各太鼓台代表者(委員長・副委員長)が集まる代表者会で決めます。太鼓台運行の許可条件は警察が出します。新居浜まつりはけんか祭りといわれ、実際に大きな事故があったので警察が介入せざるを得ないのでしょう。太鼓台運営委員会でも厳しく対処しなければなりません。運行コース表は、各自治会から出されたものを運営委員会でチェックして8月末には出来上がります。
 運行表が整えられるようになったのは最近のことで、その提出を呼びかけて調整に至るまでには長い時間がかかりました。見物人が多くなりイベント化してそれぞれ地域の特色を出そうとする傾向が進む中で、運行表も作られていきました。山根グランドでの統一寄せ・かき比べが始まったのは昭和50年ころだったでしょうか。経済の高度成長期で青年が都会へ出て行き、残った青年も新居浜の工場での労働が忙しいので、次第に地元のかき夫が減って他地区から青年が入って来るようになりました。彼らは責任がないからけんかのきっかけをつくるので、それを締め出すために厳しい規制をするようになりました。昔はおもしろかったなあで済んでいたのが、他地区からの人間が入ってきてそれでは済まなくなり、遺恨を持つようになりました。どうしても太鼓台をかかないかんということになるとかき夫の人間をそろえねばならないということで、ついつい他地区からのかき夫が入るのを黙認してきました。それが平和運行を妨げてきた大きな原因のように思えます。いきおい運行表での申し合わせ事項には、規制・禁止・注意が増えていきました。」

 (エ)上部太鼓台の見せ場

 **さん(新居浜市北内 昭和6年生まれ 68歳)
 角野・泉川から推されて平成10、11年上部地区太鼓台運営委員会会長を務める**さんに、上部太鼓台が今日の人気を得るまでの経過、運営の苦労、山根グランドでの統一寄せなどの見せ場について聞いた。
 「川西地区に比べ今ひとつ盛り上がりに欠けていた上部太鼓台は、昭和51年(1976年)はじめて9台の統一寄せを山根グランドで行いました。翌52年にはかき比べもぐっと上手になり、観客も増えてきました。北内太鼓台が新調を機に山頂の内宮神社への早朝のかき上げを始めて注目され、昭和60年から中筋・新田、平成5年から喜光地の太鼓台が加わり早朝の宮出しとしてすっかり定着しました。太鼓台の数も、平成5年12台、6年13台、7年14台、9年16台、10年17台と、今では一番太鼓台が多い地区になりました。山根グランドでの統一かき比べは、年々人気が上がり観客が増え続けました。残念ながら、平成6年に角野と船木の太鼓台のけんかがあって翌7年かき比べは中断しましたが、前会長らのねばり強い努力で平成8年に復活しました。平成9年には市制60周年で新居浜市すべての太鼓台が市役所前の楠木(くすのき)中央通りに集まったため、この年も上部地区の統一かき比べはできませんでした。
 上部地区のキャッチフレーズは、太鼓台が一番多いところ、まじめに平和で安全に太鼓台をかき、決められた運行時間を守るところ、太鼓台が一番見物しやすいところです。祭りの3日間、観客のことを考えて、それぞれの見せ場も用意しています。
 10月16日、角野地区では、新居浜太鼓まつりのトップを切って、早朝の午前4時半から北内・新田・中筋・喜光地の太鼓台4台による内宮神社でのかき上げが行われます。急な石段を一段ずつかき夫が力を合わせて重い太鼓台をかき上げます。これを見ると、今年も祭りが来たことを実感します。神主さんからお祓(はら)いを受けるころには、空も白みはじめ明るくなります。同じころ、萩岡神社でも宮出し・かき比べがあります。その日午後6時から、船木池田(いけだ)池公園での船木地区太鼓台4台による夜太鼓統一寄せが行われます。暗やみの中、ライトに太鼓台の飾り幕が映えてお客さんは感動します。大生院でも、中萩地区5台の太鼓台が参加して夜太鼓統一寄せ・かき比べがあります。
 17日は、17台の太鼓台が山根グランドに一斉に寄せての上部地区太鼓台統一かき比べがあります(口絵参照)。平成8年の復活時に『かきくらべ・さしあげ競争』と称して、太鼓台差し上げのタイムや姿勢を競わせて優秀太鼓台に1等から3等の賞金を授与することを始めました。平成10年、わたしが会長になってからこれを長続きさせる方策として、毎年同じ太鼓台が1等になるという優劣の評価が定まることを避けるために、1台ごとの対抗から3地区単位の太鼓台の差し上げタイムの平均で順位を決めることに改めました。いわゆる集団競争の採用ですが、1等から3等まであまり金額に差を設けず、3地区すべてに賞金が渡るようにしました。3地区の所属太鼓台の数が違うので、台数の多い角野は損、少ない船木は得といった問題もありますが、各太鼓台は真剣になってよくかき、差し上げタイムを競うようになりました。この競技には、『本部旗を縦に上げる合図で各太鼓台は一斉にかいて自席よりまっすぐ前進して所定の位置でおろし待機する。本部旗を水平にして頭上に高く上げると同時に一斉に差し上げ、地区ごとでタイムを競う。差し上げタイムとは、両手が伸びて差し上げた時からそれが終わった時までのタイムのことである。差し上げが終わった太鼓台は自席へまっすぐ帰る。』など細かいルールを決めています。山根市民グランドでの統一寄せは、12時から15時の時間帯ですが、12時から12時50分は子供太鼓台の演技、13時から15時は大人太鼓台の演技となっています。子供太鼓台との入れ替えで、待機場所や入場・退場順位、さらには前後の会場への運行ルートと、取り決めることが多く大変です。今年(平成11年)は、5月6日の執行部会に続いて、7月4日、8月19日、9月11日と代表者会を3回も持って、運行コースの調整と差し上げ競争の協議を重ねました。
 平成10年は台風・大雨の中で強行しましたがそれでも3万5,000人、今年(平成11年)は好天気に恵まれて6万人の観客が来てくれ、17台の太鼓台がすばらしいかき比べを披露しました。今年の17台が一直線に並んでの差し上げ競争は、今までで最も長く差し上げを続け、お客さんも満足していただけたことと思います。
 17日の夜は泉川や本郷でのスーパーマーケット駐車場での角野・泉川地区や中萩地区の夜太鼓統一かき比べがあります。18日午後は船木地区、角野・泉川地区、中萩地区の統一寄せ・かき比べが小学校の運動場などで行われて、子供たちに喜ばれています。午後3時ころからは地区によって宮入りとなります。角野地区の内宮神社への宮入りは、1台の太鼓台を北内・新田・中筋・喜光地の指揮者とかき夫が連帯してかき、神輿の後について『ソウリャ セイジャ』の掛け声で石段を上ります。観客もあまりおらず祭りの終わりを告げる寂しさの中にも平和運行を象徴するほほえましい風景です。萩岡神社でも、3台の太鼓台のかき夫がおもいきり力を合わせて調子を整えようと、『ソウリャ エヤエヤ ヨイヤノサッサ』の掛け声を掛け合いながら、最後の力を振り絞って神社の坂を上り宮入りしています。」

 (オ)平和で楽しい祭りを

 **さんに、これからの祭りについて聞いた。
 「上部地区太鼓台の会長として2回の祭りを無事済ませ、今はほっとしています。しかし祭りが盛んになることを願う気持ちは人並み以上に強いと自負しています。新居浜の太鼓台は、平和運行を続ければ、四国きっての祭りとなることは間違いないと思っています。太鼓台といえば新居浜ですから、他の地域の太鼓台が平和運行して新居浜がけんかしていたのでは恥ずかしいことです。けんかを防ぐためには、新居浜4地区(川西・川東・川東西部・上部)の運営委員会と警察と市民が連携を強めねばなりません。自分らで解決せず、警察に取り締まりの強化を要請するようでは駄目です。申し合わせ事項や運行の許可条件、警察の取り締まりにも一貫性が必要です。市民や観客の安全を考えた運営をすることです。新居浜のように飾りの豪華な太鼓台は他に見られませんが、豪華さも大きさや重さとともに限界にきているように思えます。これから先の課題は、大きくなり豪華になった太鼓台をいかに上手にかいてお客さんに見てもらうかということだと思います。子供太鼓台だけでなく、中学生・高校生や女性が参加して安全で安心してかける太鼓台は考えられないだろうかと思っています。夜太鼓の美しさも強調したいですね。太鼓台の平和運行を続けて、市民総参加の祭りにしたいものです。」


*4:神社の格式の一つ。明治4年(1871年)の太政官布告で、大・中・小の官幣社、府・県・郷・村社及び無格社に分けら
  れた。昭和20年(1945年)に廃止された。
*5:平和運行への関係者の努力は、『臨海都市圏の生活文化(⑧)』で聞き書きしている。同書には川東地区の「船御幸」の記
  載もある。

写真1-3-10 伊曽乃神社

写真1-3-10 伊曽乃神社

平成11年7月撮影

図表1-3-4 西条祭り・伊曽乃神社祭礼運行コースと時刻予定

図表1-3-4 西条祭り・伊曽乃神社祭礼運行コースと時刻予定

**さん提供資料より作成。

写真1-3-13 加茂川の川入り

写真1-3-13 加茂川の川入り

平成11年10月撮影

写真1-3-17 多数の観客の前での太鼓台かき比べ

写真1-3-17 多数の観客の前での太鼓台かき比べ

山根市民グランドにて。平成11年10月撮影

写真1-3-18 角野・泉川太鼓の統一寄せ

写真1-3-18 角野・泉川太鼓の統一寄せ

喜光地にて。平成11年10月撮影