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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)大島祭り

 **さん(南宇和郡御荘町平城 昭和6年生まれ 68歳)
 御荘湾の大島にある厳島(いつくしま)神社は南宇和郡内海(うちうみ)村の総鎮守の社であり、漁業の神様として南宇和郡内の漁師から崇敬されてきた。この神社の例大祭を大島祭りといって、海上での特異なお祭りとして古くから親しまれてきた(⑪)。が、現在はこの祭りは姿を消してしまった。かつて、厳島神社の神主さんをしていた**さんのご子息、**さんにかつての大島祭りの様子とその経過について話を聞いた。

 ア 島ねり

 (ア)手漕(こ)ぎ船時代

 「大島祭りは、昔は旧暦の9月17日でした。後に新暦の10月17日に変わり、戦前までは神嘗祭(かんなめさい)(*33)の日の休日に行われていました。学校で式があったもんだから、子供たちは式が終わるのが待ち遠しく、終わったら急いで網船に乗って、大勢大島に来ていました。ある時、魚神山(ながみやま)(内海村由良(ゆら)半島の中西部)に行くと、お年寄りから、『あなたは、神主さんとこの息子さんですか、わたしもたびたび大島祭りに行きました。』と言われました。今では真珠の母貝養殖で有名な魚神山ですが、そこから船を漕いでよく行ったそうです。これもわたしが年取ってから聞いたんですが、高畑(たかはた)あたりのお年寄りが、昔の大島祭りの時には、他の船に負けるなという調子で、船をきれいに磨いて、何日か前に船を立てて(船の底の藻(も)やあかを取り除くこと)タールも塗って祭りの準備をしていたそうです。
 昭和12年(1937年)、わたしが小学校1年生の時は、網船が、両舷に8丁から14丁(挺)ずつの櫓(ろ)で『ヤーヤーヤー』と言いながら漕いでお祭りに来ていました。そして、島の回りを競争するのです。船の模型は、御荘町役場の中浦出張所にあります。船の回る順番はお宮の本殿でくじで決めます。お神輿(みこし)を乗せる船も大網(おおあみ)(大きな船のこと)の中から1隻だけくじで決めます。この御座船(ござぶね)(お神輿を乗せる船)のくじに当たった大網の人たちが大喜びの声を出してお宮の階段をかけ降りていました。
 昔の手漕ぎ船の時には、みよし(船首)に、鉢巻きをした人が海に落ちないようにくくり付けられていました。この人が、色の付いた長い布を両手で振って、船に『ヤーヤーヤー』と号令を掛け、これに応じて漕ぎ手が漕ぎます。すると櫓が何に当たって音がするのか分かりませんが、『カーン カーン カーン』と音がします。『ヤーヤーヤー』『カーン カーン カーン』という具合です。幕や大漁旗が船にたなびいていました。『ヤーヤーヤー』『カーン カーン カーン』と島の回りを何隻も回る。この船漕ぎの行事を『島ねり』と言いました。それが大島のすぐそばの小島を通るんです。それはそれは壮観でした。今ではとても通れるような深さではありませんが、わたしの子供の時には泳いでも深くて底が分からないくらいでした。別に競争のコースがあるわけではありませんが、どの船が速いかは見ていると分かりました。」

 (イ)高速船時代の大島祭り

 「御荘湾では昭和12年(1937年)から昭和18年の間に、本格的な高速船の『イワシ巻網巾着(きんちゃく)船』がどんどん増えてきました。そうなってくると、以前の手漕ぎ船は減ってきます。この時代は、高知県の宇佐(うさ)町(高知市南西10数kmのところにある町)からも祭りに来ていました。高知県の宇佐町は、カツオ船漁が盛んな所です。そのカツオ船が、御荘湾でとれた稚魚をえさ用に買いに来ます。そのついでに、カツオ船が大島のお宮にお参りに来てたんです。たまたまお参りに来て漁があると、『あそこへ行け、お参りに行け、漁がある。』とうわさになり、次から次ヘカツオ船がお参りに来ていました。わたしが中学校5年生(旧制中学校)の時、休みに家に戻って来た時にも、盛んに来ていました。
 高速船時代になりますと、手漕ぎ船や、小さな船はなくなり、今度は動力船でどこの船が速いかということになります。何々丸はすごいとか、競争するわけです。網元同士の競争意識が強いので船の性能を競うようになります。戦後になると、どうしたわけか海も浅くなり、小島と大島の間が通れなくなってきて、大回りになりました。
 やがて、船が整備されて東シナ海などの遠洋にも出るようになります。船も大型高速化します。積んでいる網も広げると直径が800mくらいもありました。昔、学校で遠泳大会がありましたが、中浦湾の幅750m泳ぐよりも網の方が長いということで、『そうか中浦湾をすっぽりと覆うくらい、大きかったんだなあ。』と驚きました。御荘湾はイワシ巻網漁業の西日本での先進地なんです。宇和海の他の地域や高知県の宿毛(すくも)湾(高知県南西部、愛媛県境にある)でも御荘湾ほど進んだ大きな巻網船団はありません。
 お祭りも、技術革新とか、時代の進歩とか、海が浅くなるとか、そういうことで形態が変わってきます。それで自然に祭りの様子も変わってきました。」

 (ウ)祭りの思い出

 「大島祭りでは前の日に宵宮をします。各網の責任者、漁労長、総代らが船で大島へ乗り込んで行きます。たくさんの人が海岸で見ていました。長崎の海岸でも見ていました。もちろん、渡し船もあって参拝する人の便宜も図っていました。戎(えびす)丸はこことか、朝日丸はどことか船を着ける場所も決まっていました。船は結構長い間着けていました。色とりどりの飾りの旗でそれはきれいでした。それが島全体を覆い尽くしていました。祭礼が始まると、この小さい島に平山地区の牛鬼が出て練り回り、八つ鹿も出て各船で踊っていました。
 夏祭りもありました。7月20曰くらいの夕方でした。やはり、船が来て人が殺到しますが、秋祭りほどではありません。不思議なことに、ショウガを売る出店が圧倒的に多かったですね。高知県が産地で、土佐の人がショウガをたくさん持って来て、それをみんながたくさん買うんです。それで夏の祭りは、ショウガ祭りとも言われていました。
 普段は倹約していても、このときは子供にお小遣いをはずみます。島の狭い広場には、出店がいっぱい並んでいました。小さな渡し船も長崎から大島まで行き来していました。船の便はいくらでもありました。以前、出店の1軒のお菓子屋さんに聞くと、『わたしらお祭りには3、4日前からお菓子を作りました。きんぼ(黒砂糖とあめで練った中に米粒を入れて棒状にしたもの)とか、板豆(大豆を砂糖で練って板状にしたもの)とかの駄菓子を家内と一緒に何時間もかけて作りました。それが全部売れて、わたしはお菓子でもうけました。』と言っていました。アイスクリームも今のような、既成のものではなく、その場で作ります。卵やミルクを入れて氷で冷やしかき混ぜながら作ります。それがどんどん売れるんです。島の広場は出店だらけでした。豊漁のときは子供は小遣いをたくさんもらえるんです。わたしが小学生のときに、この辺の40番札所(観自在(かんじざい)寺)の縁日で50銭もらって、弟と25銭ずつに分けて、お祭りに行った記憶があります。それでもいい方でしたが、中浦や赤水(あかみず)の子は、お金をいくらでも持っていました。そしてよう買うんです。なんとまあ金持ちだなあと、うらやましかった思い出があります。」

 イ 祭りの衰退

 「大島は船が大型化すると引き潮の時に船が着けません。それで、祭日を旧暦に戻したら、潮が一定なので船が着きやすい。ところが、旧暦にすると11月の寒い時分になったり、学校は休みではなくなります。わたしはお祭りが衰えた一つの理由は、祭りの日を戦後、旧暦にしたからではないかと思います。だから若い子は大島祭りの経験ができなくなります。このお祭りに参加して楽しかったなあ、勇壮だったなあという人は、わたしたちより上の年代の人です。わたしたちより下の年代の人でも、戦前に小学生以上だった人は、船に乗った覚えがあります。もちろん船に乗ってぐんぐん回った人もいます。しかし、今の若い人はその経験がないと思います。
 もう一つ、お祭りが廃れた原因は分村です。昭和23年(1948年)に内海村から南内海村(防城成川(ぼうじょうなるかわ)、赤水、高畑、中浦、猿鳴(さるなぎ)[中浦の西隣])が分村しました(南内海村は昭和31年に御荘町に合併された(⑫))。分村すると内海村の協力はあまり得られなくなります。すると自然に柏(かしわ)(内海村の東部)の人は来なくなりました。
 もう一つ、大島の祭りが途絶えたのは、神主がいなくなったということです。わたしが生まれる前(昭和時代の初めころ)に、祖父は大島の神主に専念するために、家を菊川(きくがわ)(長崎から北西4kmの所)から長崎に移しました。大島には船で通っていました。父は祖父の跡を継ぎました。わたしは、旧制中学3年生の時(1945年)から新制高校を卒業するまで、神主の子として厳島神社に住んでいました。しかし、わたしは信仰心は薄いし、死んだ父の跡は継ぎませんでした。
 さらにもう一つは、戦後、巻網船が東シナ海や北陸の方へ行って、中浦にいなくなったからです。盆や正月には帰って来ます。そのときは中浦湾は連合艦隊が集結したようにいっぱいの船で埋まっていました。しかしその何百隻もの船は、大島祭りには外洋に行って帰れません。しかも最近は200t以上と大型化して島の周りを通れんのです。周りを通ろうにも浅くて通れません。危険です。年々海底が浅くなるんです。それも、お祭りが冷めた原因だと思います。
 また、魚群探知機や人工衛星に結ばれたナビゲーション(*34)などの登場により、魚群の探知が運・不運ではなく科学的に行われるようになり、大漁を神頼みする必要がなくなってきました。これもお祭りがなくなった原因の一つだと思います。このような漁法の進歩は一方で乱獲、漁業資源の枯渇となり、古くからの網元は次々と廃業に追い込まれたり養殖業に転換していきました。」
 **さんによると、今はなき「大島祭り」を思い出させるのが、北宇和郡津島(つしま)町下灘(しもなだ)の由良神社の夏祭りの「和船競争」とのことである。この祭りの起源は、天保8年(1837年)であるという。太平洋戦争で一時中断していたが、昭和61年(1986年)に有志が「押船(おしぶね)保存会」を作り、寄付を集めて2隻の押船を復活させた。由良半島から鼠鳴(ねずなき)までの1.6kmをそれぞれの船に地元の若い者を44名ずつ2組に分けて乗せ、競争している。昨年(平成10年)だけは、真珠母貝の大量死の影響で若者がよそに働きに行き、できなかったが、また今年から行っている。


*33:伊勢神宮の収穫祭で、天皇が毎年の決まりとし7神に幣帛(へいはく)(神にささげる幣(ぬさ):麻や紙で作った、祈ると
  きやお祓(はら)いの時に用いる)を奉幣する終戦までの祝祭日の一つ。
*34:高度2万4千kmの6つの軌道上に各4個計24個の航行衛星を周回させ、そのうち3個の衛星からの電波信号を受信して
  三角測量の原理を応用し、受信者の緯度・経度(現在位置)が測定できるシステム。