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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)雨降れ降れ

 県内では、雨乞(あまごい)踊りは雨の少ない瀬戸内の東予地方に多く行われてきた。そのうち新居浜市船木の「かぶと踊り(*5)」、丹原(たんばら)町田滝(たたき)の「お簾(れん)踊り」は有名である。本県では伊方(いかた)町の「雨乞千人踊り(*6)」が南限のようである(②)。
 弓削町は雨の少ない瀬戸内地方にあって、さらに雨の少ない地域である。昭和48年(1973年)から56年(1981年)の年平均降水量は、1,004.1mmであった(*7)(⑤)。この島は、長年水不足に悩まされ、雨乞踊りの歴史は室町時代にまでさかのぼるようである。江戸時代後期の藩の記録によると、田植えが終わり、梅雨があけても1か月ぐらい雨が降らないときには、神社で祈禱し、久司浦(くじら)・上弓削・下弓削・佐島各地区で雨乞踊りを行った。さらにそれぞれの地区の山に登り、一晩中火をたいて踊り明かした。それでも雨が降らないときには入会(いりあい)といって、弓削と佐島とで同時に向かい合って踊った(⑤)という。しかし、雨乞踊りが実際に行われたのは、終戦後(太平洋戦争後)の数年までであった(④)。
 だが、この越智諸島周辺では、弓削町だけに残っていた雨乞踊りの伝統文化を受け継ごうとする人々の熱い思いは、昭和46年に雨乞踊りを復活させた。

 ア 龍王の掛け声の復活

 **さん(越智郡弓削町明神 昭和22年生まれ 52歳)
 水不足解消のために昭和28年(1953年)に下弓削地区に上水道ができ、その後給水戸数も増加していったが、問題は解消しなかった。ボーリングや海水淡水化プラントなども行ったが、「友愛の水(*8)」ができるまでは根本的な解決にはならなかった。真っ黒い水道水が出たこともあった。このような状況下、雨乞踊り復活の下地はあったのである。
 現在、雨乞踊り保存会の副会長をしている**さんに、雨乞踊りの復活の苦労話を聞いた。
 「わたしらの子供時分は、児玉水道というようなものがあって、児玉さんの私有地の畑に、10軒くらいが会員になって共同で井戸を掘り、パイプをひき井戸水(有料)をもらうようにしました。しかし当時、ポンプは経済的な問題で付けていない家が多かったようで、せっかく会員になっても、水の出が悪かった家もあったようです。各井戸の水も水質が違うので飲み水用、うがい水用、風呂(ふろ)用と分けていました。海水浴へ行っても何回もシャワーを浴びることができないもんだから、水着を着けたら1日中水着で遊んで、寝る前にしか風呂に入れませんでした。特に平地の少ない下弓削地区の方は、井戸も掘れなくて、水がなくて困っていたようです。水は本当に貴重でした。
 このような状態がよその島より長く続いたからでしょうか、わたしがちょうど青年団員だった昭和46年(1971年)、雨乞踊りを復活させないかということで、60歳以上のお年寄りと青年団員が集まって話し合いました。そして、弓削だけに残っている古い伝統のある雨乞踊りをどうしても復活しなければいかんということになりました。『そんなこと言っても我々若い者は、雨乞踊りはぜんぜん知らない。』と言うと、『知らんでもいい、わたしらが思い出しながらするから。』ということで、久司浦(くじら)の集会所に、我々5、6人の若い衆とお年寄りが集まって、踊りの練習やらいろんな話をして煮詰めていきました。そして有志みんなでしようということになって、楽譜を作って踊ることになり、正式に雨乞踊り保存会ができたんです。会員は青年団員17名、一般成人13名でした。その中には実際に踊ったことのある人が3人いました。後は子供のころに、ちょっと心に残っている程度の人ばかりでした。保存会ができてからは、雨が降らないときだけではなく、定期的に踊るようにしました。こうして『雨をたもれ(下さい) 龍王なあ 天に雨はないかいな たもれたもれ龍王なあ』の掛け声がまた復活したのでした。
 復活した当時は、お宮全部に披露するということで回ったりしてましたけど、踊り手が学生ばかりになってからはしていません。わたしは島に残って雨乞踊りの指導部長をしていたんですが、昭和48年(1973年)のオイルショック以降、経済変動により、その当時の青年団時代の仲間はほとんどが島から出て行ってしまいました。そして、また熱が冷めてだんだんしなくなっていきました。しかし、昭和56年(1981年)に、やはりもう一度みんなに雨乞踊りを披露せないかんということで、再び集まってしようということになりました。そこで、雨乞踊り保存会の会員全部に集合を掛けたんですが、なんと青年会員で集まって来たのはわたし一人だったんです(お年寄りの一般会員は十数名集まった)。そこで、わたしが昔、踊りを教えた若者が社会人になって、島に帰って来ていたので、彼に協力を要請しました。そして、二人でなんとか踊りを思い出しながらしようということになりました。わたしは大太鼓しかたたいたことがなく、小太鼓の方はあんまり分からないというような状況だったんですが、記憶を頼りに、ビデオを見ながら、何とか雨乞踊りをつないでいきました。」

 イ 絶やすな、雨乞踊り

 「今は、保存会の一般会員は指導部の我々二人と、あと着付けの時お願いする人が一人います。会員は中学生だけになりました。昭和56年(1981年)に町の指定無形文化財になり、公民館の事務局でいろいろお世話をしてくれるようになりました。
 踊りの方は、自分も覚えているし、ビデオにも残っていますが、だんだん新しい気持ちでアレンジしてますので、最初の踊り方とは大分違ってきています。以前ある高校生が、『踊りがあまりにもおとなしすぎるから掛け声を入れたらいい。』と、提案をしてくれたので、それを取り入れたりもしました。踊りは、念仏踊りと打ち込みと2種類あります。念仏踊りも打ち込みも踊る人数は14名が基本です。が、そのときの参加人数によって違ってきます。旗(旗振り)が一つ、大太鼓が三つ、その間に小太鼓が入って、鉦(かね)が一つというのが基本です。人数の多いときには旗も2本用意して入れ替えたりします。旗振りが先頭でその旗の振り方で全部が動きます。旗が止まるとみんなが止まるというようになります。
 打ち込みのときは、ただ太鼓を打ち円周を回るだけで、円の中に入って踊らないというのが、発足当時の決まりです。念仏踊りのときは、小太鼓の3、4人がくるくると半径4mくらいの円の中で回り、残りの踊り手は円周上を回ります。念仏踊りのほうが、とんだり跳ねたり激しく踊ります。それで通称『とび踊り』といわれています。円周上の回る方向は右回りで辰巳(たつみ)(南東)の方角から始めて、辰巳の方角で終わります。踊る時間は10分ぐらいです。念仏踊りを2回ぐるぐる回った後、打ち込み2周を2度行って、合計6周になります。これも旗の動きで変わります。念仏踊りで天に声が届いたら、『雨をお願いします。』という気持ちで打ち込みになります。
 この雨乞踊りは、最初は各人の浴衣(ゆかた)で踊っていましたが、約30年前に保存会ができてからは、雨乞踊りという文字を入れた浴衣をそろえました。それから2、3年してからこれじゃあちょっとみすぼらしいから、もうちょっといいものを作ろうということで、黒と紺とで龍の模様の付いたいい浴衣を作ってもらいました。踊りをする前に『雨をたもれたもれ 龍王なあ 天に雨はないかいな さあまいろう さあまいどっさ(さあ参ろうと)』と龍王にお願いする。後は、『さあまいどっさ』の掛け声を繰り返します。太鼓のたたき方もその年によって、『ここにこれを入れたほうがいいのではないか。』とアレンジをします。基本的な楽譜は、最初にできたものがそのままで残ってますが、その年その年でアレンジしながら、にぎやかになるように工夫をしています。」

 ウ 各地に招かれて

 「この雨乞踊りは、盆踊りのときにだけ披露するというかっこうでしていました。ところが次第に各地から呼ばれるようになりました(図表1-2-3参照)。最近招かれて方々に踊りに行っていますが、雨が降らなかったのは今治市と松山市くらいで、後はどこでも雨が降っています。尾道市で踊った時は終わった途端に雨が降りました。一番おもしろかったのは、京都市の東寺(真言宗東寺派の総本山、教王護国寺)へ行ったときで、踊りが終わると同時ににわかに雲が出てきて、大粒の雨が降り、お客さんがクモの子を散らすようにいなくなり、後の踊り隊はお客さんなしで踊ってたみたいで、アナウンサーが、『プログラムの順番を書き間違えました。雨乞踊りは最後にすべきでした。』と言っていました。その時も天気予報では雨の予報は全然出ていませんでした。このように、確率的にはいい確率で雨を降らしています。
 今思い出してちょっと悔しいのは、平成6年に水不足の時がありましたね。あの時も踊ろうということで一生懸命だったんですが、当時は一般会員が集まらなくてできませんでした。町長も『ぜひ雨乞踊りを。』と言うので、昔の経験者に出ていただいてしようとしましたが、結局あの年は会員不足でできませんでした。
 下弓削では、昭和50年代の初めころに1回だけ、雨が降らないので、弓削神社で雨乞踊りをしました。昨年(平成10年)から下弓削地区では盆踊りがなくなりましたので、もう盆踊りでは披露できなくなりました。弓削町内でも、下弓削地区以外には要請がない限り行っていません。盆は仏さんを迎えていますね、その側で太鼓をどんどんたたくのもなんか気が引けますから、要請がないと行けないんです。1回お年寄りにも見せたい、ということで上弓削には行きました。現在は、下弓削地区の中学校の運動会に2年に1回出ています。会員も中学生だけになり生徒頼みとなってしまっています。今は弓削町の公民館が雨乞踊りの世話をしています。去年は5か所から出場の要請がありました。尾道だけは行きましたが、予算的な面と、会員の休暇が取れないということで後はお断りをしました。
 中学生には4、5月ころに『雨乞踊り保存会を結成しますんでお願いします。』という案内状を出します。生徒からの申し込みを受けて、担当の先生が『これだけになりました。』と公民館へ報告します。そして公民館からわたしの方へ、『こうこうで何人集まったからしようと思うんですがお願いします。』と依頼をしてきます。その後、週に2回くらい放課後、公民館で踊りの練習をします。踊れるようになると、1か月か2か月に1回練習するというようになります。昨年は17名応募してくれました。一昨年からは女子も参加するようになりました。
 やりかけたことだから、要請があれば弓削にいる限りは踊りを続けるつもりです。とにかく絶やさないように、できるだけ続けたい。後継者はいないのだからわたしがしないといかんのです。今までしてきて雨を降らしている自信もあります。とにかく公民館とも協力して続けていかなければならないという気持ちだけです。」


*5:女性が輪になって踊っているところへ、男性が一人ずつ加わっていく。雨乞いのしぐさを素朴な農民の姿でもって踊り、
  笑いをもたらす。神仏に祈願するとともに自らの抑圧された心を開放せんとするもののようであり、歌詞もなく拍子のみを
  とって踊る無言の踊り。
*6:太鼓の囃子(はやし)に合わせ、踊りの文句を繰り返して簡単な踊りを納める。小部落で行って雨が降らないときには、町
  全体で大雨乞千人踊りを行う。昭和9年・33年・42年・53年に千人踊りが実施されている。
*7:ちなみに、昭和36年(1961年)から平成2年の松山の平均降水量は1,286mmであった(「愛媛のすがた’99」愛媛県企
  画環境部統計課企画・編集、愛媛県統計協会発行より)。また1997年の愛媛県全体の平均降水量は1,440mmであった
  (「統計で見る県のすがた1999」総務庁統計局より)。
*8:「友愛の水」は昭和60年(1985年)にできた上島(かみしま)上水道のことであり、恒常的な水不足に悩む弓削町、生名
  (いきな)村、岩城(いわぎ)村の3か町村に、広島県沼田川用水から県境を越えて浄水の供給をうけ、地域住民1万2千人の
  家庭に供給するものである(⑤)。

図表1-2-3 最近の主な招待・要請行事

図表1-2-3 最近の主な招待・要請行事

**さんからの聞き取りにより作成。