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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)疫神払いの祭り

 ア 魚成の実盛送り

 **さん(東宇和郡城川町魚成 昭和11年生まれ 63歳)
 **さん(東宇和郡城川町魚成 昭和11年生まれ 63歳)
 実盛送りは、農作物の害虫を追い払う虫送りの行事である。滅びた平家の武将だった斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)(*12)の無念の霊魂がイネにたたるという伝説が定着して、虫送りをサネモリ送りとかサネモリ流しと呼ぶ地方もある。特定の歴史上の人物の供養よりは、稲虫送りの方が古く、サネモリという名称はサオリ・サノボリ(*13)と関係があるのかもしれない(⑤)。
 城川町魚成(うおなし)地区では、実盛送りの日の前日に、一部の地域の神社でサンバイモウシという行事が行われる。そして、当日には、寺で入魂祈願の供養をしてもらった実盛人形を持った行列がむらを歩きながら、各所で幾度となく龍沢寺楽念仏(りゅうたくじがくねんぶつ)を奉納する。
 魚成地区にある河内(かわち)神社の宮司である**さんにサンバイモウシの話を、また、龍沢寺楽念仏の指導者として活躍している**さんに、実盛送りと龍沢寺楽念仏についての話を聞いた。

 (ア)サンバイモウシ

 「(**さん)この地方では、田の神様をサンバイサマと呼んでいますが、実盛送りの前日には、ビワの葉に『御年大神(みとしのおおかみ)』という神様の名前を書いてサンバイサマに田植えが終了したことを申し上げ、豊穣を祈願するサンバイモウシという行事があります。
 ここ(旧魚成村)には、神社が6社ありますが、そのうちの一宮(いっくう)神社と河内神社・杉王(すきおう)神社・三島(みしま)神社では今でもこの行事を行っているんです。
 文字を書くビワの葉は、サンバイシバと呼んでいるんです。各地区の区長さんが、地区の家々に必要なだけのビワの葉をそろえて神社に持ち寄り、文字を書きますが、書く人は、区長さんや組長さんが集まって書く場合(河内神社)と宮司が書く場合(一宮神社)とがあるんです。なんでビワの葉に書くかというと、ビワの葉がウシの耳に似とることからきているんではないかと思うんです。昔から米作りにはウシは一番大専なものでしたから、その大事なウシの耳に似ているビワの葉に、神様の名前を書いて豊作を願ったんです。
 文字を書いたビワの葉は、区長さんによってそれぞれの農家に2枚ずつ配られますが、農家ではその葉をウシの耳のように組み合わせてタケに挟み、田に立てるんです。また、このサンバイモウシの際には、河内神社では、わたしが銘旗に「奉鎮斎藤別當實盛命五穀豊穣守護修(しずめまつるさいとうべっとうさねもりのみことごこくほうじょうしゅごしゅう)」という文字を書いてサンバイシバと共に神殿にお供えしていますが、その旗は翌日の実盛送りの行列に加えていただき、実盛人形と一緒に川に流すようにしてるんです。」

 (イ)実盛様がむらを行く

 「(**さん)実盛送りは、毎年田休みの日(6月の最後の日曜日)に行われるんです。その日は、宝泉(ほうせん)寺に、午前8時ころまでに田穂(たお)地区の総務区長、区長、会計、それに実盛人形の製作者、念仏衆が集まります。
 寺では、和尚さんに約40分ほどかけて実盛人形(以下、実盛様とする)に性根入れ(入魂祈願の供養)をしてもらいますが、その後は念仏を申して(念仏供養を行って)軽く小宴を催してから、上流にある大池まで皆で歩いて行くんです。魚成の実盛送りは、この大池から出発するということになっとるんです。これは池の水が米作りには欠くことのできない大切なものという認識からの行動ではないかと思うんです。
 大池に皆が集まると、再びそこで念仏を申して、午前11時に川下(かわしも)に向かって出発します。実盛様の行列は、今は奇麗に整備された県道野村(のむら)・城川線を通っていますが、昔は大池から流れる川に沿って点々と建てられた茶堂(ちゃどう)(*14)を縫うように細い道があって、そこを通っていたんです。茶堂は少なくなってきましたが、現在でも田穂には、沖の堂とごまじり茶堂という二つの茶堂が残っているんです。
 実盛様の行列は、念仏を唱えながら道々を進んでいくんです。田穂から魚成の五つの地区(川向(かわむかい)、町中(まちなか)、中津川(なかつがわ)、陰之地(かげのじ)、古市(ふるいち))のすべての土地のどこかを通って、それぞれの茶堂で休みながら今田(いまで)の杉の瀬(杉の瀬診療所の下の川)まで下って行くんです。そして最後は川原に実盛様を運んで安置するんです。安置された実盛様は、自然の大水で早く流されたらその年は豊作だと言われているんです。
 行列の構成は、先頭を四本旗を持つ人が行き、続いて実盛様を持つ総務区長さん、太鼓を担ぐ人、念仏を唱えながら進む念仏衆などですが、この道行きは大変に疲れるんです。そこで各茶堂では必ず小休止をします。そして茶堂に実盛様を安置して、集まった人々にしばらく拝んでもらった後に一庭(ひとにわ)というて、一通りの念仏踊りをするんです。特に、田穂の人は、お寺と大池と二つの茶堂と実盛様を手渡すむら境で、合計5回も念仏を申すんで大変疲れるんです。
 普通の念仏供養は、一庭すると15分ぐらいは掛かるんですが、終着点の今田でする杉の瀬での打ち上げ(最後の念仏供養)は特別で、ここには観客も多くて、四庭か五庭の念仏を申し、その後に特別な門返(もんがえ)し(図表1-1-5参照)というものもするんで、とても長くなるんです。時間でいえば終点に着いてから打ち上げるまで1時間以上は掛かるんです。
 実盛様は、サンヤ袋という袋を首に掛けておられます。拝む人はその袋に赤飯(せきはん)やかしわもち、あめ玉、お金などなにがしかを入れ、入れた人は袋の中からなにがしかを頂いて、新しいものと入れ替える仕来りになっているんです。頂いたものは各家に持ち帰って仏壇にお供えした後、食べられるものは家族でお相伴(しょうばん)にあずかっているようです。こうして人々が実盛様を拝むのは、害虫を退散して五穀豊穣を願うことはもちろんのことですが、家内安全、とりわけ夏病(なつや)み(夏にかかる病気)をしないという健康のことを祈願する目的もあると思うんです。ですから行列の途中でも近所の人が出てきて実盛様を拝むんです。
 各地区にある実盛送り保存会では、念仏供養の衣装はそれぞれの地区で準備していますが、鉦(かね)と太鼓と念仏傘(ねんぶつがさ)については特別に作って、すべて田穂で保管しているんです。当日はむら境で次々とそれらの品物がバトンタッチされ、最後の今田の人が行事の終了後に田穂に返還することになっとるんです。」

 (ウ)龍沢寺楽念仏保存会と実盛送り保存会

 「(**さん)わたしが龍沢寺楽念仏保存会(以下、龍楽念仏保存会とする)に入った昭和45年(1970年)ころは、『念仏は見て覚えよ。たたいて覚えよ。』と言われていて、特別の記録らしきものは何もなく、先輩たちによる口伝(くちづた)えで学んでいたんです。ただ壁をにらんでたたいて、人のするのを聞いたり見たりして学びました。なにしろ、初めのうちは、どこが始まりでどこが終わりやら全体像が皆目分からず困ったものです。その後、何年も見様見真似(みようみまね)でしてるうちに、次第に最初から最後までの全体像が分かってきました。そこで、わたしは、是非この時期に全体の流れをまとめておかねばならないと思い立ち、先輩たちになんべんも確かめながら幾度も書き直して、やっと龍沢寺楽念仏の音句表を作ったんです(図表1-1-5参照)。今はこれを基に皆で練習してるんです。
 龍沢寺の楽念仏は一時とぎれていたんです。しかし、戦争中に拠出したはずの鉦が一部出てきて、昭和44年に28年ぶりに復活しようという話が進んで龍楽念仏保存会が結成されたんです。現在、会員になっている念仏衆は21人で全員が男性です。
 龍楽念仏保存会の会員は、実盛送りの行事に参加し、陰之地にある顕手院(けんじゅいん)の施食会(せじきえ)(施餓鬼会(せがきえ)(*15))や龍沢寺の施食会もすべてにかかわっているんです。
 実盛送りは、昔は田穂から今田に至る川筋の集落ごとに念仏組があって、代々引き継がれていたんです。しかし次第にする人が少なくなって実施が危ぶまれるようになり、長老の方たちが相談してまとめて一つの保存会が作られたんです。実盛送り保存会の会長は、出発が田穂からですので、田穂の総務区長が選ばれることになっています。
 練習は、実盛送り保存会と龍楽念仏保存会は、奉納する念仏が同じですから、今は実盛送りの日が近くなると、田穂の総務区長さんが練習日を決め、龍楽念仏保存会の方にも通知をして一緒に練習しているんです。今年(平成11年)の実盛送りは6月27日でしたので、6月21日、23日、24日と合計3回の合同練習をしました。龍楽念仏保存会では、こうして実盛送り保存会と一緒にする練習は年に3回は持つことにしているんです。練習では、大きな用紙5枚ほどに書いた『龍楽念仏音句表』を田穂の公民館の壁いっぱいに張り付け、皆で見ながら楽念仏をするんです。練習時間は午後8時から午後10時まで約2時間ほどはしています。この練習には、一年で交代する各地区の区長さんなどの実盛送り保存会の関係者も参加しておりますので、素人の方も多くて、全員が鉦や太鼓と念仏踊りをそろえるのはなかなか難しいんです。
 また、龍楽念仏保存会の独自の練習の方は、龍沢寺の施食会が近づいた7月20日以降に、1週間ほどかけて一日に2時間ほど練習しています。」

 (エ)実盛人形作り

 **さん(東宇和郡城川町田穂 昭和3年生まれ 71歳)
 実盛送りは、実盛人形が無くては行えない。むらでただ一人の実盛人形の製作者である**さんに人形作りの苦労話を聞いた。
 「人形は実盛送りの出発地である田穂で作ることに昔からなっとるんです。先代の製作者は12年間も作ってこられましたが、病気になって急にわたしに作れということになったんです。わたしもたまには作るところを見学したことはあるんですが、自分が作る気で見てなかったもんで、あまり覚えてはおらず、大変苦労しました。初めから後継者としては教えてもらっていなかったんです。
 わたしが実盛人形を作り出したのは4年前(平成7年)のことで、現在は5体目の人形を作っとるんです(写真1-1-15参照)。少しでも立派な人形を作ろうと、昨年はこうであったから今年はこうしようと修正を加えながら作っているんです。昔の人形の現物があって見ることができれば作りやすいんですが、そうでなしに、ああだったこうだったと思い出しながら作るんで、最初の人形作りには大変骨を折りました。だれにも教えてもらえずに、見本が城川町土居のどろんこ祭保存館に1体と宇和(うわ)町にある愛媛県歴史文化博物館に1体あるというので、それらを見学に行き参考にしたんです。実盛様の人形は川原に安置して大水が出た時に流すんで、毎年作らなければならんのです。人形の頭だけでも残して置いてもらえれば助かるんですが、それも昔からの言い伝えでやむをえないことだと思うんです。
 人形の手と足の部分は、骨として針金を入れ、わらをまくうて(巻いて)紙を張り付けて作ります。胴は、頭や首が付くように四枚の板を組み合わせた細長い箱を作り、それにわらを巻き付けて紙を張り付けて作るんです。顔は、キリの木で作るんですが、鼻や耳の部分など、凸凹を付けねばならず大変なんです(写真1-1-16参照)。固い木の方が彫った時のつやはよいとは思うんですが、柔らかい木でないとよう彫らないのです。キリでは出来上がったものにつやがないんで、今年の顔にはニスを塗ってみたんです。頭には髪の毛のかわりにシュロの皮を張り付けています。それに烏帽子(えぼし)、陣羽織(じんばおり)、サンヤ袋を紙で作り、小さな草鞋(わらじ)もわらで編むんです。また、手には指を5本ずつ作って、一方には采配(さいはい)、もう一方はイネの苗を握らせるんです。わらを2、3本紙で巻いてのり付けして作った指に、縫い糸でかがって采配やイネの苗を持たせていたんですが、昨年(平成10年)から手の指は針金を入れて作るようにしてます。実盛様が背負う四本旗も紙で作るんです。旗の文句は『山川地主 諸鬼神等斎藤別当実盛入道大居士(だいごじ) 悪虫退散 五穀豊穣』というんですが、和尚さんに書いてもらっています。
 人形作りは、年に1個しか作らないので慣れるということはないんです。のりを付けて乾くのを待たなければいかんし、朝から夕方まで一日中するわけにもいかず、いろいろと思案をしながら作るんで、頭と顔だけでも5日は掛かるんです。初めに顔がきちんとできないと他のことがやりきれん(できない)のです。実盛送りの日は、例年6月の最後の日曜日なんで、田植えを終えたころに総務区長さんから今年も作ってくれという依頼がありますので、5月10日くらいから作り始め、だいたい6月5日ころまでには作り上げるんです。この間、他人の手助けは一切ありません。
 田穂には、人形を作る人が他にいませんので、日ごろから気を付けて材料を集めているんです。顔を作る大きなキリの木や実盛様を持つ取っ手の部分の曲がった木などは、山に行った時に使えるものがあれば切って乾かしておくんです。実盛様は総務区長さんがずっと持って歩くんで、人形はできるだけ軽く作らなければならないのです。
 わたしもかなりの年になったんで、後継者をつくらんといかんと思っとるんです。わたしの経験からすると、一度も手伝いをせずに作るということは大変なことなんです。後継者が決まれば、1、2年はぜひその人と一緒に作ってあげたいと思っているのです。」

 イ 権現山のお山開き

 **さん(伊予郡広田村総津 大正14年生まれ 74歳)
 **さん(伊予郡広田村総津 昭和6年生まれ 68歳)
 **さん(伊予郡広田村総津 昭和16年生まれ 58歳)
 愛媛県には代表的な山岳信仰の山、霊峰石鎚(いしづち)山がある。そのお山開きの日には西日本各地から多くの信者が登拝するが、この石鎚山に登拝できない人々のために、石鎚神を勧請(かんじょう)(*16)して小石鎚などと呼ばれる模擬石鎚が各地に存在する。
 石鎚権現(ごんげん)の勧請については、近隣の小山を石鎚山になぞらえて模擬石鎚山として祀り、祭日を石鎚本山のお山開きの日に合わせたり、祭礼を「お山開き」と称したりしている。
 また、小型ながらも鎖を掛けたり、女人禁制を踏襲したりして本石鎚に近づけ、同じ御利益(ごりやく)にすがろうとしている(⑥)。
 伊予郡広田村総津にある標高440mの権現山(豊峰(とよみね)山)は(写真1-1-17参照)、こうした模擬石鎚の一つで、「広田石鎚」「伊予の西石鎚」「小型石鎚」などと呼ばれて古くから山伏(やまぶし)(山野に起き伏して仏道修業に励む僧)などに親しまれてきた山であり、旧暦の6月1日には田休み行事としてお山開きが行われる。そしてこの山には、石鎚山と同様に、山頂には蔵王権現社が祭祀(さいし)されており、「せり割り」「一のくさり」「中のくさり」「上のくさり」等の難所がつくられ、天狗谷や魔の谷を見下ろす「東のぞき」「西のぞき」がある。また、山ろくには、精進潔斎(しょうじんけっさい)・斎戒沐浴(さいかいもくよく)(*17)をする修験道(しゅげんどう)にとっての必須条件とされる滝もある。江戸時代に描かれたという『豊峰山細見之圖(とよみねさんさいけんのず)』によると、この権現山は、蔵王(ざおう)権現社を主体に6社6坊の社寺がある堂々たる構えで、当時の栄華がしのばれる(⑦)。
 伊予郡広田村総津の川口地区に生まれ育ち、権現山のお山開きにかかわりを持ってきた**さんと**さんに、権現山のお山開きについての話を聞き、奉賛(ほうさん)会(*18)会長の**さんに事実関係を確認してまとめた。

 (ア)お山開き今昔

 「(**さん)このむらの者が権現山を信仰しとるのは、五穀豊穣祈願もありますが、やっぱし家内安全ではないかと思うんです。ここらは、お見かけ通りの棚田ですので、長い間かかって田植えをして、やれやれ終わった田休みだというので、このお祭りがあったんです。この権現山のお山開きは、むらの人の楽しみ事だったんです。今でこそ田植えは早くなりましたが、昔は旧暦の6月1日ころがちょうど田植えの終わったころだったんです。この日は、ごちそうをつくって休み、権現山にもお参りし、お客もお参りに来たついでに寄るなどしてました。
 権現山のお山開きは、明治時代(1868~1911年)のころはかなりにぎやかにしてたんではないでしょうか。しかし、わたしがうすうす覚えている昭和10年(1935年)ころには、ほら貝を持った白装束(しろしょうぞく)の山伏さんのような人がぽつぽつお参りに来るぐらいでした。その後はいよいよ廃れていったんですが、昭和33年(1958年)ころから熱心に世話する人たちの努力でしだいに盛んになり、現在は信仰というよりは、遊びというか観光のお客さんが主にお参りに来とるんです。
 参拝者は、松山市・砥部町・小田(おだ)町・内子(うちこ)町・松前(まさき)町などからで、県外からは帰省した広田村関係者ぐらいです。かつては、熱心な先達(せんだつ)(案内者)がいて、松山市や内子町の方からもマイクロバスで信者さんが大勢来てました。しかし、ここ4、5年は少なくなりました。祭りの日が旧6月1日と決まっており、日曜日になるとは限りませんので、村外の参拝者が減少してるのではないでしょうか。」
 「(**さん)この辺の地名には、東林坊(とうりんぼう)とか青巌寺(せいがんじ)などというお寺の名前がかなり残っているんです。あちこちに古い墓の五輪や石仏もあり、大昔には信仰集落があったんではないかといわれているんです。広田村でもこの総津の川口地区は古くから開けたところなんです。昔は弘法大師(こうぼうだいし)(774~835年)も修業したという言い伝えもあって、ここは山伏や修験者などがかなり入ってきて修業した場だったんではないかといわれているんです。この権現山に登って山の地形を見たら分かるんですが、石鎚山とつい(同じ)です。こんまい(小さい)だけで、まあ形がよう似とるんです。
 明治(明治時代)のころは、お祭りになると、権現山の下から上まで白装東の人でずっと続くぐらいはお参りがあったとじいさんから聞いてます。しかし、わたしが物心ついたころには寂れてしもて、御神体(ごしんたい)もとられて(盗まれて)のうなって(なくなって)いたんです。御神体がのうなって、はやらん(盛んにならない)ことになったんです。
 権現山の御神体には仁・智・勇の3体ありますが、そのうちの1体は、御神体がのうなった時に、広島の方の彫師(ほりし)さんにケヤキで彫らせたもので、不動明王(ふどうみょうおう)(*19)のようなお姿をした立派なもんです。あとの2体は、権現山の祭りを復活せねばいかんと言っていたころに、ある人が讃岐(さぬき)(香川県)の金毘羅(こんぴら)さん(金刀比羅宮(ことひらぐう))にお参りしていたら、店に権現山の御神体にふさわしいのがあったというんで、わたしのじいさんらが買いに行ったんです。それを地元の酒屋さんのご主人と奥さんが1体ずつ寄付してくれたんです。この2体の御神体は金属でできとるんです。御神体は山頂に担ぎ上げるもんですから、40cmぐらいのものです。
 御神体は、もともとは川口の方に安置しとったんですが、明治42年(1909年)に豊峰神社が総津の三島神社に合祀されてしまって持っていかれてしもうたんです。ですからお山開きの前夜祭の日に、御神体は三島神社から権現山(豊峰神社)にお運びしとるんです。この豊峰神社の御神体は、神仏一体神なんです。お参りに来る人もいろいろで、線香を上げる人もいればロウソクを立てる人もいるのです。」

 (イ)奉賛会とお山開きの日

 「(**さん)お山開きには、総津の三島神社の4人の神社総代さんにもお世話になってはいますが、事前準備や前夜祭の世話、当日のお祭りの世話などは、すべて豊峰神社奉賛会の者が仕切っているんです。
 奉賛会の会員は、川口に住む者は全員ですが、その他に総津の町中や高市などの各集落にも会員がいて、全部で45人くらいでしょうか。会員は、毎年もち米1升(1.5kg)と一人当たり2,000円を出しとるんです。この奉賛会がいつごろできたかはっきりしませんが、昭和33年(1958年)ころからではないかと思うんです。そのころからこの祭りを盛り上げてきたんです。お札なんかを作ったり、もちをまいたりしたのもそのころからです。」
 「(**さん)お山開きの日が近づくと、5日前に幟を立て、2日前にもちつきをするんです。もちは約3俵ほどつきます。昔はわたしの家で、その後は集会所でついてましたが、ふるさと館か完成してからは、機械もあるんで今はそこでついとるんです。もちつきは、お参りする人が一人でも多いほうがええいうて、昭和33年ころから福入りのもちまきをするために始まったんです。
 前夜祭の日は、集会所でちょっとした食事をしてから三島神社に集まり、神事をして午後5時ころから神官さんが御神体の御霊(みたま)を抜いて宮出しをするんです。約1kmほどの道程を、奉賛会の者が箱に入った御神体を背負って総津の町中を太鼓をたたきながら運び、町外れから豊峰神社までは車でお運びするんです。そして豊峰神社の護摩堂(ごまどう)(*20)でも再び神事を行い(写真1-1-18参照)、御神体に御霊を入れてもらうんです。その夜は、奉賛会の会員が集まり、夜中の12時ころまで酒を飲んだりして神社でオツゴモリ(おこもり)をして一部の人は神社で一夜を明かします。昔は、信者さんもかなりみえとったんですが、このところやや下火になって少なくなりました。たまに偉い行者(ぎょうじゃ)さんが来たりすると、御神体を出してきて、皆の体に御加持(ごかじ)(*21)をするいうてドンドンと御神体を擦り付けてくれるんです。奉賛会の会員は恐ろしゅうて御神体はよういろわん(触れることができない)のです。もしものことがあると権現山が何をするやら分からないので、魂が入った以上は絶対にいろえないのです。神官さんが来て魂を抜いてくれればいろえるんですが、霊を払い落とすだけの力がなかったら御神体はいろえないのです。
 お祭りの当日は、奉賛会の会員は5年ぐらい前に作った白い法被(はっぴ)を着て(それ以前は普段着)、お札や口ウソク、線香を売ったり、お神酒やもちを配るなどいろいろな世話をします。御神体は午前5時45分(平成11年の場合)になると御動座(ごうどうざ)いうて2体の御神体を山に上げますが、もう1体は山に登れない人のために下にお祀りしておくんです。山に上がる奉賛会の会員は、御神体を背負って上がる連中とお供えを持って上がる者など7人ぐらいです(写真1-1-19参照)。御神体を頂上社に運び上げる時には、神官さんは頂上にいて下の神社にはいないので、護摩堂で修験者さんなどがおれば御祈禱(ごきとう)をしてもらい、そんな人がいない時は皆で般若経(はんにゃきょう)を唱えて御神体を清めて上げるんです。
 山の頂上には蔵王権現社が祀られていますが、御神体が到着すると、神官さんが神事を行い、神社総代や部落総代、奉賛会会長などが玉串(たまぐし)をささげた後、神官さんが御神体をそれぞれの身体に擦り付けて御加持をしてくれるんです(写真1-1-20参照)。その後会員は山を下りますが、神官さんは頂上に1日いて、登って来る人にお神酒を振る舞ったりしてるのです。山の頂上には、30人くらいは上がれます。昔は立派なマツの木が頂上にはあったんですが、マツクイムシにやられて枯れてしまい今は小さなマツしか生えていません。お祭りの参拝者は、今はせいぜい300人ぐらいではないでしょうか。しかし、もちまきの時には保育園児やむらの者が大勢来ています。」

 ウ 玉川町の和霊神社の祭り

 **さん(越智郡玉川町法界寺 昭和23年生まれ 51歳)
 玉川町法界寺(ほうかいじ)にある和霊神社(写真1-1-21参照)は、およそ300年前に宇和島和霊神社の分神がこの地に勧請されたという。言い伝えによると、法界寺村庄屋浮穴与右衛門包敏(うけなようえもんかねとし)が若くして難病に悩み、宇和島の和霊神社に参詣して祈願を込めたところ病気が全快した。そこで同家の庭内に勧請して屋敷神として祀っていたが、霊験があらたかだという評判を聞いて参拝者が絶えず、一時は三島神社に遷宮(せんぐう)(神座を移す)したが、その後、今治藩主松平定剛(まつだいらさだよし)も厚く崇敬して、桑坂(くわさか)山の7反余(1反は約10a)を免地(税を免ずる土地)として与えられ、寛政11年(1799年)に現在の地に新しく本殿・拝殿が建てられたといわれている(⑧⑨)。
 このように玉川町の和霊神社は、勧請のいきさつから病気平癒(へいゆ)に効験があるとして地域の人々に尊崇されたが、やがて宇和島の和霊神社と同じように農業の神、漁業の神として広く信仰されるようになっていった。
 玉川町法界寺に生まれ育ち、現在、神社総代をしている**さんに、和霊神社の祭りの様子を聞いた。
 「玉川町の和霊祭りは、昔から毎年旧暦の6月23日(平成11年は新暦の8月4日)に行われることになっています。日曜日にすれば参拝者は大分違うんですが、今のところはこの祭り日を守っています。
 神社関係の役員は、法界寺には和霊神社と氏神様の三島神社がありますので、宮総代一人と副総代一人が双方の神社を兼ねて、会計はそれぞれの神社に正副二人を置いています。和霊神社の氏子は、団地を含めて100軒くらいありますが、それを11組に分けて、日ごろは月に一遍のお宮掃除を各組が順番で行っているんです。
 祭りの準備は、祭りに一番近い日曜日に、各家から一人ずつ都合がつけば寄って、神社の片付けやしめ縄をなってオシメアゲ(しめ縄を張ること)などをしています。そして、前日になると、参道に二十数個の献灯(けんとう)(神社に奉納する灯明(とうみょう))を約5m間隔に設置する作業をしているんです。昭和25年(1950年)ころまでは獅子も出ていましたのでその練習もあったんですが、今は矛(ほこ)(四角の枠を組んで真ん中に赤い旗を立てたものを子供が提げるもの)と神輿だけになり事前の練習は一切していません。
 この和霊祭りには、昭和25年ころまでは矛や神輿のほか、獅子や櫓太鼓、奴なども出ていたんです。その後、しばらくの間は神輿だけになり、次第に都会に出る人が多くなると、祭りを支える人もいなくなって、昭和40年(1965年)代ころには献灯だけで神輿も出ていなかったんです。しかし、昭和51年に台風による災害があり、その復旧を期に昭和53年ころより、地域を活性化するためになんとか祭りを復活しようという話が進んで復活したんです。
 宮出しは、昔から午前9時と決められております。お旅所は、神社から300mくらい離れた蒼社川沿いにあります。お旅所までは、小学校4年生から中学校2年生までの男の子が持つ二つの矛が先頭を行き、それに2体の神輿が続きます。2体の神輿は、一の輿は鳳凰の屋根飾りがあるので鳥と呼び、二の輿は屋根に玉の飾りがついているので坊主と呼んでいるんですが、先に鳥の神輿が行き、それに坊主の神輿が続きます。昔は鳥の方を40歳以上の者がかき、坊主の方は40歳以下の者がかくことになっていたんです。しかし、今はかき手が少なくなってしまって、1体を10人ぐらいでかきますが、鳥の方は高齢者がかき、坊主の方を残りの若者組がかいているんです。
 お旅所では神事だけが行われます。その後は、矛と鳥の神輿は社務所に直接帰りますが、坊主神輿は、神社総代や地区総代の家などを10軒くらい回って、各家でちょっと神輿を下ろしてお神酒を頂きながら昼ころまでに三島神社に着き、そこに神輿を安置して、かき手はいったん家に帰って休むんです。そして、夕方の6時ころになると、再び坊主神輿は三島神社を出発して和霊神社の参道をしばらく上下して練るんです。さらに午後7時ころになると、社務所に安置していた鳥の神輿も合流し、一緒にしばらく練って午後8時ころに宮入りをするんです。
 玉川町では、夏祭りは和霊祭りだけですので、昔は参道の両側にぎっしりと夜店が出て大変なにぎわいであったと聞いています。この和霊祭りは夜市みたいなもんですから、今年も15軒くらいの夜店が出てました。参拝者は夕涼みがてらの浴衣姿の若者たちや子供たち、それに今治市などの近隣の市町村の漁業関係者なども来て、午後8時ころには参道を神輿が通りかねるような状態になり大変にぎやかです。昔はお通夜(つや)というて、広島県の竹原市や尾道市などの県外からも大勢の人が泊まりがけでお参りに来ていたようです。今は泊まる人はいませんが、幾人かは夜遅くまでおこもり堂におられるようです。」
  

*12:平安末期の武将。木曾義仲を討つため出陣し、討手の大将と組み打ち、高刈りの稲株に足を奪われ不覚の最後をとげ
  た。
*13:サオリは、田植え始めに田の神を迎える祭り。サノボリは、田植え終わりに田の神を送る祭り。
*14:南予地方を中心に旧道沿いにあり、弘法大師像・庚申(こうしん)像・地蔵などの諸像を安置した建物。四国遍路や通行
  人などを接待したり、宗教的行事が行われる住民の信仰の場となっている。
*15:餓鬼道に落ちた亡者や無縁仏のために行う供養。
*16:神仏の分身、分霊を他の地に移し祀ること。
*17:身を清め、飲食や動作を慎み、けがれを去るために体を洗うこと。
*18:神社・仏閣などの仕事を謹んで手伝い、賛助する組織。
*19:梵語(ぼんご)で動かざる尊者の意。大日如来が悪魔を降伏するために怒りの相を現したもので、右手に剣、左手に縄を
  持ち、火炎を背にして座している。
*20:護摩(梵語で火祭の意)をたいて祈禱を行う仏堂。
*21:仏が不可思議な力で衆生を加護すること。

図表1-1-5 龍沢寺楽念仏の演目と念仏音句

図表1-1-5 龍沢寺楽念仏の演目と念仏音句

**さんからの聞き取りにより作成。

写真1-1-15 5体目の実盛人形

写真1-1-15 5体目の実盛人形

平成11年6月撮影

写真1-1-16 製作中の実盛人形

写真1-1-16 製作中の実盛人形

平成11年6月撮影

写真1-1-17 権現山(豊峰山)

写真1-1-17 権現山(豊峰山)

平成11年7月撮影

写真1-1-18 豊峰神社の護摩堂

写真1-1-18 豊峰神社の護摩堂

平成11年7月撮影

写真1-1-19 御神体の御動座

写真1-1-19 御神体の御動座

平成11年7月撮影

写真1-1-20 権現山山頂での御加持

写真1-1-20 権現山山頂での御加持

平成11年7月撮影

写真1-1-21 玉川町の和霊神社

写真1-1-21 玉川町の和霊神社

平成11年8月撮影