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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)むらの鎮守の春祭り

 ア 三滝(みたき)神社の春祭り

 愛媛県の南西部、東宇和郡の東端に位置する城川町は、米作や畜産、林業などの第一次産業就業者の比率が38.8%で、人口約5,000人の山あいの町である。この町の窪野(くぼの)地区には、昔からむら人に豊親(とよちか)様の名で親しまれている三滝神社(*2)があり、毎年4月17日には春祭りが行われている。
 この祭りでは、窪野の八つ鹿踊りや牛鬼が奉納されているが、本項では、神輿(みこし)の先駆けとしての牛鬼と祭りを楽しむ人々の姿を探った。なお、鹿踊りについては、「3 秋に祝う」で取り上げている。

 (ア)窪野の牛鬼

 **さん(東宇和郡城川町窪野 昭和11年生まれ 63歳)
 宇和島市を中心とする南予地方一帯の祭りに登場する牛鬼は、その由来や発祥などは定かではないが、ウショウニ、ウショウニン、オショウニンとも呼ばれて親しまれ、神輿の先駆けとして声勇ましく練り歩き、悪魔退散やお旅所(*3)への先導、道清めをつとめる(③)。
 城川町窪野にある三滝神社の春祭りで、牛鬼のカゴ(骨組籠(かご)のこと、タケで編んだ牛鬼の胴体に当たる)つくりや牛鬼をかく役割を長く担ってきた**さんに、牛鬼についての話を聞いた。

   a 牛鬼のカゴつくり

 「この窪野には、春は豊親様の祭り、夏は念仏踊り、秋は秋祭りで奉納相撲がありましたが、春の祭りが一番にぎやかで、昔は三滝神社の祭りとは言わずに『豊親様の祭り』と言うとりました。豊親様の祭りでは三滝城跡で酒や肴(さかな)でおこもり(皆が集まりごちそうを食べる行事)をするのがむら一番の楽しみ事でしたが、お練り(祭礼の行列がゆるゆると進行すること)では途中で牛鬼が暴れ(口絵参照)、八つ鹿が踊って大変なにぎわいでした。
 わたしのとこの組(川後岩(かごいわ)地区)は牛鬼を担当してましたが、牛鬼の胴体に当たるカゴ(写真1-1-3参照)つくりは、昭和40年(1965年)ころまでは1年おきにつくっていたんです。カゴをつくる日は、旧暦の2月1日に行う2月入り(*4)という行事の日と決まっていました。その日は、朝から男たちが樽(たる)の神さん(川後岩地区にあった神社)に集まってカゴつくりをしました。太平洋戦争前のむら人が大勢いたころは、若者がカゴをつくり、お年寄りがお伊勢踊りをするという時期もありましたが、戦後になってからは、戸数も減ってしまい、皆でカゴつくりをするようになったんです。カゴが出来上がると神事があり、続いてお伊勢踊りを奉納し、年祝い(*5)の該当者がある時はその厄払いをして、午後からはもちまきも行われていました。しかし、高度成長期の昭和40年ころからは、むらに人手も少なくなって、2月入りの行事も次第に廃れて、カゴつくりも1年おきにするのはやめてしまったんです。現在は、川後岩の者5人くらいが中心になって、手伝いに来てもらっている下里(さがり)地区の人と一緒にカゴをつくっています。下里の人の手助けを受けて牛鬼もかくようになってからは、牛鬼は暴れないようになってカゴも傷まんようになったんです。それでカゴが傷むまではつくらんということになり、現在使っているカゴは、10年くらい前につくったものなんです。カゴは三滝神社の春の祭りが済むと本殿の中に入れて保存してます。
 牛鬼のカゴをつくるタケは、秋のいい時期に切っておくんです。タケや木は暦に書いてある大つち・小つちの日(*6)に切ったらいかんのです。この日に切ったタケはながせ(梅雨)が過ぎたらぼそぼそ(ボロボロに腐ること)になるんです。つくったカゴは、4月17日の祭りの日までは樽の神さんのお堂に置いて乾かしていました。つくりだてだったら重たくてカゴはよう上げないんです。
 牛鬼に着せる布は、昔は麻のごつい布で作られていましたが、それがボロボロになってしまったので、5年くらい前に老人クラブの人が麻の蚊帳(かや)で作ってくれたものを使っています。
 牛鬼の扱いでは、頭(かしら)のひもの張り方が重要なんです。頭には背筋とその両側に張る3本のひもがあるんですが、そのひもの張り方によって頭の使い方が楽な時としんどい時があるんです。ひもは張り過ぎてもゆるめ過ぎてもいかんのです。ひもがゆる過ぎると頭が重たくなり頭の扱いが難儀になるんです。また、張り過ぎると頭の棒の差し込みの箇所が折れる時もあるんです。ですから頭の紐取(ひもと)り(牛鬼の頭にひもを付ける人)はベテランでないといけんのです。」

   b 牛鬼をかく

 「牛鬼のかき手としてカゴの中に入るのは15人ぐらいです。そのうち現在は川後岩からは3人になってしまい、他は下里から手助けに来てもらっているんです。牛鬼の頭は一人の人間が操るんですが、現在は川後岩の者が二人で交代しながら操っているんです。かき手は、背の高さを調節して左右の肩をそろえてかくんですが、頭を扱う人の前の左右にいるかき手が頭の扱い方を知らずに勝手に動いたら頭は扱えんのです。牛鬼はこの二人が頭の扱いを熟知して頭使(かしらつか)いと呼吸を合わせて動いてくれんといかんのです。
 牛鬼の頭の扱い方には一定の方式があるんです。現在伝わっているのは、『頭をいっぱい差し出して、頭を左に回して上げる。右に回して上げる。前へ下げて上げる。』ですが、その略式として普通は頭を左右に8の字に動かして頭を上に突き上げるんです。
 牛鬼は、ヤマタテ(城川町で大警護(だいけいご)と呼ぶ所もある)というサカキに御幣(ごへい)(*7)を付けたものを持った者が号令を掛けたり、牛鬼の中に入っている者が号令を掛けたりして動かしますが、ヤマタテを持つ者は牛鬼使いという役割があり、また祭り全体を取り仕切る役割もしています。先頭のヤマタテがいる場所から内は神域で、そこに人がいて怪我(けが)をしても一切責任はないという暗黙の了解があったんです。牛鬼もヤマタテが立つ位置より外に越えることはありませんでした。
 昔は、祭りになりますと、カゴをつくった年は、川後岩の樽の神さんから牛鬼をかいて三滝神社まで行くんですが、途中の各家々を回りながら、牛鬼の頭を家の玄関などに突っ込んでお祓いをするカドヅケ(門祓い)をして、ご祝儀を頂きながら上がったものです。そして翌年は、三滝神社から前年と異なる別の道を下りながらカドヅケをして行きました。途中の道々では、お年寄りが牛鬼をお牛様と言うて拝んでました。カドヅケする家々では、かき手にお酒を出す家もあって、かき手は次第に酒に酔ってべ口べ口になり、三滝神社に登る急な石段(石段は180段あり、今は八つ鹿だけが登っている)を登るころには、若い者5人ぐらいで牛鬼をかいて登るという状態にもなって大変でした。ときには、お旅の始まる時間までに間に合わん時もあって区長が大変心配したものです。
 牛鬼は、三滝神社で一休みしますが、昼からは、本殿に頭を入れて宮司さんのお祓いを受け、頭の左右としっぽとかき手の両腰に御幣を付けてもらってから神社を一回りして(昔は3回で、八つ鹿は現在も回っている)、三滝城跡のお旅所まで急な坂道を登って行ったんです。途中牛鬼は暴れながら登るんですが、『ヤマ』という号令が掛かったら牛鬼はさっと後ろに下がるので、見物していた人々が慌てて逃げ惑っていたものです。お旅所になっている三滝城跡の広場に行くと、大勢の人がおこもりをしていて、牛鬼がやっと通れるような状態でした。
 お旅では出発する順番が決まっていました。牛鬼は、悪魔払い・露払いの役割を担っていますから、宮出しのときはお練りの先頭を行きます。牛鬼はお練りでは一番偉かったんです。指揮権は牛鬼にあって、他のものは牛鬼より先に行ってはいけなかったんです。お旅所で神事が終わって宮入りする時は、神輿や八つ鹿などをすべて見送ってから(写真1-1-5参照)一番最後に牛鬼は一暴れして神社に戻るんです。
 この祭りも、お年寄りばかりになって今年(平成11年)はとうとう三滝城跡までのお旅が中止になり、三滝神社の境内で行われたんです。伝統ある八つ鹿が踊りをやめてしまったら、この祭りも消滅してしまうのではないかと思うんです。なんとか保存していきたいと思っているんですが、川後岩でもあと5人ほどいなくなると、牛鬼のカゴつくりもできなくなるんではないかと心配しているんです。」

 (イ)祭りの楽しみ

 **さん(東宇和郡城川町窪野 明治40年生まれ 92歳)
 **さん(東宇和郡城川町窪野 昭和6年生まれ 68歳)
 **さんは、むらの最長老で、長年にわたり三滝神社の神社総代を務めてきた。息子の**さんも三滝神社の例大祭での諸役を引き受け活躍している。三滝神社の春祭りの楽しみについて二人に話を聞き、主に**さんの話をまとめた。

   a おこもりと福まき

 「この窪野には昔は13ほどの集落がありました。全員が三滝神社の氏子ですので、宮出しでは各集落が何らかの役をそれぞれ引き受けるよう取り決められていたんです。この桂(かつら)地区は、一番お宮に近いというので、お練りでは、神輿をかく役割と天狗(てんぐ)とお多福の役も請け負っていたんです。祭りの宮出しの先導は、悪魔払いの牛鬼なんです。次に幟(のぼり)、旗、槍(やり)などが続き神輿(みこし)が行きますが、このごろは過疎になってしまい、人が足らないので簡素になってしまったんです。宮出しでは、槍などは一人が数本まとめて持ったりしています。他の道具も倉にあるにはあるんですが人が足らんので出せんのです。今年の主な出しものは、牛鬼と八つ鹿の踊りだけになってしまいました。
 三滝神社の春祭りの楽しみはなんといってもおこもりでした。おこもりは、各家の家族が親せきの人や知人などの招待客を伴い、ごちそうを詰めた重箱と酒を持って三滝城跡に登り、皆で食べる直会(なおらい)(*8)の行事なんです。お旅所になっていた三滝城跡の広場では、人がいっぱいになって重箱を広げ、食べたり飲んだりしていました。八つ鹿踊りを見ている人はごく一部で、知人がいたら『おい、こっちにこいや。』と言うたりして相互に呼び合って酒を酌み交わし、親交を深めたものです。また、若い者たちにとっては一つの男女の交流の場でもあって、祭りがきっかけでロマンスの花が咲き結婚した人もいたんです。
 もともと窪野の祭りは、春祭りに三滝城跡に登っておこもりをして、秋祭りでは自宅でお客をしていた(客をもてなしていた)んです。しかし、昭和40年(1965年)ころの全国的な生活を合理化する運動の広まりの中で、祭りも統一され簡略化されていったんです。そのために、窪野でも秋祭りは次第に廃れてしまったんです。そして春祭りに家でお客をするようになり、山でにぎわうおこもりは廃れていったんです。そこで少しでも春祭りをにぎやかなものにしようと当時の町長さんの発案で、福まき(当たりくじの入ったもちまき)に金のダルマを景品に付けたらどうかということになり、松山のデパートに特注して一等の景品にしたんです。福まきの景品は、特等は三滝神社の木札(家内安全など祈願した本の守り札)で、一等が金のダルマ、二等が銀杯、三等以下は日用品などでした。しかし、金のダルマは20万円くらいもして高いんで、それよりも安い品物を多く景品にした方がよいという意見も出て、3年前(平成8年)から金のダルマは中止になったんです。今年(平成11年)の一等はテレビでした。
 福まきは戦前から行われていました。わたしも小学校のころに拾ったのを覚えています。福まきでまくもちは、青年団がついていました。お宮の掃除も青年団がしてたんです。わたしの青年時代には青年もたくさんいて、この窪野でも70人くらいはいたんです。もち米は各戸から5合以上(1合は150g)集め、全部で2俵(1俵は60kg)ほど集めていました。もちを小さくちぎって丸めるのは大変で、そのうえに景品の引き換え番号を記した当たり札を入れたもちも500個ぐらいは作るんで、もちつきは朝から夕方までかかっていました。また、景品が足らないので、窪野以外のお店や事業をしている人からもらうんです。今は窪野地区の全戸から1,000円集めていますが、寄付ですから強制はしていません。その他特別寄付も役員さんにお願いして全部で50万円ほど集めているんです。
 福まきは人がよく集まるんです(写真1-1-6参照)。時間を合わせて来る人も多いんです。福まきの時間は午後3時と決めておりますが、まく時間が遅くなるのは構わないのですが、1分でも早くまいたらいけんのです。人が多くいたころは、もちをようけ(たくさん)拾う人でも当たりくじ入りのもちを拾うのは2個くらいで、一つも拾えない人の方が多かったくらいです。現在は社会見学ということで先生が小学生を連れて来てますが、かつては窪野の小学校に150人ほど、土居の小学校に250人ほどの児童がいて、学校は朝から休みで、朝の神事があるころから福まきの終わるまで子供たちが走り回ってにぎやかでした。周辺の学校の子供も遠足を兼ねて来ていました。」

   b お客をする

 「お祭りには、窪野以外の親せきの方を招待していましたが、わたしが二十歳前後になってからは、青年団で付き合っている人も招待して、30人、40人ものお客が来てにぎやかでした。昔は、ほとんどの家がごちそうを作って来客を接待していました。たまたま道を尋ねた人でも『まあ上がんなはいや(上がって下さいや)。』と言うて家に引っ張り込んだりしてごちそうしていたんです。今はそんなお付き合いをしている家は少ないんです。むら全体が老齢化して、行き来がしんどくなり、タクシーに乗ってまでは行かんということになったんです。年寄りが多いので葬式(そうしき)があったりした家は2、3年はお客をするのを休みますし、今は祭りでお客をする家は半数以下でしょうか。
 祭りの料理は、昔はそれぞれの家で準備してました。各家で栽培したサトイモやダイコンなどと自家製の豆腐(とうふ)やコンニャクなどを材料にしてごちそうを作っていたんです。くずし(魚をすりつぶして作るかまぼこやてんぷらなどのこと)や魚を前日に買いに行くこともありましたが、自動車もなく、今のような奇麗な道ができていないころは大変でした。
 魚は、土居地区の魚屋さんが朝早くから天秤棒(てんびんぼう)(両端に荷をつるして肩に担ぐ棒)を担いで吉田(よしだ)町から仕入れていましたが、それを、わたしの家から片道2時間ほどかけて買い出しに行っていました。そして、買った魚は腐らないように家の井戸につるしたりしてました。近ごろは、祭りの料理はほとんど仕出し屋さんに頼んで作ってもらっているようです。
 お祭りでは、この地方独特の巻き羊かんという菓子をよく作っていました(写真1-1-7参照)。この菓子は、城川町や野村町でよく作られていたようです。もち米や小麦の粉を材料にして水でよく練りあげたものを(甘酒を入れて練る場合もある)、適当な大きさに薄く四角に伸ばしてそこに棒状にしたあんを置いたり、または満遍なくあんを付けたりして、タルト(*9)のようにくるくると巻いたものを蒸籠(せいろ)(釜の上にのせてもち米などを蒸す容器)で蒸すんです。蒸し方が悪いと割れたりしてうまくいかないこともあり、作るのはなかなか難しかったんです。この巻き羊かんは大変おいしいんです。わたしの家では、祭りになると50本くらいは作ってお土産に持って帰ってもらっていました。」

 イ 石清水八幡(いわしみずはちまん)神社の春祭り

 **さん(越智郡玉川町小鴨部 大正9年生まれ 79歳)
 **さん(越智郡玉川町別所  昭和4年生まれ 70歳)
 愛媛県の北部、高縄(たかなわ)半島の中央部に位置する玉川町は、北は今治(いまばり)市と越智郡大西(おおにし)町、西は越智郡菊間(きくま)町と北条(ほうじょう)市、南は松山(まつやま)市と温泉(おんせん)郡重信(しげのぶ)町および周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町、東は越智郡朝倉(あさくら)村と東予(とうよ)市に接する。町は三方を山に囲まれて中央部を蒼社(そうじゃ)川が北流し、これに流入する小河川の付近に形成された平坦地に集落が集中している(④)。人口は約5,800人で、産業は町の約87%を山林が占めている関係で農林業が主体であるが、現在は今治市への通勤者が多い。
 玉川町小鴨部(こかんべ)に生まれ、祭りに深くかかわって奴(やっこ)の役などを引き受けてきた**さんと、玉川町別所(べっしょ)に生まれ育ち、現在宮総代をしている**さんに、石清水八幡神社の春の例大祭の様子を聞いた。

 (ア)昔の祭り

 「(**さん)石清水八幡神社の例大祭は、ずっと昔は旧暦の8月15日に夏祭りを行っていたようですが、わたしが物心ついたころは新暦の5月15、16日に行っていたんです。その後、今治市と祭り日を統一しようということになって、40年くらい前からは5月10、11日に春祭りを行うようになったんです。
 氏子は、元の鈍川(にぶかわ)村と鴨部(かんべ)村・清水(しみず)村・立花(たちばな)村にあった16の集落に住む者で、現在の玉川町と今治市にまたがっているんです。
 祭りの宮出しは朝の8時くらいからでした。お練りは、先頭を行く奴・獅子(しし)・櫓太鼓(やぐらだいこ)・神輿の順に続きました。奴は、昔の参勤交代の大名行列の時に先駆けをつとめた役で、毛槍(けやり)を振りながら進むんですが、最初はオハコと言うて箱を担ぐのが二人行き、次に毛槍の先に白い毛の付いた白毛と黒い毛の付いた黒毛が続き、その後を傘(かさ)をすぼめた形をしたヤグラオトシと言うて重さ40kgもあるようなものが続き、最後にやや短い棒の先に黒い布をかぶせていわえた(縛った)スッポンと呼んでいたものが行きました。これらはそれぞれ2本ずつあって、それらを持つ人とその交代要員が二人ずついて、全部で20人くらいは出ていました。しかし、その毛槍などは、今は神社の階段の入り口に立て掛けられています (写真1-1-8参照)。
 次に獅子が続きますが、獅子はお宮を出るときにはツカイコミいうて頭を3回ぐらい神殿に突っ込んだ後、境内で立ち芸(継ぎ獅子の芸)を披露してお旅所へ出発していました。一つの獅子には、大人の獅子つかいと、子役もお面をかぶったオヤス(お多福)や鈴を持って舞う三番叟(さんばそう)、獅子の上に立つタチアゲという役もあり、全部で30人以上の人が要るんで、獅子を担当する所は相当な費用が要りました。
 奴や獅子のけいこは、3月のお節句のころからぼちぼち始めていました。奴のけいこはお宮の参道でしましたが、けいこでは最初からは本物の毛槍は使わないのです。タケの先にわらを結び付けた毛槍を作って、夕方に1時間ぐらいけいこをしたんです。祭りが近くなると一度は本物を使ってけいこをしますが、慣れたらそうでもないんですが、重心が具合よくとれないと重たくて、腰を入れてうまく毛槍を回さんと槍の上に付いている毛がうまく開かんのです。獅子のけいこも祭りが近くなると毎晩するんで、炊き出しをしたり、たまにはお酒を飲ましたりして大変でした。
 櫓太鼓は、周桑郡の方に出ているような山車(だし)(種々の飾り物を付けて引く屋台)の小さいようなものですが、車の上に7人ぐらいの子供が乗って、年寄りのうたに合わせて太鼓をたたいて回っていました。その後を3体の神輿が行きますが、それに5、6人のウマに乗った神官さんと3、4人の人力車に乗った巫女(みこ)さんが続きました。」
 「(**さん)獅子は各集落の順回しで出すことになっていたんで、順番が来れば必ず出さなければならんかったんです。小さい集落であれば獅子頭(ししがしら)を一つ、大きい集落では二つという具合に出しまして、今年が当たりの年であれば、次の年はお礼獅子というて2年間は出すことになっていたんです。ですから獅子は最低2か所からは出てたんです。しかし、それ以外でも出られるところは自由に出とったんです。当時は若い者が大勢いて中村(なかむら)や鳥生(とうりゅう)などからは獅子がようけ(たくさん)出ていました。戦前で一番多かった時は7頭ぐらいも出たことがあったんです。現在、獅子を出しているのは中村だけになってしまいました。昔はどの集落でも集落単位で獅子頭は購入していたんで、今でも各集落には獅子頭が保存されています。
 神輿は、『あばれこし』というてとにかく暴れていたんです。終戦後に若いもんが大勢帰ってきて気分もすさんでいたんで、神輿同士の鉢合わせ(ぶつかり合い)をしたり、石段の上から下まで神輿を転がしたりして壊したこともあったんです。宮入りの際、終戦後1回だけ各集落を回ったことがあったんです。3体の神輿を鈍川地区から鳥生地区までを3地域に分けて別々に持って帰りまして、お神酒(みき)も入ってその勢いで暴れて原形がないくらい壊してしまったことがあったんです。修理するよりは新しく作ったほうがよいというんで神輿は新調したんですが、今の神輿はその時に作った神輿なんです。壊したら自分らの負担ですから、その後は壊すのはやめようということになって、集落を回るのはやめにしたんです。今の神輿は、境内でたまには鉢合わせみたいなことをすることもあるんですが、とにかく静かにかいています。」
 「(**さん)お旅所は、お宮から2kmくらい離れたとこにあるまんじゅう屋さんの下側にありました。お旅所に行くには二つの道があったんです。今治側(下(しも)と呼ぶ)と玉川側(上(かみ)と呼ぶ)の2か所に石段があって、1年おきに宮出しに使う石段と宮入りに使う石段を交代していたんです。このお旅所までお練りが出とったのは、昭和17年(1942年)ころまででした。それ以後は戦争が激しくなって、お練りはしばらく中止してたんですが、戦後の昭和25年ころから再開して、昭和37年くらいまではお旅所に行っていました。しかし費用問題などで中止になって、今は境内にお旅所を設けています。
 お練りは、途中で2か所くらいに止まって神輿を下ろして休みますが、そこでは獅子が立ち芸を披露したり、オヤスが獅子の上でもちをつく所作をしてもちを投げたりしてました。お旅所までの道の両側には出店が続き、たいていの家ではお客をしてましたから、人も多く来てお旅所までの道は人でいっぱいでした。お旅所には正午から午後1時ころに着き、そこでは神事をするだけで特別の行事はありませんでした。終わると獅子や奴、櫓太鼓はそこで解散し、神輿だけが宮入りをしたんです。」

 (イ)今の祭り

 「(**さん)掃除や神輿の飾りなどの祭りの準備は、部落総代と宮総代が一度寄って相談し、宮司さんが各地区に割り当てて行っているんです。宮総代は、鈍川、鴨部、清水、立花、鳥生の各地区からそれぞれ1人ずつ、それに八幡神社のある地元の八幡地区からも1人出て6人います。会計は八幡地区の総代さんが兼ねているんです。
 祭りには今は中村獅子と神輿しか出ません。そのうち神輿は3体出ますが、氏子の数で地域を3地区に分けて神官さんが神輿を割り当てているんです。神輿は、鳳凰(ほうおう)(*10)が付いている一の輿が紫色で、二の輿と三の輿は緑色と黄色にそれぞれ色分けしていて、紫・緑・黄の色別のたすきを着けた人がかくんです。輿守(こしもり)(神輿をかく人)は、今年は、1体につきかき手8人、替わり手8人、補助10人の26人ほどいますが、それぞれの神輿をかく輿守のたすきの色は、3地区で毎年ローテイションしています。
 宮出しは今も8時ころからですが、神事の後に2頭の獅子が頭を3回神殿に入れてお祓いを受けた後、上の境内で立ち芸を披露します。その後、階段を降りて下の境内でも立ち芸などを披露した後、子役たちが獅子の上から参拝者にもちやお菓子などをまくんです。その後、獅子は境内にあるお旅所に行って露払いをしてから解散します。そしてそのころになると、神輿が出て来て境内を練り歩くんですが、しばらく練った後には神輿の下をくぐる行事を行うんです。一の輿を先頭に3体の神輿が縦に並んで、かき手が高く掲げる神輿の下を参拝者が『おかげを頂く。』と言うてくぐるんです。これをすれば今年1年間の無病息災(むびょうそくさい)(病気や災害に遭わないこと)を頂くことになるという言い伝えがあるんです。神輿をくぐった人は皆ほっとした顔をしています。その後神輿はお旅所に入って、輿守が参列する中で神事が行われ、祭りは終了するんです。
 参拝者は、氏子の範囲が広いですから、今も結構集まりにぎやかです。昔はお客を呼んで接待するお客ごとも大変派手にしてました。しかし、戦後の生活改善運動の中で費用もかさむというんで、今治市と祭り日を統一してからは次第に寂れてしまったんです。このごろはあんまり親せきとの行き来もないんで、祭りくらいは別々にしたらええのう(いいのう)という意見もあるんです。」


*2:天正11年(1583年)に三滝城主紀親安が長宗我部元親と戦って討死するが、住民はその徳を慕い、城主の死を悼んで三
  滝城の守護神である蔵王権現に合祀(ごうし)(二柱以上の神を一つの神社にまつること)して豊親神社にあらためたとい
  う。その後、明治42年に末社を合祀して豊親山三滝神社と呼ばれるようになった。
*3:祭礼に際し、御神体が神輿などに乗って渡御する祭場のこと。また、御神体がお旅所に渡御することをお旅という。
*4:2月1日のこと。この日は「重ね正月」、「二の正月」とも言い、その年にちょうど厄年に当たる人が、1か月間だけで
  厄年を飛び越えてしまうと考えて正月の行事をこの日にもう一度祝う風習がある。
*5:数え年61歳の還暦、70歳の古希(こき)、77歳の喜寿(きじゅ)などに息災を祈り祝う。
*6:陰陽道で、土を犯してはならないとする日。暦の庚午(かのえうま)から丙子(ひのえね)までの7日間を大つち、翌々日の
  戊寅(つちのえとら)から甲申(きのえさる)までの7日間を小つちという。
*7:神祭用具の一つで、白色または金銀・五色の切った紙を、祓いに用いる串(幣串)に挟んだもの。
*8:神事のあと、神前にささげた神酒や供物を参加者が分かち飲食する行事。
*9:ユズあんをカステラで巻いた菓子。松山藩主松平定行が長崎でオランダ人より製法を伝受したもので、四国松山の名産と
  なっている。
*10:古代中国で尊ばれた、めでたいものとされた想像上の霊鳥。

写真1-1-3 牛鬼の胴体に当たるカゴ

写真1-1-3 牛鬼の胴体に当たるカゴ

平成11年4月撮影

写真1-1-5 神輿を見送る牛鬼

写真1-1-5 神輿を見送る牛鬼

平成11年4月撮影

写真1-1-6 福まき 

写真1-1-6 福まき 

平成11年4月撮影

写真1-1-7 巻き羊かん 

写真1-1-7 巻き羊かん 

平成11年6月撮影

写真1-1-8 スッポンとオハコと毛槍

写真1-1-8 スッポンとオハコと毛槍

平成11年5月撮影