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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 弘法師集落探索記

 平成26年(2014年)4月5日(土曜日)の天気予報は、曇り一時雨。それでもまだ草は茂っておらず、「消えかかっている山道を歩くのには良い日和だ。」ということで、同僚のYさんと、今は無い集落、弘法師を訪ねた。彼は、中学2年生の時(1973年)まで、隣の宮ヶ成集落に住んでいた。
 Yさんによれば、宮ヶ成は「ミヤガナル」、弘法師は「コウボシ」と読み慣わしていたという。宮ヶ成に最後まで残っていたのがY家で、そのころの弘法師には一家族しか残っておらず、電気も通っていなかったそうだ(宮ヶ成には通っていた)。
 弘法師へは、千里口から𧃴川へ抜ける道を、立野への分岐を過ぎてから対岸へ渡り、山道を登る。Yさんは、川登にあった千里小学校(現㈱タケチ)へ、下りで一時間近くかけて通っていた。それでも、オオルリや川ガニを見つけたりして、楽しみも多い道だったそうだ。
 現在の道は、倒れた竹やイノシシで荒れた箇所もあったが、丁寧に石を積んでしっかり作られていたと偲ばれる。また、川沿いの土地は、小さな棚田がずっと続いていたという。今は植林されてしまって分かりにくいが、そのすべてに石積みを行い、田んぼに粘土を貼った労力を思えば、気が遠くなる。
 橋を渡って30分ほどで、弘法師集落のあった場所についた。屋敷地には立派な石垣がめぐらされており、墓石や五輪塔の石が残っている。もともと何軒あったのかは分からないが、10軒もなかったと思われる。
 屋敷地を上り詰めると、神社の跡があった。ここは、植林をしていないため、一際荒れて見通しが効かなかったが、立派な鳥居や記念石などがしっかりと立っていた。
 引き返す道すがら、「あの沢に沿ってお地蔵様がたくさん並んでいた。」というYさんの言葉に対岸を望むと、2ヶ所の墓地とお地蔵様が見えた。
 墓地はいずれもB家のもので、神社内の寄付名もB姓が多い。明治時代、ここは大平村に属していた。ある大きな墓の主は、日露戦争に従軍、病没して村葬された。埋葬料並びに一時金として220円、遺族扶助年金として30円、下賜されたと記されている。
 この辺りからさらに登ると別の神社があったそうだが、雨が本降りになってきた上に、道が消えていたので、今回はこれで終了ということにした。
 弘法師の集落は、近くの集落からは直接目にできない位置にあり、隠れ里という雰囲気である。
 いつから人が住んでいたのか、どのようなくらしをしていたのか。
 集落内の墓石をざっと見たところ、元文4年(1740年)のものが一番古かったが、何も刻まれていない板石や、五輪塔が崩れた石も見受けられた。
 藩政時代には、刀砥石に使用される良質の砥石が採れていて、新谷藩の重役が巡察したこともあったらしい(山本典男『伊予砥ものがたり』2000年)。明治時代には、弘法師窯という窯が開かれていた(砥部町教育委員会『砥部焼の歴史』1969年)。
 山裾では弘法師鉱山が、遅くとも明治30年(1897年)ころから稼働を始め、日本では最後まで残ったアンチモン鉱山として、昭和45年(1970年)まで操業していたそうだ(『愛媛県立博物館 自然科学普及シリーズ2』1982年)。
 建物はすべて解体され、みっしりと杉が植えられている。