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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 満穂鉱山で働く

(1) 戦時中の記憶

ア 食糧難

 「私(門田行雄さん)は子どものころからずっと篠谷に住んでいます(図表2-3-1参照)。玉谷(たまたに)国民学校(現砥部町立玉谷小学校)5年生のときに終戦になりました。戦争中、私の家では田んぼで米をたくさん作りましたが、『供出。供出。』と国を挙げて言っていたので、ほとんど手元には残っていなかったことをよく憶えています。当時は戦地で働く兵隊さんに食べさせないといけない、ということで供出だけは確実にしていたので、家には麦すら十分な量が残らず、秋に収穫できるサツマイモやトウキビができるのを楽しみに待ち、収穫後はそればかりを食べるような毎日でした。国民学校4年生になると、学校へお弁当を持っていかなければなりませんでした。私の家では毎食雑炊のようなものばかり食べていたので、お弁当としてそれを持って行くことができず、弁当がない日が多くありました。4年生以上は昼休みになると、学校の講堂へ集まってお弁当を食べるのですが、持って来ていない子どもは先生に、『お昼を持って来ていない者は、後ろに立っとれ。』と言われて、講堂の後ろに立たされて、みんながお弁当を食べている様子をじっと見ていなければなりませんでした。毎日毎日この繰り返しだったので、これくらい辛(つら)いことはありませんでした。朝御飯では雑炊を食べるだけだったので、お昼になると当然腹が減ります。自分だって食べたくてたまらないのに、級友たちが食べている姿をじっと見ていなくてはならなかったのです。家が学校から近い所にある子どもはお昼を食べに家へ帰っていましたが、篠谷や満穂から通う子どもたちは、一旦帰ることができなかったので、私だけではなく男女合わせて大抵10人くらいはお弁当を忘れて立たされていました。お弁当を持って行くことができない家庭環境にある、ということは学校の先生もよく承知していたと思うのですが、そのことを理由として認めてもらえることはありませんでした。」

イ 勤労奉仕

 「国民学校の4年生になると授業らしい授業がほとんどなく、勤労奉仕作業が一日の多くを占め、私たちは山へ炭をかるい(背負って運ぶ)に行っていました。炭かるいでは、一つの炭俵に15kgの炭を入れて運ばなければなりませんでした。男の子はもちろんのこと、女の子も同じように重たい炭俵を背負って、山のケモノ道のような足もとが悪い道を1時間半ほどかけて歩いていました。しんどそうな女の子の姿を思い出すと、今でもかわいそうだったなと思うことがあります。戦時中、特に玉谷国民学校の地区には炭焼きをされる方がたくさんいたので、よく運ぶ手伝いに従事していました。戦後、くらしが豊かになった中で同級会などを開いて、その当時の思い出話になると、その経験をした女性の中には涙を拭う方もいました。食べ物もほとんどない状態で、昼までに山へ行って15kgの炭俵をかるうて山を下りて、午後の2時間か3時間が学校での授業でしたから、勉強をしに学校へ、というような意識をもつことが難しかったことを憶えています。」

ウ 空襲警報

 「朝学校へ行きかけたとき、空襲を知らせるサイレンが鳴ると友だちが、『空襲警報やけん、今日も学校へ行かなくてもええぞ。』と言っていました。警戒警報であれば登校しましたが、空襲警報が出ているときには登校する必要がなかったのです。私の家の近くに半鐘台がありますが、空襲を知らせるサイレンが鳴っても、誰も半鐘台へ登ろうとしなかったので、子どもの私が登って鐘を叩(たた)いていました(写真2-3-1参照)。鐘を『カーン、カーン、カーン』と鳴らすと警戒警報、空襲警報では、『カンカンカンカン』と短く四つ連続で叩いていました。この鐘の音を聞くと、みんな木や建物の陰に逃げていました。この辺りに爆弾を落とされたことはありませんが、半鐘を叩いて半鐘台から下りていたら、もうそこに翼が角い『グラマン』と呼ばれていた戦闘機が2機編隊をきれいに組んで20機ほど飛んで来ていました。日本の戦闘機はそれを6機で追いかけて来て、長い時間空中戦をやっていました。木陰からそっと空を見上げて様子を見ていましたが、日本の戦闘機の動きを見て、『操縦がうまいなあ。』と感心していました。家の真上でグラマンと日本の紫電改とが『バリバリ、バリバリ』と大きな音を立てて空中戦をやったときには、私の家の畑などに、『カラン、カラン』という音を立てて、銃弾の薬きょうが落ちてきていました。日本の戦闘機は薬きょうを落としませんが、アメリカの戦闘機は落とすのです。学校の先生からは、『薬きょうを拾い集めて学校へ持って来い。』と言われていたので、バケツに軽く2杯分くらいは集めて学校へ持って行っていました。空中戦をやっている最中は、激しく動く戦闘機の風圧で、その辺の木が折れるのではないかと心配するほどでした。」
  
(2) 鉱山で働く

ア 両親の説得

 「戦中戦後の食糧難が続く中で、私は中学校を卒業して2年ほど家で農業の手伝いをしていました。収入が少なく食べるものがないので、家族で丸麦をよく食べていたのを憶えています。丸麦は炊くと膨らんで量が多くなります。味は牛でも食べないようなおいしくないものでしたが、この辺りでも子どもが大勢いる家庭ではよく食べられていたようです。
 私は、家族が食べていくことができるだけの収入を確保しなければならないと思い、満穂鉱山で働くことを決意しました(図表2-3-2参照)。鉱山での仕事に就くことに、両親は反対でした。やはり、山の中に掘られた狭い坑道へ入って仕事をしなければならないため、危険だったからです。私には弟妹が10人いましたが、子どもが大勢いても親にとってはどの子どもも大切で、仕事で怪我(けが)をしてほしくない、という強い気持ちがあったようです。しかし、地元に残って賃金を得ることができる仕事は鉱山くらいしかなく、当時の私の家庭の状況では、木材の市場が活況を呈していても所有している山へ木を植え、林業で生計を立てる余裕はありませんでした。何とか田畑で食べ物を作るのに一生懸命で、私自身も勉強よりも何よりも食べるものをいかに作って手に入れるか、ということばかりを考える毎日でした。ですから、私が鉱山へ働きに行くことを両親に伝えたときには、『農業やりよったらええんじゃないか。』と言われました。その後、農業だけでは家の収入が全く増えず生活水準が向上しないことや、満穂鉱山が家から近く、自宅から通勤できるということで両親を説得し、鉱山へ就職することとなりました。」

イ 鉱山での仕事

 「当時、満穂鉱山で働く鉱夫の中で私が一番若かったので、現在(平成27年〔2015年〕)、この鉱山の話をすることができるのは私だけになっているのではないかと思います。鉱山自体も今は人が入ることができないように坑口が閉ざされており、景観も木に覆われて周囲の山と同様になってしまって、そこに鉱山があったということ自体が分からなくなってきています。私はそこに鉱山があって、そこで働くということがどういうことか、ということを話しておかなくてはならないと、心に強く思っていました(写真2-3-2参照)。」

 (ア) 鉱夫

 「昭和27年(1952年)、私は17歳から満穂鉱山で働き始めました。この満穂鉱山は新居浜(にいはま)の住友が所有していたもので、工場長さんをはじめ、鉱山の事務所で働く方の多くが住友に勤める方でした。当時、広田村には日本鉱業が経営する鉱山がありましたが、そこは鉱石の質があまり良くなく、昭和29年(1954年)に一旦休山します(写真2-3-3参照)。一方、昭和23年(1948年)ころから採鉱を始め、質の良い鉱石を掘り出していた満穂鉱山はそのころに最盛期を迎えていました。
 最盛期、この集落(篠谷)からは14、15人が満穂鉱山での仕事に従事していましたが、それでも人手が足りないので、砥部(旧砥部町)からも川登(かわのぼり)の辺りから鉱夫が3人くらい鳴滝(なるたき)の小道を歩いて毎日来ていました。
 私が鉱夫になったころ、『鉱夫の中には親分・子分の関係で免許状のようなものを持っている人がいる。』というようなことを聞いたことがあります。仕事中に鉱夫が『親分。』というような言葉を発していたので、昔ながらのしきたりのようなものが鉱夫の世界には少し残っていたのかもしれません。その親分を頂点として満穂鉱山の鉱夫には作業集団が一つあり、鉱山の飯場(はんば)も一つでした。親分・子分の関係性を持っていた鉱夫は、九州の炭鉱から職場を移して来て、広田に住んで鉱山で働いていたようです。このような厳しい面があるということも、就職の際に両親が反対した理由の一つだと思います。当時、両親は『鉱夫になったら親分・子分の関係で大変だ。』と言っていたことを憶えています。友子状(ゆうしじょう)といって、親分・子分の関係性の中にあることを証明する書類を持っていなければ、どこへ行っても鉱夫として雇ってもらえないというようなことを聞いたことがあります。また、鉱夫はその友子状を持って鉱山を渡り歩くというような話をしていたのを聞いたこともあります。満穂鉱山のような小さな鉱山でも良質の鉱石が出ていたので、私が鉱夫になってからでも、発破をかけて鉱石を採ると本物の金の鉱石のような良質の黄銅が出ていました。普通は、たくさん鉱石を出しても幅が1cm程度の金(黄銅)の鉱脈がある程度ですが、大きな良い鉱脈がある所は、その鉱脈をたどって掘って行くことができるのです。」

 (イ) 鉱石を掘る

 「満穂鉱山は地元出身の労働者が三交替で仕事をしていました。この三交替制では、朝から勤務した者は夜に帰る、晩から出たものは夜中に帰る、夜中に入った者は朝方に帰る、というシフトになっていました。
 鉱夫が作業を行う坑道は、坑口から本線を真っ直(す)ぐに300mほど入って行き、全て下に向いて約50mは掘られていて、鉱夫の数だけムカデの足のようになっていました。穴は無計画に掘られるのではなく、住友の技術者が山を測量し、鉱脈の位置を把握した上で適切に指示が出され、掘られていたのを憶えています。下に向いて坑道を延ばしていく作業では、掘った石を全てかるい上げ(本線まで持って上がる)なくてはならず、大変な作業でした。鉱石を上に向いて掘っていくことは世話ない(苦労がない)のですが、全部下に向いて掘っていたのです。今ごろの進んだ技術があれば、下の方に大きな横穴の坑道を抜いて、そこから上に向かって掘ることができたのでしょうが、そのころにはそのような進んだ技術がなかったのです。坑道を下まで下りると、その先端部の作業場は平らになっており、そこで鉱石を掘る作業をしていました。一つの穴(坑道)を三交替で三人が共同で作業を進め、1m掘り進んでいくらという割合で賃金が支払われていたので、同じ鉱夫同士、平等にそれを3人で分けていました。賃金は月給で支払われていたので、掘り進んだ距離が月に1回検査されていたように思います。良い鉱石が出た、出ないということではなく、掘り進んだ分だけ賃金が支払われていたので、一生懸命に仕事をしました。穴を掘る作業は、人間がものを背負って歩くことができるくらいの穴を掘らなければならず、たった1mを掘り進むということが、とても大変な作業だったことを憶えています(写真2-3-4参照)。
 穴は、人が普通に立って作業ができるような大きさではなく、大人が屈(かが)んで通ることができる程度の大きさで、ほとんど屈んで歩かなければならない状態でした。作業用の服は自分で用意しますが、継ぎの当たった本当にぼろぼろの服でした。穴の高さが低く、頭を打つ可能性があったので、軍隊の戦闘帽のような帽子に紙を何枚も重ねて圧縮し、厚紙にしたようなものが中に入っているヘルメットの代わりなるようなものが会社から支給され、それを被(かぶ)っていました。履物は地下足袋でした。お尻の部分には丈夫なカズラで作ったシリスケを付けていました。これは、狭い穴の中で座って仕事をするときに、お尻を守るためのもので、必ず身に付けていました。顔にはタオルを巻いて埃(ほこり)を吸い込まないようにしていましたが、坑道の中は空気が汚いのでタオルがそれほど長くもたず、すぐに真っ黒になっていました。さらに坑道は暑く、タオルが邪魔になり、外して作業をすることで土煙を吸い込み、体にも悪かったのではないかと思います。満穂鉱山では、このような状態を改善するために送風機を導入するということになって、別子(べっし)から大きな送風機が送られてきたので、鉱山の麓で機械を分解して鉱山の近くまで持って上がりました。送風機を坑道に取り付けた時には、大勢の鉱山職員が、『ええもんが来たのう。』と言って稼働するのを楽しみに待っていました。しかし、その送風機を使い始めるまでに閉山になってしまったので、送風機の効果を知ることなく職場を離れてしまいましたが、やはり坑内での空気が汚かったのも、仕事をする上で苦労したことだったと言えます。
 穴を掘るには、『セット』という道具を使っていました。セットは金槌(づち)のような道具で、先が細く尖(とが)っているのが特徴でした。先が細くないと力が一点に加わらないので、そのように工夫されていたのだと思います。セットで叩くのが上手な鉱夫が使うノミの頭は真ん中だけがしゃげて(へこんで)いました。上手に叩くことができないと、真ん中だけがへこむということがないので、ノミの頭を見るだけで、その鉱夫は道具の扱いが上手なのか下手なのかが分かっていました。上手な鉱夫は、仕事の作業効率が良いので、一般の鉱夫が半日かけて30cmしか掘ることができない所を、40cmから45cm掘ることができていました。私は、そのような熟練の鉱夫を見ながら、『ゆくゆくはあのような鉱夫になりたいなあ。』と思っていました。毎日毎日、穴へ入って仕事をしていると、セットとノミの扱いには慣れてくるもので、だんだんと上手になっていくことを実感できていました。初めのうちは、ノミを叩くとへら(周辺部)にそれるので、手にセットが当たって怪我ばかりしていました。
 日が当たらない真っ暗な穴の中での作業では、こんまい(小さな)ランプが頼りで、自分が作業をする場所の上の辺りの岩に、引っ掛けるための鉤(かぎ)を自分で上手に作って吊(つ)っていました。このランプはガスランプで、真鍮(しんちゅう)でできたものでなくてはなりませんでした。朝、燃料となるカーバイト(炭化カルシウム)を仕込めば半日はもつように使っていたので、半日に一回、コップ一杯分のカーバイトを入れて灯(あか)りを得ていました。大きな火にしたらガスが早くなくなるので、チョロチョロのポチッとしたような小さな火で仕事をしていました。本当に小さな灯りが一つだけだったので、手元を見るのも難しい状態でした。穴の中は薄暗く、空気が悪い状態なので、ランプの灯りも空気中の埃でぼんやりとしていたのを憶えています。」

 (ウ) 危険な発破作業

 「石が軟らかければ、手作業だけで半日あれば40、50cmは掘り進むことができました。しかし、掘り進み、坑道の突先にツルハシではどうにもならないような硬い岩が出てきたら、発破で処理をしていました。ダイナマイトを仕掛けるためには、その硬い岩に直径3cmくらいの穴を開ける必要がありました(写真2-3-5参照)。岩の状態を予測しながら、『これならダイナマイト3本入れたら崩れるじゃろう。』とか、『この岩は深いから5本必要だ。』というように判断して、必要なだけの穴を開けていました。発破をする坑道が複数あるときには、坑道ごとで勝手に発破をすると危険なので、お昼休みで一旦仕事を置くときに発破をする、というように時間が決められていました。発破をすると、坑道の中が煙と土埃で1m先が見えないくらいになるので、お昼休みで穴から上がり、1時間ほど外で休憩している間に煙と埃が落ち着くので、昼前に行うことが多かったことを憶えています。
 発破をするために免許を取得するとか、講習を受けるというようなことはありませんでした。作業現場の親分のような立場の人が認めたら鉱夫になることができ、発破の作業をすることができました。鉱夫になる前の期間は手子(てご)と呼ばれていて、手子は鉱夫が発破で砕いた石を小さな鍬(くわ)でかき集め、ざる籠に入れて、かるうて坑道を上がっていました。岩や石を運ぶ籠は、ちょっと倒したら、岩や石がドサッと出てくるような三角形だったので、一回かるうたら、もう途中で休むことはできませんでした。木のはしごを登って、坑道の上の本道には1m50cm角ぐらいの大きさの箱を積んだトロッコがあるので、そこへ移していました。トロッコは積荷が一杯になった状態で動かされ、穴の外に出たらハンドルを回して箱のふたを開け、積荷を下ろしていました。手子の間は、セットでの作業に従事することもなく、鉱夫の下働きのような状態でした。手子が一生懸命に石を出さなければ、穴の奥の鉱夫が仕事にならないのです。ですから、手子として働いている間も、手を抜くということは全く考えずに、鉱夫の作業がスムーズにできるように一生懸命に働いていたのを憶えています。坑道に配置されている鉱夫と手子が力を合わせて掘り進めましょう、というような考えで仕事をすることができていました。
 穴の先の石が軟らかいものだったら、朝から昼までにダイナマイト3本分の穴を開けます。その穴にダイナマイトを差し込むときには、鉄の棒を使うことはありません。鉄の棒と岩との摩擦で火花が散ると、ダイナマイトに引火する可能性があって危険だったからです。ですから、ダイナマイトを差し込む穴には、木の棒を突っ込んで作業をしていました。ダイナマイトを下に向いて押し込む作業は簡単ですが、上に向いて開けた穴に押し込む作業は難しいものでした。上に向いてダイナマイトを差し込むときには、選鉱場などの作業場で仕事をしていた女性が、山肌から取った赤土を袋に入れてくれていたので、その土を使って穴からダイナマイトが落ちないように、隙間を埋めながら上手に詰め込めるように工夫をしていました(写真2-3-6参照)。
 ダイナマイトが穴にセットされたことを確認して、長さ約45cmの導火線に点火します。もたもたしていると、先に火を点(つ)けたものが爆発するので、導火線10cmが燃えるのに約10秒かかると計算して、最初に点火してからの秒数を頭の中で数えながら、次々と導火線に点火していました。点火をすると、『シューッ。』と音を出しながら火花が上がるので、点火したことはすぐに分かりました。
 点火したら、坑道内の安全な所に退避しなければなりません。坑道自体が曲がっている場合が多く、安全な物陰へ退避しやすかったのですが、真っ直ぐな坑道でも爆破地点から距離があれば、石が身体に当たるなどの危険はありませんでした。実際の坑道では、爆破地点からある程度離れたカーブを曲がった所まで退避できさえすればまず安全でした。退避してからは、ダイナマイトの爆発音を聞きながら、『一つ鳴った。二つ鳴った。三つ鳴った。』と、仕掛けたダイナマイトが爆発したことを確認して、『もう大丈夫、不発はなかった。』と言いながら、次の作業の準備をしていました。ただ、時々、不発のときもありました。不発のダイナマイトを差し込んだ穴から掘り出す作業は、とても危険でした。幸い満穂鉱山では、この掘り出しの作業に伴う事故は起こりませんでしたが、爆発して大事故になるということもあり得るので、慎重に作業を行っていました。
 戦時中、他の鉱山の中には朝鮮半島から多くの労働者が来ている所がありました。彼らは日本語が堪(たん)能ではなく、仕事中の事故で亡くなった方もいましたが、まともにお墓を造るというようなこともなく、今でも祈祷所が残っている程度です。発破を行うときには、日本人の鉱夫が使う『ハッパ』という言葉だけは理解していたようですが、『逃げろ。』や『離れろ。』というような言葉は分からないことがあったと聞いています。
 このように、鉱山での仕事はダイナマイトを扱うので安全ではなく、私が鉱山で働くことを決めたときには、両親が反対をしたのです。そのときは、なかなか両親が賛成をしてくれなかったので説得して承諾を得るのに時間がかかりましたが、親の子に対する気持ちを考えると、反対するのは当然のことであったと思います。」

 (エ) 鉱石を出す

 「掘られた石は、鉱石の含有率の低いズリも含めて全て上げていました。穴を掘って行くと、鉱脈が二筋、三筋とあったので、ズリを掘り出し、鉱脈の部分を掘り出し、またズリを掘り出すというような作業の繰り返しでした。別子銅山では、ズリに関しては採掘現場で判断をして、その場に埋めていたようですが、満穂鉱山は坑道自体が狭く、その場で選別する余裕もない上に、ガスランプの灯りのみで蝋燭(ろうそく)ほどの明るさすらない状態で灯りが乏しく、ほぼ真っ暗だったので全てを上げるしかなかったということだと思います。
 上げられた鉱石は、坑口と索道との間に建てられていた選鉱場で女性従業員によって選別されていました。当時、選鉱作業に従事していた女性従業員が24、25人はいて、地元の女性だけでした。その人たちが金槌で鉱石とズリとに分けて、鉱石の中でも良いものだけを索道に積んで出していました(写真2-3-7参照)。選鉱は女性にとっても良い仕事だったので、喜んで働いていたことを憶えています。選鉱場は広さが18畳くらいで、小屋掛けをしていました。また、選鉱場の近くにはズリ場や事務所、鍛冶屋場がありました。
 操業が最盛期を迎えていた昭和30年(1955年)前後ころには、選別され、出された鉱石をトラックに積んで村外へ運んでいました。トラックが通る道路は、現在のような幅が広くてきれいに舗装をされたような道路ではなかったので、下(トラックが通ることが可能な道)までは索道で出していました。索道には50cm角ぐらいの箱が取り付けられていて、鉱山から道路まで続いていました。索道は頂上まで来ると、その先は逆勾配になっており、その部分を下る力で鉱石を出していたので、ワイヤーがなかなかうまく動かず難儀していました。
 索道で下ろした鉱石をトラックへ積み込む作業はスコップで行っていました。日本鉱業が経営していた広田鉱山では、索道で下ろした鉱石を貯鉱庫へ入れて、そこからホッパー(下部に底開き式の取り出し口がある貯蔵槽)を使ってトラックへ積んでいたようですが、満穂鉱山にはそれほど良い設備がなく、トラックの荷台より少し高い所に木で作った鉱石置き場があって、索道で運ばれて来た鉱石がそこに野積みされており、スコップでトラックへ積み込むだけでなく、上から転がり落とすようにして積み込むこともしていました。転がり落として積むにも鉱石は大きく、形も様々なので、なかなかうまく積み込むことができず、スコップで積み込むことがほとんどだったと思います。トラックに積まれた鉱石は、国鉄(日本国有鉄道、現JR)の北伊予(きたいよ)駅まで運ばれ、貨物列車で輸送されていました。最終的には住友の精錬所があった四阪(しさか)島(現今治〔いまばり〕市)へと送られていたのだと思います。日本鉱業が経営していた広田鉱山の鉱石は郡中(ぐんちゅう)(伊予市)から佐賀関(さがのせき)(大分県)へ送られていたようです。北伊予駅ではトラックからスコップを使って貨車へ人力で鉱石を移していたので、大変な作業でした。私は特に車に興味を持っていたので、トラックの助手席に乗って北伊予駅までよく行っていました。昼は鉱山で働いて、夜は鉱石をトラックで運ぶ手伝いをしていたのです。運転手一人では鉱石をスコップで移す作業が大変だと思い、手伝っていたのです。」

 (オ) 坑道の水

 「坑道はどんどん下に向いて掘り下げていったので坑道に水が溜(た)まるため、サイフォン(サイフォンの原理)で溜まった水を抜いていました。普通は坑道があれば下の方に排水溝を作って水を抜きますが、排水溝がなかったのです。私がまだ鉱山で勤めていないころには下から穴を開けて、抜くこともあったようです。勤めていたころにも、水を抜くための動力がなかったので、山の中腹にあった坑道から山の麓までサイフォンで250mくらいパイプを引いて、お昼ころになったら、鉱山の麓の田んぼの辺りに水を流していました。パイプの栓を開けたら勢いよく水が出ていたことをよく憶えています。ただ、その水が流れ込んだ田んぼでは、米の収穫が悪くなっていたようです。川の魚もその水が流れている間は、水がきれいな場所へと移動してしまい、流れ込んでくる場所付近にはいませんでした。鉱山に勤める前は田んぼから流れて来た水をやかんに入れて沸かして飲むと、きれいな水を飲んでいるような気がしていましたが、鉱山で働く人たちは山を流れている自然の水を飲んでいました。農業をやっていたころの私も含めて、鉱山に携わっていない人たちは、鉱山から流れて来る水の見た目がきれいだからといって、沸かして飲んでいたのです。水が鉱山から川に流れ出ている間は、川の中に魚を一匹も見ることができませんでした(写真2-3-8参照)。」

 (カ) 鉱山のすがた

 「坑道への入り口である坑口は高さと幅がそれぞれ2mほどあり、マツの木が組まれていました。そこからトロッコのレールが10mくらい敷かれ、その先に選鉱場がありました。坑口のマツの木は湿気の多い所でも、『100年はもつ。』と言われていたことを憶えています。選鉱場で選別された鉱石は再びトロッコで運ばれます。選鉱場から索道へ続くレールと、品質の良くない鉱石であるズリが運ばれるレールは切り替えることができ、品質の良い鉱石は索道の出発地点へ運ばれて索道に載せられ、ズリはズリ捨て場へ続くレールで運ばれて捨てることができるようになっていました。選鉱場の先から出ていた索道は、鉱石を搬出する貯鉱庫まで1,000m以上の長さがありました。途中に設けられた中継所は、石積みやコンクリートを用いず、大きな松の木を索道の支柱として利用していました。
 選鉱場よりも少し小高い所に切妻造の事務所がありました。事務所の中は土間ではなく板張りになっていて、窓はガラス窓でした。事務所にいた所長さんは作業服を着ず、立派な背広を着ていました。私は所長さんのその風貌(ぼう)から、私たち従業員が気軽に声を掛けたりするような立場ではないように感じていました。所長さんは非常に厳格な人で、松山へ行くためにバスに乗ったときでも、きちっと姿勢よく座席に座っていた姿を見たことがあります。私たち従業員や地元の人たちは、そのような所長さんの姿を見て、『あの人は大した人だ。』と言って、褒めていたことを憶えています。
 坑口前には従業員用の休憩所と、一度に10人くらいは入ることができる大きさのお風呂があり、今でもお風呂の縁だけは残っています(写真2-3-9参照)。また、泥壁で造られた鍛冶屋場もありました。鉱山には必ず鍛冶屋場があったようで、専門の職人がいたということではなく、従業員が自分で道具の修理などの作業を行っていました。
 閉山間際に坑内の換気をするための送風機が設置されましたが、坑内に管を通す前に閉山となりました。送風機の動力には電気ではなく、石油燃料を使う発動機が用いられるようになっていました。しかし、閉山になったため、それが動いている様子を見たり、音を聞いたりすることができませんでした。鉱夫だけでなく、鉱山で働く従業員全員が、『送風機が設置されて動き出したら穴の中が良くなるなあ。』と言っていたことを憶えています。満穂鉱山は鉱脈が残っている状態での閉山だったので、『あれは惜しいのう。』と言っていましたが、外国の山は山全体が金(黄銅鉱)で鉱脈が大きく、露天掘りが可能なので、採算性を比べるとどうしても輸入される鉱石に負けてしまっていたのです。」

(3) 鉱山を離れて

ア 運転免許の取得

 「車に強く興味をもっていた私は、鉱山の仕事を離れてからは運転手として働く道を模索していました。運転手になるにはどこかで運転免許を取らなくてはならず、自動車教習所へ通うお金がない私は、実地で運転の練習をしながら免許を取得するために、松山の帝人の中にあった池田興業という会社へ就職することを目指しました。当時、どうしても免許を取得したかった私は、一人で入社試験を受けに行き、面接での私の熱意が伝わったのか入社することができ、2年間働きました。会社では、運転手の見習いとして働きながら、大型の免許を含めて6種類の運転免許を取得しました。運転免許を取得するための特別な養成コースはありませんでしたが、当時、会社には大型トラックが30数台と角ハンドルの自動三輪トラックなどがあったので、最初は角ハンドルの自動三輪を使って一生懸命に仕事をしながら、運転手の仕事の手伝いをしていました。仕事の手伝いをしていると、大型トラックの運転手が会社の敷地内でトラックを使わせてくれたので、大型トラックの運転練習をしながら運転技術を学んでいきました。会社の敷地が相当に広かったので、十分に練習をすることができたのです。この会社での2年間は、運転免許を取得するために無我夢中で働いたことを今でもよく憶えています。私がこの会社で働いていたときには、仕事がどんどん増えている状態で、会社としても人員を増やさなければならなくなり、会社から、『門田君、田舎から入社希望者を連れて来てくれんか。』と頼まれました。当時、広田では満穂の鉱山が操業を停止して、その影響で仕事を失った多くの人が仕事を求めていたので、最初に4、5人ほど会社に紹介すると、会社の方が喜んでくれました。紹介した方の年齢は、当時の私よりもずっと上でしたが、会社としても必要な人員を採用できて喜んでくれる、本人も仕事を得ることができて喜んでくれるということで、『良かった。』と思っていました。しかし、結果的にみると、昭和38年(1963年)ころから村の男性が仕事で村外へ出始め、過疎化の始まりとも言えるのではないかと思っています。昭和38年には三八(さんぱち)豪雪と呼ばれた大雪に見舞われました。そのころには村内に全然仕事がなかったので、どんどん出て行ってしまったように思います。最初に私が連れて行った人たちは、みんな真面目に仕事をしたので、班長や主任といった役付きになっていきました。会社でも、『門田の紹介してくれる人やったら間違いない。全部採用せい。』というようなことを人事の課長さんが言うくらい、会社のためによく働いてくれました。」

イ 運転免許を生かす

 「私は免許を取得した後、会社でお世話になった方に、『私はどうしても伊予鉄道でバスの運転手としての仕事がしたい。』ということを相談しました。私の予想に反して、会社の方には反対されず、快く送り出してくれました。この会社を退職した後、伊予鉄道の入社試験を受験して合格しました。
 伊予鉄道に入社が決まったとき、私は親が喜んでくれると思っていましたが、親にしてみれば複雑な気持ちだったようです。鉱山での仕事よりも危険が少なく、外の明るい所で従事する仕事に就くことができ、親は喜んでくれていたと思います。ただ、これまで家で行ってきた農作業の仕事を将来どうするのか、長男には農業を継いでほしいのに、ということが気がかりだったようで、不安な気持ちの方が強かったのではないかと思います。
 昭和40年(1965年)、伊予鉄道に入社した後は、最初にハイヤーの運転手をしました。ハイヤーは今のタクシーとは少し違って、流しでお客さんを拾うことはありませんでした。私はハイヤーの運転手をしながら、『バスの運転手になりたい。』ということを会社に伝えてはいましたが、『お客さんとのコミュニケーションをとることができる人は、ハイヤーの運転手で頑張ってほしい。』ということを言われていました。お客さんと車の中で1対1になるハイヤーの運転手には、運転技術ともに、接客などの技術が必要だったのです。」


図表2-3-2 満穂鉱山の位置

図表2-3-2 満穂鉱山の位置


写真2-3-2 満穂鉱山へ続く道

写真2-3-2 満穂鉱山へ続く道


写真2-3-5 ダイナマイトを差し込むための穴

写真2-3-5 ダイナマイトを差し込むための穴


写真2-3-6 赤土採取跡

写真2-3-6 赤土採取跡


写真2-3-7 索道の出発点の現況

写真2-3-7 索道の出発点の現況


写真2-3-8 整備された水路

写真2-3-8 整備された水路


写真2-3-9 風呂釜跡

写真2-3-9 風呂釜跡