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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 価格暴落への対応

 昭和40年代のミカンの価格暴落は、全国の関係者に大きな衝撃を与えた。昭和42年(1967年)から昭和57年(1982年)にかけてのミカンの生産費及び販売価格(全国平均)をまとめたものをみると、昭和40年代では、昭和43年(1968年)と同47年(1972年)に前年と比較して販売価格が大幅に下落しており、昭和47年については販売価格が生産費を下回っていることが分かる(図表2-1-2網がけ部分)。
 昭和43年の価格暴落の原因は、同42年に西日本を襲った大干ばつと翌43年のミカンの大豊作及び品質低下である。大干ばつは愛媛県にも甚大な被害を及ぼし、『愛媛県史』には、「ミカン関係にかぎっても、減収61億円、樹体被害78億円、計139億円の被害が計上された(①)」と記されている。さらに、灌漑(かんがい)施設や機械の購入で多額の負債を抱えた農家が多く出現した。これに大豊作と品質低下が重なり、「12月中旬には46円(1kg、京浜(けいひん)市場平均)とこれまでの最低値を記録(②)」した。
 この暴落を契機として、昭和44年(1969年)8月、愛媛県では「愛媛ミカンの振興計画」を策定した。これは、価格暴落の原因について、ミカンの生産過剰よりも、これまでの「規模拡大」や「産地の大型化」、「兼業化の進展に伴う農家の経営構造」などの矛盾と問題点が「品質管理」という形で露呈したとみなしたもので、これ以後、「うまいミカン作り運動」が本格的に推進されることとなった。
 次に、昭和47年の価格暴落は、明らかにミカンの生産過剰が原因である。昭和43年から昭和46年まで200万tから250万t前後だったミカンの全国生産量が、昭和47年には一挙に365万tに増加し、価格が暴落した。特に、品質が優れていたにもかかわらず価格が暴落したこと、手取り価格が生産費を下回り完全に赤字となったこと(昭和43年の価格暴落では起こらなかった)、翌48年の石油危機で生産費が大幅に上昇し、2年連続で赤字になったことは、「うまいミカン作り」を続けてきた関係者にとって、深刻で決定的な打撃を与えることになった。さらに品質面で夏ミカンに類似しているグレープフルーツの貿易自由化(昭和46年〔1971年〕)も決定しており、関係者の危機意識が次第に強くなっていった。
 昭和50年代には、販売価格が生産費を下回る年がほとんどで赤字が重なり、関係者は緊急な対応に迫られた(図表2-1-2参照)。愛媛県の昭和43年及び同47年から57年のミカンの生産費と販売価格の推移をまとめたものをみると、全国とほぼ同様に推移している(図表2-1-3参照)。
 昭和20年代から40年代にかけての砥部(とべ)町における柑橘(かんきつ)栽培の様子と昭和40年代の価格暴落への対応について、中村祥二さん(昭和9年生まれ)、山田善弘さん(昭和9年生まれ)、井口昌昭さん(昭和11年生まれ)、久保傳一郎さん(昭和11年生まれ)から話を聞いた。

(1) 昭和20年代 -終戦直後の土地開墾の記憶-

 終戦後、多くの人々が仕事や食糧を求めて農村に向かって押し寄せた。「買い出し列車」という言葉が生まれたのもこのころのことである。このような混乱期に政府は、国内一斉に開拓事業を実施することとし、昭和20年(1945年)11月、「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。また、これに関連して第一次農地改革が実施されることになり、開拓用地の取得を法的強制力をもって容易にし、食糧増産と失業対策の推進を図った。こうして、愛媛県においても各地で開墾が行われることになった。

ア 食糧難を解消するために

 「戦中戦後は食糧難でした。それを解消するために、私(中村祥二さん)は山を開墾してサツマイモなどを栽培していたことを憶えています。そのほかに、ミカンやカキを植えたこともあったように思います。」

イ 開拓団の記憶

 「私(井口昌昭さん)は昔、開拓団というものがあったことを憶えています。戦後の砥部のミカン栽培は、この開拓団がミカンの苗木を植えることから始まったと思います。しかし、まだ幼木であったため成長するまでには時間がかかり、収入にはつながらなかったので、ミカンの間作として、夏はスイカ、冬は白菜を栽培していたようです。」

ウ マツ山を畑に

 「終戦後、県に開拓課が設置されると、他人が所有する山であっても、傾斜が40°までで所有者に開墾の意思がなければ、申請さえすれば、買収をして申請者の開墾地に変えることができていました。この制度の下で、以前の砥部にはマツ山が多かったのですが、どんどん伐採され、開墾されていきました。私(久保傳一郎さん)は、日当が通常以上に良く、みんなが開墾を始めたため外山(とやま)辺りから宮内(みやうち)辺りまで畑が増えていったことを憶えています。戦後は、戦地から帰って来ても仕事がありませんでした。しかし、申請をすれば強制的に(土地を)買収できたので、そのような人々が我先に良い場所を見つけて申請をし、開墾していきました。
 当時は重機がなかったので、全て鍬(くわ)を使って手作業で開墾していきました。マツは根こそぎおがして(掘り起こして)集めて焼き、その跡地にスイカが植えられていました。ものすごく質が良いスイカができたので、高知県まで売りに行ったこともありました。砥部では、ミカンの前にスイカ採りで2年くらい儲(もう)けて、その後にミカンを中心に植栽するようになりました。それが、後々の価格の暴落につながったのだと思います。」
 愛媛県に開拓課が設けられたのは昭和21年(1946年)7月である。自作農創設特別措置法が施行され、民有・国有を問わず開墾適地を全て調査対象とする第二次農地改革が実施される5か月前のことであった。第一次農地改革において政府は開拓を奨励したが、終戦直後の混乱で県・市町村などは政府の要望に対応できる組織体制ができていなかった。また、戦前からの地主制度が存続しており、開拓の推進は困難であった。こうした状況を打開するため、農務課の一係であった開拓係を昇格強化させ、開拓業務に当たらせたのである。同時に各地方事務所の農地課内に開拓係を設置し、機構的にも一貫した組織を整え、開拓政策の基礎が確立された。

(2) 昭和30年代 -ミカン園の造成と農家のくらし-

ア 落葉果樹をミカン園に

 「私(中村祥二さん)は、昭和30年代には、宮内地区を中心にカキの栽培が多かったことを記憶しています。その他の地区ではミカンが多く、一部ナシがありました。戦後、ミカンの値段がウナギ登りに上がっていき、他の果物に比べると収益が雲泥の差でした。そのような理由から、落葉果樹を全部ミカンに換えていきました。その時は温州ミカンが中心で、早生(わせ)温州と晩生(おくて)温州がありました(図表2-1-4参照)。
 砥部の山間地は平地に比べると気温が少し低く、早生温州の栽培には向いていないので、晩生温州を作ってそれを貯蔵し、3月から4月にかけて出荷をしていました。それがかなりの高値で売れていたので、『ミカンを作っていない者は人間でない。』と例えられる状況で、収益がサラリーマンの給料の何倍にもなり、この状況が、昭和30年代と昭和40年に入るころまで続きました。テーラー(動力運搬車)1台に20杯くらいミカン箱を積んで来れば、ミカン農家ではない私たちの月給の1か月分くらいは賄えるほどの高収入を得ることができていました。」
 昭和36年(1961年)に制定された「農業基本法」に基づいて同年制定された「果樹農業振興特別措置法」、翌37年(1962年)に開始された「農業構造改善事業」などの生産拡大政策の実施により、異常なほどの柑橘ブームが起こった。小規模ながらミカン園の造成が各地で進展したばかりでなく、市町村による積極的な果樹経営の近代化、撰果場の統合による広域集荷や大量出荷体制への移行が急速に進んだのもこのころである。伊予園芸農協は、昭和39年(1964年)、農業構造改善事業を受けて国鉄伊予市駅に第一共撰を新設した。これは、伊予郡内の支部9共撰を統合したもので、ここで選別や荷造りをし、○伊(マルイ)マークで出荷した。
 砥部町においても、山地の限界地帯(標高400m)まで果樹園の新植が見られたばかりでなく、松山(まつやま)市道後祝谷(どうごいわいだに)、東宇和郡(ひがしうわぐん)宇和町永長(ながおさ)とともに農業構造改善事業のパイロット地区に指定された麻生(あそう)地区のように、水田転作によるミカン園の造成も行われた(写真2-1-5参照)。こうして、ミカン園が山間、平地ともに造成されていくことになった。

イ 山間部(外山地区)のミカン農家のくらし 

 「私(中村祥二さん)は、昭和30年代の外山地区のある農家では、その当時1,000万円のミカンの売上代金があったということを憶えています。現在の貨幣価値では1億円を超えるのではないかと思います。急傾斜の山地での栽培だったので、それは大変な苦労ではあったと思いますが、働く方は本当によく働いていました。(写真2-1-6参照)。確か、砥部町で乗用車を一番早く買ったのも、外山地区のミカン農家の方だったと思います。外山は貯蔵ミカンの産地で、4月ころに販売したミカンの価格が非常に良かったのです。」
 「私(山田善弘さん)は、あるミカン農家の方が、『2年か3年経(た)てば、ミカンの利益だけでかなり立派な家を建てることができた。』と、当時言っておられたことを憶えています。松山市へ時々二人で飲みに行ったことがありますが、ミカン1箱分の収入で、二人で飲んで遊んで、タクシーを使って帰ることができるくらいでしたから、いかにミカンの値段の良い時代があったかということが思い出されます。」
 「私(久保傳一郎さん)の家は林業を営んでいました。以前、外山地区のミカンによる収入が1,000万円あった農家の方から、『いい山があったら世話してくれ。』との申し出を受けたことを憶えています。そのくらい、当時のミカン農家の収入は良かったのです。」
 このように、昭和30年代はミカンの最盛期であった。この繁栄が続く昭和40年(1965年)、伊予園芸農協は「時期別地区別出荷方式」という新しい出荷方式を導入している。その理由は、伊予園芸農協管内は、海岸部、平坦部、山間部にわたる1市4町(伊予市、旧双海〔ふたみ〕町、旧中山〔なかやま〕町、砥部町、松前〔まさき〕町)を含んでおり、土壌や標高、成園比率などがそれぞれ異なるため、地区ごとの品質差や出荷適期の違いに対処する必要があったからである。そこで、管内の代表的地区を選び、時期別にミカンの糖度やクエン酸、pHなどの値を調査し、これに基づいて管内の生産地域を海岸・平坦・山間・山間奥地の四つの地区に分類し、時期ごとにA、B、Cといった品質ランクを設け、その上で時期と地区を組み合わせてグループを編成し、グループごとに選別や荷造りを行うようにした。つまり、撰果場の分散を行ったのである。
 しかし、それ以後、価格暴落に悩まされることになる。

(3) 昭和40年代 -ミカンの価格暴落-

ア 宮内伊予柑の導入

 「昭和40年代に入ると、徐々に温州ミカンの価格が下がってきました。私(中村祥二さん)は城南農協(現JAえひめ松山)に勤めていたのでよく憶えていますが、昭和40年(1965年)の夏場くらいには、対策を検討し始めました。その結果、松山市にある宮内伊予柑が今までの伊予柑よりは味も、香りも良いというので、どの園も伊予柑一色になるくらい導入しました。農業構造改善事業やパイロット地区の指定のときでも、水田を果樹園に転換して宮内伊予柑をどんどん植えていきましたが、これでさらに伊予柑園が増えることになりました。しかし、伊予柑は水分(汁気)が多くて食べるときに手が汚れてしまい、食べにくいという良くない評判もあって消費者離れが進み、伊予柑の価格が暴落してしまったのです。」

イ 温州ミカンの価格暴落の原因と砥部町の自然環境

 「価格暴落の最大の原因は、やはり生産過剰だと思います。しかし、私(井口昌昭さん)はそれだけではなく、『ミカンを作れば売れる』という状況でミカンを粗雑に扱い、粗悪に作ってしまったことも価格暴落につながったと思います。ミカンの値が良いので、『ミカンであれば何でもよい。』ということで、山のミカンも平地のミカンも一緒にして出荷をしてしまったので、消費者からの反発もありました。」
 ミカンの生育条件は、温暖で日照時間が長いことと、水はけが良いことである。しかし、砥部町の場合は産地が海岸からかなり離れた内陸部や山間部にあるため、海岸付近で栽培されたミカンと比較すると酸味が強い傾向にある。また、産地の高低に大きな差があり、同じ町内でも生育条件が異なっている。砥部町の自然環境について、中村祥二さんは次のように話してくれた。
 「御荘(みしょう)(現南宇和郡愛南〔あいなん〕町御荘)辺りと比較すると、砥部は自然条件などにおいても日本一のミカンができる産地ではありません。そのことを踏まえ、砥部町のミカン農家はもっと余計に努力をしなければならないと思います。同じ人が作っても、自然条件で味が違ってしまいます。今は厳しく選別をして、表面も糖度も何もかもきちっと機械で測ったものを売り出しているから良いのですが、ミカン作りの始まりがいけなかったのです。」

ウ 真穴ミカンとの比較

 「八幡浜(やわたはま)市(真穴〔まあな〕地区)の知人が、『自分の所のミカンが一番おいしい。』と言って、私(山田善弘さん)に毎年温州ミカンを送ってくれるのですが、本当においしいと思います。ですから、家族で食べるのに普通なら10日くらいかかる量を2、3日で食べてしまうほどです。」
 「私(井口昌昭さん)は、砥部町で栽培されたミカンだと、二つ食べれば『もういい。』と言ってしまうと思います。真穴は潮風が当たって、南向きで日当たりも良いから、本当に甘くて良いミカンができるのだと思います。」

エ 水田転作地で栽培されたミカンについて

 城南農協で勤務された中村祥二さんは、水田転作地で栽培されたミカンの特徴について話してくれた。
 「水田のミカンは全く甘くありませんでした。やはり、排水が良い所でないとだめだと思います。水田は水が溜(た)まるようになっているから、ミカンの栽培には適していないのです。」
 窯(かま)元として砥部焼を作られている山田善弘さんは、御自身の経験を踏まえ、「モノづくりの心構え」について次のように話してくれた。
 「私は窯業関係の仕事をしていますが、終戦直後は何を作っても売れました。卸について思い出してみると、普段は2、3人の方が手伝いに来てくれるのですが、当時は『わしも手伝う。』と言って10人ほどが来てくれた時代でした。よく考えてみると、砥部焼で言えば、『この人が作ったものであれば安心だ。』というように、良い製品を作り、消費者の信用を得なければならないということです。また、産地ごとで原料の特徴に差がありますから、産地の特色を生かした製品を作っていかなければなりません。やはり、粗雑な製品を作ってはいけないと思います。例えば、結婚式の引き出物でも、『こんなものが。』と思われてしまってはいけないのです。実際に、ある生産者の製品が『あんなものを配ってどうすんぞ。』という批判をお客様から受け、その生産者の所には注文がなくなって次第に衰えてしまいました。つまり、切磋琢磨(せっさたくま)するということが大切で、時代にもよりますが、とにかくミカンでも焼き物でもそれなりの審美眼のある方に認められる作品を作らなければ継続はできないということです。このような理由で、砥部焼でもやめる方が段々多くなってきているのです。」

(4) 価格暴落への対応

 昭和47年(1972年)の温州ミカンの価格暴落は関係者に大きな衝撃を与え、生産過剰による慢性化したミカン産業の不況克服手段として、全国的に様々な対策がとられた。例えば、優良系統への更新を積極的に進めて温州ミカンの高反収や高品質化を図る方策の実施、温州ミカンから他の柑橘類や果樹への更新、ハウスミカンの導入による生産と出荷の早期化などである。砥部町における対応について、話を聞いた。

ア 接ぎ木による品種更新

 『接ぎ木』とは、枝などを切り取って、同種または近縁の他の植物の幹に接ぐ方法のことである。昭和40年代に入り、コストの節減や品質の向上をねらいとする技術が強く要請されるようになり、愛媛県では高(こう)接(せつ)更新や改植更新などの方法が積極的に検討されてきた。『高接(高接ぎ)』とは、すでに成木になっている旧品種の太枝に新品種を接ぎ木すること、『改植』とは植物を植え直すことである。このことについて、井口昌昭さんは、次のように話してくれた。
 「私は、幼木から育てるには時間がかかり過ぎるので、『高接更新』をしていったことを憶えています(図表2-1-5参照)。救世主品目を考えて、作り直して売っていくほかに立て直す方法がありませんでした。この方法をとることで、成長に5年ほどかかるところが2年で済み、早期に立て直すことができたのです。」

イ ハウスミカンの導入

 愛媛県で、暖房を入れたハウスミカン栽培を試みたのは、昭和46年(1971年)、北宇和郡吉田(よしだ)町(現宇和島〔うわじま〕市吉田町)立間(たちま)のミカン農家で、3a(約300㎡)の水田転作の試験園を提供して宇和青果農協とともに試験栽培を始めたのが最初である。ハウスミカンは燃料費や施設資材などのコストが高かったが、高品質なミカンを栽培できることから次第に普及していった。

 (ア) 同意を得ることの難しさ

 「私(山田善弘さん)の知人で、ハウスミカン導入のために東京辺りの温室業者と折衝をしたり、コストに関する交渉をしたりした農家の方がいましたが、向こう(東京の業者)からの要望が非常に厳しくて、それを砥部の皆さんに説明したところ、ハウスミカンを導入することについて、『納得してもらうのが大変だった。』と言っていました。」

 (イ) 導入時の農家の反応

 「価格暴落の対策の一つとして、温州ミカンをハウスの中に入れて加温をして作るようになりました。私(中村祥二さん)は、最初のころのハウス建設費は、400万円くらいだったことを憶えています。砥部町で最初にハウスでの栽培を始めたのは、宮内の方と五本松(ごほんまつ)の方の二人でした。その当時は農家の人もハウス栽培の経験がありませんから、城南農協の職員がハウスを建てる作業を手伝いました。
 しかし、伊予園芸農協の人はミカンの木に詳しいので、『そんなことをしたら2、3年でミカンの木が枯れてしまう。』と反対し、ハウスミカン導入には消極的でした。また、11月の前後に収穫できるものを真夏に収穫するので、栽培農家の人も、『そんなことをしたらミカンの木が枯れてしまう。』と言って心配し、ハウスミカンでの収入は良かったのですが、すぐには普及しませんでした。
 それでも2、3年経つと、ハウスミカンは儲かるということで、どんどん増えていきました。しかし、オイルショックで燃料費が3倍から5倍まで一気に上がったことで暖房ができず、導入したにもかかわらずハウス栽培をやめてしまう農家もありました。それからは、現在のようにいろんな種類のミカンを作るようになりました。」

 (ウ)ハウス栽培の苦労

 「私(中村祥二さん)が勤めていた城南農協では、『やれば儲かる。』と言ってハウス設備の設置の支援などを積極的に行いました。しかし、運が悪かったのか、一生懸命に頑張ってくれた農家の方が病気になってしまい、『ハウスミカンをやれば死んでしまう。』と言われたことがありました。
 体を壊してしまう理由には、ハウスの中での消毒もありますが、特にハウス内の高温がその原因でした。今でいう熱中症になったのではないかと思います。ミカンの場合は常に夏のような温度にしないと育たないので、常に油を焚(た)き続けて一定の温度を保たなければならず、どんどん汗をかいて体を壊してしまったのではないかと思います。」
 こうした状況はあったが、昭和50年代の中ごろまでにはハウスミカンを導入する農家が次第に増加し、愛媛県はハウスミカンの主要産地として、栽培面積が全国の約25.5%を占めるに至った(図表2-1-6参照)。砥部町でも同様にハウスミカン農家が増え、「昭和56年(1981年)には103戸、1,934アール(③)」にまで広がった。

ウ ミカン農家の苦労

 「私(井口昌昭さん)が聞いた話では、大谷(おおたに)伊予柑の穂木(接ぎ木に使う枝のこと)で相当儲けた人がいたそうです(『愛媛県史』によれば、大谷伊予柑への品種更新は昭和55年〔1980年〕以後のこと)。ただし、詳しい理由はわかりませんが、2、3年でパッとやめてしまいました。収入は確保しなければならない上に、新しいものを作っていかなければならず、本当に難しかったのだと思います。『甘平(かんぺい)』でも、おいしいものを作ることができたと思っても、ハウス内の温度を下げたら実が割れてしまいます。何を生産したとしても、価格が落ちていって低迷する商品は全て衰退していきます。やはり、どうしたら品質の高いものを作ることができるかということを、常に考えておかなければならないのです。
 当時、価格暴落の対策の結果、分散型になってしまい、いろいろなものを作らなければ(農家の人が)食べられないという時期がありました。その中から良いものを抜粋して作物を作るという形になってきましたが、その時期はそうしなければ生活ができませんでした。キウイも作る、ミカンも作る、カキも作る、ナシも作るというような分散型でないと生活ができなかったのです。それまでのミカン園を潰したり、高接して他の品種を作ったりするということもよくやりました。ハウスミカンを始めるまで、農業の合間に会社勤めを4年くらいはやっていた方もいます。」
 山田善弘さんは、ミカン農園を経営している御親戚のことについて話してくれた。
 「ある親戚の家では、『サラリーマンで収入を得て、農業でいろいろな種類の柑橘を作って、全体の収入ががたっと落ちないように工夫をしている。』と言っていました。私が、『もし思うようにいかなかったらどうする。』と聞くと、『その時はその時。』と笑って話してくれました。ミカン農家もそうですが、私たちが作っている焼き物業界も、研究して消費者が『いいね。』と言ってくれる商品を努力して作っている所は多少売上げに伸びがあります。そうでなければ、売上げがすとんと落ちてしまうので、何の作業でも努力や研究は非常に大事にしないといけないといつも思っています。」

エ 価格暴落への対応から学んだこと

 価格暴落への対応策を模索し、実行していく中で、柑橘栽培に携わった人々は、高品質のミカンを生産するためのより良い方法を学びとっていった。久保傳一郎さんは、次のように話してくれた。
 「昔は摘果(てきか)(良い果実を得たり、枝を保護するために余分な果実を摘み取ること)をせずにどんどん収穫していたので、成熟したミカンも未成熟の青いミカンも一緒に出荷されていましたが、今はきちんと摘果が行われ、土地からの反射も活用して、ミカンの実全体に太陽光が当たるように工夫しています。ですから、昔に比べてミカンが数段おいしくなっています。」
 さらに、中村祥二さんは次のように話してくれた。
 「以前のように量さえあれば儲かった時代には、量をとるために余分な肥料をやったり水をやったりしていました。しかし、今は質が良くないと売れない時代になりましたから、甘くなるように育てる工夫をしているので、今の方が味が良くなっているのです。
 また、価格暴落への対応として、ブドウやトマトの栽培が試みられましたが、定着しませんでした。キウイフルーツは、初めはみんなが栽培を始めてしまったために生産過剰となり、途中でやめる人も出ていましたが、現在では安定した収入が得られるようになり、続ける人が増えています。かいよう病など問題がありますが、今キウイフルーツを作っている人は、これからも作り続けると思います。キウイフルーツ栽培での収入が安定した理由は、出荷数や出荷日、出荷場所をあらかじめ決め、それを徹底し、需給のバランスを確実に保っているからです。栽培農家個人の希望では出荷することができません。これは、ミカンの価格暴落の反省から生まれた方法なのです。」

(5) 現在の柑橘栽培

 平成24年度の柑橘類の収穫量を県別に見ると、温州ミカンでは、愛媛県は和歌山県に次ぐ第2位だが、中晩柑類(1月から5月ごろまでに収穫される、温州ミカン以外の柑橘類の総称)では和歌山県を引き離して第1位、柑橘類全体では22.4万tで日本一になっている(図表2-1-7参照)。
 また、愛媛県が独自に行っている「果樹栽培状況等表式調査」によれば、平成25年(2013年)の柑橘類の収穫品目数は、名称が確認されるものだけで48品目となっている。これは、温州ミカンの価格暴落への対策として、また消費者のニーズに合う様々な品種を開発・栽培してきた方々の努力の賜物である。
 次に、図表2-1-8は、愛媛県における優良品種の収穫量の伸びについて、平成21年度と平成25年度の収穫量をもとにグラフ化し、伸び率の高い柑橘類上位7品目を取り上げたものである。平成21年度産の収穫量を1としたが、「甘平」と「タロッコ」の収穫量がかなり伸びていることが分かる。これらのうち、「紅(べに)まどんな」や「甘平」は愛媛県が、「ひめのつき」はJA全農えひめがそれぞれ独自に開発した品種である。
 このように、愛媛県は現在、優良品種を中心に多品種栽培を行いながら、消費者のニーズに合う柑橘類を市場に送り出し続けている。砥部町の現在の柑橘栽培について、話を聞いた。

ア 砥部町が栽培している主な品種

 井口昌昭さんは、次のように話してくれた。
 「現在砥部町では、大体9月から3月にかけて、収穫する品種が異なっています。特に、『せとか』や『甘平』、『紅まどんな』が中心です。『紅まどんな』が、収穫量が最高で大体5、6t、良いものを作れば、1kg当たり1,000円ほどになります。しかし、一つの品種のみに頼ってしまえば以前と同じ状況に陥るかもしれないので、今はいろいろなものを手掛けて、その中から良いものを見出して販売し、収入を得るという方法をとっています。」

イ 紅まどんなについて

 「品種にしても、JA全農えひめの登録商標である『紅まどんな』のように、愛媛の奨励品目に登録され、愛媛の特産になっているものもあります。正式名称は『愛媛果試第28号』といい、同じ種類であっても、他県では『紅まどんな』という名称を用いて販売することができません。『紅まどんな』は、日中高温となるときにはハウスのフィルムを巻き上げて、自然換気をすることで栽培できますから、砥部町で栽培するミカンの品種の中ではやはりチャンピオンだと思います。ハウス栽培だと、電気代と燃料費で年間250万円はかかってしまいます。生産量を6tに指定しているようですが、それだと年間売上げが350万円から400万円で、150万円くらいしか利益がないのです。」

ウ 今後の柑橘栽培について

 中村祥二さんは、これからの柑橘栽培について、御自身の思いを次のように話してくれた。
 「柑橘類の中でも高級なものが何種類かありますが、これからはそれに偏ってしまうのではないかと心配しています。農業には広い土地が必要ですし、育つまでに時間がかかります。いつまでも同じことを繰り返し行うだけでは、生産者にとって都合良く進んでいくとは考えられません。」
 これに対して、山田善弘さんは御自身の経験を踏まえ、次のように話してくれた。
 「窯業も、お得意先に地域の原料で生産された製品を送りますが、社会的に値段が良いものを送ると喜んでもらえます。価値が低迷したものを送っても喜んではもらえません。その時々に多少値段が高くても、信用のあるものは、その値段が『そういうものだ。』と消費者に受け入れられているので、私たちも送ることができているのです。柑橘類でも同じことが言えますが、品質の良いものを送ると、『おいしかった。』と言ってくれると思います。普通のものだと、単に『ありがとう。』で終わってしまうので、送り先に少しでも喜んでもらえるように、値段が高くても良いものを送ろうと思うのです。焼き物の場合は、値段のこともありますが、芸術性を探究して一生懸命仕事をしている人は、研究の材料があるので、どういうものが今の時代に合うのかを早期に考え、柔軟に対応することができると思います。昔の話ですが、砥部焼では大正の初めから昭和の終わりころまでは、花器(花を生ける器具)専門に生産してきました。そのころは決まったように、月1,000枚から2,000枚ほどの注文があるのが当たり前でしたが、ある時から全く注文がなくなりました。それは、住宅の様式が変わり、花器を置く床の間がある家がなくなってきたため、花器を作っても売れなくなったからです。このような時代の変化に応じて、作る製品を変える努力が必要で、社会の変化に対応しながら、ある程度消費者が認めてくれる良い製品を作り出すことで、自分たちの生活を守ることができるのです。
 柑橘栽培の観点で言うと、とにかくおいしくて、見た目の良い商品でないといけないと思います。農業のみならず、他の産業においても信用を得るためには、努力と『これはこういうものだ。』という生産者としての信念のようなものがなければならないと思います。商品の信用を落とす行為が1回でもあれば、その商品はだめになってしまいます。これは商品を作り出す私たちの信用についても同じことだと思います。やはり、80年生きてきて、信用は大事だと強く感じています。」
 柑橘栽培に携わってこられた多くの人々の努力により、私たちは一年中、どの時期にでも何らかの柑橘類を食すことができる(図表2-1-9参照)。食味の良い品種は何か、どのような品種が消費者のニーズに合うものなのかなど、これまでの経験を生かしながら、市場性の高い新品種や新たな栽培技術の開発に向けた努力が現在も続けられている。

参考引用文献
 ① 愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』1986
 ② 愛媛県、前掲書
 ③ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984

その他の参考文献
 ・ 砥部町『砥部町誌』1978


図表2-1-2 ミカンの生産費及び販売価格(全国平均)

図表2-1-2 ミカンの生産費及び販売価格(全国平均)


図表2-1-3 ミカンの生産費及び販売価格の推移(愛媛県平均)

図表2-1-3 ミカンの生産費及び販売価格の推移(愛媛県平均)


図表2-1-6 ハウスミカンの全国栽培状況

図表2-1-6 ハウスミカンの全国栽培状況


図表2-1-7 柑橘類の上位3県の収穫量(平成24年度)

図表2-1-7 柑橘類の上位3県の収穫量(平成24年度)


図表2-1-8 愛媛県における優良品種の収穫量の伸び

図表2-1-8 愛媛県における優良品種の収穫量の伸び


図表2-1-9 「愛ある」愛媛のかんきつ食べ頃カレンダー

図表2-1-9 「愛ある」愛媛のかんきつ食べ頃カレンダー