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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 町の賑わい

ア 鉱栄座

 「昭和40年(1965年)ころには、まだ鉱栄座という劇場がありました(写真1-3-1、図表1-3-3の㋐参照)。建物の中は広く、お客さんが200人程度は入ることができる建物でした。1階には花道や舞台があり、2階席もありました。ただ、1階席は筵(むしろ)が敷かれているだけで、『きれいな劇場だ。』と言える状況ではありませんでした。ある時、お客さんの一人が、『筵にノミがおる。』と言って、他のお客さんがざわついていたことがあるくらいです。そのような場所でしたが、地元の人たちや鉱山で働いている人たちなど、本当に大勢の人が集まっていました。当時は今のように各家庭にテレビがあるわけではなく娯楽も少なかったので、お客さんは汚いのを我慢してでも鉱栄座へ行くことを楽しみにしていたのだと思います。臼杵(うすき)や田渡(たど)(現内子町)の方からもお客さんが歩いて来ていました。大勢の若者が集まっていたので、鉱栄座は娯楽の施設であると同時に、若い男女の出会いの場でもあったと言えるのです。
 鉱栄座では、映画や芝居を観(み)ることができました。中でも催し物の一つであった、年に1回行われる青年団による芝居が面白かったことをよく憶えています。清水次郎長や国定忠治などの時代劇が盛んに演じられていました。地元の知っている人が演じる、ということで観る方も楽しむことができましたし、何より素人芝居だからこそ起こるハプニングが楽しかったのです。青年団の人たちは鉱栄座での公演に向けて、それぞれの仕事が終わった後の夜に集まって練習をしていました。集まると、芝居の練習はもちろんのこと、酒を飲んだり話をしたりすることが地元の人たちの楽しみだったのだと思います。」
 鉱栄座で上映する映画のフィルムを扱う仕事をしていた東勉さんは、鉱栄座の思い出について次のように話してくれた。
 「青空楽団という、音楽好きが集まってできたバンドがありました。私(東勉さん)の姉はこの楽団で歌を歌っていました。広田での演奏はもちろんのこと、小田へも行って演奏会を開いていたと聞いています。
 また、広田には興行師がいました(図表1-3-3の㋑参照)。この方は楽器を上手に演奏することができて、話し方も上手だったので、映画が無声映画のときには弁士を務めてもらっていました。映画に合わせて楽器を上手に演奏していたことをよく憶えています。また、特にトランペットやヴァイオリンの演奏がすばらしく、映画や芝居が始まる前には、鉱栄座の前でトランペットを吹いて地元の方に鉱栄座で催し物があることを知らせて来場者を集めていました。
 私は鉱栄座で父と一緒に仕事をしていました。何日に何が上映されますとか、今日は何をしますというようなことが記されたビラを地元の人たちに渡しながら宣伝をしたことがあります。映写機で映画を映す仕事では、1台しかなかった映写機にフィルムをセットする仕事をしていました。映写機でフィルムを回すときに用いる照明にはカーボンという、炭素棒を燃やす形式のものが使われていました。不燃性のフィルムが使われる前には、その熱でフィルムが焼けてしまうことがあり、全部焼いてしまうと弁償しなければならなかったので、照明を点(つ)けるときには相当気を付けていたことを憶えています。当時、映画のフィルムは一月にいくらという契約で借りて来ていたので、毎日開催されるわけではない鉱栄座での上映では、フィルム代を稼ぐために少しでも多くのお客さんに来てもらう必要がありました。お盆やお祭り、正月などの紋日(もんび)にはたくさんのお客さんが来てくれていましたが、お客さんが少ないと分かっているような通常の日でも、フィルムの契約上、上映をしなければならなかったのです。さらにフィルムの契約には、掛け持ちという形態がありました。これは2本の映画フィルムを二つの映画館でそれぞれ半分の使用料を出し合って借り、映画館の間でフィルムをやりとりしながら上映するという方法です。ただ、一緒に借り受けた映画館との間の道路事情が悪く、フィルムが時間通りに届かないということがありました。その場合はお客さんに、『しばらくお待ちください。』と言うしかありませんでした。本当に大変な仕事でしたが、一生懸命に働きました。」

イ 総津市

 (ア) 商店街の歳末大売り出し

 「総津の商店街で歳末の大売り出しを行っていたことがあります。この大売り出しは総津市を受け継ぐ形で行われていました。大売り出しの期間中には買い物をしてくれたお客さんに抽選券が渡されて、地元の商工会が主催して抽選会を開いて景品が当たるようなことをしていたので、その券を持ったお客さんが抽選会場に大勢集まっていました。上位の景品を高価な良い品物にすると下位の景品が悪くなるので、何等が当たっても喜んでもらえるような景品にするために、予算のバランスをとることが難しかったと思います。私(東勉さん)は、たくさん買い物をしてくれたお客さんが何回も抽選をするのに、インスタントラーメンしか当たらないというようなことではいけない、という思いをもっていました。」

 (イ) 総津市の賑わい

 「年末、旧暦の29日だったと思いますが、一日だけ総津市が開催されていました(写真1-3-2参照)。総津市では出店で唐津もん(唐津もの、陶器)や魚の塩もん(塩もの、塩魚)など、いろいろなものが販売されていて、そのときには大勢の人が来て、買い物をしていました。市は総津で先に開かれて、総津での市が終わったら小田(現内子町)で開催されていました。商品を持って売りに来ていた人たちは、それに合わせて小田へ移動していました。総津市が開催されると本当に大勢の人が買い物に来て、この町筋が大変賑(にぎ)わっていました。当時は車が普及していなかったので、歩いて買い物に出て来て、買った商品をオイコに背負って帰っていました。私(東勉さん)は、塩辛い魚を買って帰って、それをおかずにして御飯を食べていたことを憶えています。父親がイワシを買って帰って来たときには、魚が腐りかけているように見えました。山間部に生まれ育った私にとって、魚を食べるということ自体が稀(まれ)だったので、魚を焼いて身を食べ、身を食べた翌日に残っている骨と頭の部分を焼いて食べていました。それくらい食べ物を大切にしていたことを憶えています。塩サバやイワシ、シャケなどが売られていましたが、どの魚も腐らないように塩漬けされていて、塩で真っ白になっていました。」
 「私(肥田禎之さん)の家では、市で買った塩漬けのイワシをワラスボ(わらなどを束ねた、ものを包むもの)に入れて持って帰り、家裏の軒先に吊(つ)っていました。大量の塩が利いていたので、イワシが腐ることはありませんでしたが、冷蔵庫がない時代にはこのような保存食を食べていたことを憶えています。塩サバを開いてみると、塩の塊が出てくるくらいの塩が使われていました。」

(2) 総津の町かど

ア くらしを支えた店

 「町組と呼ばれる区域には現在は25軒しかありませんが、当時はまだ人が多かったので75軒が軒を並べていました(図表1-3-4参照)。道の両側がほとんど店だったので、昔は総津の町には何でも揃(そろ)っていて、町へ行くと何でも買うことができていました。
 商店街の南の方には傘屋があり、竹で和傘や蛇の目傘を作って販売していました(図表1-3-3の㋒参照)。和傘は和紙でできていて、傘を開くと乾いた紙が『バリバリ』と音を立てていました。和紙には漆が塗られていて、水を弾(はじ)くように丈夫に作られていました。破れた傘をこの傘屋へ持って行くと、新しい和紙に張り替えてくれていました。骨の部分だけを持って行けばよかったと思います。ただ、お祭りなどで使う提灯(ちょうちん)の張り替えは別で、森松(もりまつ)(松山市)まで持って行って張り替えてもらっていました。
 お酒を買うということになれば、佐々木酒造へ行くしかありませんでした(図表1-3-3の㋓参照)。
 鉱山(広田鉱山)がまだ操業していたときには、お酒が本当によく売れていました(写真1-3-3参照)。戦争中には瓶詰の酒がありましたが、お使いでお酒を買いに行くときには、三升徳利(約5.4ℓ)や五升徳利(約9ℓ)と呼ばれていた通い徳利をわらで編んだホゴロ(ものを運ぶわら編みの用具)に入れてオイコに縛りつけ、それを背中に背負って買いに行っていました。佐々木酒造へ行くと、店のおばあさんがお酒の量を量って徳利に入れてくれていました。
 商店街沿いには病院があり、その裏には入院病棟もありました(図表1-3-3の㋔参照)。この病院は総津で唯一の病院だったので、一日中診療に応じてくれていました。夜中に急患が出たときには、病院へ行って『先生。』と大きな声で呼ぶと病院を開けてくれて診察をしてくれました。総津でのくらしでは、医療に困るということはなく、何かあれば頼る所があったので、安心してくらすことができました。戦時中の話になりますが、広田の上空でアメリカ軍と日本軍の戦闘機が空中戦をしたことがあります。そのときに撃ち落とされたアメリカ兵が落下傘で降りてきたのです。アメリカ兵は怪我(けが)をしていたらしく、この病院で手当てを受けたそうです。戦後になって、このアメリカ兵は助けてくれた関係者にお礼を言うために広田村を訪れています。
 昭和40年(1965年)ころには伊豫銀行(現伊予銀行)の出張所があり、その隣には製麺所がありました(図表1-3-3の㋕参照)。そこで製造される素麺(そうめん)がおいしかったことをよく憶えています。戦後すぐのころのことになりますが、食べ物がないころには小麦のかすを団子にしていたことを憶えています。食べはしましたが、小麦の皮だけで作っているので、これほど味がなくて食べられないものはありませんでした。砂糖も塩も入っていないようなもので、当時食べたものの中ではこれが一番食べられなかったことを憶えています。
 佐々木酒造の近くには旅館がありました(図表1-3-3の㋖参照)。この旅館は料理屋でもあったので、宴会を行うときにはこの旅館を利用することが多かったと思います。当時は鉱山の仕事があって、日本鉱業という会社の従業員が多くいたので宴会が催されることが多かったのだと思います。日本鉱業の幹部の方たちは、この旅館で下宿をしていました。
 病院の向かい側には下駄屋がありました(図表1-3-3の㋗参照)。この下駄屋さんは桐の木を使って自分の店で下駄を製造していました。今は下駄を作るときには電動ノコギリで一気に木をひきますが、当時はノミで木を丁寧に削っていたと思います。ですから、材料となる桐の木には無駄になる部分がたくさん出ていたようです。当時、桐下駄は高価で、誰でも履くことができるというようなものではありませんでしたが、品質が良く、軽いので履きやすいものでした。正月には、その下駄を履き、着物を着て過ごしていたことを憶えています。」

イ 講堂の思い出

 「学校の講堂は、それはすばらしい建物でした(図表1-3-3の㋘、写真1-3-4参照)。中には何もなく、ステージがあるだけで今の体育館のような造りをしていました。子どもが一斉に入ることができる建物はこの講堂だけだったので、学校の集会や卒業式などの式典はもちろん、体育の授業も行われていました。また、子どもだけでなく、村の人が集まって行事を行う場所としても使われていました。国会議員の演説なども行われることがあったと思います。学校に今の体育館が建設されるときに講堂は取り壊されてしまいました。昭和15、16年(1940、41年)ころのことになりますが、この講堂が建設される前、この辺りは田んぼで、建設のために田んぼを埋め立てる作業が行われました。埋め立てに使われる土がトロッコで運ばれていたことを憶えています。学校の上級生である私(肥田禎之さん)たちの先輩が、建設される講堂の屋根に使うセメント瓦を運び、はしごを使って屋根に上げていました。
 このころは、戦争の影響を大きく受けた時期でもありました。私は高等科を修了後、松山の学校へ入学しましたが、昭和20年(1945年)7月26日の松山空襲で大きな被害を受けました。空襲で焼け出されて住みかを失い、松山での生活が困難を極めたのです。寮に入ったり寄宿舎に入ったり、そしてまた寮に入り直したりと生活の拠点が次々と変わりました。このような戦争の被害もあって、私は学校を途中で辞めなくてはならなくなりました。それが私には今でも残念なこととして深く心に刻まれています。まだまだ学びたいという気持ちが強かったのですが、学校を辞めた後は、『体一つで頑張るぞ。』と決意したことを憶えています。その強い気持ちが戦争後の私の人生の糧になったとも言えます。本当に頑張って生活をしてきました。」



写真1-3-1 鉱栄座跡の現況

写真1-3-1 鉱栄座跡の現況


図表1-3-3 昭和40年ころの総津の町並み

図表1-3-3 昭和40年ころの総津の町並み


図表1-3-4 広田村の人口推移

図表1-3-4 広田村の人口推移