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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 原町のくらし

(1) 戦時中から戦後の記憶

ア 学校の思い出

 「私(相田カヲルさん)が小学生のころ、修学旅行には高等科(麻生尋常高等小学校)の1年生と2年生が一緒に行くことになっていましたが、私の家は裕福ではなかったので、修学旅行どころではありませんでした。後の時代と違い、私たちのころは旅行費用は全て家で負担しなければならなかったのです。修学旅行の期間中は、居残りの人たちと一緒に、学校で勤労奉仕をしていました。高等科の2年を終えると、中学校や女学校へ進学する人もいましたが、私は青年学校(原町青年学校)へ進みました(写真1-2-5参照)。青年学校は義務教育ではなく、通う必要はなかったのですが、親は私にある程度は人並みの教育を受けさせてやりたいという思いがあったのだと思います。青年学校を卒業した後は上級学校へ進学せず、近くの農家のお手伝いをして賃稼ぎをしながら生活していました。」

イ 空襲の記憶

 「戦時中、米軍の空襲があると、私(相田カヲルさん)は、自宅から東側にある小高い山へ急いで避難しました。今の南ヶ丘はみんな宅地になっていますが、当時はその辺りに溜(た)め池が20くらいあり、夏の日の空襲では、着の身着のままで、団扇(うちわ)だけを持って池のそばへ避難したことを憶えています(写真1-2-6参照)。昭和20年(1945年)の松山大空襲があった翌日に、松山辺りから焼け出された人たちが、旧国道33号を行く当てもなくぞろぞろと歩いていた光景は今でも忘れることができません。」

ウ 質素な御飯

 「今は白米の御飯ばかりですが、当時は普段から丸麦が混ざった麦御飯を食べていました。しゃぎ麦(大麦の加工品)を食べるのはまだ裕福な方で、私(相田カヲルさん)は丸麦のがわ(殻)だけを除(の)けて麦だけを1時間以上炊いていました。しゃぎ麦と違って丸麦は柔らかくなるまでに時間がかかり、それだけでは粘りも出ません。原町には古くから素麺(そうめん)店があり、私は働いていた素麺店で素麺のくずを安くもらうことができました(図表1-2-2の㋝と㋞参照)。素麺が茹で上がるころに丸麦と少しばかりのお米を入れて、少しでも御飯に粘り気を出そうとしましたが、それでもあまり粘り気がないので、子どものころは、食べるときにポロポロと口から落としていました。くらし向きが良くなると、丸麦1升(約1.8ℓ)に対しお米を三握りくらいの割合で混ぜて、そこに素麺も入れていました。また、子どものころのおやつといえば、自分の家で歯固め(歯固め餅)やあられのほか、干した御飯を煎(い)ったものを食べていましたが、当時はそれを御馳走(ごちそう)だと思っていました。」

エ 夫婦でうどん店を経営

 「私(相田カヲルさん)は、森松の陸運事務所(現国土交通省四国運輸局愛媛運輸支局)でうどん店をしていましたが、主人は畳の仕事が減ってきて、家で過ごす時間が長くなりました(図表1-2-1参照)。そのころ、湊町(みなとまち)(松山市)の裏通りで『アサヒ食堂』といううどん店を出す話を持って来た人がいましたが、私も体が一つしかないので、主人が『アサヒ食堂』でお店をすることにして、私はこれまでと同様に森松のうどん店を続けることにしました。湊町は私が子どものころから、人通りの絶えない繁華街だったので、『アサヒ食堂』の方がかなり売り上げが良かったです。」

(2) 子どもの遊び

ア 手作りの遊び道具

 「私(玉井直綱さん)は小学生のころ、ビー玉で『ランコン』(クロッケーと同じように、順番にビー玉を穴に入れていく遊び)をしたり、パッチン(メンコ)をしたりして遊びました。収穫後の稲木や釘(くぎ)で釘立てもしていて、『ネンコ』という名前で呼んでいたと思います。中学生になると、先輩・後輩の上下関係が小学生のころよりも厳しくなり、先輩が、『明日は3時に集合じゃ。』と言えば、みんな必ず時間通りに集合していました。三角ベースで遊ぼうにも、当時はボールやバット、グラブもなかったので、全て自分たちで作っていて、ボールは、ガラス玉を自転車のタイヤのゴムで巻いた後に布を巻いて、その後、凧(たこ)糸でぐるぐる巻きにして作り、バットは、短めの稲木竿(いなぎざお)を切って作っていました。」

イ 川遊び

 「私(高市民子さん)が小学生のころ、まだ近所にプールがなかったので、夏休みには毎日砥部川で泳いでいました(写真1-2-7参照)。いつも半日くらい泳いでいましたが、体が冷えてくると、田んぼの水を引いた所が温かいので、よく寝そべっていましたが、見つかると叱られたものでした。」
 「私(玉井直綱さん)は20歳くらいのころ、兄や友人とよくウナギを獲(と)りましたが、夕食でウナギを食べ過ぎて体が熱くなってしまい、夜になって路面の温度が下がったアスファルトの道路の上に寝転がって、体を冷やしたこともありました。ウナギのほかに、コイやカニ、ナマズなどもよく獲りましたが、今は川の水が昔ほどきれいではなくなったので、ウナギやコイなどを獲っている人を見かけなくなりました。」

ウ お菓子を買う楽しみ

 「私(玉井直綱さん)は子どものころ、お菓子の上に景品が付いているものや、キャラメルを買ったらおまけが付いていたり、くじを引けたりするようなものが好きで、よく買っていました。当時のお菓子の値段はキャンデーには3円と5円のものがあり、キャラメルは1個が50銭で、2個で1円でした。」

(3) 結婚式の思い出

 「昔は、自分の家で結婚式をするところが多く、私(水野町子さん)も家で結婚式を挙げました。なるべく大勢の人が家の中に入れるように、タンスを動かすなどして部屋を片付けるだけでも一日かかり、近所の人が来てたくさん料理を作ったり、髪結いさんが来たりして、準備にはかなりの時間を要しました。また、写真屋さんが来て、記念写真を撮るというので床の間に夫婦で立っていると、『壁にひびの入った床の間を背景にしては撮れません。』と言ったので、二人で森松の写真店まで行って撮り直したことがありました。私は嫁いで来た翌日から、新婚旅行にも行かずにお店(喜久屋食堂)を手伝っていましたが、半年後に、私の兄弟の結婚式に夫婦で出席するため大阪(おおさか)へ行ったのが新婚旅行の代わりのようなものでした(図表1-2-2の㋐参照)。」

(4) 地区の行事

ア 秋祭り

 「お祭りでは、麻生区で神輿(みこし)1基を持ち回り、各地区が持ち時間の間だけかくことになっています。神輿の保管場所は三島神社で、高尾田の人がそこで神輿を組み立てますが、当時は、原町の次に神輿をかくのが高尾田でした(写真1-2-8参照)。昔の人は、血気盛んだったので、『神輿がいるんだったら取りに来い。』という感じで、高尾田の人が原町まで神輿を取りに来てもすぐには渡さず、喧嘩(けんか)になることがよくありました。今ではかき手が足りないので、大きなタイヤの台車に神輿を乗せて引っ張っています。神輿が練り歩く町道はかつての国道33号で、今でも車がよく通ります(写真1-2-1参照)。通りがかった人に、田舎の神輿だなと思われるのは嫌だったし、揃(そろ)いの法被を着て神輿をかいたらきれいだろうと思い、原町区長に掛け合って実現させることができました。
 今は原町で揃いの法被を着て神輿をかいていますが、昔と違って地区の持ち時間が終わると、大体すぐに次の地区へ神輿を渡しています。今はかき手があまりいなくなったこともありますが、気性が穏やかになったと感じます。昔は、お節句などお酒を飲むと必ず誰かが喧嘩をしていましたが、それが娯楽がなかった時代の一つの楽しみでもあったと思います。」

イ お祭り以外の行事

 「原町でのお祭り以外の行事としては、土用祈祷、百八灯、お日待ちなどがあります。『土用祈祷』は、農家の方が祈祷の終わったお札を竹に挟んで田畑の入口に立てて、豊作を願うもので、毎年土用の入りに行われていましたが、現在は7月の海の日に行っています。『百八灯』は、新盆の家庭で、家から墓地まで108本のローソクを竹などの先に付けて火を灯(とも)して霊を送っていたものですが、現在は簡素化され、お墓の前で108本のローソクを立てて送り火としています。『お日待ち』は、昔は当元(講などの行事において準備や世話をする中心的な人)の家に集まり、日の入りを拝んだ後も一夜を籠もり明かし、翌朝の日の出を拝んだものですが、現在は、毎年1月の成人の日に輪番で集会所に集まり、その年の家内安全、無病息災などの祈願をした後、大きなお札を地区の四方の角に立て、小さなお札は各家庭に配って回ります。最近では、こうした行事の内容や、なぜ必要なのか分からない方が増えているので、私(玉井直綱さん)たちが当番のときに資料を作って配ったことがあるくらいです。」


参考文献
 ・ 朝倉書店『日本図誌大系 四国』1975
 ・ 砥部町『砥部町誌』1978
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『愛媛の地域調査報告集』1980
 ・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
 ・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
 ・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
 ・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
      『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
 ・ 砥部町『とべまち』


写真1-2-7 砥部川

写真1-2-7 砥部川


写真1-2-8 三島神社

写真1-2-8 三島神社