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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 大南のくらし

(1) 大宮八幡宮 - 秋の例祭 -

 大宮八幡宮は、寛平元年(889年)に豊前(ぶぜん)国(現大分県)宇佐八幡宮より勧請(かんじょう)したと伝えられる由緒ある神社である(写真1-1-11参照)。旧砥部町だけでなく、松山市久谷(くたに)などにも氏子に属している所がある。秋の例祭は『砥部祭り』ともいわれ、盛大に行われてきた。かつて、祭日は10月21、22日であったが、昭和30年(1955年)から10月14、15日に、さらに昭和47年(1972年)からは10月の6、7日に変更されたが、これは小中学校の例祭当日の休日や、農家の稲、早生(わせ)ミカンの取り入れ時期などの関係による。昭和30年代前後の秋の例祭の様子について話を聞いた。

ア 祭りの賑わい

 「昔のお祭りは、10月の21、22日でした。今は、松山祭りに合わせて10月の6、7日に実施しています。合併するまでは、松山祭りのときには砥部の人は松山祭りへ行って、松山の方が砥部の祭りにやって来るという感じでした。ですから、祭りには大勢の人が来ていて、盛大で賑やかでした。」

イ 激しい鉢合わせ

 「昭和30年代、神輿(みこし)の鉢合わせは非常に激しかったことを憶えています。お宮の境内も観に来た人で一杯で、身動きがとれないくらいでした。神輿の鉢合わせは、松山市の祭りのように真っ直ぐぶつけるのではなく、かき棒の先を斜め上にした状態でぶつけていました。神輿を綱でギンギンにきつく巻いて、砥部町の地区が赤と青の2団にそれぞれ分かれて鉢合わせをしていました。かき棒を交差させてねじっていたので、かき棒の柄がよく折れてしまいました。製材所だった私(久保傳一郎さん)の家では、祭り前にはヒノキで作った棒を4本くらいは準備をしておきました。祭りの最中に『折れた』という知らせが届いたときには、すぐに代わりのかき棒を持って行っていました。当時はかき夫の中に職人がたくさんいたので、すぐに自分たちで修理をして、また鉢合わせを続けていました。」
 「鉢合わせでは、かき棒がうまくかみ合い、うまく押し合う状態ならよいのですが、うまくかみ合わなければ、上側になった神輿の動きによって、下側になった神輿の上部が壊れてしまい、毎年大補修をしなければなりませんでした。」

ウ 神輿に鎖と綱を巻いて

 「松山祭りも勇壮ですが、砥部の神輿ほど綱を巻いている所はほかにはないと思います(写真 1-1-12参照)。鎖をかけて、それに綱を巻いていました。これは御神体を守るためのものでした。祭りの当日は神輿をかく人の中にも、鉢合わせで腰を打ったり、あばらを打ったり、脊髄を傷つけてしまったりと、何人もけがをした人が出ていました。」
 「祭りの前日に、神輿の四隅に5人ずつくらいが並んで、霧を綱に吹きかけて、ずれないように気を付けながら綱を神輿に巻いていました。これは、鉢合わせのときに、相手のかき棒の柄が神輿の内部に入らないための工夫です。お酒を飲んだときには、綱を刃物で切ったり、神輿に傷を付けたりといった悪さをする者がいたことがあります。ですから、その晩は常に仲間とともに神輿の周りにいて、神輿を守っていました。」
 「鉢合わせをする2基の神輿とは別に、地区回りの神輿としてずっと使っている神輿が1基あって、神輿は全部で3基あります(写真1-1-13参照)。鉢合わせをする2基の神輿は、地区ごとにかき手が決まっていて、それぞれ赤と青のハチマキを締めて神輿をかいていました。」
 「鉢合わせを見ているときは、自分の出身地区の神輿が勝ってほしいという気持ちでみんな応援をしていました。一旦人が集まったら、神輿が見えないぐらい、ものすごい人だかりができたことを憶えています。」

エ 鉢合わせの風景

 「鉢合わせは今も行っていますが、当時とは迫力が全然違います。今は鉢合わせが形だけになってしまったように思えてなりません。昔は鉢合わせをしているときには神輿が宙に浮いているような状態でした。今の高校生くらいの年齢の人たちでも、農作業や家の手伝いなどで全員体を鍛えていましたから、軽々と神輿を担ぎ上げていました。片方の神輿が劣勢になったときには、神輿のかき夫が劣勢を挽回(ばんかい)しようと声を張り上げたり、その神輿に声援を送ったりする人々の熱気でものすごい状態になったことを憶えています。」
 「お宮の境内の高い所に登って鉢合わせを見たときの光景で憶えているのは、赤と青の神輿の周辺に人々がきれいな四列縦隊で並んでいる光景です。人が集まるにつれて、その列がさらに増えていくと嬉しくなりましたし、鉢合わせの激しさで一旦神輿から離れたかき夫たちが戻ってくると、『また10人来た。』、『また5人来た。』とみんな叫んでいました。列の数が極端に少なくなってしまったときは、『こりゃ、負けるんじゃないか。』と思ったものです。」

オ 祭りと子どもたち

 「私(久保傳一郎さん)たちが小学生のころは、祭りの日が近づいてくると、小さい子ども神輿を作って(組み立てて)、稲刈りの後に田んぼで隣の区の子ども神輿と鉢合わせのようなことをやっていました。子ども神輿でも案外頑丈で、良い神輿を作っていました。大人神輿と同じように、綱を巻いて互いに鉢合わせをして競っていたことを憶えています。」

カ 出店

 「当時は、参道を中心にして、境内には松山市の椿さん(椿祭り)のようにびっしりと、店がコの字になって出店していました(写真1-1-14参照)。けんかが起こったときには、店が壊れるのを避けるために立ち退(の)く店もありました。出店は、15軒から18軒ほどあったように思います。子どもたちは、笛や風船、お面などを買ったり、くじ引きをしたりして、お祭りを楽しんでいたと思います。」

キ マツタケの出店

 「昭和20年代から30年代で思い出されるのは、商店街に出店していたマツタケの出店のことです。お客さんが来たとき、販売している人が『マツタケみたいなもんしかありませんが。』と言っていたことを憶えています。一つの容器の中に、マツタケがたくさん入っていました。終戦後しばらくは山にはアカマツが多く生え、大宮八幡宮から周囲をぐるっと見渡すと、大体マツ山でした。それ以後は、周りを見ると、ほとんど果樹園に変わってしまいました。」

(2) マツ山と人々のくらし

ア 松脂を採る -戦時中の記憶ー

 「戦争中は、松脂(まつやに)が接収されていたので、山へ行ってよく採っていました。」と、山田善弘さんは話してくれた。これは、昭和19、20年(1944、45年)のことである。戦争末期のこの時期、南方からの原油輸送が困難となって燃料事情が悪化していたため、石油に代わる燃料を生産することが急務とされた。以前より製造技術のあった松根油(しょうこんゆ)を代替燃料とするため、その原料となるマツの切り株や松脂などを集めようとする運動が全国的に展開された。『砥部町誌』にも、「近山にあった松の大木は皆伐(かいばつ)され、吉田浜飛行場(松山市)の滑走路のくいに使用され、根株(ねかぶ)は現森林組合の所に製油所を作り松根油を製造していた(②)」と記されている。数量や期限に間に合わせるために多くの労働者を必要としたので、町と組合が一体となって青年団や区組織を動員して、採取をはじめ搬出や製材などの作業を手伝った。

 (ア) 松脂の採取方法

 松脂が採取できる場所や採取方法について、久保傳一郎さんは次のように話してくれた。
 「松脂は、マツの根元付近にあります。マツの木の幹の部分にノコを斜めに入れて傷を付け、そこに竹と針金で作った容器を差し込んで、出てきた松脂を採っていきました(図表1-1-5参照)。一日に朝、晩の2回、採りに行きました。傷を付けた場所から松脂が採れなくなると、1㎝ほど上の部分を割いて(傷を付けて)また採って、さらに同様に割いてというような作業を繰り返しました。片側が終わったら、今度は反対側でも同じような作業をしていきました。
 地区ごとに松脂を採る区域が指定されており、日ごとに当番(家族ごと)も決められていました。私の家は親一人子一人でしたから、朝早くから親に連れられて、松脂を採りに行っていました。桶の中に松脂を入れていき、リヤカー1台分集まったら、戎(えびす)地区にあった集荷場所へ持って行きました(図表1-1-2②参照)。採った松脂をそのまま家庭で使うことはなく、軍事用に全て使用されていました。これは戦時中だけのことで、戦後になると行いませんでした。」
 幼いころのマツ山の風景について、井口昌昭さんは次のように話してくれた。
 「私が子どものころには、マツ山へ行くと、マツは手の届く範囲の全てが傷付けられていました。」

 (イ) 松脂の燃え方

 林業を営む久保傳一郎さんは、山地で松脂を使用したときのことを話してくれた。
 「山で開墾するときに松脂を燃やしたことがありますが、とろりとろりとゆっくり燃えて、なかなか燃え切りませんでした。雪や雨のときは薪(たきぎ)が湿って燃えませんでしたが、松脂に火を点(つ)けて、山小屋で暖をとったり、お茶を沸かしたりしたこともありました。」
 砥部焼の製作に松脂を用いたときのことを、山田善弘さんが話してくれた。
 「松脂の燃え方ですが、ボッと燃えずにトロトロとゆっくり燃えます。これは焼き物をするのにはちょうど良い燃え方でした。窯の温度が急激に上がった場合、陶器にヒビが入ってしまうことがよくあります。仕事場で松脂を燃料として使ったときには、部屋の中が煙で一杯になって、向こう側が見えなくなってしまったことがありました。」

イ マツタケが多く生育した時代

 現在、砥部地方には果樹園が広がっているが、昔はマツ山が非常に多く、そのためマツタケがよく生え、特に川井・七折地区で多く生産されていた。マツタケ山では、秋が来ると縄張りをして山番をし、マツタケを盗難の被害から守っていたこともあった。「山番は、山主(やまぬし)が直接行う場合と他人が当る場合とがあり、大谷官山(おおたにかんざん)(国有林)は七折地区にあって、植林や保護に従事していた(③)」という。当時の様子について話を聞いた。

 (ア) マツタケが継続して生育する要因

 「昭和20年代ころまでは、マツタケがよく採れていました。私(久保傳一郎さん)は、祖父が製材所や林業をやっていたので、よく自分が所有するマツ山に連れて行ってくれていました。そのとき、大きな籠一杯にマツタケを採って帰ったことを憶えています。
 当時は、炊事をするにも何をするにも薪が使用されていたので、子どもたちが家の仕事として薪を取って帰るということをよく行っていました。また、焚(た)き付け(火を燃やしつけるときの材料)にするマツの葉を集めて大量に家へ持って帰るので、マツの周囲をきれいにすることができていました。結局それが、マツタケの菌を残すことになり、継続してマツタケが生える条件だったのだと思います。ところが、ガスを使うようになると、マツ山の手入れをする人がいなくなりました。私たちの生活様式の変化が、マツタケの菌をなくしてしまったと言えるのです。」

 (イ) マツタケ菌の管理と育成

 マツタケの管理方法を学ぶため、岡山県の研究所を訪問したときのことについて、久保傳一郎さんは次のように話してくれた。
 「マツタケの研究に、岡山県でマツタケを栽培している所へ行くと、マツの周囲がきれいに掃除されていました。マツタケ菌というのは、マツの木を中心に、円状に順々に広がっていくので、木の周辺を掃いたら、その円の周辺の外れの所にマツタケが生えてきます。マツタケ菌を培養するのはしよいん(しやすいの)ですが、きちんと管理してそこに根付かせることが難しいのです。そのノウハウは、岡山では教えてくれませんでした。岡山ではきちんと散水をして、日光などの条件も管理されていたため収穫量が増え、当時はマツタケ御殿(ごてん)がいくつも建ったそうです。」

 (ウ) マツタケの生育条件

 「マツタケが生育するには厳しい条件があります。マツにはアカマツとクロマツの2種類がありますが、アカマツの8年生くらいから25年生くらいのときにマツタケがよく生えます。また、土壌については、マツタケは有機物の少ないやせた土地に多く生育するので、柴(しば)(山野に生える小さい雑木)などがあまりなく、裸地(らち)になっている所でよく生え、柴が多い所ではマツタケは生えません。このような条件から、畝(うね)になった所にはよく生えていました。私(井口昌昭さん)の近くの山でもマツタケがよく採れていましたが、私が採りに行ったら大体近所の人が先に採ってしまっていて、残っていなかったということがよくありました。」
 「私(久保傳一郎さん)は広田の方に山を所有していて、そこには今でもアカマツが生育していますが、私一人ではそこへ行ってマツタケを採ることができなくなっています。昔は燃料材を確保するために人々がマツ山へ来て、マツの周辺をきれいにしてくれていたので、マツ山へ入ることも容易で、菌が死滅せずに残り、継続してマツタケが生育できていたのです。」

 (エ) マツタケが生育していた場所

 「マツタケは、万年(まんねん)に特に多く生育していました。北川毛の奥の方や旧久万街道の道路の縁にも生えていました。当時、盆地の周囲は、全てマツ山だったと言ってもいいと思います。ですから、アカマツが生えている所には、マツタケが生えていました。今はもう、松枯れが起こってしまって、マツがほとんどなくなってしまい、マツタケが生えなくなりました。今でも4、5か所ほどはマツタケが生える所がありますが、昔ほどの量ではありません(写真1-1-15参照)。」

 (オ) マツタケにまつわる話

 当時のことを思い出しながら、井口昌昭さん、山田善弘さんは次のように話してくれた。
 「当時、マツタケが生育する所に他人が入らないように、周囲に綱を張って番をしていたときの笑い話を、私(井口昌昭さん)は聞いたことがあります。ある人がマツタケを探して山の中を歩いていたら、別の方向から誰かが歩く音が聞こえてきたそうです。その人に対して、『マツタケを盗んだらいかんが。』と叫ぶと、その人は逃げ出しました。さらに、マツタケの番をしている人が、最初に叫んだ人を追いかけたら、その人も逃げてしまったという話です。実は、二人とも泥棒だったそうです。」
 「私(山田善弘さん)の体験談ですが、友達に、『マツタケを採りに行こう。』と言われて一緒に山へ行ったのですが、その山は誘った人が所有する山ではありませんでした。山へ入ると、番をしている人から『お前ら何しよんぞ。』と言われ、私は怒られてしまいました。」
 さらに井口昌昭さんも、御自身の体験談を話してくれた。
 「かなり昔の話になりますが、友達に、『うちの山やけん、マツタケ採れや。』と言われたので、マツタケを採ると、実は他人の山だったということがありました。すぐに先生にばれてしまって、次の日に朝礼で立たされたという、苦い思い出があります。」

ウ 砥部焼を焼成する燃料として

 砥部地方は製陶業の盛んな地域であるが、燃料に重油が使用されるようになるまでは、専らアカマツの割木が使用されていた。前述のように、昔の砥部地方ではマツ山が多く、特にアカマツの生育に適した地域でもあった。製陶の燃料にはアカマツが最適とされており、窯焼きは多量の割木を消費するため、農家は農閑期を利用して伐採や運搬を行った。マツの割木を燃料としていたころの製陶業について話を聞いた。

 (ア) マツが燃料に適している理由

 「私(山田善弘さん)は窯元を営んでいますが、窯の燃料としては、マツが一番適していました。火力があり、油を含んでいるのでよく燃えて、窯の前と後ろとで温度差が生じませんでした。本当に、燃料としては最高だったことを憶えています。」

 (イ) マツの燃料木で小遣い稼ぎ

 「私(久保傳一郎さん)の父は林業を営んでいました。伐採したマツのうち、建築用材以外は捨てていたので、父に頼んでそれをもらい受けました。そして、冬休みになると友達を10人ほど誘って一緒に山へ行き、残されたマツの木を鎌やノコを使って大きな道路まで伐(き)り出し、トラック1台分くらい伐り出すと、中予運送に連絡していました(図表1-1-2②の㋐参照)。連絡をすると、すぐに製陶所まで運んでくれていました(図表1-1-2②の㋗参照)。ほとんどの木を買ってくれて、それが私たちの小遣い稼ぎになっていました。製陶所に連絡をしたら、『はいっ。』と言って、すぐに買ってくれていたのです。そのくらい、窯元はマツの燃料木を欲しがっていました。
 そのころは運動靴などない時代だったので、わら草履を履いて、久万街道を通って山の上まで行っていました。私が小学校4年生から6年生ころのことですが、子どもの足で1時間くらいかかったと思います。マツの木の所まで行って、捨てられている木を集めていましたが、山の持ち主からは、『あとで植林できる。山をきれいにしてくれてありがとう。』と喜ばれていました。」

 (ウ) 収入

 「私(井口昌昭さん)が子どものころは、山の上にある『木場(こば)』(たくさんの割木を積んでいる2m50㎝四方の広さの場所)から、麓の車を着けられる所まで割木を下ろすと、お駄賃として1木場当たり170円支払ってくれていたので、よく手伝っていました。昔の170円というのはかなり高額ですが、その代わり仕事はしんどかったことを憶えています。昔はオイコという道具が使われていました(写真1-1-16参照)。両手を使うことができ、しかも荷物をたくさん載せられて、非常に便利な道具でした。それを担いで、山を15回くらい往復しなければ、1木場分が終わらなかったので、170円という賃金は、実際はそう高いことはないと感じていました。」
 「その当時、燃料木を売った小遣いが100円くらいだったと思います。ですから、170円という賃金は収入面では割と良かったです。昭和30年(1955年)ころ、マツを伐採した跡にミカン畑を開墾するというので、私(久保傳一郎さん)は手伝いに行きました。そのころは日当が150円だったと思います。ただ、元気に働く若い大人の人は、日当の約3倍の500円くらいもらっていました。私は、150円をもらったときは、本当にうれしかったことを憶えています。その代わり、夏の暑い日に裸での作業だったので、えらい(大変な)仕事でした。オイコは今でも私の家に二つほど残っていて、今でもそのオイコに苗木を載せて、山まで行っています。」

 (エ) 窯元の立場でマツを語る

 「窯元の条件としては、山の木があってそれを活用するというのが第一で、第二は、傾斜地であるということです。昔は登り窯で、傾斜を利用して焼き物を作っていたので、窯元は平地ではなく斜面のある所に窯を造っていました。燃料では、マツが特に良かったと思います。スギやヒノキはすぐに燃え尽きてしまって、火力が出ませんでした。やはり、マツには油(松脂)があるので、火力が強く、その火勢(かせい)が長くもつので、前と後ろで焼けの温度差が生じず、製陶には最適でした。窯元としては、焼成用にマツの木を積み上げたときは本当に幸せでした。良い材料であれば焼成の時間が短縮できますし、焼き上がったものにも均一性がありましたから。」

 (オ) 燃料の変化

 「焼成用の燃料がマツの割木からA重油に切り替わり、さらに昭和40年(1965年)前後からガスが使用されるようになりました。それから2年か3年くらい経(た)って、電気も燃料として使用され始め、簡単に焼成できるようになったので、大体20社くらいが電気窯とガス窯を導入するようになりました。」


参考引用文献
 ① 砥部町『砥部町誌』1978
 ② 砥部町、前掲書
 ③ 砥部町、前掲書

その他の参考文献
 ・ 愛媛タイムス社『伊豫郡の現勢』1925
 ・ 愛媛県旅客自動車協会編集室編『愛媛県のバスとタクシーの歩み』1963
 ・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済5 社会』1988


図表1-1-5 松脂の採取方法

図表1-1-5 松脂の採取方法


写真1-1-15 アカマツ

写真1-1-15 アカマツ