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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 大南の町並み

 砥部町大南は砥部川中流の左岸段丘上に位置し、南は川登(かわのぼり)、北は北川毛(きたかわげ)、東は川を隔てて岩谷口(いわやぐち)、西は五本松(ごほんまつ)に接し、県道219号に沿って集落が発達している。砥部焼の発展とともに成長し、役場や銀行が設置され、商店や学校が集積した旧砥部町の政治・経済・文化における中心的役割を果たす集落でもあった。明治23年(1890年)までは村制を敷いていたが、同年の町村制実施に伴って砥部村に編入され、昭和3年(1928年)に砥部村が町制を実施してからは、砥部町大南となり現在に至っている。
 明治以前の砥部地方は自給自足の慣習が根強く、「例えば灯(あか)りは肥松(こえまつ)(灯火用として用いる樹脂の多いマツの割木(わりぎ))、はき物はぞうり、着物は木綿、味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)は自家製など自家でまかなうことが多く、そのため商業も余り発達しなかった(①)」という。
 大南地区において商工業が発達したのは、砥部焼が急速に発展した明治時代以降である。明治29年(1896年)には砥部銀行が創設され、砥部地域の経済の発展を促進するとともに、それに伴って商店街が形成され、酒造販売業や陶磁器販売業だけでなく、雑貨・穀物・陶磁器製造・料理飲食などの店が営まれた。大正時代の大戦景気でさらに繁栄して、宮内(みやうち)・川井(かわい)・七折(ななおれ)・千足(せんぞく)・大角蔵(おおかくら)・広田村などに商圏を広げ、砥部地方の経済の中心となった。
 戦時中は統制経済の実施によって経済活動が停滞したが、戦災を免れ、かつ終戦後の産業民主化政策によって砥部地方の商工業も活況を呈した。昭和30年代に復興期を終え成長期に入ると、国民所得の向上が消費の増大につながり、砥部地方の商工業も砥部焼の発展を中心に、またミカン産業の好況を背景に大きく発展することになった。
 昭和30年代を中心とする大南の町並みと人々のくらしについて、Aさん(昭和9年生まれ)、Bさん(昭和11年生まれ)、Cさん(昭和11年生まれ)から話を聞いた。