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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 木造船から鋼鉄船へ

(1) 木造船のころの渡海船

 「私(合田稔さん)が中学へ通学していたころは木造の小さい船で、朝は新居浜の会社や学校へ通う10人ほどが利用するくらいのもので、渡海船の利用者は一日で50人くらいいれば良い方でした(写真3-2-3参照)。当時の大島の人口が2,000人くらいでしたが、今は当時の十分の一の人口になっているのに、立派な渡海船が運航するようになって、つくづく時代の流れというものを感じます。昭和28年(1953年)に大島村が新居浜市と合併するまで、渡海船は村営で、船もまだ木造船を使用していましたが、合併当時に使っていた『大島丸』という名前の船が、合併後に『新居浜丸』と名前を変えたように思います。」
 「私(近藤武さん)が中学生のころ、大島中学校の全校生徒約120名が遠足で新居浜丸に乗って、瀬戸田(せとだ)(現広島県尾道〔おのみち〕市)の耕三寺(こうさんじ)へ行った記憶があります。昭和32年(1957年)に新たに進水した渡海船はそれほど大きな船ではありませんでしたが、船の後ろ側に軽トラックを1台くらい載せられるスペースがあり、そうした車の乗り降りのために大島側にも狭い桟橋ができたように思います(写真3-2-4参照)。」

(2) 発着場の固定化と船舶の大型化

 「戦後すぐのころや昭和30年代初めころと今の海岸線を比べると、随分形が変わっていますが、まず良くなったのが、渡海船が接岸する場所が確保されたことです。
 私(合田稔さん)が小学生のころ、渡海船はまだ小型エンジン付きの船で、船はスベリに着けていました(図表2-2-5の㋟、写真3-2-3参照)。大島から戦地に出征する人たちを見送る式典は渡海船の発着場の近くで行われ、そこで生徒たちが整列し、兵隊さんがお別れの挨拶をして渡海船に乗って出征して行きました。渡海船の発着場がかつての保育園の近くの地先に造られたスベリへ移ったのは終戦後のことで、昭和20年代後半から30年代にかけてですが、ちょうどそのころから、渡海船も徐々に大型エンジン付きの船に変わっていきました(図表2-2-5の㋠、写真3-2-4、3-2-5参照)。」
 「私(近藤武さん)が高校生の時分は、渡海船の発着場がいつも同じ所とは限らなかったので大変な思いをしたことがありました。そのころは、保育園の地先にあったスベリが通常の渡海船の発着場でしたが、冬場の潮がよく引いている日などは、東の突先の辺りに船を着けていました(図表2-2-5の㋡参照)。私はいつも朝一番の船に乗って高校へ通学していましたが、ある冬の日、まだ真っ暗な中を歩いていつもの渡海船の発着場まで行くと、船の姿がありませんでした。すると、『船はこっちにはおらんぞ、東じゃ。』という声が聞こえて、急いで走って行って乗ったということもありました。渡海船に乗るのは決まった人だったので、少しくらい遅れても船が待ってくれていました。その後、昭和40年代前半に『新大島丸』という一番最初にできた鋼鉄船が就航し、徐々に内港の方へ着くようになり、桟橋ができて、船の規模も大型化していくという経過を辿(たど)っていきました(写真3-2-6、3-2-7参照)。
 昭和29年(1954年)から30年代の初めにかけては、海岸が遠浅のため、干潮時には海岸がよく干上がっていました。浮桟橋などはなかったので、もしかすると、潮が満ちているときは船を海岸近くへ着けて、潮が引いているときは沖合に着けることができるように、徐々にスベリを長くしていったのかもしれません。大島港で最初に造られた外郭施設が、港の西寄りにある防波堤で、以後、それを基にして施設を延長してきましたが、今でもその外郭施設に並行する形でスベリが残っています(図表2-2-5の㋠、㋢参照)。」

参考文献
 ・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
 ・ 日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』1990
 ・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
 ・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『新居浜市の風土と人々のくらし』2005
 ・ 新居浜市『新居浜市政だより』


写真3-2-7 おおしま7

写真3-2-7 おおしま7