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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 昭和20年(1945年)の記憶

(1) 捕虜たちを目撃して

 太平洋戦争中の昭和18年(1943年)4月、新居浜市磯浦の松林にある住友機械の工場西方に、『新居浜俘虜(ふりょ)収容所』が開設された。平田堅一氏の『新居浜俘虜収容所とBC戦犯(一)』によれば、「終戦時には402人が収容(和蘭・インドネシア)され、住友化学(菊本〔きくもと〕工場)、新居浜駅での積み下ろし作業に通い、住友鉱山工作部・星越工場には49人が配属されていた(③)」という。さらに、「山根(やまね)収容所が昭和19年(1944年)に分遣所(ぶんけんしょ)として開設され、終戦時には242人(オーストラリア)が収容され、住鉄山根駅で乗車、端出場まで通い、坑道内労働(主に保線)に従事した(④)」と記述されている。この捕虜たちの様子について話を聞いた。

ア 捕虜の様子

 「私(能智輝道さん)は、新居浜駅の近くで捕虜たちが鉱石を積み込む様子を見たことがあります。捕虜のスコップの使い方が、日本人とはちょっと違うなと思いながら見ていました。日本人なら、鉱石をすくったら放り投げずにそのままの状態で運ぶのですが、彼らは力があるので、スコップの先を肩の上から後ろに上げて、鉱石などを放り投げていました。スコップに乗せた鉱石を落とすことなく、上手に放っていたことを憶えています。」

イ 終戦直後の記憶(星越駅)

 「捕虜の扱いはとても紳士的でした。住鉄の星越駅があって、駅長を務めた人が、戦後、占領軍からいろいろと尋問を受けたようですが、『捕虜に対する扱いが良かった』ということで、すぐに釈放されたという話をその方の息子さんから聞いたことを思い出しました。」
 捕虜たちの待遇は国際法規に準拠して行われ、その労力や特技を生産に活用することに主眼が置かれた。収容所は終戦後1か月で閉鎖されたが、「別離に当たって捕虜側の隊長は、オランダと日本が歴史的に緊密な関係にあり、日本の復興を信ずるとの言葉を残した(⑤)」という。

 (2) 新居浜空襲の記憶

 昭和20年(1945年)7月24日。これは新居浜空襲が行われた日である。この日、「城下橋方面から出撃した2機のB29爆撃機は北西に進み、それぞれが1発ずつ合計2発の爆弾を投下(⑥)」した。そのうちの一つは菊本町の住友金属製造所第3精錬工場に、もう一つは惣開(そうびらき)町の住友化学工業新居浜製造所氷晶石(ひょうしょうせき)工場に落ちた。爆撃の理由は、工場が戦略爆撃目標の一つに挙げられていたからである。なお、住友化学工業のOBで、当時新居浜空襲の被弾損害状況報告書を作成した吉田浩三氏は、『新居浜に5トン爆弾を投下せよ』の中で、爆撃は7月24日、26日、29日の3日間あったとしている。

ア 爆撃の記憶

 「ちょうど終戦の年、B29が飛んで来た時に、新居浜駅で私(越智親和さん)は、3両くらいつないでいた住鉄の貨物列車の屋根に上がっていた捕虜たちが、B29に向かって叫んでいるのを見たことがあります。その時、B29は爆撃を行わず、その後、港の方で『ドーン』と爆発音がしたことを憶えています。
 また、当時国民学校1年生の私は高知(こうち)市内で爆撃に遭い、その後新居浜に帰って来ましたが、防空壕(ごう)と呼べるものはなく、ほら穴のように大きな穴を家の床の下にただ掘っていただけだったので、こんな穴では死んでしまうと思ったことも憶えています。」

イ 防空壕から爆撃機を見上げて

 「グラマンなどがたくさん襲来した光景は、今でも忘れられません。私(白石五郎さん)の家には防空壕がありました。空襲が行われている間はそこへ入って爆撃が終わるのを待っていました。そして通り過ぎたらそこから出て、新居浜から離れていく爆撃機を眺めていました。」


参考引用文献
 ① 別子銅山記念館『別子鉱山鉄道略史』1978
 ② 別子銅山記念館、前掲書
 ③ 新居浜史談会『新居浜史談 第285号』1999
 ④ 新居浜史談会、前掲書
 ⑤ 愛媛新聞社『愛媛県百科大事典』1985
 ⑥ 総務省ホームページ『新居浜市における戦災の状況(愛媛県)』
 (http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shikoku_04.html)

その他の参考文献
 ・ 新居浜市『新居浜市史』1962、1980
 ・ 愛媛県旅客自動車協会編集室編『愛媛県のバスとタクシーの歩み』1963
 ・ 日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』1990