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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 国鉄新居浜駅連絡線の記憶

 国鉄新居浜駅連絡線は、昭和元年(1926年)、鷲尾勘解治が地域開発事業の一つとして発案し、昭和4年(1929年)の申請後、同7年(1932年)に工事認可されたものの、利用度と建設資金との関係で着工を見合わせていた。しかし、昭和12年(1937年)から始まった日中戦争以来、戦局の拡大につれて別子銅山はもとより、新居浜の各工場も増産を強いられ、国鉄沿線からの通勤者の確保と原材料や製品等の大量輸送の必要から、昭和16年(1941年)に着工に踏み切り、翌17年(1942年)9月に竣工(しゅんこう)して11月から営業を開始した(図表3-1-3参照)。
 着工直前における住友関係各社の社員の通勤方法の実績から、開通直後の利用者数を当初計画で1日750名と見込んで列車編成を行ったが、予想以上の利用者で賑(にぎ)わいを見せたため、昭和19年(1944年)には星越駅から滝の宮信号所間が複線化された(図表3-1-4参照)。別子銅山記念館が昭和53年(1978年)に発行した『別子鉱山鉄道略史』によれば、「朝夕のラッシュ時には、乗務員・駅員の制止を振り切って客車の屋根にまで乗って通勤するほどで、星越踏切にあった陸橋で頭を打って転落する乗客も出た(②)」という。
 しかし、昭和26年(1951年)ころになるとバスなどによる市内の交通網整備によって乗客が減少し、昭和27年(1952年)9月で国鉄との連帯運輸を打ち切り、同時に連絡線の客車運行も廃止した。その後、昭和30年(1955年)には複線区間が再び単線化し、昭和42年(1967年)1月には貨車も廃止され、国鉄新居浜駅連絡線はその役割を終えた。現在は、歩行者・自転車専用道として整備されている。

(1) 連絡線を利用して

ア ホームの位置

 「私(岩本和強さん)は、連絡線のホームのことをよく憶えています。新居浜駅の西側(現在のフジ新居浜駅前店辺り)にあり、そこから磯浦方面に向かって通勤の方が利用していました。客車は2、3両くらいでした。」

イ 国鉄から連絡線へ

 「国鉄を降りて住友へ通勤する人の中には、連絡線に乗り換えて、工場へ行く人もいました(写真3-1-6参照)。列車は、先頭が機関車で、客車と貨物車とを連結して運転していたことを私(大西照夫さん)は憶えています。通勤の時間帯によっては客車だけということもあったのではないかと思いますし、客車は『マッチ箱』のような形をしていたと思います。それが住友の客車の特徴で、住鉄といえば『マッチ箱』と言っていました。貨車はエンジ色で、肥料などを積み、新居浜駅で国鉄の貨車に積み替えていました。戦争中は資材運搬が中心で、昔は住友が直接石炭を扱っていて、肥料の出荷もしていました。連絡線のホーム付近に広場になっている所があって、肥料がたくさん置かれていました。」

ウ 肥料を貨物車へ

 「私(岩本和強さん)は、貨物車に肥料を載せるときには、『かます』の中に肥料を入れて、手で担いで載せていたことを憶えています。駅前には人が大勢いたので、日通(日本通運)などは人海戦術で、昼休みでも多くの人が側道に入って肥料を担いでいました。それだけ、駅前には駅などの仕事に従事する人が多かったのです。『かます』は、1袋が50、60㎏はあったと思いますが、皆、道具を使わず、自分で担いでいました。」

エ 線路沿いで遊んで

 「私(渡邉謙三さん)が子どものころには、連絡線の線路のそばに自宅があったので、線路付近が遊び場になっていました。危険な上に邪魔になるので、機関車の運転手さんにコークスや石炭をぶつけられたり、いつも叱られていたことを憶えています。」

オ プロ野球の観戦など

 「普段、『下(しも)』へ行くときにも『上(かみ)』へ行くときにも連絡線を利用することはあまりなかったのですが、私(村上省二さん)が子どものころには、現在の住友病院の所がグラウンドになっていて、プロ野球が来たときには連絡線を利用して観(み)に行ったことを憶えています(写真3-1-7参照)。星越の選鉱場の山の上から真下にプロ野球の試合が見えたので、選鉱場の山からタダで観ていたと思います。星越駅で列車から降りて、今も残っている西側の橋を渡って山へ入り、観戦場所へ行っていました。それ以外には、秋になったら清滝(きよたき)へ紅葉を見に行ったり、笹ヶ峰(ささがみね)に上がったりするときには連絡線に乗って一旦星越駅まで行き、そこから住友鉱山鉄道に乗り換えて、南の端出場(はでば)まで行っていました。」

カ 滝の宮信号所の記憶 

 「私(白石五郎さん)は亀岡(かめおか)村(現今治市菊間〔きくま〕町)で育ちました。実家のある亀岡村に帰るときには国鉄を利用していました。若いころは磯浦で漁をしていたので、菊間町を出発して新居浜駅に着いたら、連絡線に乗り換えて星越駅まで行き、トランクを担いで家まで歩いて帰っていました。実家は農家だったので、両親がトランク一杯に食べ物を詰めてくれて、とても重たかったことを憶えています。
 連絡線に一番最初に乗った時のことで憶えているのは、『上』の方から来る鉄道(住友鉱山鉄道)と交わる滝の宮信号所付近では、ポイントの切り替えを行わなければならなかったということです
(図表3-1-3参照)。現在は電動ですが、そのときはわざわざ列車を止めて、運転士さんが降りて手動でポイントを切り替え、再び出発させて星越駅まで行っていました。ポイントがあった場所はとても広く、連絡線が廃止された後に西の土居の自治会がその土地を購入して、自治会館を建てています。(写真3-1-8参照)。」


図表3-1-3 昭和28年当時の新居浜

図表3-1-3 昭和28年当時の新居浜


写真3-1-8 旧滝の宮信号所付近

写真3-1-8 旧滝の宮信号所付近