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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 新居浜市営バスの記憶

 新居浜でのバスの始まりは、昭和10年(1935年)にさかのぼる(写真3-1-1参照)。大正10年(1921年)、国鉄予讃本線が伊予西条まで延長されて新居浜駅、多(た)喜(き)浜(はま)駅、中(なか)萩(はぎ)駅が開設され、上部山手線交通の中心を担った。一方、海岸線では県道磯(いそ)浦(うら)線や垣(は)生(ぶ)線が開通し、昭和10年7月、新居浜町(現新居浜市)と西条町(現西条市)とが『新居自動車交通組合』を組織して新居浜-西条間の海岸線に『新居バス』の運行を開始した。さらに同年12月には、新居浜町外の東新7か町村が『東新自動車交通組合』を組織し、新居浜-多喜浜間と新居浜-角(すみ)野(の)間に『東新バス』の運行を開始した。両組合バスの事業成績は極めて良好であった。
 しかし、昭和18年(1943年)7月、戦時国策に沿って、新居バス及び東新バスはやむを得ず瀬戸内運輸に営業権を譲渡して、公営自動車交通組合は解散し、出資市町村は株主となった。ここにおいて瀬戸内運輸新居浜営業所が設けられ、瀬戸内運輸は市の内外及び国鉄との連絡運行を開始して現在に及んでいる。
 戦後、市内交通は戦時中から一変した。当時、車両を10台程度しか所有していなかった瀬戸内運
輸では市内の利用客を消化しきれず、利用者が殺到して大混乱に陥り、日を追って混乱は激化の一途をたどった。このため、新居浜市では市営電気自動車運輸事業を興し、市内交通網を完備して市民の期待に応えるべく企画を進めた。こうして昭和22年(1947年)3月末日、市会は市営バスの創業を決議した。そして翌23年(1948年)1月21日に交通事務所を新設し、同年7月26日から10台の電気バスを運行させ、瀬戸内運輸と併行する市内の交通機関としたのである。運行開始当初の路線は、新居浜駅東線、新居浜駅西線、浮(うき)島(しま)線、平(ひら)形(かた)線の4路線であった。

(1) 電気バスの記憶

 「市営バスは、電気バッテリーを積んだ電気バスでした。ガソリン車で言えばガス欠を起こすように、バッテリーの残量が少なくなると、指定された場所で充電をする必要がありました。私(堀勲男さん)がたまたま乗り合わせていたときに、運転手が、『充電する間しばらく待ってください。』と乗客に言って、武徳殿の西側(現新居浜市文化振興会館)にあった充電場所へバスを回し、バスからバッテリーを取り出して充電を始めました(写真3-1-2参照)。」
 「私(能智輝道さん)も、『元(もと)塚(づか)へ行くはずなのに、何でここ(充電場所)へ寄るのだろう。』と不思議に思ったことがあります。充電場所に到着したら、すぐにバスの底に設置している四角い大きなバッテリーを1セット引っ張り出して、替わりのバッテリーを入れていました。」
 「当時はまだ木炭バスが走っていたころで、私(大西照夫さん)が電気バスを見たときには、『新式のバスが来たな。』という印象を受けました。マッチ箱のような珍しい形でボンネットの部分がなく、銀色だったので、『銀バス』と呼んでいました。充電を武徳殿の横で行っていたという記憶が私にはあまりないのですが、バッテリー自体はちょうど1m四方の大きさで、箱にたくさんの電池が詰まっていたことを憶えています。バスは、100V余りの電力で走っていたようですが、バッテリーを含めたバスの重量は相当重かったと思います。」
 電気バスが市内を走っていたころ、浮島線(別子病院前から浮島までの区間)の運行において、多喜浜駅まで路線を延長するなど市民の要望に応えてきたが、併行する瀬戸内運輸のガソリンバスに対して圧倒的に速度が劣ること、特別設備を用いて充電する必要があるなど整備や維持に手間がかかることから、電気バスは終(しゅう)焉(えん)を迎えることとなった(写真3-1-3参照)。
 しかし、ガソリン車への切替え後も、国鉄新居浜駅連絡線の一般向け旅客営業休止(昭和27年〔1952年〕9月30日)に伴う新居浜駅-星越駅-工場前間での代替系統としてのバス路線の設定及び貸切バス事業開始、泉(いずみ)川(がわ)町・中萩町・船(ふな)木(き)村・大(おお)生(じょう)院(いん)村上部4か町村の新居浜市への編入(昭和30年〔1955年〕)に伴う東新循環線・中萩循環線・西条線の延長、新居浜駅裏線の開通(昭和32年〔1957年〕)など、市営バスは昭和40年(1965年)の終焉の年まで市民の足であり続けた。

(2) 狭い道をバスが通る

 「市営バスは、尻無川沿いの道を走っていました(写真3-1-4参照)。この道はとても狭く、昭和30年代はまだ舗装されていませんでした。私(渡邉謙三さん)は、朝夕の通勤や帰宅ラッシュのときに、たくさんの自転車が同じ道を走っていたので、バスと接触しそうで見るだけでも危険を感じていたことを憶えています。
 駅から角野の方へ向かうバスが走る道路は、尻無川沿いの1本だけだったのではないかと思います。あんなに狭い所をよく通れたなと、今振り返ってみても思うほどです。」
 「昭和37年(1962年)から昭和38年(1963年)、私(岩本和強さん)が金栄(きんえい)小学校に通学していたころのことです。通学路は道幅がとても狭く、私たちは轍(わだち)のない所を歩いて通学していましたが、その列のそばをバスが通るとき、私たちを蹴散らしながら進むという感じで、今では考えられない状況でした。私たちは狭い道でバスから逃げたり、避けたりしながら通学していたことを憶えています。」

(3) 新居浜駅前のバス停留所付近の様子

 バス停留所付近の様子について、香出敬子さんは次のように話してくれた。
 「朝、通勤される方の多くが、駅の改札口から駅前広場へ向かって一斉に歩いている光景にはいつも驚いていました(写真3-1-5参照)。山内商店に勤めていた人が、列車が着くたびにバスの所へ行って切符を販売していました(図表1-2-4の㋒、写真1-2-2参照)。私は切符を種類ごとに分類する作業を手伝っていましたが、降りる人があまりにも多かったので、朝の時間帯にはとても忙しくその作業をしていました。また、駅前では自転車の数がとても多かったことを憶えています。 
 駅前にはタクシーやバスなど、公共交通機関が多く集まるので、その中を車に注意しながら緊張して歩いていると、運転手さんたちから、『カチカチになって動いとったよ。』と指摘されたことがありました。」
 現在、バス乗車時に整理券を取ってから乗り込み、下車の際に料金を支払うが、香出敬子さんによれば、以前はバスの車掌が車内で切符を販売していたという。その後、利用者の増加により車内での切符切りが困難となり、バスの外で切符が販売されるようになったとのことである。


写真3-1-2 武徳殿附近

写真3-1-2 武徳殿附近


写真3-1-4 尻無川沿いの道

写真3-1-4 尻無川沿いの道