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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 多喜浜塩田の現在

(1) アツケシソウの保存

 アツケシソウ(厚岸草)は、明治24年(1891年)に北海道厚岸(あっけし)において発見された。明治末期に多喜浜での自生が確認され、大正2年(1913年)にその事例が紹介されたことで注目をされ、昭和59年(1984年)に新居浜市の天然記念物に指定され現在に至っている(写真2-1-15参照)。
 多喜浜でのアツケシソウの保存に関しては、廃田後の昭和42年(1967年)、新居浜市東部開発で住友化学のボーキサイトかすを土地造成に使用する際、堤防から漏れないようにシートを被(かぶ)せるアルバイトに従事していた岡田敏さん(岡田守正さんの弟さん)が、アツケシソウをトロ箱に入れて持ち帰ったことに端を発する。以後、公民館や地元の方々の協力により自生地を造成し、現在も保存活動が続いている。岡田守正さんが当時の様子について次のように話してくれた。
 「私(岡田守正さん)は塩田の経験は一切ありません。小学生のころには同級生の友達が、塩田にボンデンが上がったら作業の手伝いをするために帰宅していました。廃田後、塩田跡が木材団地になり、そこへ浚渫(しゅんせつ)船が入って工事を行っていたときには、私の父親がそこへ仕事に行っていました。そのころ中学3年生だった私は、ウナギを獲(と)りに先生と三喜浜塩田の水路へ行ったことを憶えています。
 昭和39年(1964年)には新居浜市が東予新産業都市の指定を受けました。その後、昭和42年(1967年)に住友化学がボーキサイトのかすを塩田の埋め立てに使うために行われた、シート張りのアルバイトに高校生だった私の弟が行っていました。当時、弟は北浜の十五番浜で作業をしていたと思います。そのときに、『アツケシソウがなくなる。』というようなことを現場で仕事をしている人たちが話していて、弟がアツケシソウをトロ箱に入れて持って帰って来ました。弟が『これ、どないしょ。』と言うので、私が『どないしょうか言うても、捨てるわけにもいかんやろ。』と言い、私の家の前が潮水の池だったので、『箱から出してそこらへ置いとけ。』と指示をしました。すると、その置いていたアツケシソウが秋になって紅葉して、翌年には新芽を出し始めたのです。『ここでもアツケシソウは育つんやなあ。』ということで、育てるようになったのが始まりです。それから地区の青年学級の方にもお手伝いいただき、育てるための場所を造って、アツケシソウを育て始めたのが昭和45年(1970年)のことです(写真2-1-16参照)。私は中学校卒業後、住友化学に勤めており、会社と家を往復する毎日でアツケシソウの世話をすることがなかなかできなかったので、アツケシソウの保護に関しては私の父母が世話をしてくれました。父親は平成26年(2014年)に亡くなりましたが、その10年くらい前からは、『よう世話せんわや、ちょっと世話やっといてくれ。』と言っていました。今は父親の世話や地域の方々の御協力のかいもあってアツケシソウの保存の道筋が見えてきているので、地域を挙げて存続していかなければならないと考えています。」

(2) 塩田文化を活かし、伝える

ア 今に生きる「かしょい」の文化

 多喜浜塩田廃田後の「かしょい」について、近田敞子さんは次のように話してくれた。
 「塩田が廃田になったら、それまでは『かしょい』を一生懸命にしていましたが、それがなくなってしまいました。しかし、私(近田敞子さん)の実家は農業をしていたので、祖父母がやっていた田んぼや畑の仕事は『手伝わないかんかな。』と、自然と思って手伝っていました。これこそが『かしょい』の文化というべきものではないかと思います。私が中学生、高校生の時には塩田がありませんでしたが、田んぼや畑での農作業の手伝い、これこそが廃田後の『かしょい』なのです。」
 また、日野兆恵さんは御自身の経験をもとに、次のように話してくれた。
 「当時は生活をしていくために、お母さんは家事も農業もしました。私(日野兆恵さん)の実家では昔からお豆腐を作っていたので、両親が商売をしながら田んぼや畑での仕事をするという忙しい毎日を送っていました。父親は塩田が廃田になった後も仕事に出ていましたし、私たち自身も学校から帰ったら親の手伝いをするのが当たり前でした。当時はそれが当たり前だったからこそ、苦痛ではなかったし、嫌だと思ったこともありませんでした。今の生活に当てはめてみると、こういう経験こそが重要で、今の私の原点になっていると思います。」
 真鍋篤正さんと日野幸彦さんは、「かしょい」の文化を地域づくりに活(い)かすことの重要性について、次のように話してくれた。
 「『かしょい』というのは『加勢する』という意味の言葉です。塩田での仕事には、男性が従事する仕事と女性が従事する仕事があります。『かしょい』というのは、塩田で母親の仕事の手伝いに入ることを意味するのです。女性の仕事を手伝う『かしょい』によって、塩田での作業を一定時間内で終えることが可能になっていたのです。言い換えると、弱い部分があれば、そこをみんなで助けることが必要で、手助けをしていたのです。このような考え方が多喜浜の塩田文化としてこれまで受け継がれてきています。受け継がれてきたからこそ地域の皆さんが協力することの大切さを理解してくれているのです。しかし、塩田の廃止後50年余りが経って、この地域の人々の意識が変わってきたということは否定できません。自己中心的な考え方では、この塩田文化を培ってきた多喜浜のコミュニティがうまく機能しません。このようなことから今、多喜浜では貴重な塩田文化を後世に伝えていこうという運動を続けていますが、重要なのは『かしょい』の文化を残していこうということなのです。今後、少子高齢化が進んでいくと、普段の生活でも災害時の対応でも隣近所が協力し合っていかなければならなくなります。それに対応するために住民の意識が高い社会を構築していく必要があると思っています。少子高齢化対策やコミュニティづくりの運動は全国各地で行われていますが、多喜浜には『かしょい』運動があります。私(真鍋篤正さん)は、この運動を通して、多喜浜でくらす子どもたちにも、『かしょい』の文化を受け継いでもらいたいと考えています。その意味で塩田での仕事を体験された方々のお話は、非常に貴重な力になり得ると思っています。多喜浜の塩田文化、『かしょい』文化を力強く打ち出していきたいと考えているところです(写真2-1-17参照)。」
 「私(日野幸彦さん)は『かしょい』の文化があるからこそ、多喜浜が注目されるのだと思います。この海には塩田文化があるということが多喜浜を中心に認識されています。この中心になるのが『かしょい』の文化なのです。同じ新居浜市でも住友という大企業とは異なり、多喜浜の場合は、この地域にくらす人々が何とかこの地域の伝統を守る、そして、ここにはすばらしい塩田があったからこそ今の多喜浜がある、ということを後世に引き継ぎ、新居浜には住友があり、海には多喜浜の塩田文化があるということを認識してもらいたいと考えているのです。それには多喜浜にくらす人々の力が必要なのです。今後も多喜浜を見つめ直して、次世代に継承していくためにも、『かしょい』の文化が重要であるということをさらに力強く訴えていきたいと思っています。案外、身近な文化ほど当たり前になっていて認識することが難しいという場合がありますが、何百年も続いた塩田が、今を生きる私たちはもとより、後世を生きる人々も支えるものになるということを思いながら、次代を担う子どもたちにも、『かしょい』の文化を広げていく必要を感じているのです。」

イ 「かしょい」の文化を次世代へ

 「かしょい」の文化を次代を担う地域の子どもたちに継承し、多喜浜での地域づくりに役立てる活動について、岡部琢さん、近藤裕也さん、真鍋淳江さんは次のように話してくれた。
 「私(岡部琢さん)の同級生の家庭が四番の塩田を持っていたので、塩田があった当時は沼井に入れた土を踏み均(なら)す仕事を手伝っていました。多喜浜は塩田の文化、塩田の産業ということで、多くの人が塩田での仕事に携わってきました。学校でも塩田での作業が始まったら、5、6年の子どもはほとんどが塩田での『かしょい』の手伝いへ行かなくてはなりませんでした。私の母親も『かしょい』の手伝いをしていたので、私も行かなくてはなりませんでした。しかし、手伝いではあってもボンデンが上がったら塩田へ行きたいという気持ちが強くありました。今、多喜浜では、『子どもの居場所づくり』という活動をしています。その活動場所を『ボンデン』といいます。『ボンデン』とは、塩田作業のときに掲げられた旗のことで、一つは赤と白、もう一つは真っ赤な旗でした。赤の旗が上がったら、全ての地場で作業をする、赤白二色の旗が上がったら、地場の半分の作業を行う、というような決まりがありました。塩田を象徴するものの一つである『ボンデン』が今に伝えられているのです。」
 「私(近藤裕也さん)は小、中学校への登下校の際に塩田の近くを通っていた程度で、塩田を外から見た記憶しかありません。その後、就職で他県へ行き、平成8年(1996年)に多喜浜へ戻って来ました。戻ってから、地元の先輩方から当時のお話を聞く機会が多くあり、『新居浜市は別子銅山と多喜浜塩田の二大産業で発展してきたのだ。』というお話が印象に残りました。それであれば、多喜浜塩田について、『後世に伝えて行くべきものを残したい。』と思い始め、塩田の歴史を記した冊子の整備や塩田資料館建設推進委員会の組織など、『モノや組織を作れば、多喜浜塩田のことを後世に残すことが可能になるのではないか。』と考えました。また、ミニ塩田などについて、毎月開催される運営委員会には諮問もしてきました。地元の皆さんに熱心に活動していただき、塩田の記憶の継承というものが実際に行われているということについて、地域の皆さんに感謝し、ありがたく思っているところです。」
 「私(真鍋淳江さん)は白浜銀座で生まれ育ちました。塩田に関しては、塩田で遊んだことしか憶えていません。友達と一緒に裸足で塩田へ行って、ボールを投げたり蹴ったりして遊んでいると、仕事をしている人たちに怒られたというくらいしか経験がありません。
 多喜浜塩田の歴史や文化を継承していこうという活動から、今は地域総出で活動に参加していただいているのは本当にうれしい限りです。地域での活動に取り組むことで、忙しい思いはするのですが、参加される皆さんが熱心に継承活動を行っています。地域の子どもたちが体験学習などを行う『ボンデン広場』での活動が盛んに行われていて、現在多喜浜小学校の児童数は160名程度なのですが、『ボンデン広場』に加入して活動してくれている子どもが50名ほどいます。地域の子どもたちも、このような塩田文化に関する活動を通して、すくすくと成長しているので、地域の大人として大変うれしく思っています(写真2-1-18、2-1-19、2-1-20参照)。」

参考文献
 ・ 新居浜市『新居浜市史』1980
 ・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
 ・ 日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』1990
 ・ 多喜浜公民館『多喜浜の昔を語る』2003
 ・ 多喜浜公民館『多喜浜塩田遺産を活用した地域づくりの歩み』2010
 ・ 新居浜郷土史談会『多喜浜塩田史考』
(映像資料)
 ・ 多喜浜公民館『多喜浜塩田・製塩業に携わった人々』
 ・ 多喜浜校区まちづくり支援事業実行委員会『多喜浜塩田~アツケシソウの咲く頃~』