データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 本町通り

ア 本町通りの店

 「昭和通りが繁盛する前は本町が中心通りで、飲食店や商店が多くあり、規模は小さいのですがマルエスというデパートもありました(図表1-1-2、写真1-1-1参照)。後にマルエスは改造を重ねて、ダンスホールになっていた時期がありました。建物は5階建てで、この辺りでは一番高い建物だったことを憶えています。やはり、『本町』と言われるだけあって店が揃(そろ)っており、中でも大正堂という書店は特に印象に残っています。昭和10年代には昭和通りに銀行はなく、戦後の昭和20年代、30年代になって、本町通りから昭和通りへ移っていったようです。」

イ 夜市

 「私(加藤基久さん)の子どものころの記憶で一番印象深いのは、本町通りで夏の土曜日に開催されていた夜市です。登道を下ってきた所から花園(はなぞの)町までの間、ずらっと出店が出ていました。当時は発電機を使わず、どの店もカーバイトランプを使っていました。このランプは炭化カルシウムと水を反応させて、発生したアセチレンを燃焼させるものでした。発生するガスの臭(にお)いがきつかったことをよく憶えています。それを各店が使っていたので、夜市の間、臭いが通りに充満しているような感じがしていました。当時の夜市は、本町通りが夜市を楽しむ人で一杯になるくらい、大勢の人で賑(にぎ)わっていました。季節柄、浴衣を着て楽しんでいる人が多かったように思います。出店には金魚すくいがあったり、綿菓子があったりしました。私が小学校5年生か6年生の時には、お小遣いを10円ほど持って夜市に行っていました。その10円でスズメの卵という、1円で2個買うことができる、ピーナッツに衣をつけた茶色いお菓子を買って食べたことを憶えています。同じころにはマーブルチョコが発売されていましたが、チョコレートは遠足のときにやっと買ってもらえる高級なもので、滅多(めった)に食べることができなかったので、チョコレートの代わりにスズメの卵を買って食べられることが、子どものころにはとてもうれしく感じていました。」

(2) 昭和通りと登道

ア 昭和通りの整備

 「昭和6年(1931年)から戦後まで昭和通りは砂利道で、昭和20年代になって簡易舗装でコンクリート敷きの道路になりました。舗装していない時には、車馬や人の通行で道が窪(くぼ)み、それを解消するために盛り土をしていたので、ひどいときには道路の一番高くなっている部分と道路脇の商店の入口との高低差が30cmほどある、いわゆる『かまぼこ道路』になっていました。戦後の混乱が落ち着き始め、道路をコンクリート舗装にして改善するために砂利道を掘り返す工事が昭和28年(1953年)ころに行われました。道路の整備によって交通量が増え、元塚(もとづか)交差点に新居浜で最初の信号機が設置されました。私(知久守邦さん)の友人が警察官をしていて、『元塚の信号機が第一号で、私は新居浜の警察署に赴任して、その信号機に付きっきりで渡り方を指導した。』と言っていました。信号機が設置された当初は、人々が信号機の指示による交差点の渡り方を理解しておらず、青信号だろうが赤信号だろうが人々が道路を横断してしまったり、その逆で、青信号になっても、じっと待っていたりしたので、しばらくはその信号機の所にいて、『青だから渡りなさい。』とか、『赤だから止まりなさい。』と声を張り上げて指示を出していたそうです。」

イ 商店街の形成

 「昭和通りが商店街になっていったのは、通りができてからかなり後になってからのことです。当時はボンネットバスが通りを走っていたことを憶えているので、昭和20年代、私(神尾亮吉さん)が小学生の時ですから、昭和25年(1950年)前後だと思います。バスは昭和通りと宮西小学校の前を走っていました。当時、バスはスピードが遅かったので、バス停に止まったら、後ろのバンパーの所に足を掛けて窓枠を手でつかみ、勝手に乗って遊んだこともありました。友だち同士が『おい、乗るぞ。』と言って乗っていたことを憶えています。そのころは商店の数が少なく、子ども心に、『こんな広い道路が何でいるのだろう。』と、不思議に思っていました。しかし、そのころの昭和通りは、自転車を利用して住友などの会社へ通勤する人たちであふれていました。通り自体が一方通行と決められていたわけではありませんが、朝の通勤時間帯になると、自転車で通勤する人たちが道幅一杯になって、工場のある方向へ進んで行くので一方通行のようになっていたのです。工都新居浜を象徴するような光景で、自転車があふれる昭和通りは、今でも印象深く残っています。」

ウ 商店街の賑わい

 「昭和通りに一番活気があったのは、昭和40年(1965年)ころだと思います。通り沿いには喫茶店があちこちにあって、職場の同僚によく連れて行ってもらっていたことを憶えています。写真館や証券会社、映画館もありました。当時はダンスホールが流行していて、昼間からダンスに興味のある人が集まって楽しみ、夜になるとお客さんで一杯になっていました。娯楽施設としては、スケート場やボウリング場があり、ボウリング場では、ピンをセットする作業が今のように自動化されていなかったので、球を投げ終えてから自分でピンを立てるためにレーンを走っていたことをよく憶えています。また、宝や新宝、大坪など、映画館が何軒かありました。中(なか)須(す)賀(か)には新居劇があって、昭和20年代、ここでは主に無声映画が上映されていました。無声映画を上映するときには、弁士がいて、映し出される映像に合わせて台詞(せりふ)を上手に話していました。白黒の映像で、『鞍馬天狗』や『紫頭巾』などが上映されていたことをよく憶えています(写真1-1-2参照)。」
 昭和通りで買い物を楽しむ人々の様子について、次井孝美さんは次のように話してくれた。
 「女性の方でしたら、垣生(はぶ)辺りの人もバスに乗って買い物に来て、昭和通りでバスを降りて、通りをずっと歩きながらウインドウショッピングを楽しんでいたようです。昭和通りのどちら側を通っても店が立ち並んでいて、商品を見ながら歩いていると知らない間に大丸に到着していた、というようなこともあったそうです。大丸での買い物を終えると、今度は歩いて来た側と反対側の店の商品を見ながら歩いて帰るのがとても楽しかったそうです。」

エ 大丸さん

 平成13年(2001年)に閉店した新居浜大丸は、昭和25年(1950年)に別子鉱業の小売り部門から独立して別子百貨店として営業を開始し、その後、大丸が資本参加して昭和26年(1951年)に別子大丸、昭和50年(1975年)に新居浜大丸となった(写真1-1-3参照)。
 「大丸さんは昭和通りの各商店の中心的な存在でした。大丸さんへ行けば何でもある、一方で専門的な商品など、大丸さんで手に入らないようなものは、昭和通りの各商店で購入すればよい、というような感覚でした。大丸さんの包装紙に包まれた商品はハイクラス、というようなイメージがあったので、大丸さんの包装紙の贈り物が届いたら受け取った人に喜ばれていました。ですから、日用雑貨や生活用品など、身の回りのものは昭和通りの各商店で買う、贈答品は大丸さんで買うというようなことがあったのです。昭和通りの長い商店街を通って大丸さんへ行く、または、大丸さんへ行って商店街を歩く、というような買い物をしていました。私(加藤明男さん)が子どものころ、周辺の川東(かわひがし)や上部(じょうぶ)に住んでいる人たちは昭和通りへ買い物に行くことを『新居浜へ行く。』というように言っていたそうです。『町へ行くんじゃ。』とか『新居浜へ行くんじゃ。』というような言葉が昭和20年代には聞かれていました。川東や上部は戦後に新居浜市と合併したので、そのような言い方をしていたのだと思いますが、『新居浜へ行って何するん。』と聞くと、楽しそうな表情で、『大丸さんへ行って御飯食べるんじゃ。』という返事が返ってきていたそうです。大丸さんへ行くときには、普段着よりもちょっと良い服を着て行ったり、お子様ランチを食べさせてもらったりと、普段とは違う、よそ行きの雰囲気を味わうことができていたそうです。」

オ 買い物

 「普段の買い物は昭和通りで済ませることが多かったと思います。南海デパートという店があって、そこは3階建ての規模の大きなスーパーマーケットでしたが、大丸とは違って普段の買い物で利用していました(写真1-1-4参照)。特に女性の方は良い商品を置いていると評判の店に行っていたようです。たくさんのお店がある中でも、名の知れた有名な店がありました。登道にあったキジヤは、小学校や中学校、高校の制服を扱う、洋服では有名な店でした。商店街の各店がお得意さんをもっていて、お客さんの方も、呉服はこの店、洋服はここ、履物はここ、というように買い物をする店を大体は決めていたように思います。昭和通りに同業者が何軒かある中で、それぞれお客さんの方が店を選択していたのだと思います。」
 家具店を営んでいた加藤基久さんは、人々の買い物の様子について次のように話してくれた。
 「私(加藤基久さん)の家は家具店を営んでいました。お客さんには新婚の方もいましたが、一般の方も来ていました。戦後の時代には、水屋や机などを買いに、たくさんのお客さんが来ていました。当時は『得意』というお得意さんがいて、というようなことがあったようです。お客さんの方にもなじみの店があって、そこで買い物をする、というようなことが多かったのですが、それが徐々に薄れてきました。私自身も、電化製品はあの店、日用品はこの店、というように、買い物をする店は大体決まっていましたし、私の店にもお得意さんが来てくれていました。私の店でも以前は掛け売りをしていましたが、一見さんにはなかなかできるものではありません。しかし、お付き合いの深いお得意さんや、住友に勤めているような、信用のある方には掛け売りでの販売をしていました。」
 住友に勤める人々の信用の高さについて、加藤明男さんは次のように話してくれた。
 「住友のバッジ(社章)を背広の襟元に付けていれば、店からも信用されて、信用貸しで買い物をすることができていました。管理職だけではなく、一般の社員でも構わないということだったので、それだけ信用があったということでしょう。社章は銀行が橙(だいだい)色、化学が赤色、重機が黒色だったと思います。仕事帰りに飲食店に寄って、その店で顔なじみになればツケが利いたようです。ただ、住友の給料日には支払ってもらうために店の人が大勢会社の門の前で待っていた、というようなことがあったそうです。」


図表1-1-2 昭和40年代の口屋跡付近

図表1-1-2 昭和40年代の口屋跡付近