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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)村組とその活動

 むらは氏神(鎮守(ちんじゅ)(*13))を祭り、祭礼をおこない、種々の共同慣行を保持している統合された社会である。しかし、あらゆることでむらの成員が一緒になったり、共同したりするわけではない。むら全体の運営のためであっても全成員の協力を必要としないことも多くある。こうしたむら内部の必要性から生まれたのが村組である。村組はむらの内部を地域的なまとまりごとに区分するものであり、伝統的な社会関係(相互扶助、講、見舞い、訪問など)が積み重なって形成されてきたものである。その一方、むら内の家々を一定戸数ずつにまとめる組織である近隣組がある。この近隣組は、近世の五人組制度(*14)や第二次世界大戦中の隣保班(隣組)(*15)などのように行政上の必要から設けられたものである。むらには、この二つを中心にしていくつもの組織・集団が重なって存在している。
 とりわけむらの基本的内部区分である村組は、むらの運営の分担組織であり、かつ各家の互助組織である。さらに独立した行事の単位としても活動する(②)。

 ア 組の構成

 (ア)大三島町明日

 現在の明日は1組から5組までの組編成となっている。これは戦時中に以前の村組を再編成したものであるという。現在総代を勤める**さんは次のように実態を語る。「行政面では1組から5組というんでやるんですが、つきあいは各『土居(どい)』でやるんです。」この土居とは、昔の村組の単位を指し、「○○土居」と頭に固有の名称をつけて呼んでいたようで、代々受け継がれてきた祭りの幟(のぼり)や古文書等にも明記されている。現在は「○○条」ともっぱら称されているが、古老の話の中には「土居」の表現が再三登場する。なお、近隣の宮浦や大見では現在でも「土居」の呼称が生きている。
 一つの土居は多くて20軒、少なくて10軒前後で構成されているようである。もっとも、市販の住宅地図などでは、土居の名が一部しか記載されてないとか、また単なる地籍名に過ぎない「作山(さくやま)」を「佐山」として記載するとか、「矢島」を「屋島」と表現するなど一部に混乱があると、話者たちは語っている。組と村組のつながりは図表3-2-4のとおりである。
 組内の世帯数について、**さんは、「今は留守がようけおって実数はあまり多くない。」と語り、**さんは、「今は一人住まいが多くなった。跡取りがよそへ出とって、そこで結婚すると、皆向こうでお城構えてしまうでしょう。そうすると、恐らくここへはもう帰ってこんですからね。定年退職してもね、帰ってくる人いないんですわ。」と話す。**さんと**さんの住む矢島条は現在8戸であるという。**さんの住む林条は昔22戸あったが、現在住むのはわずかに11戸、奥条は8戸であるという。「今は留守が多いですから。屋根が落ちたりして、もう住めるような状態ではないようになっている家もある。」と**さんは言う。

 (イ)北条市猿川原

 村組についての**さんの話。「わたしらの子供の時分には、上(かみ)と下(しも)の2組じゃったんですが、どないに(どのように)分けとったんかは分からん。わたしらが11、2歳の日中戦争の始まる前に戸数が30軒になったんで、10軒ずつに分けて、上・中(なか)・下の3組になった。お寺(蓮生寺)は、別格で組内には入ってなかった。」
 **さんの話では、父親である先代の住職までは、組内には入っていなかったが、むらの人々からの勧めもあったことから、自身で決断して村組入りしたとのことである。現在は上組が11軒、中組が11軒、下組9軒となっている。なお、家を移築して他の組の域内に入った2軒が人数の関係で、以前からのつきあいのある上組と下組にそれぞれ1軒ずつ入っている。また、むらから隣の猿川に出た1軒が従来どおり下組に属して、つきあいを続けている。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 窪の村組について、以前は上(かみ)組9戸、下(しも)組9戸であったが、昭和40年(1965年)くらいに上組が減少し、下組が増加したこともあって、以後は18戸がひとまとまりになっていて、村組に分けていない。葬儀などは組を分けるとできないというわけである。
 常定寺では現在、昭和15年(1940年)に地域単位につくられた十人組が道上、道下、ハヤシ、カミ(上)、ヨシガイチ(由ヶ市)と5組ある。つくられたときは各組とも同じくらいの戸数であったようだが、その後の出入りによって戸数に大小ができている。元来の村組である講組(念仏講)は3組あって、葬式組(*16)ともなっている。講組には特に名称はないようである。
 新城では、「戦前もずっと昔は上(かみ)と下(しも)があった。始めは公会堂の側の道を境にして上と下とに分けていたが、池を境にした方がいいということになり、上と下を分け直したという。今は、22、3戸ある下を1組、2組とし、70戸近くある上を3組から7組としている。平均で15、6戸となっている。この十人組は昭和15年にできた。それまでは講組だった。今、講組(念仏講)は五つあって、葬式組とは同じである。昔の講組は今でも編成替えはしていない。」という。**さんが所属しているのは、十人組では10戸編成の「4組」に入り、講組では3組と4組が主になる21戸編成の講組に入っている。十人組の編成と講組の編成には違いがある(⑦)。例えば、ある人が家屋敷を村内の他所に移転した場合、十人組の場合は新たな居宅の所在地で決まるが、講組の場合は元の屋敷地での家代々のつきあいが継続しているので変わらないということになる。
 葬式に当たっては、講組が祭壇、野道具の準備をするなど一切の段取りをし、裏方を仕切る。**さんは、「講組は形式的になってきた、葬儀屋が構えてくれるんで。以前は棺桶(おけ)までこしらえ、墓穴掘りをしていた。まだ、個人墓がありますから穴掘りはやらないけません。若い時分には、墓穴掘りに2、3人あてごうてもろても、昼までにはこたわなんだけんな(できなかった)。今のような火葬場はなし、土葬が多かったけんな。火葬にするときは、焼き場にリヤカー1台ほど薪(まき)を積んで持っていって焼くんですけど、一晩中かかりました。午前1時、2時ごろまでかかりよった。今は火葬場にもっていきよって楽になりました。」と語る。

 イ 組の活動

 (ア)大三島町明日

 村組すなわち土居の行事として土居の御祈禱(ごきとう)がある。これには1月16日の初祈禱と5月の四十八夜念仏の結願(けちがん)(*17)(結願日は彼岸の入りの日から数えて48日目、平成10年は5月11日であった)がある。なお後者では、昌福寺の境内にある通称「お堂」にお参りをする。**さんは、「当番に当たった土居がお餅(もち)をついてむら中に配るんです。まあ、ほかの五つの組へは、それぞれの組の世話人に渡して、それを配ってもらうんです。お堂を拝むんです。毎日、どの組かは御飯を炊いて、オブッショウいうてお供えの御飯をお堂の仏に供えるんです。土居の行事というよりむら全体の行事と見て差し支えないんです。」と語る。
 念仏を行う場所は宿(やど)と呼ばれ、組内の家々が順番でつとめる。午後1時ころ、宿は用意ができると、鉦(かね)(*18)(写真3-2-12参照)をたたいて土居中に触れ回る。土居のみんなはすぐ宿に集まる。
 矢島土居では、20年前までは初祈禱は五目飯、5月の念仏はうどんだったそうだが、ほかの老齢化した土居と同じように御飯を炊くのはやめて茶菓子にした。各土居ともお講そのものは続いている。行事の内容は2回とも同じである。最初、念仏とオシンギョウ(般若心経)を唱える。信心家の先達が鉦をたたき、その横で1人の数珠繰りが33回で区切りを知らせる。次に茶菓子が出され、「ずんだをくる(雑談をかわす)」こととなる。「親睦(しんぼく)の原点ですね。話がはずんだら、夜中や朝にもなる。」というわけである。
 念仏の講組と葬式組は同じである。「念仏の講組は土居の実権を握っとるんです。葬式があったとき、組内土居の賄いなんか全部するんです。そやからこれを外れることは、葬式を外れるいうことになるんで、できんのです。」と**さんが力説する。しかし、最近は、この土居ごとに仕切ってきた葬式が人手不足になってやれなくなってきたという実情がある。
 話を要約する。葬式では遺族、親族が表方で、裏方は土居の御祈禱・念仏の講組でする。
 「ここには葬儀屋はないから、土居の御祈禱の人で、男は仏壇に飾る造花を作り、女は組の顔役と元老が世話役となって、賄い方の指揮を執る。その人らは、その家の賄いの量とか質とか必要な人数とかを掌握してますわ。『よろしうお願いします』と一口言うたら、その家に合うたような賄いしてくれるんです。」
 「長年の経験じゃと言うて皆が納得した上でやっとる。けど、表面だっては言わんが、まあいろいろ批判する人もおることはおりますよ。」

 (イ)北条市猿川原

 組の活動として、まず、むら全体の大行事を各組が順に当番となって担当するものがある。これに対しては、組内全体の家々があげて一致協力してことに当たることになっている。具体的には、正月の初祈禱、5月半ばのスボリ(素掘り・井手掘りや堰(せき)づくりのこと)のオコモリ(*19)(麦ウラシのオコモリともいう)、6月25日ころの田上がり(田植え後の休みのこと。水揚げともいう)、10月のアキミチ(祭り前、収穫前の道直しのこと)などでのオコモリの諸準備である。ほかに、これに準じるものに12月のシモツキ(霜月)のオコモリ(紀貫之さんのオコモリ)がある。
 正月の初祈禱を例にあげると、1月6日、氏神の紀貫之神社(写真3-2-13参照)に村人一同が参拝し、神主に年初めの祈禱をしてもらう。その後、当番の組の個人の家(当屋(とうや))で賄いをする。賄いは当番の組中で世話をする。そこには他の組の各家の主人たちが食べに来るわけである。かつてはこのときに、重ね鉢(陶器の重箱)で押し固めた飯を食べる風習があった(⑧)。重ね鉢一つ分を1段といい、1升の飯を5段に積み上げて出し食べさせるという「1升飯食い」をしたそうである。毎年一人か二人は、この1升飯を食べ上げる者がいたという。**さんは、「戦中になって、米が配給になり、こないなことはやめいということになって、1回写真を撮ってやめようやということになった。その代わりにお神酒(みき)でも供えて、肴(さかな)でも作って、飯はあまり食わいでも適当にということで改正をした。その後はこの1升飯食いそのものはしていない。御祈禱や賄いは今もしている。」と語る。
 次に、組内の行事についてみると、上・中・下の3組で少しばかり違いがあるようだが、全体的には似通っている。まず、一番大きい行事としては毎年1月10日に行われるお日待ちがある。このお日待ちについて、**さんが昭和63年(1988年)12月16日に書き留めた「上組のお日待ちでの定め」がある。その内容は次のとおりである。

   (上組定メの件)
       お日待ち-祝い事(長寿の祝いなど)-
     料理は組もちでなべ物とする。
     飲み物は宿もちとする。
           -廻(まわ)りの時-
     料理も飲み物も組もちとする。

 各組ともだいたい同じだそうだが、現在上組では、簡素化してなべ物はやめているという。準備や現在の状況について皆さんは次のように語っている。
 「お供えは野・山・海の物の料理、白米、餅(もち)、オヤキ(おにぎりに黄な粉をまぶしたもの)。おにぎりは組内の皆が力を合わせて作る。」
 「昔は組内の人全員が集まっていたが、今は各家から主人と奥さんと中学生までの子供が集まっている。」
 「昔は日の出までやっていたが、現在は簡素化している。午後9時から10時ごろにかけて神主さんが拝んでくれたら、皆帰る。」
 「一人の神主さんが、長寿の祝いなどの個人の祈禱については昼間のうちに済ましておいて、午後6時ころから各組を2回ずつ順に拝んで回る。」
 「宿は組内で回り持ち、家は変わるが、献立の準備は組長がしてくれる。」
 「個人で42歳とか61歳とかの厄払いの時は飛び入りで宿主をしたいと申し出て、そこに宿をお願いする。何もない年は順番で回していく。費用は納税奨励金を当てており、それで賄える。」
 つぎは、1月16日、8月16日、12月16日の年3回行われるオトキ(お斎(とき))である。先祖祭りのことで、午後7時ころから10時ころまで、行事次第にのっとり念仏を唱えた後、オトキすなわち会食をする。今は酒と茶菓子で済ますようになっている。行事は各組ともだいたい同じで、皆さんは次のように語っている。
 「宿の座敷に祭壇を設ける。仏壇が座敷に移せない時は、その家の仏壇のある方向を向いて念仏を唱える。」
 「上組ではお大師さん(弘法大師)の掛け軸を掛ける。宿主が音頭をとる。住職が来て居るから念仏はしゃんとせないかん。」
 「(**さん)たまたま寺にお大師さんの掛け軸があったので提供している。わたしはあくまでも組内の一員として行くだけで、住職として行きよるんじゃないんです。だからその折は普通の格好で行きます。衣は着て行きませんよ。」
 「中組では十三仏の図をかける。」
 「下組には掛け軸はない。在家の念仏をやる。耳で念仏の聞き覚えのある人がリーダーとなってやる。先達として鉦をたたいて音頭をとる。」
 会食については**さんが、次のように語る。「御飯を炊いたもの、御霊供膳(おりょうぐぜん)(*20)という意味でお供えするんだと思う。お仏飯(ぶっぱん)(仏に供える飯)を皿に盛ってお供えして、それを餓鬼(がき)が施しをうけるという意味で、少しずつ皆がいただく。あとは会食ですね。食事しながらお話をする。昔は弁当を各自が持ち込み、おかずは宿で出していただいた。今はそれがお茶菓子となった。」
 葬式組は、上、中、下の村組がそれぞれ主になり、組内が中心になってやっている。家持は必ず出る。男は野辺送りのことを、女は食事のことをする。最近は、葬儀屋が入ってきたのでその手伝いくらいになった。出棺の見送りについてはむらの人全員ですることは昔から変わりがない。昔は、むらの人の葬儀はすべて蓮生寺で行い、むらの人全員が参列していたそうである。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 窪では、年始と年末の総会2回と、溝掘り、アキミチのあわせて年4回、むら全体で飲み食いをする。このほか、むらの行事として行うオコモリについて**さんが次のように語る。
 まず大判山(おおばんさん)(口絵参照)のオコモリについて、「大判山の山頂に祠(ほこら)(神を祀る小さなやしろ)があって、石鎚(いしづち)権現を祀っとります。オコモリは昔は、石鎚山のお山開きにあわせて7月1日にしていましたが、今は7月の第一日曜日にやります。朝7時半ごろむらを出発して山頂に向かう。世帯主と希望する子供たちが参加する。お神酒2升と、前もって当番がついたお餅や煮豆を詰めた重箱などを皆で分け持ち、当番は箱に収めた御神体(40cmくらいの金銅製の不動明王像)を負いこに取り付け、背にかるうて(背負って)上がる。今は林道があるんで途中までは車で、以後徒歩で、約1時間で行くが、昔は山道を歩いて2時間はたっぷりかかりよりました。山頂に着くと、お供えをして手をたたいて拝む。以前には石鎚教の信者がいて先達となって祈禱をしていました。石鎚山のお山開きに準じたように御神体を身体にすりつけたりしている。その後、直会(なおらい)を行ってから、また御神体を背負って下山する。」
 ここで**さんが、御神体が現在金刀比羅神社に安置されていることについて説明する。「昔は御神体は山頂の祠に置いとった。昭和18年(1943年)、わたしが組に入ったころに盗まれた。同じときに烏殿に置いとった新城の御神体も取られたと聞いている。それで戦後になって、50名くらいの講を募って、注文してこしらえた。それからは、また盗られたらいかん言うてお宮に納めることにした。」
 つぎに伊勢神宮さまのオコモリについて、**さんが語る。「お伊勢さまのお祭りがあります。通称お伊勢山(口絵参照)、その山頂の今城の城跡に祠(ほこら)があるが、腐ってしまったので、今年(平成10年)わたしが発起人になり老人クラブが主体で新調しました。毎年2月の中旬に、むらの世帯主がそろって山に登り、むらの安全祈願をする。山へはお神酒やついた餅を持って上がり、お神酒をいただく。」
 新城では、年度末と年度初めの2回の定期総会のときに、むら全体での飲み食いをする。**さんが属する4組では、里道づくりのときに酒を飲むようになったそうである。ただし、これは元々からあったものではないとのことである。むらの行事として山開きがあるという。毎年7月1日、烏殿の山頂に登り、祠に安置している石鎚権現を拝礼する。
 「わたしが子供の時分には、行者(ぎょうじゃ)(*21)が先達で、村の人はその後をついて上がっていって拝礼していた。今は1年おきになり、上がる年は年行事がお神酒・肴(さかな)を用意してむらの有志とともに烏殿に上がり拝んでいる。上がらない年は、近くの毘沙門(びしゃもん)さまにお供えして拝む(写真3-2-15参照)。」このほか、組ごとに分かれて行うものとして、阿弥陀堂、竜王さま(密教で雨を祈る本尊とする)、新田神社、公会堂などを年2回掃除している。


*13:近世以後、産土(うぶすな)神と同義になる。人々の生まれた土地を鎮(しず)め守る神。
*14:江戸幕府が村々の百姓、町々の地主・家主に命じて作らせた隣保組織。近隣の5戸を1組とし、キリシタン宗徒や犯罪
  人を相互監察によって防止、告発する連帯責任及び貢納確保などに利用された。
*15:昭和15年(1940年)に制度化された戦時体制下の隣保組織。町内会・部落会の下に5~10軒を単位に編成。動員、供
  出、配給などの実行機関とされ、行政機構の末端組織として機能した。
*16:村落における葬儀執行のための近隣組織。独自の組織が存在するところもあるが、多くは村組や五人組であり、それら
  が葬儀に際して、無常講、講中などと呼ばれているのが普通である。
*17:日を定めて催した法会(ほうえ)、修法(しゅほう)の終了すること。
*18:金属製で小型のたたいて鳴らす器具。
*19:お籠りのこと。神に祈るために一定の場所で物忌みをすること。村落では、村人全員もしくは特定の集団が村の籠り堂
  に集まって徹夜することや共同祈願のために行うことも多い。
*20:霊前に供える食物をのせる台または料理。
*21:宗教的な特別な修行をした者をいう。とくに山岳で激しい修行をつんだ修験者(しゅげんじゃ)をいう場合が多い。

図表3-2-4 大三島町明日における村組(平成10年)

図表3-2-4 大三島町明日における村組(平成10年)

表中の世帯数は町役場提供の数字。(  )内の数字は**さんから聞き取ったものである。

写真3-2-12 鉦

写真3-2-12 鉦

各土居ごとに保有し、念仏などで使う。平成10年10月撮影

写真3-2-13 猿川原の氏神、紀貫之神社

写真3-2-13 猿川原の氏神、紀貫之神社

平成10年9月撮影

写真3-2-15 毘沙門さま

写真3-2-15 毘沙門さま

手前の小祠が毘沙門さま。背後の山は烏殿である。平成10年11月撮影