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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)むらの組織

 近世の村は、住民の生産・生活の必要から、実質的に一種の自治機能をおのずから備えていた。近代の地方自治行政制度は、大日本帝国憲法発布とほぼ時を同じくする府県制・郡制(明治23年〔1890年〕)、市制・町村制(明治21年〔1888年〕)の制定で一応その根幹が確定し、国、国家行政の中間機構としての都道府県、末端機構としての市町村という枠組みが以後変わることなく、今日に至っているのである。ところで、この町村制の施行にあたり全国的規模で実施された町村合併によって、近世の村はほとんど新町村に吸収されて、大字(おおあざ)などの名称としては残ったが、制度外の存在となったのである。しかし、住民にとってはその生活の保全の上で、旧村となってしまった近世の村が持っていた自治的協同規制は不可欠の要素であった。そうしたことで住民は、かつての自治的機能を時代の変化に応じて変えながらも堅持してきた。「今日のむら」は、主として農山漁村地帯の市町村の内部に実在している、制度外の存在としての地域住民の伝統的自治機構であるといえる(⑥)。

 ア さまざまな役職と規約

 むらの構成単位は個人ではなく家である。人々はその所属する家の家族的地位に対応する形でむらの成員となる。むらには独自の役職があって、協同生活の管理運営に当たっている。この役職は、制度上の役職(村長、助役等)とはまったく別個にむら自体の必要から個別に設定されたものである。その実態はさまざまであるが、共通性も見受けられる。また、どのむらにも近世以来の村寄合の伝統を持つ、協同生活についての協議機構がある。むらの総集会はむらの正規の要員である家の代表者の全員参加による協議決定の場である(⑥)。

 (ア)大三島町明日

 現在のむらの役職は、正総代(会計も担当する)1名、副総代(総代見習で次期正総代)1名、組長(5組の各組から1名ずつ)5名、評議員15名(正総代・副総代・組長は兼任、その他は町議会議員1名、前総代1名と選挙によって選出した6名で構成)である。ほかにコバシリ(小走り・小使いともいう)という役がある。現在は名目だけになっているが、昔は連絡係や接待係などをやっていた。なお、評議員のうち正副総代を除く13人の中から、2名の監査委員が選ばれる。
 役員の選出は、毎年12月の終わりころに開催されるむらの総会における選挙によっている。総会には各家から必ず一人参加することになっている。選挙されるのは副総代と評議員6人である。選挙は無記名投票である。特別やりたいという人があるわけでないことから立候補者はまずいない。根回しについても過去はあったかもしれないが、現在はまったくないとのことである。この方法は、戦前からの引き継ぎで行われてきたもので、評議員の人数は減っているが、その他はあまり変わっていないという。
 むらの寄り合いとしては、この総会のみである。評議員会は年1回、1月か2月の初めに開く。役員の顔合わせ、会計、年間行事の計画立案、大事の決定などを行う。あと必要な場合はその都度、総代が招集する。連絡は、昔はコバシリが各戸を回っていたが、現在は電話を利用している。なお、小事については正総代、副総代、町議会議員、前総代の4人が集まって、決定することになっている。
 むらへ加入する手続きに当たる村入りの作法については、格別のものはないようである。
 「ここでは、村入りの作法は聞いたことはない。分家した場合も特にあいさつはない。」
 「組入りの場合も、向こう三軒両隣へあいさつする程度でないですか。」
 「分家は、本家に盆・暮れに付け届けをする程度で、あとは何もない。」
 ところが、村人が米寿(88歳)になると、村方に祝いの分け前として大盤(おおばん)振る舞いをするという。**さんが、「八十八になったらね、むら中にまんじゅうを配るんです。これはほかではあんまりないでしょう。」と切り出すと、皆さんこもごも次のように語る。
 「昔は紅白の餅(もち)をついて配ったが、今はまんじゅうを配る。」
 「紅白の大きなまんじゅうに手拭(てぬぐい)を付けて配る。今は手拭の代わりにタオルを付けるようになった。その上に、シノベタケを切ったマスカケ(升掻(ますかき)、穀物を升(ます)で量るとき縁と平らにするのに用いる短い棒のこと)が付いてます。」
 「八十八の祝いをするのが楽しみで、3年くらい前からこれぎり仕事にして準備しよる。明日は家が何軒あるか、タオルは何本いるかとか言いながら。」
 「昔から、品物の数は200あったらあるわい(足りる)とよう言いよる。お祝いに来てくれた人やなんかにもあげないかんで。」
 「それに、農協に勤めとる職員に配ったりする。農協に勤めとるいうことは明日に朝8時から夕5時までおるから、明日の住人じゃと言うて。農協の職員は明日だけじゃなくて、町のあちこちに住んでおるでしょう。わたしも頼まれてあちこちに配ってきました。」

 (イ)北条市猿川原

 現在のむらの役職は次のとおりである。区長1名、区長代理(会計担当)1名、組長(3組の各組から1名ずつ)3名、年行事(むらの諸行事の段取りをする準備係、会計の命を受けて物品の購入などに当たる)1名、サクミ(作見、川守り・水番のこと)1名、エイノウ(営農、農協を通して肥料などの諸物品の購入注文をする世話人のこと)1名。組織については、終戦後にエイノウが新しく設けられたが、その後今日まで変化はないようである。
 主な役職の任期については次の話が展開する。
 「今は1年ずつの交代である。1年交代になったのは8、9年前からである。前は、区長は2年が切りで、改選はあるが後継者がおらん場合は留任せにゃならんしな。短い人で2年、適任者だといわれて何年も続けた人もあった。」
 「区長や年行事には農業してないような者はさせなんだ。よそから来た人にもさせなんだ。けど今は、農業だけしよる者は少ないから、給料取りでも皆1年ずつで、頼んでもやってもらわないかんことになった。」
 昔はむらの仕事は面倒だったという。「昔は計算機があるじゃなし、そろばんが大変じゃった。計算するんが難儀じゃった。米と金と2種類の計算をせないかなんだ。水利関係は米ぎり(米だけ)の計算じゃった。」
 「それから、終戦後のことじゃから食うことが難しかったけんか、いろいろ役しても煮たり炊いたりと、年行事という役職は忙しかった。今は買い物に行くぎりじゃが、当時は自分がもの作らにゃいかんのじゃから。鍋(なべ)、釜(かま)がいるでしょう。鍋、釜は今むらである程度買うとるけど、昔はどんぶり鉢と徳利(とくり)、湯飲みがあったくらい。食器はないから、年行事はこれを個人の家から集める。お供え、料理、酒、引き出物などの準備をする、預かった役米をついて炊く。なかなかじゃった。だれでもはできなんだ。今は楽になった。」
 「むらの仕事は昔は面倒かったけんね。それに対応できる人物でないとできなんだんです。そやから、区長を10年やった人もあった。だれでもはできなんだが、今は行事でも簡素になったけんね。今の人は皆よく勉強しとるけんね、できるようになった。昔は、勉強しとる人は農家にはそうなかったけんね。いろんな作業や事業にすぐ答えが出けんことにはいかんけんね。そんな関係もあったわいね。今はどなたがなっても行政やむらの仕事がやれる。特に猿川原は今でも共同心が強い。戦時中から名を売っとった。」
 **さんや**さんは20歳代から役職者になったそうである。二人はその背景についてこもごも語る。
 「復員後、むらの大人たちが、『戦争に負けたんじゃけん、わしらはもう(むらの役は)せんぞ。』言うて辞めてしもた。それから兵隊からもんた(戻った)者が区長などの役をやった。」
 「もんた当初、節季の役員定めの折に、『若い者がもんたけん、使わにゃいかん。』と言うて、徹底的に使われた。20代の後半じゃった。」
 「自分がもんたころ、おやじはむらの役しとったけんど、節季になったら、おやじは、『若い者がもんたんじゃけん(復員してきたから)。』と言うて役を辞めた。むらの方でも若い者を使わにゃという意向があったかどうかは知らんが。」
 「家の事情にもよるが、『おまえらが家構えてやってくれよ。』言うて、責任持たされて任されてやった。」
 「もちろん、同じ年配でも親が譲らんので、せん人(ひと)(一家を構えることができないのでむらの役をやらない人)も何人かおった。」
 このことについて、**さんは現状も変わりないと語る。「今でも一家から一人、お父さんが引退しなかったら息子は出れない。早く引退したところは、たとえ息子が20代じゃろが何だろうが、区長じゃろが回ってきたら出る。制度は今も変わっていない。」
 むらの寄り合いとしては、年1回定期の総会が12月の中旬の土曜日か日曜日の晩に集会所で開催される(写真3-2-5参照)。内容は役員の改選で形式的な選挙を行う。役員候補は事前に決まっており、落選者はいない。年末の納税日の晩に役員の引き継ぎがあって、この日は準備を現役員、後片付けを新役員が行うといった具合だそうである。臨時総会は月々の納税日で、毎月25日から月末までの区長の都合のよい日に集まっている。昔の寄り合いは区長が招集し、コバシリが連絡に走った。現在の連絡は有線放送による。昔は、12月13日から15日までの間にむらの役の改選が行われ、「役員定め」と言った。「やってくれん人がいて、またあの人はいかん、この人がええと言うてもめて、決まるのは1日がかりじゃった。」そうである。物事を決めるときは昔は区長が言ったらそれで決まりだったという。今は無記名投票、多数決で決めている。
 寄り合いについては、「昔は、月に一遍、20日か21日かにお大師講があって集まっとったし、『オトキ(*10)』とか寄り合いが再々ありよったから、そういう場で組々の話し合いはできよった。寄り合いの代わりになっとった。弁当持ちで行きよった。同じ回りでするのじゃからと言うて、おかずは宿主が用意する。集まりも楽しみやった。お大師講はやめて10年以上になる。はじめは弁当持ちをやめて、宿がうどんやら料理やらを出しとったが、女の人たちから宿になるものは造作じゃからやめたらどうかということになって、お茶とお菓子になり、それも10年ほど前にやめた。」
 村入りについて、現在は、結婚を機会に寄り合いに出てきて、本人が「むらのつきあいさせてください。」と言うてあいさつする。おしるしに酒を出すこともある。**さんが回顧して、「わたしが子供のころは、三三九度が済んだ後、宴会の間に親が高島田姿の嫁を連れてむら中を回った。そのうちに組内回りだけになった。今は式場であいさつする。わたしは長女で戦時中、婿をとったんですが、主人を父親が連れて組内を回った。むらへは寄り合いの折に父親が連れて回ってあいさつをしよった。」と語る。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 むらの役職をみると次のようである。窪では、区長1名、区長代理1名、年行司1名、部落議員3、4名、農事部長1名、社係と寺係が各2名、山林係と土木係が各2名、厚生保健係1名、水利部2名、コバシリ(連絡係)1名である。任期は、年行司とコバシリが1年で、あとは2年である。「わしらが知ってからは、戦前から戦後、今も変わっていない。」と言う。全体の寄り合いとしては、年始めと年末の2回、定期総会がある。特別の案件がある場合には臨時総会を開く。各家から必ず1名の参加を求める。3、40年前には不参加の家には罰金を課したこともあったが、今はやめている。毎年の年末の総会で、1年任期の年行司とコバシリを決める。コバシリは入札によって、一番安値で請け負う人を選ぶ。区長と区長代理は、かつて選挙のときもあったが、今は回り(順番ですること)になった。代理は次期の区長となることが決まりである。部落議員、農事部長、社係・寺係などについては、年始めの総会で選出されるが、あらかじめ選ばれた選考委員によって事実上決められる。
 常定寺では、会長・副会長・会計・農事部長・コバシリがそれぞれ1名で任期1年。書記2名・衛生係2名(平成9年までは3、4名、同10年から保健委員と改称して会長と副会長の兼務)・神社係3名でそれぞれ任期2年、寺総代・道路委員が2名ずつで任期3年である。このほかに十人組組長が5名と長谷山(ながたにやま)造林組合(町有林のうちの田之筋財産区、数百町歩の山林のうち29町歩ある)の議員が5名いる。
 全体の寄り合いとしては、年末と年頭の2回、定期総会が公会堂で開かれる(写真3-2-6参照)。また、必要があれば臨時総会が開かれる。このうち、役員の改選は年末の総会で行われる。なお、予算案編成や予算の執行機関として、会長・副会長・会計・農事部長・十人組組長の9名からなる「部落議員」がある。
 つぎに新城では、会長1名、副会長1名、特別議員3から4名(前年度の会長・副会長・会計、地元選出の町議会議員)、会計1名、書記1名、正副の農事部長各1名、コバシリ1名、それに7組ある村組の十人組組長7名である。任期はすべて1年である。定期総会は年始めと年末の2回、集会所で開催され(写真3-2-7参照)、欠席者からは罰金4,000円をとるそうである。代議機関として議員会がある。その構成は、正副会長、会計、書記、特別議員、正副農事部長、十人組組長である。役員の選出は、規約では年末総会の選挙によることになっているが、各組から選ばれた選考委員によって事実上決定することになっている。なお、コバシリについては、窪・常定寺地区と同様に、希望者が1年間の希望報酬金額を札に書き入れて出す入札方式で、最も低い金額を書き入れた人が落札し、選ばれる。
 村入りについて、窪においては、**さんが、「分家を立てて定住する場合は、総会で住民として認めてほしいとあいさつをして、皆さんが歓迎する。」と語り、**さんが、「条件はむらのしきたりに従ってもらうということやなあ。」と補足する。
 常定寺では、「後からむらに入った人は長谷山造林組合には入れてくれなんだですよ。もともと、町有林の財産区(*11)に入っているものは組合に入れるが。それで伊崎の人が常定寺へ来ても組合に入れてくれんので、つきあいは伊崎へということになる。それはいけんということで、昭和27年(1952年)ころ、常定寺に入った人が希望したら総会にかけて組合に入れることになりましてなあ。ごあいさつしたら入れることになりました。」という。
 新城においては、「永住目的の人は生産森林組合(記名共有林野の一つ)の正会員となるので出資金を出して株主となる。勤め人でむら内に家を借りた腰掛けの人は準会員になる。正会員の場合はあいさつがあります。総会の折に『私が入りましたからお願いします。』とあいさつがあります。総会の承認がいります。正会員は、生産森林組合の出資金及び必要経費を納入し、水道権として1戸当たり2万円程度を出さないけんわけです。準会員の場合は何も必要ありません。」という。「規約」では、「新たに入会せんとする者は、総会の承認を得て、生産森林組合出資金及びその必要経費を納入した者に限り、正組合員と認める。」とあり、水道権については、その昔生産森林組合の山を売った金で水道を作ったいきさつがあるので、新たにむらに入って永住する者は水道権を得るための出資金を出せということになったという。

 イ 共有財産と区費

 むらの協同生活には当然独自の財政措置が必要である。ただ、それぞれのむらの内部事情によってその財政処理はさまざまである。むらはまた、入会地の流れをくんだり、国有地や市町村林の払い下げあるいは借り受けした共有共用林野や、田畑、溜池(ためいけ)などを財産として持っている。そのほか、上地以外の共有としては家々の冠婚葬祭に当たって使用する道具類を持っていることが多い(⑥)。

 (ア)大三島町明日

 むらの共有財産としての山林、建物は現在はないとのことである。土地については、池を埋め立てた土地「総代場(そうだいば)」があるだけである。かつてはいろいろあったが、明治時代に個人競売に付されてしまったという。氏神(明日八幡神社)や寺(昌福寺)にも社田や寺田があったそうだが、農地改革や個人名義に切り替えられるなどで処分されてしまったという。集会所については、元来、むらの集会は昌福寺で長らく行われてきていたが、寺や檀徒から苦情が出たため、昭和25年(1950年)ころに農協の支所の裏に集会所を建てた。そして、昭和30年、新たに土地を求めて現在の明日集会所を建設したという。道具類としては、ソウレン(葬式用)道具があって、昌福寺の道具小屋に保管され、活用されている。また、年1回行われる産土講(うぶすなこう)用として100人分の茶碗(ちゃわん)、皿類があり、集会所に保管されている。
 村勘定のために徴収される金銭を区費という。その賦課基準について**さんは、「前例を見ながら、農業やその他の所得、言うならば総合所得に対してかける。そろばんではじき出したものじゃなしに、あそこは病気で入院して気の毒じゃから下げてあげようやとか、あすこは今年収入がよかった、だいぶもうけとるから上げてやろうじゃないか、増やしてもらおうじゃないかとか、そういう今じゃ通用せんようなことなんです。」と語る。各家ごとに賦課する均等割はないとのことである。

 (イ)北条市猿川原

 むらの共有財産としては、紀貫之神社に3町歩くらいの山林がある。かつては神田・寺田もあったが農地改革でなくなった。山林はマツクイムシの被害を受けて枯れたので、コウロクでスギ・ヒノキを植え、手入れを続けている。このほか、建物として集会所がある。古い集会所は昭和の初めの不景気の折に、同じ立岩村の滝本(たきもと)から買い入れて建てたものだった。それを日当たりが悪いので売り、新たに日当たりのよい空き屋敷地を100万円ほどで買い、角道のために10坪ほど譲って、建物は北条市の補助をうけ、足りない分をむらの有志が出し合って、新しく建てたものである(写真3-2-5参照)。また、区長預かりの長持(ながもち)があり、中に祭りの幡(はた)などの諸道具や初祈禱の時の膳(ぜん)椀類、桐(きり)箱入りの金の茶釜(ちゃがま)(紀貫之が持ってきたという)、紀貫之の木の位牌(いはい)などが納められている。同じく区長預かりの古い書類を入れたたんすがある(写真3-2-9参照)。現在は整理して、大事な書類は持ち運びのしやすいケ-ス(区長箱)に入れている。このほかに、かつては野道具という葬式用の諸道具類を共有財産として持っており、その収納施設として蓮生寺の門前に野道具小屋を構えていたが、葬送儀礼の変化にともない整理撤去してしまったそうである。
 村勘定のため徴収される金銭は部落費という。2種あって、一つは地租反別にかけるもので農業用道路の維持保全、スボリ(素掘り、農業用水路の維持保全作業)での飲食など農地に絡んだ費用関係、もう一つは、むらの各家に均等にかけるもので、村行事、一般の道の維持保全、祭礼での宮掃除などの費用関係である。
 このほか山には水利費がかかっている。「猿川原では山へも多少、賃貸(*12)をかけている。立岩地区では、猿川原以外で水利費をかけとるところはないが、同じ立岩地区の小山田・滝本・猿川・米之野では、山道なんかの手入れのためとして協議費を取っていて、金額は猿川原の水利費よりはるかに高い。昔は村役でしよったが、今は道の手入れも何もしてないのに協議費はとられるんじゃから。」「山林からは収入があがらんが、ゴルフ場はようけ(たくさん)収入が取れるから協議費をようけかけるので、ゴルフ場のあるむらでは部落費が安くてすむそうじゃ。果樹園なんかでもようけかける。」

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 窪・常定寺・新城の各むらでは相当程度の共有財産を持っているようである。
 窪ではまず山林関係で、部落有林と隣村である伊崎(いさき)との共有林の2種がある。新たに村入りをした場合、共有林については株を無償でもらえる権利があるが、部落有林については株数が限られており与えられない。むらを出ていった人の株とか、二口以上持っている人から株を分けてもらい、買い取るしかない。また田畑や沼地もあったが、財産評価して、反別割りにして1人当たりいくらになるか算定し、むら全体の中で売り買いして、農業構造改善事業で売却してしまったという。建物としては窪公会堂がある(写真3-2-10参照)。明治の終わりころに、むらの熊野神社の建物を移築して、それを公会堂として使ってきたものであるという。窪の神社に関連して、**さんと**さんが次のように語る。
 「お宮(金毘羅(こんぴら)さん)は昔のところから場所は動いていない。昔は熊野神社というのもありまして、その神社の建物を移築して公会堂にしたんです。御神霊は今の金毘羅さんへいっとるというわけです。」
 「金毘羅さんは、昔個人のお宮、祭り神じゃったんです。」
 「今そこへ、『玉石さん』いうて先祖の石を祀(まつ)っている。それも伝説ですから分からんのですけどね。昔の伝えでは、私とこの元屋敷の台所の軒下にその石があったそうです。家人が朝起きてみると、一日、一日その石が大きくなる。そこで、この石には魂が入っとるというようなことで、石を祀りよったらしいですね。そして、二転三転して、今の金毘羅さんに祀ってある。大きな石で200kg以上もあろうか。」
 「明治の終わりごろに熊野神社の建物を公会堂にした。なにさま、古い家ですけん、いたんどります。屋根替えたり、板替えたり、修復はしよるけんど維持は大変です。」
 現在は、この公会堂の建物が古くなったことや手狭なことから、農業構造改善事業によって建てられた伊野窪研修センター(所在地は宇和町平野)という、伊崎、平野(ひらの)、窪の3地区の共有財産である建物をもっぱら利用している。
 このほかには、野道具類が共有財産となっている。また、村の財産ではないが、氏神である金刀比羅神社の財産として、かつては村人が出し合って作ったという神田が2、3反あったが、戦後、むら内の個人に売却してしまったため、今はないという。一方、寺(常定寺)には、寺用の山林、寺田が檀家名義として現在も存在するとのことである。
 常定寺のむらの共有財産である部落有林は5、6町歩と少ないので、新しく村入りした人にも始めから権利を与えるそうである。公会堂は昭和22、3年(1947、8年)ころ建てた共有財産だが、その敷地は**さんが貸したものであるという(写真3-2-6参照)。近年、建物が古びてきたので、毎年の積立金を元にして建て替えの話が決まっていたが、氏神の改修を先にしてしまい、まだ手をつけていないそうである。葬式用の野道具については、常定寺の檀徒のものとしてあるが、今はほとんど使っていないという。社寺財産について、田畑は終戦後に法人所有が禁止になったので、農地委員会が個人に分けたという。寺(常定寺)では、「寺の田は和尚さんの名義にして3反余りある。2度の農地交換分合、圃場(ほじょう)整備があったり、和尚さんが名義を持っているので税金もむらが出してきたが、和尚さんが寺を出るときには田をお寺に残すと総代が和尚から一札取った。」という(写真3-2-11参照)。また、寺用として部落有林を残しているという。氏神の三島神社には財産というものはないという。
 新城の共有財産としては共有林がある。旧村名義では所有できないため個人名義としていたが、今は村人を構成員とする生産森林組合という法人を作ってその所有としている。田畑もあったが、最近高速自動車道の用地買収の対象になったので、すべて売却したとのことである。建物としては、かつて明治の終わりころに建てた新城公会堂があったが、現在はその敷地の隣に約20年前に建てた集会所がある。このほかに野道具があり、最近祭壇も購入して充実したそうである。また氏神である新田神社には、神社庁所有の山林があり、むらが管理している。
 村勘定のため徴収される金銭のことを、この3地区ではいずれも部落費という。それには2種あって、一つは窪と新城では軒(けん)割り、常定寺では戸数割りといって各戸均等に賦課するもので、もう一つはヨコナリ(横なり)といって資産や収入の多寡による賦課である。ヨコナリについては、3地区でそれぞれ少しばかり違いがあるようである。窪では、宅地・田畑・山林などに対する資産割り(地租割りともいう)と資産に賃金収入を加えた家の財政に対する等級割りを併用する。常定寺では、かつては固定資産に応じて賃貸価格にしていたが、今は役場で取る固定資産税を基にしている。新城では、面積1反当たりで、水田や宅地を10、畑を5、山林を0.5として資産を点数化し、それで全体の必要金額から各戸当たりの負担額を算出するそうである。
 ただ最近は、分家などによる核家族世帯がむら内に居を構えて、しかも村入りをせず、独立した生活を営むようになり、従来の伝統的に家を単位として構成され、機能してきたむら社会に戸惑いが出始めているとの話があった。


*10:斎(とき)のこと。一般には法要その他仏事の参会者に出す食事のこと。猿川原では、年に3回行われている念仏講のこ
  とをさす。
*11:地方自治法第294条の規定によって生じる、市町村並びに特別区の一部で財産を有しまたは営造物を設けているもの。
  宇和町の場合、昭和29年(1954年)の町村合併に伴い、旧町村の基本財産の処分により設定された。
*12:この場合は賃貸価格のこと、旧地租法以来の用語で、土地台帳に登録し地租の課税標準となっていた価格。

写真3-2-5 猿川原集会所

写真3-2-5 猿川原集会所

平成10年9月撮影

写真3-2-6 常定寺公会堂

写真3-2-6 常定寺公会堂

平成10年11月撮影

写真3-2-7 新城多目的集会所

写真3-2-7 新城多目的集会所

平成10年11月撮影

写真3-2-9 区長預かりのたんすと文書類

写真3-2-9 区長預かりのたんすと文書類

現在は猿川原集会所に保管されている。平成10年9月撮影

写真3-2-10 窪公会堂

写真3-2-10 窪公会堂

旧熊野神社の建物を移築したという。平成10年11月撮影

写真3-2-11 常定寺本堂

写真3-2-11 常定寺本堂

本堂(右)と薬師堂(左)。平成10年11月撮影