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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)日々の祈り

 ア 業界に聞く

 (ア)モデル住宅にみる仏間と神棚

 住宅産業界の広告に載っているモデル住宅などの平面図を見ていると、仏間(*4)と記されている場所が目に留まることがある(図表3-1-10参照)。そこには人々の神仏祭祀の心情の一端が表れているように思われる。そこで住宅展示場などを訪ね、複数の関係者に新築の家の仏間や神棚の現状について聞いてみた。話の内容をまとめると次のようになる。

 〇 施主からの仏間を設けてほしいという要望は非常に多い。神棚の要望も多いが仏間ほどではない。モデル住宅に仏間を設
  けているのはそのためである。
 〇 住宅の設計段階で、仏間、神棚については必ず施主と相談する。業者の方から仏間、神棚の設置を提案することもある。
 〇 仏間は、座敷など和室に設けることが多い(写真3-1-11、12参照)。作り付けにするか、仏壇を置く場所にするか、差
  し向き押し入れなどにしておき、将来仏間にするか(コンセントなどは付けておく)などいろいろである。
 〇 神棚の位置は、座敷の床の間の横の違い棚か押し入れの上が多い。
 〇 2階建ての場合、仏間、神棚は1階の和室に設けるのが一般的だが、その上(階上)が廊下になっていない場所を選び、
  方角は南向きか東向きがよいとされている。

 そのほか次のような話を聞くことができた。
 「仏間や神棚の設置は日本の家造りにおける大切な条件の一つである。最近の住宅は耐久年数が長く、代が替わっても住めるので、ますます仏間の需要が多くなってきたのではないか。最近は洋風建築が増えたが、やはりその中に和室を設ける人が多い。和室を造ると床の間が欲しくなり、さらに仏間、神棚もと思うのが一般の日本人ではなかろうか。日本人の生活意識や生活様式は変化したが、神仏祭祀の観念は受け継がれているように思う。将来のことを考えて仏間をこしらえる若い人もいるし、実家にあったからという理由で仏間や神棚を設ける人もいる。」

 (イ)仏壇事情

 仏壇とは、元来仏を祀(まつ)るものであるが、一般には、最上壇に本尊や宗祖の像を安置し(掛軸の場合もある)、その下位に位牌(いはい)を並べ、先祖の冥福(めいふく)や家内の幸せを願う場になっている。そこで、仏壇から祖先祭祀について考えてみることにし、松山市内の仏具店で話を聞いた。以下はその要約である。
 「仏壇の標準は4段になっている(図表3-1-11参照)。最上段の須弥壇(しゅみだん)(仏像を安置する壇)の仏像(本尊)や掛軸は宗派によって違う(図表3-1-12参照)。
 仏壇購入の動機はいろいろだが、親などが死んだとき(肉親の死を通して仏を大切にする気持ちが起きる)、家を新築したとき、分家したとき(位牌がなくても自分たちのために購入する人もいる)、戦後の粗末な仏壇を立派な仏壇に変えるとき(祖先を大切にする心情の表れ)、作り付けの仏壇(位置が高く、立つたまま拝む仏壇が多い)を廃するときなどである。仏壇の需要は常にある。ただし不況になると買い替えが減り、高価な仏壇の需要が減る。
 仏壇を置く場所は座敷か居間。身近に置く方が日々の祈りに都合がよく、その上先祖と共にくらしているという心情が生まれてくるようである。最近ではマンションや洋間に合う家具調の仏壇も作られるようになった(写真3-1-13参照)。
 若いころは親が祀ってくれているので、それほど先祖とのかかわりはないが、先祖を敬う気持ちは若い人にもあると思う。親が死ぬと供養を行うようになり、それを通して先祖の祭祀もするようになる。
 仏壇を購入する際には家族中がやって来る場合が多い。親類まで連れてくる人もいる。仏壇は家族共有のものという意識があるのだろう。仏壇は家族または一族の心のよりどころなのかもしれない。」

 イ わが家の神仏

 **さん(越智郡朝倉村朝倉上 明治41年生まれ 90歳)
 **さん(越智郡朝倉村朝倉上 大正5年生まれ 82歳)
 **さん、**さん夫妻はたいへんお元気である。今は隠居の身で、息子さん(長男)夫妻と同居、悠々自適の毎日である。

 (ア)神々の正月

 「わたしどもの家には、座敷の床の間の横に神棚(五社の宮(*5)さんと呼んでいる)、居間に仏壇があり、そのほか、居間には大黒天、裏の井戸の上に水の神(*6)、火の神(*7)、庭の神(*8)を祀り(写真3-1-14参照)、また築山(つきやま)の向こうの竹やぶの中にオジノシサン(屋敷神)(*9)を祀っています。
 正月には、家の中に祀っている神々の前にしめ飾りをつけ、鏡餅(かがみもち)など供え、お神酒をあげ、オヒカリ(灯明)をあげて拝みます。五か日(にち)(正月の5日間)の間は毎朝雑煮も供えます。しかし普段は特別なことはしていません。地域の祭りの日などに灯明をあげる程度です。しめ飾りはすべて家でつくります。大黒さん(大黒天)のお飾り(写真3-1-14のC参照)は特に大きいので二人がかりでつくります。このお飾りは1年間つけて置くのですが、その間に落ちたら縁起が悪いと言われています。
 先代(**さんの父、昭和28年〔1953年〕死去)はオタナサン(*10)も迎えていました。座敷の天井から新しくなった縄でその年の恵方(えほう)に向かって棚をつり、お神酒を供え、大みそかの晩に長い間拝んでいました。その折には、先代以外はだれも座敷に入れなかったので、かしわ手の音がするばかりで、どんなことをしていたか詳しくは知りませんが、かわらけ(素焼きの陶器)に御飯を何度もつぎ替えては供えていたようです。その御飯のおすべり(お下がり)を家族の者がいただくことになっていました。」

 (イ)**家とサトイモ

 「わたしの家は龍門山(*11)城主一族の末裔(まつえい)だと言われていて、家紋も四割菱です(写真3-1-14のA参照)。家の前の山に古い墓がたくさんあるが、『それらは遠い祖先の墓だから、うちの墓と同じように大切にお守りしなくてはならない。』と先代に言われたこともあります。とにかくそういう家だということで、祖先が合戦に負けたときの言い伝えにちなんで正月には家の神々にサトイモ(親芋)を供える習わしになっています。サトイモを切って生で供えるのです。今でもやっています。しかし、サトイモを雑煮の餅の代用とし、正月に餅をつかない(いわゆる餅なし正月)のではなく、先代のころから餅もつき、餅入り雑煮もつくっています。ただし雑煮にも昔から必ずサトイモを入れています。正月に餅をつかないでサトイモを汁にたいて雑煮の餅の代わりにしていたということがあったとすれば、それは随分昔のことではないでしょうか。わたしどもの記憶にはありません。もちろん同じ流れと言われている他のお宅にそのようなしきたりが残っているのかもしれませんがね。」

 (ウ)日々の供養

 「仏壇には花(シキミ)を供え、線香を立て、灯明をあげます。毎日、まだだれも口にしていない炊き立ての御飯と入れ立てのお茶を供えています。また先代の死後、供養のためにしばらくの間お酒も供えていました。先代は酒が好きで、趣味は浄瑠璃(じょうるり)、わたしどもが結婚すると『後継ぎができた。隠居するなら若隠居、お前らに任す。』と言って、農作業から帰ると、さっさと風呂に入り、夏は縁台で悠々とうちわであおいでいたので、近所の人からあのおじさんは楽隠居だとうらやましがられていました。しかし66歳でこの世を去り、今から思えば早死にでした。酒が過ぎたのでしょう。特に戦争中(太平洋戦争中)から戦後にかけて酒の質が悪かったから、それが健康を害する原因だったのかもしれません。こんなささいな思い出も今では故人をしのぶよすがになっています。」

 ウ 先祖の供養

 **さん(上浮穴郡小田町寺村 昭和12年生まれ 61歳)
 **さん(上浮穴郡小田町寺村 昭和15年生まれ 58歳)
 **さんは、小田町役場を定年退職して、今はイネの無農薬栽培に汗を流している。現在、小田町寺村に伝わる「山の神の火祭り」の保存会会長を務め、地域の発展にも尽力している。またソフトボールを得意とするスポーツマンでもあり、各地で行われるソフトボールの試合の審判も度々依頼され、多忙ではあるが、妻**さんと共に充実した日々を送っている。
 「(**さん)わたしどもの家には『上(かみ)かじ屋』という屋号がありました。子供のころ『かじ屋』というのはトンテンカンの鍛冶(かじ)屋のことだと思っていたが、実は『かじ』とは和紙の原料となるカジ(山野に自生するクワ科の落葉高木)のことで、その取り締まりのような仕事をしていたらしいのです。以前墓地を整理したことがありますが、その折に初代のものだと思われる墓石から宝暦元年(1751年)に死去したらしいということが分かったので、わたしのところは250年はこの地に住み続けていることになるでしょう。
 建て替える前の家はかやぶきで、間取りなどは図表3-1-13のようになっていたと記憶しています。仏壇は居間に備え付けてありました。位牌(いはい)がたくさん並んでいて、毎朝位牌ごとにお茶を供えるので、子供のころ『お茶湯(ちゃとう)(仏前に湯茶を供えること)をしておけ。』と言われると、学校に遅れたら大変だと思いながらお茶を供えたことを覚えています。かまど近くには小さい棚を設け、火の神(荒神。かまどの神)を祀り、家の裏には水神を祀っていました。また屋敷の近くに小さい祠(ほこら)があったような記憶もあります。正月にはそれらの神々の前にしめ飾りを付け、鏡餅を供えていました。
 家を建て替えたのは、昭和34年(1959年)です。父は、わたしが小学校1年生の時に戦死しておりましたので、わたしは、一家を支えるため懸命に働いていたころです。家の傷みがひどく、雨漏(あまも)りもするので、食べるのが精一杯だったのにやむなく建て替えたのですから、どういう間取りにしようか、神棚や仏壇をどこに設けようかなどと考える余裕はありませんでした。自分で山から材木を切り出すなどして、少しでも建築費を安くしようとただそればかり考えて建てたものですから、今になってこうしておけばよかったと思うことがたくさんあります。仏壇もその一つです。新築後は市販の仏壇を居間に置いていますが、昔購入したもので粗末な仏壇です。現在きちんとした立派な仏壇にしたいと思ってはいるのですが、さてそうするとどこへ置くか困ってしまう。やはり家を建てる際に神仏を祀る場所を決めておく(スペースも考慮する)べきだったと思います。どこに置いてもアンバランスの感じになりそうなのです。極端な話をすれば立派な仏壇を置こうとすると家まで改造しなくてはなりません。もちろん形より心。豪華な仏壇にするよりは仏を敬う心の方が大切です。身近なことでは亡き両親を思う気持ちを大事にしたい。そう考えて今のところ従来からある仏壇に手を合わせています。先ほど昔は位牌がたくさん並んでいたと言いましたが、現在は繰り出し(写真3-1-15参照)にしてまとめました。」
 「(**さん)この辺りではみなさん、盆、彼岸、法事など特別の日以外にもお墓参りをなさっているようです。主人の母は足の運動を兼ねて毎日参っていました(墓地は近くの山にある)。そのころわたしどもは毎月1日と15日に墓参りをしていました。今でも最低月に1回はと心掛け、墓に供えている花(シキミ)を枯らさないよう努めています。わたしは何か心が落ち着かないような時にも墓参りをします。そうすると不思議に心が落ち着くのです。持参するものはお茶や水、それにお酒です。」
 「(**さん)酒は虫がわいたりするので今は焼酎(しょうちゅう)にしています。自分だけ晩酌していては申し訳ないと思ってのことですが、酒好きだった祖父の供養になると思って供えています。そのほか、お米、イリコ(煮干し)などを持って行って供えたりします。線香はもちろん持参します。」

 エ ふるさとを離れて

 **さん(松山市古川北 大正13年生まれ 74歳)
 **さんは東宇和郡野村町惣川(そうがわ)の小屋(こや)(現在の野村町小松)の出身である。昭和23年(1948年)惣川村役場(昭和30年、町村合併によって野村町惣川支所となる)に奉職、昭和50年(1975年)惣川支所長を最後に退職、両親と共に一家で松山市へ転住、現在に至っている。

 (ア)松山に惣川会

 「松山市に転居してすでに20年余りたちましたが、わたしの家は本家ですので、今でも何かと惣川とのつながりは強く、年に何回かは帰省しています。遊びに帰ることもあるが、親せき筋の葬儀や法事の時が多いですね。帰って出会う知り合いはほとんど年配の人です。郷里では、年々過疎化が進んでいます。帰るとその話ばかり、過疎対策の話も出ます。現在、地元では、惣川自治振興会が地域おこしに懸命に取り組んでいますが、わたしは惣川の活性化は野村町の活性化につながると信じています。惣川にはすばらしい自然がたくさん残っています。大野ヶ原(おおのがはら)はもちろんですが、あまり知られていない高樽(たかだる)渓谷(小松よりさらに奥。惣川を流れている舟戸川の源流域)もすばらしい。高樽は、平家の落人(おちうど)の里と言われ、昔は小さな集落があり、戦後、林業関係者も2、300人住んでいたが、今はだれも住んでいません。この渓谷は、夏の緑、秋の紅葉と観光の一つの穴場です。
 このような郷里を思う気持ちで結ばれているのが松山惣川会です。会が発足して、今年(平成10年)で34年目になります。会ができたきっかけは『惣川誌』の刊行(昭和40年〔1965年〕)です。当時、わたしは惣川支所に勤めていて、編さんにも携わったのですが、この発刊をきっかけに松山の惣川会を発足させてはどうかと話を持ち掛けました。そのころすでに松山では惣川出身の有志の方々が会合を開いていたようですが、その中心になっていた方と相談して、惣川との交流も行い、併せて出来上がった『惣川誌』を皆さんにも見てもらうことにしました。これが松山惣川会発足のいきさつです。相談を持ち掛けたわたしが事務局長を務め、昭和40年5月10日結成総会を開催しました。その後わたしも松山に出てきたから、この会とのつながりはずっと続き、今は3代目の会長として、会のお世話をさせてもらっています。
 松山には惣川出身者がたくさん住んでいます。総会は毎年1回開いていますが、今年も総会案内のはがきを400通近く出しました。出席者は多い年で70人から80人。少なくても60人くらいは集まります。惣川からも20人くらい出席するので、地元の人との親ぼくも楽しみの一つです。しかし、どうしてもお年寄りが多く、若い人の出席が少ない。年輩の人は生まれ育ったふるさとが懐かしくて出席しますが、若い人たちの中には中学校卒業後ふるさとを離れている者も多く、郷土への関心が薄れているのであまり出席しないのではないでしょうか。そこで今後若い人たちの働いている職域を考慮した交流も図りたいと考えています。とにかく惣川出身者の親ぼくを図るとともに、ふるさととの交流も大切にして郷土意識を高め、できればふるさと惣川の発展の応援もしたいと思っています。」

 (イ)菩提寺に位牌堂

 「惣川の家にももちろん仏壇はありましたが、松山に転居して家を建てた折に新たに仏壇を買い、持参した位牌を祀りました。墓も松山に移しました。しかし、菩提寺(ぼたいじ)(代々葬儀、法要などを実施してもらっている寺)はそのまま郷里の本光寺ですから、両親が死去した際には、本光寺の住職にお願いしてわざわざ松山まで来てもらって葬儀を行いました。祖先からかかわりの深い菩提寺を変える気にはならない。やはり郷里の菩提寺に対しては特別の思いがあります。本光寺が存続する限り、わたしは本光寺を菩提寺にしようと考えています。」
 惣川にはこの**さんの家の菩提寺である本光寺ともう一つ興禅寺(共に曹洞宗)という2寺があり、どちらにも檀家の位牌を祀る位牌堂(供養堂)が建てられた。本光寺には今から14、5年前、興禅寺にはそれよりやや後れてできたということである。
 **さんの話が続く。
 「位牌堂は祖先の位牌を守ってもらいたいと願う檀家の人々(ふるさとを離れている人々を含む)の寄付によってつくられました。それまでは寺に各家の位牌を祀る場所がなかったように思います。位牌堂に祀られた祖先の霊は、住職によって常に供養してもらっているが、帰省した折に特別に供養してもらうこともあります。また本光寺では、8月12日、昔から行われている先祖の供養(本光寺では『山門施食会(せじきえ)』と呼んでいる)と新盆に当たる死者の供養があり、わたしたちのようによそでくらしていて位牌堂に位牌を納めている人々も寺を訪れます。当日は、念仏踊り(*12)も行われ、鉦(かね)や太鼓の音が境内にこだまします。ふるさとを離れてくらしている者にとっては、先祖を思う気持ちとふるさとを思う気持ちとがどこかでつながっています。故郷の菩提寺の位牌堂にわが家の位牌が祀られているということは、ここがわたしのふるさとなのだという証(あかし)になります。」


*4:仏間とは仏像や位牌を安置した部屋のことであるが、ここでは、仏壇を置く空間又は仏壇を造り付ける場所を指す。
*5:天照大神を含め5柱の神が祀られているから五社の宮というのだろうということであった。
*6:水神。水、特に飲料水や水稲耕作に必要な水をつかさどる神。
*7:荒神(かまどの神)。火所をつかさどる神。
*8:戸口など家の周囲に祀ってあった神々をまとめて庭の神として祀っている。
*9:屋敷の守り神。屋敷神は土地の神であったり同族神であったり、家代々の祖霊であったり、その性格はさまざまである。
*10:その年の福徳をつかさどる歳徳神のこと。この神のいる方角を恵方という。
*11:朝倉村の南、東予市との境(朝倉ダムの近く)にある標高438.9mの山。
*12:念仏などを唱えながら踊る民俗芸能。本光寺の念仏踊りは「小踊り」と言われ、歌詞が近世初期の小歌風(庶民的な歌
  謡風)になっているのが特色である。

図表3-1-10 仏間のあるモデル住宅

図表3-1-10 仏間のあるモデル住宅

A社のモデル住宅の平面図より作成(2階及び記載事項一部省略)。

写真3-1-11 A社のモデル住宅の仏間

写真3-1-11 A社のモデル住宅の仏間

開き戸、いわゆる観音開きになっている。平成10年6月撮影

写真3-1-12 B社のモデル住宅の仏間

写真3-1-12 B社のモデル住宅の仏間

床の間の横に広くとってあり、押し入れとしても使用できる。平成10年6月撮影

図表3-1-11 仏壇の常識 

図表3-1-11 仏壇の常識 

仏具店での聞き取りを基に作成。

図表3-1-12 宗派によって違う例

図表3-1-12 宗派によって違う例

名号・・・仏の名(例 南無阿弥陀仏は六字の名号)。仏具店での聞き取りを基に作成。

写真3-1-13 家具調の仏壇

写真3-1-13 家具調の仏壇

平成10年6月撮影

写真3-1-14 **さん宅の神仏

写真3-1-14 **さん宅の神仏

幕の右側に四割菱の家紋が染め抜かれている。平成10年6月撮影

図表3-1-13 思い出の中に生きている昔の家

図表3-1-13 思い出の中に生きている昔の家

**さんからの聞き取りを基に作成。

写真3-1-15 繰り出し

写真3-1-15 繰り出し

位牌をまとめて納める仏具。板(写真右下)に戒名を刻む。平成10年7月撮影