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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)わが家の日常空間

 ア 仕事を通して

 **さん(東宇和郡城川町高野子 大正15年生まれ 72歳)
 **さんは城川町出身で、町内で工務店を経営している大工さんである。父親の下で見習いから始め、昭和40年(1965年)ころに独立し、民家の新築、改築や改造などを手掛けている。
 「御承知のように、以前この辺りでは薪(まき)で炊事をしていました。それが電気、ガスに代わり、水道も普及してきた。そのころから台所の改造が始まったように思います。はっきり覚えていませんが、昭和40年ころからではないでしょうか。昔の台所はたいてい土間の奥にあり、かまど、簡単な流し、その横に水がめが置いてあるという程度のものでした。土間だから床はもちろんのこと天井もない。そこでまず床を張り、天井を張ってそこに新しい台所を造るわけです(新たに台所を増築する家もある)。土間というのは農家にとって大事な作業場でもあったのだが、機械化による農作業の変化などによって土間の必要性がなくなってきたので、台所の改造に併せて土間全体を改造するようになりました。最近では土間をダイニングキッチン(和製英語で、食堂を兼ねた台所のこと)に改造する家も増えました。しかし、まだ茶の間で座って食事をする家もかなりあります。そこはたいてい昔は囲炉裏(ユルリともいう)のあった部屋だが、すでに囲炉裏はなく、代わりに掘りごたつという家がぼつぼつあります。茶の間にはテレビを置き、家族が集まってくつろぐ場所になっています。とにかく一般の人の住まいで大きく変わったのは台所であり、家の改造は台所から始まったとも言えるかもしれません。
 台所に次いで風呂場、トイレの改造が多い。以前は風呂場が独立している家が多かったのだが、最近では住まいの中に取り込む家が多くなりました。ユニットバス(浴槽設備一式)を設置することも多くなりました。ユニットバスは、新築の場合は簡単だが、従来の家の一部を改造して設置するのは、ちょっと面倒で手間がかかります。トイレはくみ取り式から水洗式(浄化槽付き)に直します。また最近、子供部屋を造ってくれという注文がよくあります。家の中を仕切ったり、少し建て継いだりして造るのですが、現在注文を受けているのは、階下を車庫と倉庫にして、その上を子供部屋にするという建て方になっています。
 改造にしろ、新築にしろ、最近の依頼主の注文には、日常の生活空間(台所、居間、トイレ、風呂場、寝室、子供部屋等)にかかわるものが多い。普段のくらしを快適に送るにはどのようにしたらよいかということを中心に考えているようです。もちろん座敷(客間)には気を遣う人は多い。家を建てる際『座敷ぐらいはやっちょかないけんぞ(造っておかなければならない)。』ということになります。それはもちろん床の間付きの座敷です。また個室志向が強いというのも現在の特徴の一つです。御承知のように昔の家はふすまなどを取り除くと一つの大きな部屋になるような間取りだったが、近ごろでは、各部屋の独立性を保つため、壁で仕切り、部屋の入口にはドア、又は引き戸を付ける家が増えてきました。それでもこの辺りは都会と違い、和風の個室の方が多いようです。家の中の和室と洋室との割合は建てる人の年齢によっても違います。
 昔の家と今の家とどちらがよいか、一概には言えません。家というものは、その時代その時代のくらしに合った建て方をしているからです。例えば、昔の家がふすまや障子などの建具を外したら大きな部屋になるような間取りだったのは、冠婚葬祭や村の寄り合いなどに必要なスペースを確保するためでした。しかし、それも今では公民館などで行うようになりましたし、それに加えて、家庭内でも個人のプライバシーを尊重するということになって個室中心の住まいに変わってきたのでしょう。今でも昔風の家を建てる人もあるが、気密性がなく、冷暖房の効率が悪い。そこでどうしてもサッシ(金属製の窓枠)を入れることになります。昔の家には換気性があった。冬は透き間風が入って寒かったが、家の中で火を燃やすのだから密閉状態では煙たくてとても住めなかったと思います。ですから屋根裏から自然に煙が出るようになっていました。また、子供の教育に力を入れるようになると子供部屋(勉強部屋)も必要になってくる。まあそういうことでしょう。
 城川町高野子(たかのこ)に、わたしが数年前に増改築をした**さん宅のオモヤがあります。**さん夫妻はヘヤに住み、オモヤには長男夫妻とその子供さんたちがくらしています。増改築の際には家屋の前後を多少拡張し、主に土間の部分を改造しました。玄関を入ると居間、ダイニングキッチンになっています。居間、ダイニングキッチンの天井は昔の梁(はり)が見えるように張りましたので、黒光りしている梁が天井のインテリア(室内装飾)の役目を果たしています(写真3-1-7参照)。大黒柱は昔どおり健在です。」

 イ 住まいとくらし

 (ア) わたしの知っている昔の民家

 **さん(東宇和郡城川町嘉喜尾 昭和8年生まれ 65歳)
 「この辺り(城川町)の昔の家はよく似ていました。入口の右か左かの軒下にヤグラ(踏臼(ふみうす)。重石(おもし)を付けて足で踏んで米麦などをつく石臼)があり、入口をくぐり土間(ツキヌワともいう)に入ると、部屋と反対側の南隅に便所がありました。どうしてそんな場所に便所があるのか不思議であったが、先輩の話によると、南向きの玄関横に便所を造ると下肥(しもごえ)が早くできるからだということでした。畑へ運ぶにも便利であり、農作業から帰ってきてすぐ用が足せるということもあったでしょう。びろうな話になりましたが、これも農家のくらしの一つの知恵だったのです。土間の奥が炊事場、その横が茶の間(板敷き)です。屋根はかやぶきでした。今そんな家はほとんど残っていません。かやぶきの屋根であってもトタンで覆(おお)っています。城川町立歴史民俗資料館の民家から想像してください(写真3-1-8参照)。ただこの民家は上クラスの家で、わたしの知っている民家はもっと造りが粗末でした。
 茶の間には囲炉裏があり、座る席も決まっていました。勝手に座るとしかられたものです。『ここは父親の座る場所だから他の者が座ってはだめだ。』というふうに教えられていました。ただし座席に特別の名は付いていなかったように思います。囲炉裏の周りは食事をする場所であり、一家だんらんの場所でした。子供たちにとって、そこは勉強をしたり、遊んだり、ときにはしかられたり、ほめられたりする場所でした。母親が縫い物などをしながら子供たちに話しかけるのも囲炉裏端でした。しかし、囲炉裏が姿を消した今、『ともし火近く衣縫う母は』の世界は歌の中だけになってしまいました。わたしの家でもオモヤの改造の折、囲炉裏をつぶし、掘りごたつにしました。掘りごたつというのは言わば囲炉裏の延長のようなものだが、昔のように主人の座など決まっていません。大体同じ人が同じ場所に座る習慣になっている程度です。また、囲炉裏のあったころにはそれを囲んで口の字型に座っていたが、テレビが入るとコの字型かL字型に座るようになると言いますが、そのとおりです。テレビを背にしては座りません。しかし、盆や正月などに息子夫婦や孫たちが帰ってくると、人数も多くなり、テレビの見えない場所に座るのは、いつも、じっと我慢のおやじ(わたし)です。
 改造前のわたしの家のオモヤの部屋の間取りもほかの家と同様、ふすまなど取り除くと一つの広間として使うことができました。わたしの子供のころ蚕も飼っていたので、それらの部屋は畳を上げて養蚕室に早変わりしていたことを覚えています。別棟に養蚕室があったのですが、そこだけでは間に合わなかったのです。広い土間には大きな釜(かま)が据えてあり、カジ蒸し(紙の原料となるコウゾなどの皮をはがすために蒸すこと)をしていました。
 風呂場については、ヘヤにあってオモヤに住んでいる者が入りに行く家、別棟にしている家、オモヤの土間に設けていた家などいろいろでしたが、わたしの家では、今でも別棟にしています。一つは火事の心配から、もう一つは洗濯をするには広い風呂場の方が便利だと考えたからです。
 オモヤを改造したのは昭和47年(1972年)ころだったでしょうか。土間をつぶして今風の台所に造り替えたり、子供の勉強部屋を含めて個室を造ったり、とにかく家の骨格だけを残して内部を改造したので、住みやすくはなったのですが、昔の家に比べると何か暑苦しいというか、狭苦しいというか、そんな感じがしないでもありません。」

 (イ)くらしの変化

 **さん(宇和島市石応 昭和4年生まれ 69歳)
 「オモヤを建て替えたのは昭和43年(1968年)です。初めは木造にしようかと思っていたが、設計を頼んだ同級生の建築士が『これからは木造よりも鉄筋にした方がいいぞ。』と言うのでその意見に従うことにしました。昭和43年のことですから、鉄筋住宅の走りだったのではないでしょうか。設計者が友人ですから何でも言いやすく、いろいろな要求を出し、母などは、日当たりがよく、便所に近いところに隠居部屋をつくってくれと要望しました。それが玄関横の隠居部屋です(父はすでに亡くなっていた)。また設計者からはこちらが言うより先に、これからは昔風の家よりも個人のプライバシーを考えた間取りにした方がよいという助言があり、基本的にはそれに従って建てました。建てたころはまだ兄の代で、しばらく兄夫婦が階下(その後兄夫婦は、家を**さんに譲り、現在オモヤの裏のヘヤで生活。)に住み、わたしらが2階、母が隠居部屋に住んでいました。
 昔、子供のころ、わたしの家では養蚕もやっていました。養蚕室はあったのだが、たくさん飼うので家中蚕に占領され、広い土間に積んであった薪の上に畳を敷いて寝たこともあります。また、この辺りでは囲炉裏のある家は少なかったのだが、わたしの家の茶の間には囲炉裏があり、クワの木の株がゆっくり燃えていました。囲炉裏の座は決まっていて、両親や兄たちの座る場所には座らないという習慣になっていました。よそでは、よく主人の座る場所をヨコザと呼んだりしているようですが、わたしのところではそのような座の名称はなかったように思います。このように昔の家には、いろいろ思い出があるが、住み心地から言えば、今の家の方がもちろん快適です。
 ところで、わたしがかつて石応(こくぼ)公民館の主事をしていたころ(昭和28~32年〔1953~57年〕)、台所改善運動に取り組んだことがあります。当時の台所は土間の奥の方の薄暗い場所にあり、ろくな流しもなく、水がめが置いてあるだけ、それにかまどが設けられている程度でした。そこで、生活改善はまず台所からと考え、農業改良普及員の女性にも協力してもらって運動を始めたのです。目的は女性の家事労働の軽減です。できるだけ家事の時間を減らし、女の人を家事から解放することによって、自分の時間をつくってもらい、読書や休息などの時間に当ててもらいたいということでした。その後電気釜も普及し始め、やがて洗濯機も入ってきて、確かに家事は楽になってきた。ところが今度は女性が働きに出るようになり、家事と仕事との両立でかえって忙しくなってしまった。それがやがて公民館活動にも響いてきました。そのころ公民館活動の中心は女性たちでした(男性は仕事が忙しくてあまり活動ができなかった)。婦人学級の活動が一番盛んで、集まりもよかったのだが、その集まりが悪くなってきたのです。台所改善運動のねらいはよかったのだが、こうなるとちょっと考えものだと思ったこともありました。
 また、そのころ台所改善のほかに家族計画の問題にも取り組みました。こっちは独身だったのに、よくまあやれたものだと自分でも思います。当時の家族計画は当然産児制限のことです。今は子供の数を増やす方ですね。環境衛生の問題にも取り組み、石応公民館は『どぶと取り組んだ公民館』としても一時県下で有名になったことがあります。これらの活動は、わたしにとって今では懐かしい思い出の一つになっています。」

 (ウ)オモヤの建て替え

 **さん(宇和島市光満 大正15年生まれ 72歳)
 **さん(宇和島市光満 昭和9年生まれ 64歳)
 **さん(宇和島市光満 昭和30年生まれ 43歳)
 **さん(宇和島市光満 昭和32年生まれ 41歳)
 「(**さん)昔のオモヤはわらぶきでした。この辺り(宇和島市光満)はわらぶき屋根の家が多かったということですが、わたしが覚えているのは3、4軒くらいでした。わらぶきの家は夏涼しく、その涼しさは忘れられません。冬は透き間風も入り、あまり暖かい家ではありませんでした。冬は囲炉裏(この辺りの家には大体あった)の火があかあかと燃えていました。玄関を入ると土間があり、居間との境の格子戸を開けて入ると幅半間(約90cm)くらいの土間になっていて、その奥に板敷きの居間がある。そこに囲炉裏があり、自在(自在鉤(かぎ)のこと。囲炉裏などの上からつるし、鍋(なべ)や鉄びんなどを掛ける鉤。高さが自由に変えられた)も下がっていました。」
 「(**さん)昔は囲炉裏の周囲の座る場所が決まっていましたが、その座の名称は記憶していません。父は、居間の隣の部屋の仏壇に手を合わせてから居間に入ってきて、仏壇に近い場所に座るのを常としていました。子供たちは父の向かい側に座っていました。母は忙しくて座る暇もなく、家族も多かったので、定位置などなかったように思います。そのころは箱膳(はこぜん)(ふたを膳にし、箱の中に各自の食器などを入れる個人用の箱型の膳)で食事をしていました。
 土間の右側の部屋の床下にはいもつぼ(土地を掘ってつくる、イモを貯蔵する場所)があり、養蚕の盛んだったころは桑の葉も保管していました。土間は、雨の日の下駄(げた)や靴に付いた泥が落ちてでこぼこでしたが、ながせ(梅雨)のころは、湿気が多くつるつる滑りました。
 オモヤの奥(北側)には納戸があり、そこがお産の場所(産屋(うぶや))でした。弟たちもみなそこで生まれ、当然わたしもその納戸で生まれたことになります。
 最初に言いましたようにオモヤは草屋(わらぶきの家)で、軒下の土が雨垂れによってえぐられ、溝のようなものができていて、雪が積もった日などに外へ出る折、うっかりその溝に足が入ってしまうこともありました。軒先のつららを落として、屋根が傷むではないかとしかられたこともあります。昔のオモヤにはそんな思い出もあります。」
 「(**さん)オモヤを建て替えたのは昭和39年(1964年)です。昔のオモヤより広くなりましたが間取りなどはほぼ同じです。今のオモヤも玄関を入ると一応土間になっていて、昔の居間の辺りが今でも居間、台所も昔と同じ場所です。部屋の間取りも昔どおりの田の字型で、座敷を含めた四つの部屋の仕切り(ふすま)を外せば一つの広間になります。とにかく建て替える前のオモヤの面影が残っています。大黒柱が昔と同じところに立っているのがそれを象徴しています。田の字型にしたのは、冠婚葬祭などすべて自宅で行いたいという先代の基本的な考えからでした。しかし、実際には、孫が生まれたときの祝いや先代の葬儀の折に使ったくらいで、その後田の字型の部屋の出番はありません。とにかく四つの部屋を開け放して使うようなことは今ではまずありません。現在では葬儀も自宅で行うことが少なくなり、結婚式もホテルなどで行うのが当たり前になりましたからね。
 オモヤの南側を廊下にしたのは、風雨の激しい時畳がぬれないようにしたいと考えたからです。またこのオモヤには、土間はもちろん、外から入ることのできるトイレがあるなど農家のくらしを考えた造りになっているところがあります。」

写真3-1-7 梁が見える天井

写真3-1-7 梁が見える天井

平成10年7月撮影

写真3-1-8 城川町立歴史民俗資料館の主要施設として移築された民家

写真3-1-8 城川町立歴史民俗資料館の主要施設として移築された民家

平成10年6月撮影