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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)野辺の送り②

 イ 中島町の弔い

 中島町に多い宗派は、浄土真宗と真言宗であるが、葬制は各宗派ごとに、さらには各地区ごとに少しずつ異なっている。そこで、ここでは同町大浦地区を中心に、戦前から昭和30年代ころまでにおいて、町内の各地区・各宗派にほぼ共通した葬制を、8名の皆さんに聞いた。

 (ア)臨終から葬式の準備まで

 「葬式準備の一切は、基本的には組単位で協力して行いました。組というのは、隣近所を合わせた生活区域のことで、一つの組は、10戸から20戸で構成されています。そして、例えば大浦地区ですと約30の組がありました。かつては、葬式に必要な道具やお膳などは、葬式を出す家が朝早くから家族だけで作っていました。しかし、こうしたこまごまとした準備も家族だけでは大変だということで、組内で手伝うようになりました。この組のことを、元怒和地区ではヒキアイ、神浦(こうのうら)地区ではタルウチ、また宇和間(うわま)地区では念仏講などと呼んでいました。
 まず、人が亡くなると、その家族が組長さんに葬式の一切の取り仕切りを頼みに行きます。そこで組内で役割が分担されるのですが、一般的には男性が葬具の一切を製作し、女性が料理を作りました。この組内による手伝いがあっても、葬式当日の午前2、3時から準備を始めないと間に合いませんでした。組があっても親せきが中心となって葬式を出しているのは、町内では粟井地区だけだと思います。
 大浦地区以外では、この組内の手伝いに、組とは関係なく宗派ごとに作られている講からの手伝いが加わる場合もあります。例えば、長師(ながし)地区では、講内からは夫婦が数組、組内からは各戸から一人ずつ出るという具合です。
 またほとんどの地区では、葬式の案内使い等は必ず二人で行っておりました。」

 (イ)納棺

 「納棺の手順をお話しします。まず、通夜の翌朝一番で湯灌をします。これは、遺体を湯で洗うとともに、かみそりで頭髪などすべての体毛をそって遺体を清める作業です。この作業は、部屋の畳をはぐって床板だけにした上にむしろを敷いて行いました。また、直接地面にむしろを敷いていた地区もありました。粟井地区の湯灌は、オキヨマと呼ばれた部屋で行われました。その部屋の畳をはぐった床板の上で作業をするのですが、床下にはイモつぼが掘られていて、洗った後の水をその穴で受ける仕組みになっていました。
 町内でこうした湯灌をしていたのは戦前までで、戦後はアルコールで遺体をふくようになり、また、体毛をそる行為は、かみそりを当ててそのまねをするだけになりました。
 湯灌が終わると、遺体を死装束に着替えさせます。まず、白むくのカタビラ(帷子。経帷子(きょうかたびら)の略で、死者に着せるひとえの着物のこと)を着せます。カタビラを作るのは組の女性、または親せきの女性の役目で、糸は結節をせずに縫います。着せる時には、前身ごろの合わせ方を普通とは逆の左前にします。さらに、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、足袋などを身に付けさせますが、これも左右逆にします。また、数珠を持たせ、サンヤ袋(ずだ袋のこと)を首から掛けさせます。袋には、死者が生存中に愛用していた物や六文銭(1銭硬貨を6枚)などを入れます。女性の場合には、針、糸、くしなどを袋に入れました。同じく、女性には化粧も施しました。この後、遺体を棺に納めますが、その棺は地元の大工に頼んで作ってもらったり、あるいは素人が作ったりしていました。この製作には、一人だけか、二人程度でかかっていました。ただし、たとえ二人で作った場合でも、日当は一人役(一人分のこと)でした。」

 (ウ)出棺から埋葬まで

 「次に出棺ですが、棺が家から出る際には僧侶が出棺勤行(ごんぎょう)(経を読むこと)をします。続いて、家族や親せきなどが葬列を組んで結縁場(けちえんば)(写真2-3-16参照)に向かいます。葬列に参加している女性は、花嫁が着ける綿帽子のようなものをかぶりました。今でもそれをかぶる所もありますし、白いリボンに代わった所もあります。棺を担ぐ人数は二人でしたが、それは重かったですよ。後には、リヤカーのような形をしたカンダイ(棺台)と呼ばれるものに乗せて運ぶようになりました。カンダイは地区ごとにあるのですが、家によっては自家用を持っている場合もありました。カンダイには白い木綿布を結び付けました。この木綿布はゼンノツナ(善の綱)と呼ばれ、故人の親せきたちが手に握って連なって歩いて行きました。この他、葬列には位牌、シカ(紙花)、ハナカゴ(花籠(*16))、トウロウ(灯籠)、幡、太鼓、鐘、アンドン(行灯)などが並びます。」
 葬列の具体的な内容や順番については、宗派や地区により少しずつ異なっている。そこで、次にその一つの具体例として、元怒和地区の葬列のようすを**さんに語ってもらった。
 「元怒和地区の葬列の順番は、次のようになっていました。まず先頭より、タツ(龍)、アンドン、ロクジゾウ(六地蔵。6本のろうそくで表す)、幡、ハナカゴ(故人が高齢の場合のみ)と続きます。これらを持つのはヒキアイの者の役目でした。この後を僧侶が歩きます。さらに、太鼓(真言宗では銅鑼)と鐘が続きますが、これらもヒキアイの者が持ちました。ここから後は葬列の中でも大事なものが並びますので、それらを運ぶのは故人の血縁者が担当します。まず位牌ですが、これは喪主が持ちます。喪主には家の跡取りである男性がなりました。続いて、親せきの中の子供たちの内で、故人に血縁の近い者がワラジ(草鞋)を運び、その次に喪主の妻が御飯を持ちます。その後をハスの花をかたどったシカバナ(四華花。シカと同じ)とお菓子が、親族以外の者やヒキアイの中で故人と親しかった者によって運ばれます。さらにその後を女性の会葬者が続き、そして次に棺がきます。棺は、原則としては故人の甥(おい)と孫の二人が担ぎました。なぜこの二人なのかといいますと、『おい』と『まご』で『おいとまごい』、すなわち『暇乞(いとまご)い(別れを告げる意)』のごろ合わせだと言われています。この二人がそろわない場合は、他の親せきが代行して担いでいました。そして、棺の後ろに男性の会葬者が続き、ここでほぼ葬列が終わります。」
 再び、8名の皆さんから話を聞いた。
 「葬列はケチンバ(結縁場がなまったいい方。結縁とは仏道に縁を結ぶ意)へ向かいました。ケチンバの言い方には、地区によりラントウバ(蘭塔場)・ナントバなどがありました(写真2-3-17、18参照)。ケチンバとは、簡単に言えば、この世との最後の別れをする場所のことです。ここで、もう一度僧侶が読経をし参列の人々が焼香をして、その後埋葬、または火葬されました。元怒和地区では、僧侶の読経の前に会葬者が棺を左回りに3周しました。この動作には、会葬者が名残を惜しむ意味が込められていると言われました。また、津和地地区には、ケチンバにおいて、会葬の女性の中で故人に最も近い人が棺をさすりながら泣き崩れるという風習がありました。特に故人が若年の場合には、このしぐさは見る者の気持ちを激しくゆさぶったものでした。
 ケチンバまでの道筋は、各家によって昔から決まっています。これは、ソウシキミチ(葬式道)とかソウレンミチ(葬列道がなまったいい方)などと言われ、家にとって一番大事な道と考えられています。道筋の途中に神社がある場合は、その前を通らずに必ず裏道を使いました。また、もし家のすぐ隣がケチンバであったとしても、直行せずにわざわざ遠回りをしました。言い方は少しおかしいかもしれませんが、葬式は亡くなった方の最後の晴れ姿ですから、葬列はその姿を地区の人々に披露する意味があったのではないでしょうか。当日が雨天の場合にはこうした葬列は組みませんでした。出棺の勤行を自宅で行い、ケチンバでの儀式も故人の自宅で行いました。
 埋葬の翌日には、墓にタマヤ(霊屋・霊舎。写真2-3-19参照)を設けました。これは、葬式道具に使われた竹を小さく割って墓を囲み、その上をカヤで作った苫(とま)(荒く織ったむしろのこと)でふいたものです。これには、故人を風雨から守る役目がありました。また、この苫ぶきをするまでに墓がぬれると、この後も葬式が続くとも言われていました。」

 (エ)法事について

 「法事は、まず初七日(中陰(ちゅういん)のこと)があり、その後七日ごとに行われ、7回目の四十九日(満中陰(まんちゅういん)のこと)で忌み明けとなります。そして、始めて迎えるお盆のことをニイボン、アラホン(新盆)、また、初回忌のことをムカワレといい、ニイボンとムカワレは亡くなってから1年以内に行われます。その次が3回忌ですが、これは数え年の3年目に行いますから、実際には亡くなってから2年目に行われることになります。したがって、ここまでは月日が過ぎるのがあっという間で、本当に忙しいですよ。この後、7回忌、13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌と年忌供養(法要)が続きます。50回忌はアゲホウジ(上げ法事)とも言われ、年忌供養(法要)は、多くの場合ここまでで終わります。
 今から1年ほど前に、何かの事情で、葬式が故人の自宅ではなく公民館で行われたことがありました。この時には葬列を組むこともなかったのですが、周囲からは『この方法が簡単でいい。』という声が出ました。その後、少しずつですが、公民館で葬式を出すことが広まってきています。葬列に必要な道具を作ることのできる者が少なくなっていますし、お膳の用意も手間が掛かり、仕出し屋に頼む方が楽ですからね。」

 ウ 河辺村の弔い

 **さん(喜多郡河辺村北平 明治42年生まれ 89歳)
 **さん(喜多郡河辺村川崎 大正11年生まれ 76歳)
 河辺村に多い仏教の宗派は曹洞宗と真言宗である。葬制は各宗派ごとに、さらには村内の各地区ごとに少しずつ異なっているので、ここでは、戦前から昭和30年代ころまでを中心に、村内の各地区・各宗派にほぼ共通した葬制について、**さんと**さんに話してもらった。

 (ア)臨終から葬式の準備まで

 「河辺村内の一般的な弔いの手順をお話しします。まず人が亡くなると、急いでマクラメシ(枕飯)を作りました。作り方は、まず2合半(1合は1升の10分の1)すり切りの米で飯を炊き、それを、故人が生前に使っていた茶わん(クイジャワンと呼ばれた)に山盛りにつぎます。さらに、盛られた御飯に1本だけはしを垂直に立てます。また、残った飯でお握りを四つ作ります。そして、それらをオゼンバコ(箱膳のこと)のふたに並べました。その並べ方は、茶わんを中心にして、お握りは四隅に置きます。このふたを故人の枕元にお供えしたものがマクラメシです。『早く御飯を炊いて、供えないけん(供えないといけない)。』とよく言われたものです。枕飯は、納棺のときに、『これがお弁当で(お弁当ですよ)。』と故人に語りかけながら、一緒に納めてあげます。このマクラメシの風習は現在でも続けられています。
 また枕元には、だんごも供えました。これをノダンゴと呼びました。供える個数は地区によって異なりますが、20個か21個でした。ノダンゴは、米の粉を水や湯でこねて作ります。これを竹の棒に刺すのですが、このときの竹は、長さ30cmくらいに切ったもの3本を使って、カメラなどを固定する時に用いる三脚の形にしました。3本が集まっている頂点には少し大きめのだんごを使い、残りはそれぞれの脚に刺していきます。だんごは、軟らか過ぎれば途中で止まらずに下にずるずると落ちますし、逆に硬過ぎると竹に刺すときに割れてしまい、硬さの調整が案外と難しかったですよ。こうしたお供えものの用意が整い、通夜が営まれます。
 マクラメシやノダンゴ、さらに故人の親せきや葬式の準備などを手伝う近所の人たちの食事を作るのは、地区の女性の役割です。また、死装束や座棺用の座布団、あるいは寝棺用の布団なども、全部女性が縫って作っていました。死装束の縫い糸には結節を作りませんから、縫った後の糸は、引っ張るとすっと抜ける状態です。寒い時期には、故人の親せきから、『冷やかったらいかんけん(冷やかったらいけないから)、綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた防寒用の和服)も縫ってくれ。』と頼まれて作る場合もありました。」

 (イ)納棺

 「通夜の翌日に葬式を行います。まず、故人との血縁が近い親せきによって湯濯が行われます。その後、死装東に着替えさせて棺に納めます。そして、この一連の作業をする際には、袖が邪魔にならないように縄だすきをかけます。このたすきも使い終わると棺に納めるのですが、その数は多い方がいいと言われていましたので、実際に使われた本数よりも多めに入れる場合もありました。この縄だすきを作るのは地区の男性の役割でした。」

 (ウ)出棺から埋葬まで

 「納棺が終わると出棺となります。まず、棺を座敷から外へ出すのですが、その際には必ず玄関以外のところを使いました。さらに、家の敷地からの出口にはカリトグチを設けました。これは、青竹の両端を火であぶって曲げて全体をコの宇型にし、曲げた部分を一人ずつが持って支えたものです。その下を棺がくぐって出ていきます。この時に、茶わんを下に投げつけて割ります。この行為には、『もう、二度と死者が出ないように。後が続くことがないように。』という願いを込める意味があります。この茶碗には、先ほどのクイジャワンを用いる場合もありましたし、またそうでない場合もあり、それは家々によって異なりました。また、だれが茶わんを割るかについても特定はされず、家々によっていろいろでした。
 この辺りには、ワタリセン(渡り銭)と言われる風習があります。出棺した棺は行列を組んで、土葬の場合は墓地へ、また火葬の場合は火葬場に向かいますが、その途中で棺が橋を渡る際に、その都度一文銭を橋のたもとに置いてから渡るのです。これは、必ず一文銭でなければならないというわけではなくて、1銭硬貨でも1円玉や5円玉でも、とにかく硬貨であればいいのです。さらに現在では、葬儀社が紙で銭を作って持ってきたものを使うという形に変わりました。しかし、このワタリセンの風習は続けられています。
 土葬の場合は墓穴を掘らなければなりません。この作業はツボトリと言われ、それは地区の男性の役目でした。何人がツボトリをするのかは特に決まった人数はありませんでしたが、2、3人から多くても4、5人でした。寝棺ならまだしも、座棺の場合には穴を縦に掘らないといけませんから、これはこたえよったですよ。掘る場所によっては、穴の底から水がわき出てくることがありましたからね。
 埋葬が済んで墓地から帰って来ると、参列者が食事をとります。このときに使うはしは、地区の男性が前日に竹で作っておきます。その数は49膳です。ここで使われたはしは、翌日に故人の墓前に供えます。『数が49本に1本でも足らなんだら(足らなかったら)、故人が取りに来るから、きちんと数えて持ってけ(持っていけ)。』と言われては、丁寧に数えていたものです。現在でも49膳のはしを作って墓に供えることは行ってはいますが、それを使って参列者が食事をとることはありません。なぜなら、現在では料理は仕出し屋に頼むようになり、それにははしが付いていますからね。」

 (エ)送る気持ち

 「ここまでお話ししてきたように、弔いを出す家を中心として地区全体がかかわって行われてきた葬式は、現在では準備の多くが葬儀社や仕出し屋などに任され、地区の者が担当する準備は簡単になってきています。したがって、昔ながらの風習を具体的に知っている者は、どんどん少なくなっていますね。例えば、今の若い人は、五穀の品(米・大豆・小豆など何でも)を用意して、それをサンヤ(さんや袋のこと)に入れて故人の首に掛けることは知っています。しかし、五穀の品が発芽しないようにするために、前もって煎っておくことまでは、案外知らないんですよ。また、ある葬式のことですが、白い布を敷いただけの棺に遺体を納めようとするので、『ちょっと待て。昔は布団をこしらえて棺に敷いていたんじゃが(敷いていたのだが)。それじゃ、故人があんまりかわいそなかろが(かわいそうではないか)。』と言って、棺に毛布を敷かせたこともありますよ。その時には、『今ごろは、死んでもこがいになったんかの(死んでもこのような扱いになったのかな)。』と、少し寂しい思いがしました。『故人が心穏やかにあの世へ行けるように、できるだけのことをして送り出してあげるのが、生きている者の当然の務めである。』という気持ちが、葬式からだんだん薄らいできているように感じますね。」
 また、**さんは、弔いを通じての地域の人々とのつながりについて次のように語り、話を締めくくった。
 「わたしは、4人兄弟の末っ子に生まれました。しかし、わたしのすぐ上の兄は、生まれて間もなく亡くなったそうです。また、昭和14年(1939年)に次兄が、続いて昭和19年には長兄が戦死し、さらにそのころ以来、母が体調を崩したため、結局兄弟の内で一人だけ残ったわたしが、家を守るためのすべての責任を負うことになりました。ですから、わたしは、戦死した二人の兄と祖父母、さらには父母の計6人の葬式にかかわるとともに、現在までに葬式や法事をたくさん経験してきました。しかし、それらは、とてもわたし一人だけの力でこなしえたことではありません。地域の人々の助けがあったからこそできたことでした。また、こうして周囲の人々がわたしを支えてくれたお陰で、現在までなんとか生きてくることができたのだと思います。地域の人と人とのつながりは有り難いものだとしみじみと感じます。」


*16:法会中に紙製の五色の蓮華の花弁をまき散らす散華に用いるための花弁を入れる器。

写真2-3-16 長師地区の結縁場

写真2-3-16 長師地区の結縁場

中央の台上に運ばれてきた棺が置かれる。平成11年2月撮影

写真2-3-17 ケチンバ(神浦地区)

写真2-3-17 ケチンバ(神浦地区)

平成11年2月撮影

写真2-3-18 ナント(粟井地区)

写真2-3-18 ナント(粟井地区)

平成11年2月撮影

写真2-3-19 タマヤ(一例)

写真2-3-19 タマヤ(一例)

原則として、浄土真宗門徒の墓には設けられない。平成11年2月撮影