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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)家を継ぐ

 ア 代替わりのしくみ

 親の隠居に伴って、子は跡目(あとめ)を相続する。ここでは、家を受け継ぐ子の立場に焦点を当て、代替わりのようすやそれに伴って発生する主(あるじ)としての責任について探った。

 (ア)土居町の代替わり

 **さん(宇摩郡土居町天満 昭和3年生まれ 70歳)
 **さんに、土居町内の一般的な代替わりのようすについて聞いた。
 「家の代表権や財政権を息子(第1番には長男)に渡すことを、『世を譲る』とか『世譲り』、『所帯を任す』と言いました。ただし、土居町内では、親が何歳になったら家に関係する権限を息子に譲るとか、息子が何歳になったら譲り受けるというような慣習は、ほとんどないように思います。基本的には自分が元気で仕事ができる間は、息子には譲りませんでした。ただ、津根(つね)地区には、制度としての隠居があります。
 家を継ぐことで、親せきや近所との付き合いは全部任されます。世を譲られたことに伴う責任の重さに、息子ががくっと落ち込んでしまったとか、『こんなめんどいことじゃったら、わしら嫌じゃ(こんなに面倒臭いことだったら、自分は嫌だ)。』と言い出すことはありません。家の長男として生まれたからには、家を継ぐことは当然のことと考えられていました。また、何かの事情で次男や三男が家を継ぐことになっても、それはそれで仕方がないことと考えられていました。
 今では、『親は親、子は子で、それぞれが別々に生活していけばいい。』という考え方が広まってきているように思いますね。『わしは、好きなことをしたいから家を出て行くけん(出て行くから)、お前が跡を取れや。』と、家を継ぐのを兄弟で譲り合うことも出てきていますよ。また、弟が跡を継ぐ羽目になってぼやいているという場合もありますよ。わたしらの年代の者にとれば、親は、子供から『さすがだ。』と言われるように振る舞ったり、あるいはそういう業績を残し、また子供は、そうした親の姿を見ているがゆえに、親が守り自分が育てられてきた家を継ぐことに疑問を持たない、という状態がごく当たり前でした。昔と今とのどちらがいいとか悪いとかの問題ではなくて、家や親子・家族の在り方についての考え方が変わってきていることは間違いないと思います。」

 (イ)中島町の代替わり

 中島町大浦地区を中心として8名の皆さんに、戦前から昭和30年代ころまでの代替わりのようすと、それに伴う主の責任について聞いた。

   a テイシュをもろた

 「家を継承する際の儀式というものは、特にはありません。ただ、息子が父親から家を譲られたことを、『テイシュ(亭主)をもろた(もらった)』と言いました。テイシュとは家長のことです。この時点で父親は、ヘヤと呼ばれた家屋へ住まいを移し隠居をします。その時には、今後生計を立てることができる程度の農地だけを手元に残して、家の財産権は息子に渡します。ですから、『ここの畑でできるミカンは、隠居さんのものよ。』というような言い方がなされました。
 姑(しゅうとめ)と嫁の側から家の相続を表現すると、姑の立場からは『シャクシ(杓子)を渡した』、また嫁の立場からは『シャクシをもろた』と言いました。この慣習は、嫁いできてまだ日の浅い若い嫁にすぐにシャクシを使わせたら、自分の好きな量だけ飯をよそって食べてしまうので、そうさせないためだったと言われています。しかし、これは嫌がらせではなくて、食べることのできる米の量が少なかったためでしょう。つまり、ここは島ですから耕地が狭く、広い田んぼを開くことができません。ですから米の収穫量が少なく、ムギやイモなどの米以外の物をどうしても食べざるをえなかったのです。米とムギとを混ぜて炊いた場合、炊き上がった時には、米が下でムギが上に分かれています。これをかき混ぜて初めて均等になり、よそった時に米とムギとの偏(かたよ)りがなくなるわけです。このように、飯をよそうこと一つにしても、いろいろと気を遣って難しかったんです。家族の中のだれかが、腹一杯食べたい気持ちを我慢しなければならず、そしてその役割を担うのが、多くの場合嫁だったのでしょう。食事のことに限らず、家族が一つにまとまるためには、だれかが何かを辛抱しなければならない時代でした。そして、それが普通でした。今では、とても考えられませんけどね。
 いつごろ家を譲るかは、特に決まりはなくて、個々の家の事情に従いそれぞれが行っていました。息子が結婚しても、父親が元気な間は家の主導権を握っているところもありましたし、父親が長男に『そろそろ隠居しようか。』と言い出しても、長男が『おとっつあん、そう言いなさんな。まだ一人前になっていない弟や妹がたくさんおるんじゃけん(たくさんいるのだから)。それらが、もうちいと(もう少し)片付いてから、わしらはもらうけん(譲ってもらうから)。それまでは頑張っておくれ。』と言って断る場合もありました。また、ある1軒が隠居すると、近所がそれに合わせるということもありましたよ。」

   b テイシュの責任

 「家を譲られる、すなわちテイシュになることは、本人にとってはかなりしんどい(かなり難儀で面倒な)ことなんです。それは、まず、家業の運営の責任が背負わされますし、地区の集会や道普請(みちぶしん)(道路工事)などの共同労働への参加が要求されます。さらに、檀那(だんな)寺(自分が信者として属し、墓を置いたりしている寺)や氏神さんとのお付き合いと、親せきや近所の冠婚葬祭などが加わりますから、テイシュの義務は大変なんです。ただし、テイシュだけの特権もありました。例えば、家の財産権の掌握がこれに当たります。このことを、『クド(竃。かまどのこと)の灰まで、自分のもの。』という言い方をしました。現在だと、『そんなに多くの義務と責任が付いてくるのなら、家なんか継ぎたくない。』と簡単に言えますが、戦前はそうではありません。『長男に生まれたからには、いつかは家を譲られるんだ。』という気持ちを、成長するに従って自然と持つようになっていましたね。またそれに対して、『なぜ、長男だけにそんな義務があるのか。』と疑問を持つ者もおりませんでした。
 かつて、『1戸(こ)持ち』という言葉がありました。これは何を意味するのかといいますと、地区で必要な経費や寺社の改修費用などを徴収する場合、その総額を地区の戸数で割った額、つまり均等割りの額を負担する家を表します。これがその地区の標準戸ですね。そして、各戸の経済力の強弱に応じて負担する額も上下し、それが、例えば標準の20倍の財力がある家と見なされれば『20戸持ち』、また標準の半分しかないと見なされれば『半戸(はんこ)持ち』という言い方になりました。そしてこの区別は、地区内での階級差、すなわち力関係をも表していました。例えば、地区ごとに総代さんがおりますね。この人は、江戸時代でいえば庄屋に当たりますが、半戸持ちの家からはとてもじゃないが選ばれるはずがありません。ですから、もし自分が1戸持ちならば、『早く2戸持ちにならんといかん(ならないといけない)。3戸持ちにならんといかん。』という気持ちで、日々の労働に励んでいました。このように、家業が盛んになるために先頭に立つこともテイシュの責任です。今では、この考え方は逆になっていますね。『どうして、自分がほかの人よりも多く費用を出さないといけないのか。均等割りでいいじゃないか。』というわけですよ。」

 (ウ)河辺村の代替わり

 **さん(喜多郡河辺村北平 明治42年生まれ 89歳)
 **さんに、河辺村における代替わりと、それに伴う主の責任について聞いた。
 「隠居の慣行は、現在でもありますよ。親が何歳になったらというのではなく、息子が結婚をした、あるいは息子夫婦に子供もできて嫁も落ち着いたという時分になると、親は息子にオモヤ(母屋)を任せます。つまり、家の代表権や財産権を譲るわけです。そして、自分は別棟に住んで隠居します。なかには頑固なおやじさんがいて、61歳の還暦の祝いが済むまで家の権利を持っていた場合もありました。
 家を継ぐというのは、その経営を任されることです。そこでまず背負わされることは、近所付き合いや地域全体での公的なお付き合いに対する責任です。つまり、冠婚葬祭や道普請などの共同作業を、家の代表者として円滑に行うことが求められるのです。
 姑と嫁との関係についても、父親から息子に代が譲られるとともに、台所などの権限が自然と息子の嫁に渡されていました。渡されたことを表現するような言葉は特にはないように思います。」

 イ 節分行事を受け継ぐ

 **さん(伊予郡中山町永木 大正15年生まれ 72歳)
 **さん(伊予郡中山町永木 昭和3年生まれ 70歳)
 一般に節分の行事は、立春の前日におこなわれる厄はらいと災難除けの行事であるが、伊予郡中山町に伝わる節分は、その準備から実施に至るまで、家の当主(男性)しかかかわることが許されていない。
 現在、当主としてこの行事を受け継いでいる**さんに話を聞いた。
 「節分の行事は、太平洋戦争前には各戸で行われていました。そして戦後になっても、次第に略式化はされながらも、昭和20年代までは行われていました。しかし現在、この地区で節分の行事を行っている家は、わたしのところ以外ではほとんど無くなっているのではないでしょうか。今でも我が家では先祖代々伝わってきた方法でしていますが、それは各戸によって少しずつ異なっていたと思います。
 この行事にかかわるのは家の当主だけです。女性は一切手を出しません。まず、行事において家の門口などに立てる呪物(じゅぶつ)を用意します。この準備は、だいたい節分当日の日中に行います。呪物には、タラの木で作ったものとネレの木の枝で作ったものとの2種類があります。その作り方は、まず山からタラの木を切ってきます。これは表面のとげが多いものがいいんです(写真2-3-2参照)。それを四つ割りに、もし幹が太ければ八つ割りにし、長さは15cmくらいに切りそろえ、箕(竹でちりとりのような形に編んだ農具)に並べておきます。片方の端に縦に割れ目を入れ、そこに、山から採ってきたトベラの葉とアララギ(ヒイラギのこと)の葉を1枚ずつ重ね合わせて差し込みます(写真2-3-3参照)。この時、どちらの端に割れ目を入れるかは決まっていまして、木が成長する方向に当たる側に割れ目を入れます。ですから、タラの木の太さや長さを切りそろえて箕に並べる時は、本と先が逆にならないように神経を遣います。トベラやアララギは、このあたりには自生していません。節分の行事のために山に植えています。
 また、ネレの木の枝も山から採ってきまして、それを長さ20cmくらいに切り、枝の先にイリコの頭を差し込みます(写真2-3-4参照)。この時にもタラの木の場合と同様に、枝の本ではなくて先の方に差します。本当は、イリコではなくてイワシの頭なのですが、この辺りは山間部ですから、そう簡単にはイワシは手に入りません。ですから、イリコで代用したのだと思います。そして、イリコの頭には女性の髪の毛を巻き付けます。
 こうした準備が済みましたら、次にマメイリ(豆煎り)をします。これは、節分当日の夕方にします。まず、焙熔(ほうろく)(茶・塩・マメなどを煎る、素焼きの浅い土鍋)をかまどに乗せ、それに大豆を入れます。次にかまどに火をつけますが、その時のたき付けには、大豆柄(だいずがら)(写真2-3-5参照)と茄子柄(なすびがら)とを使います。また、トベラの葉も同時にくべるのですが、パチパチとはしりながら(音をたててはじけながら)燃えていきます。大豆は、しゃもじなどは使わずにトベラの枝でかき混ぜながら煎(い)ります。同時に、イリコの頭を付けたネレの木の枝の何本かを手に取って、巻き付けている髪の毛をかまどの火であぶります。その時に、『シシ(イノシシ)の鼻焼き、ウサギの毛焼き』という呪文を3回唱えます。この呪文には、おそらく農作物を動物に荒らされないことを願う意味があるのでしょう。煎り上がった大豆は、神様と仏様に供えておくのですが、大黒様や他の神々へは1升升(ます)に入れて、また仏様には折敷(おしき)(*8)に入れて供えます。
 続いて、先ほど準備した2種類の呪物を立てていきます。家のどこに立てるのかと言いますと、タラの木で作ったものは神棚や仏壇・玄関・すべての窓に一つずつ立てます。その数は、わたしの家の場合ですと、だいたい50か所になるでしょうか。またネレの木の枝で作ったものの方は、玄関や勝手口・蔵の入り口とその他重要な出入口に一つずつ立て、こちらは全部で6、7か所になります。昭和35年(1960年)ころまでは家の中に囲炉裏(いろり)があったのですが、そのジザイサン(自在鈎(じざいかぎ)のこと)にもくくり付けていました。その姿は、なかなか風流なものでしたよ。
 ここまでの用意が整うと、次にマメマキ(豆撒き)です。ただし、マメマキは毎年するとは限りません。呪物を作ったり大豆を煎ってそれを神仏に供えるとは毎年するのですが、マメマキは、それをすることができる年とできない年とがあるんです。これは、節分が旧正月の前にくるか、後になるかで決まります。例をとって説明しますと、今年(平成10年)は、旧正月が1月28日で節分が2月3日でした。つまり、節分が旧正月の後にきています。こういう年にはマメマキはしません。どうしてかというと、こういう年の節分にマメマキをすると、旧正月を過ぎ節分を迎えて1回目のマメマキをし、その後実際に農作物を作るための種まきがもう1回あるというように、1年の内で2度豆をまくことになるからです。これが昨年(平成9年)のように、節分が2月3日で旧正月が2月8日、つまり節分が旧正月の前ならば、まず節分で豆を1回まき、そして年が改まって作付け用に種を1回まくというように、2年にまたがって1回ずつとなります。この『同じ年の内での2度まき』を避けるために、こうしたしきたりになっているのです。
 さて、マメマキの仕方ですが、それはオモテノマ(表の間)で行います。まず当主が、戸口のすぐ近くの畳に座ります。そして、戸を開けて『オニ(鬼)は外、オニは外、オニは外。』と言いながら手で宙を横にかいて、オニを部屋の外へ追い出すしぐさをします。この時、現在一般的に見られるような豆を投げて撒き散らすことはしません。『オニは外』のしぐさが終わると戸を閉め、今度は『フク(福)は内、フクは内、フクは内。』と言いながら、3粒の豆を一かたまりとして、それを横並びに3か所置いていきます。ここまでが一連の動作で、これが3回繰り返されますので、結局畳の上には縦横3か所ずつの合計9か所に27粒の豆が並ぶことになります。このように並べられた豆は、家族の者それぞれが後で拾って食べます。大豆は年の数だけ食べると言っていましたが、今ではそのような事はなく、適当な数だけ食べています。これで節分の行事は終わります。」
 **さんの妻の**さんに、節分にまつわる思い出を聞いた。
 「今から2、3年前までは、節分の二十日前ころから、主人がタラの木やネレの木で作った呪物と煎った豆をセットにして、中山町内の特産品センターで販売をしていました。こうしたものは、いざ実際に準備するとなるとなかなか大変ですから、このセットがあれば簡単に行事ができて便利だということで、みなさんに喜んで買ってもらっていましたよ。また町内の小学校や中学校の先生が、授業で子供たちに見せるためにごっそりと買って帰ったという話も聞きました。でも、主人が年をとってきましたので、自分の家に置く分を作るのが精一杯で、それ以上に販売用のものを作ることが難しくなりました。それで結局はやめてしまいました。こればかりは、女のわたしが手伝うことはできませんからね。ただ、販売をやめた後も個人的に欲しいという方には、『神聖な行事に使うものだから大事にしてくださいよ。』と言って差し上げたこともありました。」


*8:四方に折りまわした縁をつけた、へぎ製の角盆または隅切盆。食器や神饌を載せるのに用いる。

写真2-3-2 タラの木

写真2-3-2 タラの木

左は全体を、右は下部を写す。平成10年6月撮影

写真2-3-3 タラの木で作った呪物

写真2-3-3 タラの木で作った呪物

差し込まれている葉は、輪郭が丸い方がトベラで角張っている方がアララギ。平成10年6月撮影

写真2-3-4 ネレの木で作った呪物

写真2-3-4 ネレの木で作った呪物

上端にはイリコの頭を差し、下端は突き立てやすいようにとがらせている。平成10年6月撮影

写真2-3-5 大豆柄

写真2-3-5 大豆柄

平成10年6月撮影