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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)「家」を去る婚礼

 昭和30年代から40年代を過渡期として、婚姻儀礼の主たる場が男女双方の自宅から公民館やホテルなどの自宅外へ移り始めた。その変化のようすや背景などを探った。

 ア 新生活運動の中で-土居町の場合

 **さん(宇摩郡土居町入間 昭和9年生まれ 64歳)
 「戦前・戦後と一貫して婿宅で行われていた挙式と披露宴は、昭和40年代を境に婿宅を離れるようになりました。しかし、現在よく見られる、1か所で挙式も披露宴も済ませる方法ではありませんでした。すなわち、まず三三九度のサカズキゴトを地区の氏神様や町内の神社で挙げ、続いて披露宴は、地区の集会所や中央公民館(昭和37年〔1962年〕設置)などの公的施設を利用して行うようになりました。昭和45年(1970年)には土居町商工会館が落成したのですが、その2階には神前結婚式が挙げられるように神殿が設けられ、さらに、会館内の多目的ホールでは披露宴を行うことができるようになっています。つまり、一つの施設で挙式から披露宴までを済ませることができるように工夫されていたのです。このほか、土居町農業協同組合の本館事務所(昭和46年落成)の大ホールも披露宴会場として利用されました。
 また、披露宴を会費制で行うようになったのもこの時期の特徴的なことでした。招待客からは、額に基準のない御祝儀をいただくのではなくて一定額の会費を取り、また服装も平服で来ていただくようにお願いしました。
 こうした動きの背景の一つには、昭和30年(1955年)から全国的に展開されるようになった『新生活運動(*5)』がありました。この運動の実践課題の一つに『生活慣習(行事)の合理化』があり、その一環として披露宴の簡素化が進められたのだと思います。一口に自宅で披露宴を行うと言いましても、かなりの準備が必要でした。料理は、大抵は一の膳(本膳(*6))から三の膳までを用意しましたので、それを作るだけでも大変です。また、料理を盛る器をそろえるのも一苦労です。器の数がそろわなければ、どこかから借りてこなくてはなりません。さらに、かつては自宅において親せきや近所の方を招いての祝宴を挙げ、これを済ませた後、日を改めて今度は婿や嫁の職場や友人関係の方々を招いて祝宴を行うという方法が多く採られていました。しかし、この方法では余分の費用のほかに人手も掛かり、祝い事とはいえ、こうしたさまざまな負担は当家にとってはなかなか物要りでした。のちになって、新夫婦の職場や友人の祝宴は、青年団などによる実行委員会が主催し、会費制で公民館や学校などの公共施設を利用して行ったこともありますが、これらを一つにまとめ厳粛にして、しかも盛大に行うために、出席者全員による会費制を導入した披露宴を、多くの人数が収容できる施設で一度に済ませるようにしたのです。
 このような簡素化と華美抑制の動きは、昭和60年(1985年)ころまで続いたと思います。しかし、結局は定着しませんでしたね。先ほど挙げました諸施設はあまり利用されることなく、人々は民間の結婚式場を利用する方向へと流れていきました。この理由にはいろいろあるとは思いますが、その大きなものの一つは、会場設備の差ではないでしょうか。結婚式や披露宴での使用を一番に考えて設備を充実させた施設の魅力には、公民館などの公的施設はやはりかないませんよ。それらは結婚式専用の施設ではないですからね。また、当事者の両家としても、公的施設を利用したのでは、披露宴にせっかく来ていただいたのに、この程度のもてなししかできなくて体裁が悪いとも考えたのではないでしょうか。
 今でも、土居町内には民間の結婚式場がありませんので、東隣の伊予三島市や西隣の新居浜市などの式場の利用が続いています。」

 イ 大規模化する披露宴-河辺村の場合

 **さん(喜多郡河辺村植松 昭和23年生まれ 50歳)
 公民館を利用した披露宴に出席した経験がある**さんに話を聞いた。

 (ア)集会所から公民館へ

 「河辺村の公民館活動は、立村(喜多郡肱川(ひじかわ)村より分立)の年の昭和26年(1951年)9月より始められましたが、当時はまだ施設がなく大字(おおあざ)ごとにあった集会所を利用しての活動でした。そしてこの集会所を会場として、披露宴が行われる場合も出てきました。しかし、そこを利用したのは数組程度だったと聞いております。その理由は、集会所は20畳敷きくらいの広さしかなく、披露宴の招待客数が100人を超えるとなると、この場所では収容しきれないからです。その後、集会所よりも広い施設として公民館が披露宴会場に利用されるようになりました。河辺村に公民館(*7)が作られたのは昭和42年(1967年)ですから、それ以降のことですね。
 なぜ、披露宴会場が婿宅から集会所へ、そして公民館へと移っていったのかについてですが、その大きな理由の一つは、今までの話でもお分かりのように、披露宴の招待客数の増加です。本来、披露宴へ招待されるのは、両家の親せきと婿宅がある地区のおも立った住民たちでした。なぜなら披露宴は、特に村内の他の地区や村外から嫁いできた嫁にとってはなおさらですが、新しい住民としてその地区に仲間入りをする場であり、反対に地区の人々からすれば、新入りを受け入れる場なんですね。ですから、こういう意味合いを考えて、会場では新郎新婦に近い席に地区の人々を座らせ、親せきを下座にするという家もありましたよ。
 では、このような慣習の中で行われてきた披露宴の招待客数がなぜ増えたのかといいますと、それは、村内で完結していた人々の交際範囲が、時代とともに拡大したためだと思います。一例を挙げますと、例えば村の人々の働き場所についてですが、それまでは自分の畑や山林が仕事場ですから、それを通じて交際する人の範囲は、自分が住んでいる地区内か、どんなに広くても河辺村内が限度でした。したがって披露宴への招待客は親せきが中心となり、その人数もおのずから決まってきます。それが、昭和40年代ころから村民の職種に変化が現れました。すなわち、農業などの自営ではなくて会社勤めのサラリーマンなどが増えてきたわけです。さらに、こうした職場は、ほとんどが村外の肱川町や大洲市、遠くは松山市などでした。そうなると、地区内や村内の人間関係に加えて、それぞれの職場での上司や友人という新しい人間関係ができますね。つまり、人々の交際範囲が広がり、それに伴って披露宴への招待客数も増えたのです。」

 (イ)公民館での披露宴

 「婚礼当日の午前10時くらいから、挙式(三三九度のサカズキゴト)が行われました。これは、昔ながらに婿宅で行うものや、あるいは村内の旅館の座敷を借りるなど新しい方法も出てきました。その後昼食を兼ねて、公民館を会場として披露宴が行われましたが、この仕方も従来とは変わってきました。例えば宴席に出す料理の用意が、それまでは一つでよかったものが二つ必要になりました。すなわち、まず一つが公民館での披露宴で招待客に出すもので、これは、村内の旅館や仕出し屋に頼んでいました。3段重ね程度の折り詰めが用意されていましたね。そしてもう一つは、婿宅に用意するお膳です。なぜ婿宅にも料理が必要なのかといいますと、公民館での披露宴の後、今度は親せきなどの近しい者だけの宴会が、婿宅で行われることが多かったからです。
 当時の披露宴は、とにかく時間が長く掛かっていました。現在多く見られるように、始めから制限時間が決められていて、その時間が来ればそこでお開きになるというものではありません。お客さんが会場から全員帰るまで続けられたんですよ。会の最中の、例えば酒を燗(かん)にするなどの世話は、婿と嫁の両家の家族でしていましたが、本当にてんてこまいの忙しさでした。新郎新婦は、これから新婚旅行に出発するというような場合には宴会の途中であいさつをして退席することもありましたが、しかしたとえ主役がいなくなっても宴会は延々と続けられていましたね。
 しかし、よくやったものだと思いますよ。公民館が会場だといっても、それに応じて招待客が増えていますから、会場はぎゅうぎゅう詰めなんです。畳敷きの大広間で、少しでも多くの客が収容できるようにとテーブルなどは置かず、ただ座布団を並べただけです。客は、折り詰めを自分のすぐ前の畳の上に置き、あぐらをかいても、ひざが隣の人のひざと重なるくらいでした。このような窮屈さですから、踊ったり歌ったりするための舞台を正面に設ける余裕はありません。興に乗ってきた者があちらで立ち上がって歌い始めると、周りがそれに合わせて手をたたき、調子をとりながら一緒に歌う。すると、こちらで立ち上がっては歌に合わせて踊りが始まる。歌が終われば、『今度はお前がやれ。』と注文が飛び、それに応じて向こうでその人が立ち上がっては歌いだすという状態です。もう、宴会の途中からは、だれが主役なのか、それよりも、いったい何の祝いなのかほとんど分からなくなっていましたよ。でも、ホテルなど民間の結婚式場で一般的な、制限された時間の中であらかじめ決められた会次第にのっとって整然と進められる披露宴に比べると、上品さには欠けるかもしれませんが、おもしろかったように思います。また、結婚式場の披露宴にしか出席したことがないお客さんは、その時間の長さとにぎわい方の大きさに一様に驚かれるのですが、その反面、『今日の披露宴はいい思い出になった。よう忘れん(忘れることができない)。』と言っていましたね。とにかく、みんながわいわいと言いながら、日が暮れるまで飲んで食べていましたよ。
 このような公民館での披露宴が終わった後、今度は婿宅で、家族や親せき、さらには近所の人を招いて宴会が催されます。言うならば2次会ですね。こちらの会にも『終わりのあいさつ』はありません。皆さんが帰ってしまうまで続きます。翌朝まで飲んで騒いでいる場合が多かったですね。ひどい場合には、朝になっても雨戸を閉めきって『まだ夜が明けんのじゃけんやってくれ(まだ夜が明けないのだから会を続けてくれ)。まだ夜中じゃけん。』といって飲み続けることもありました。この会の世話も婿方の家族が中心になって行います。ですから、婿方と嫁方両家の家族、特に婿方の者にとっては、2か所の宴席に用意する料理の経費や会が続いている間の世話などでそれは大変でした。
 こうしたことで、昭和50年代半ば以降から、婿宅での宴会はしだいに行われなくなっていきました。これと並行して、披露宴会場には、村外からの招待客の交通の便利なども考えて肱川町や大洲市などにある民間の施設が利用されるようになり、公民館の利用はしだいに廃れていきました。そして、今から12、3年前を最後として、村内での挙式・披露宴は行われなくなりました。」


*5:国民が自らの創意と良識により、物心両面にわたって、日常生活をより民主的、合理的、文化的に高めることをめざして
  行われた運動のこと。昭和30年、鳩山一郎内閣の要請に応じる形で財団法人新生活運動協会が設立され、主として冠婚葬
  祭の簡素化や虚礼の廃止、迷信の追放等を強く訴えて、全国的に展開された。
*6:正式の膳立で、二の膳・三の膳などに対して、主となる膳。なます(膾)・ひら(平)・香の物・みそ汁などの献立から
  成り、飯はこれにつける。
*7:ここでは、旧公民館のことを指す。現在使用されている公民館は、昭和55年(1980年)に落成した。