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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)夫婦の契り

 ア 土居町の婚姻儀礼

 **さん(宇摩郡土居町天満 昭和3年生まれ 70歳)
 **さん(宇摩郡土居町人野 昭和9年生まれ 64歳)
 土居町のくらしの移り変わりに詳しい**さんと**さんに、婚姻儀礼の主たる場所が婿(むこ)宅であった昭和30年代までを中心に、町内で行われていた一般的な婚姻儀礼について聞いた。

 (ア)婚期と出会い

 「昭和2、30年代の話ですが、婚期は男女とも24、5歳が一般的だったように思います。しかし、実際には個人差がありました。早い人では、男女とも18、9歳で結婚した方もいますよ。逆に、そろそろ30歳に手が届きそうな時分になって結婚すると、その時には周囲から『遅いなあ。』と言われたくらいです。
 男女が婚期を迎えると、その親や親せき、あるいは近所の人たちが『そろそろ結婚したらどうか。』という話を盛んに本人の耳に入れていました。また戦前には、本人たちがまだ子供の時に、親同士が結婚を決めてしまういいなずけという風習が残っていました。昭和30年代ころまでの結婚は、男女が個人同士として結ばれるというより、家と家とが結び付くという色彩が強かったように思います。例えば女性は、妻になるというよりも相手の男性の家の嫁になるという具合です。ですから、恋愛結婚はまだまだ珍しかったころで、その場合には、『あの二人はすごい。恋愛をして一緒になったんじゃ。』などと言われたものです。
 また、『あの人に頼んだら、いい結婚相手を見つけてくれる。』と評判されるような、仲人(なこうど)役をよく引き受けている方もおりましたよ。そうした人は、『取り持ちじいさん』とか『取り持ちばあさん』などと呼ばれていましたね。」

 (イ)結納と祝言

 「結納を行うことをユイノウイレ(結納入れ)と言いましたが、この辺りではイイレ、もっと簡単にイレとだけ言う場合が多かったです。あるいは『タノメが入る』と言う場合もありました。結納の品は、現在ほどの数量と派手さはなく、米・酒・魚と結納金が中心でした。現在よく見かける水引細工のツルやカメがこの辺りの結納品の中に登場したのは、昭和40年代ころからだと思いますよ。
 祝言(しゅうげん)は、昭和40年代くらいまでは、この辺りでは婿方の家で挙げていました。ちょうどそのころが、挙式場所が婿宅から氏神様の神前や結婚式場へと移っていく過渡期だったように思います。
 挙式当日には、まずムコイリ(婿入り)がありました。きちんと羽織(はおり)・はかまで正装をした婿が仲人とともに嫁宅へ出向くわけです。嫁宅で婿は嫁側の親や親せきに紹介されます。そして『本日、花嫁をお迎えに参りました。』とあいさつをし、婿は自宅へ戻ります。これと入れ替えで、今度はムカエニンソク(迎え人足)が嫁の荷物を受け取りに嫁宅へ行き、婿宅へ運んで帰ります。ここまでの一連のしきたりが終わるころには、だいたい夕方になっていましたね。荷物の一番上には俵が載っていました。この俵にはイリゴメ(煎り米。玄米を圧力で膨らませて作った菓子)が入っていました。だいたい3、4俵は持ってきていたでしょうか。『今度の嫁は何俵のイリゴメを持ってくるのか。』というのが、近所の人の大きな関心事でした。このイリゴメは、祝言の翌朝に婿宅の近所に配ります。この後、嫁は人力車で自宅を出発します。一例を挙げますと、ある方は土居町の東隣の伊予三島市から嫁いできたのですが、その時には、まず伊予三島市から国鉄(現在のJR)を利用して土居駅まで来て、そこで人力車に乗り換えていました。もちろん、婿宅と嫁宅がかなり近所であれば、わざわざ人力車を使うことはなかったですけどね。昭和30年代の初めには、こうした婚礼に使うための人力車がまだ残っていましたよ。
 嫁を乗せて嫁宅を出発した人力車は、まっすぐ婿宅へ向かうのではなくて、まずタチヤド(立宿)に入ります。タチヤドは、婿宅の近所で婿の家と深くお付き合いをしている家にお願いをします。そこでは、髪結いさんが嫁の到着を待っていて、ここで嫁は、化粧と髪を直し、嫁入り衣装を整えます。婿宅の準備ができますと、ころあいを見計らって、嫁は仲人に連れられて婿宅に入ってきます。嫁の足元は、提灯(ちょうちん)の灯で照らされていて、なかなか風情(ふぜい)がありましたね。婿宅のどこから入るかについては、玄関からという地区もあれば、勝手口からという地区もありました。この後が、いよいよサカズキゴト(盃事)です。
 婚姻儀礼の中でも、サカズキゴトは最も大事な契(ちぎ)りの儀式でした。したがってこの儀式は、家の中で最も上等な部屋である座敷で執り行われました(図表2-3-1参照)。その部屋には床の間と仏壇が備わり、広さは8畳が一般的だったと思います。儀式を行うときには部屋は閉めきられていました。またその場には、婿と嫁とその両親、仲人、そしてオンチョウ(雄蝶)・メンチョウ(雌蝶(*1))の役をする男の子と女の子が一人ずつ、さらに儀式の最中に『高砂(たかさご)(*2)』を謡(うた)う人という、ごく限られた者だけが出席しました。それは厳粛なものでしたよ。オンチョウ・メンチョウには、婿と嫁の甥(おい)と姪(めい)の中から選ばれました。また高砂は、だれでもが謡えるというものではなかったですから、謡える人が見つからない場合は省きました。サカズキゴトは、三三九度の固めの盃、両家の親との親子の盃と進みました。
 この後、両家の親せきの代表者との間で盃が取り交わされます。それは、現在の結婚式で一般的に見られるような、親せき一人ひとりの前に盃が用意され、それを一斉に乾杯する方法ではありません。三三九度で使った盃を順に回して使いました。お酌(しゃく)は、オンチョウ・メンチョウが担当しました。これが終わると、オンチョウ・メンチョウはお役御免ということで、少しの御褒美(ごほうび)をもらってオク(奥)の部屋に引き下がります。また、この盃を取り交わす場に出席できる者については、だれが決めるともなく、婿や嫁との血縁の遠近や、いわゆる長幼の序(年齢の上下のこと)などを基準に、親せきの中で自然と決まっていました。『自分も出席させてくれ。』とか、『どうして自分は出席できないのか。』などと文句を言う人は、まずおりませんでしたね。こうした儀式をとおして、親せきの中での自分の立場を自覚するとともに、それをわきまえる態度が自然と教育されていました。
 サカズキゴトが済むと、嫁は仏壇を拝みました。この行為は、『今日からここの家の嫁になります。』と婿の先祖にあいさつすることを意味します。このあいさつが、嫁ぎ先で嫁が行う第1番目の仕事でした。ただし、この仏壇へのあいさつは、嫁が初めて婿宅へ入る時に行う場合もありました。
 これに続く披露宴も婿宅で行われましたから、それに出席できる人数は部屋の広さに応じておのずと決まってきます。部屋は、最大でもふすまを取り払って8畳と6畳を二間続きにした広さの家がほとんどでしたから、その場に座れるのは40人くらいが限界だったように思いますね。
 サカズキゴトや披露宴の最中、子供たちは、オクに押し込められていましたね。当日は、子供たちに構っている暇などはとてもじゃないですがありません。子供たちは、夕飯には適当な物を出されてそれを食べ、夜もふけて眠くなったらころっとそのままで雑魚寝(ざこね)をし、ふと夜中に目を覚ましてみると、聞こえてくる披露宴の騒々しさに『何をしているんだろう。』と興味をわかせていたものです。
 嫁が婿の家の近所にあいさつをして回るのは、通常はサカズキゴトが終わって披露宴が始まる前の間で、女性の仲人が嫁を連れて行っていました。ただし、これもサカズキゴトの前に済ませてしまう場合もありましたね。
 翌朝、先ほどお話ししましたイリゴメを配ります。配るといっても、実際には、孫を連れた近所のおじいちゃん・おばあちゃんや子供たちが、イリゴメをもらいに来るわけです。これで婚姻儀礼が終わります。
 また、『めでたいことは、早めにしておく方がいい。』ということで、仮祝言を挙げる場合もありましたよ。仮祝言のことはイリゾメと言っていました。その仕方は、今までお話してきた祝言に準じたものから、ごく簡略化したものまでいろいろありました。仮祝言を挙げると周囲から夫婦として公認され、互いに行き来したり宿泊もできるようになります。仮祝言から本祝言までの期間もまちまちでした。特に戦時中などは、婿となる人が軍隊に召集されるというので、その前にあわてて仮祝言を挙げる場合がありました。また、職業軍人(本人の意志で、職業として軍務についている軍人のこと)であれば任官してからというので、本祝言まで数年間掛かったという場合もありました。」

 イ 中島町の婚姻儀礼

 **さん(温泉郡中島町吉木  大正8年生まれ 79歳)
 **さん(温泉郡中島町元怒和 大正12年生まれ 75歳)
 **さん(温泉郡中島町大浦  大正15年生まれ 72歳)
 **さん(温泉郡中島町大浦  昭和2年生まれ 71歳)
 **さん(温泉郡中島町長師  昭和2年生まれ 71歳)
 **さん(温泉郡中島町二神  昭和5年生まれ 68歳)
 **さん(温泉郡中島町宇和間 昭和6年生まれ 67歳)
 **さん(温泉郡中島町睦月  昭和16年生まれ 57歳)
 松山市の北西部に点在する島々を総称して忽那(くつな)諸島といい、東から興居(ごご)島、野忽那(のぐつな)島、睦月(むづき)島、中島、怒和(ぬわ)島、津和地(つわじ)島、そこからさらに南に二神(ふたがみ)島の七島(忽那七島)と、由利(ゆり)島などの無人島からなっている(図表2-3-2参照)。そして有人島のうち、興居島と釣(つり)島が松山市に属する以外は、すべて温泉郡中島町に属している。なお、町役場は中島の大浦(おおうら)地区にあり、ここが中島町の中心集落となっている。
 このように中島町は、その地勢に大きな特徴があるため、一口に中島町のくらしといっても、そのようすは島ごとに異なっている。また、一つの島が複数の地区に分かれている場合もあり、そこでは地区ごとに、くらしぶりに異なる点が見られる。
 したがって、聞き取り調査においては、それぞれの島のくらしの移り変わりに詳しい方々に集まってもらい、大浦地区でのくらしぶりを中心として、各島や各地区において異なる点をそのつど話してもらった。なお、これ以降の中島町にかかわる記述は、特別に明示しない限り、上記の8名の皆さんからの聞き取りを総合したものであることをあらかじめ断っておく。
 まず、中島町の婚姻儀礼について、戦前の様子を中心に聞いた。

 (ア)婚期と出会い

 「まず婚期については、『女は20歳くらいまでに、男は25歳くらいまでに結婚せい(結婚しなさい)。』という言葉はよく聞きましたね。特に女性の方が早く結婚しないといけないという風潮が強かったように思います。親から、『早う嫁に行かんと、イカズゴケ(行かず後家)になるぞ。』と言われていました。嫁(とつ)ぐことのないままで後家となることは現実にはありえません。イカズゴケとは、婚期が遅れたらだれも嫁にもらってはくれず、一生独身のままだよ、という意味を込めた言葉ですね。そして、だいたいその年齢までには片が付いていました。というのも、婚期が近づくと、親が見合い話を持ってくるか、半ば強制的に結婚相手を決める場合が多かったですからね。当時は、親の言うことは絶対でしたので、相手のことを気に入らなくても結婚する場合もありましたよ。また、恋愛をタブー視する風潮もありましたね。恋愛をするのに勇気のいる時代でした。今ではとても考えられませんけどね。
 婚期には個人差があり、女性では17歳くらいで嫁に行った人も大勢おります。男性は、満20歳で徴兵されて入隊し、1年半か2年間の軍隊生活を送り、それが済んで帰ってきたら嫁をもらうというのがこの辺りでは一般的でした。しかし、入隊する前に祝言を済ませ、子供をもうけておくという場合もありました。それは、そうしておかないと、もし夫が入隊したままで亡くなったりすると、家の跡取りがいなくなるからです。戦前は、個人よりも家の存続が第一に考えられていましたからね。
 仲人役には、身近な親せきの者がなりました。かつては、若い人の間に、年寄りの言うことは、『あの人があのように言いよる(言っている)のだから。』ということで聞かなければならないものという意識が強かったですから、仲人の役割は重要だったですよ。また、仲人を専門にしている人の世話になる場合もありましたが、こちらの方はあまり多くはなかったですね。」

 (イ)コメトリとミチアケ

 「縁談が成立したことをコメトリと言います。これは、成立の印として重箱に米を入れて娘の家へ持参したことからこう呼ばれたのでしょう。
 婚姻は、一般的に仮祝言と本祝言の2段階を踏みました。まず仮祝言ですが、このことをミチアケと言います。このミチアケが済むと、婿は嫁の家に泊まりに行きました。婿は、これ以後ずっと嫁の家で生活する場合もありましたし、時々自分の家に帰って来る場合もあるなどいろいろです。ミチアケが済んでも婿が泊まりに来ないと、嫁の親が『なんで、泊まりに来てくれんのぞ(くれないのか)。本当は娘が気にいらんのじゃろか(気にいらないのだろうか)。』と心配したものです。仮祝言から本祝言までは、1年から2年間ほど経過しているのが普通でしたから、その間には子供も生まれ、本祝言の時には、大抵の場合が子供連れとなっていました。」
 「(**さん)元怒和(もとぬわ)地区では、ミチアケのことをユイノウと言っていました。ユイノウの方法は、まず婿と仲人と親せき代表の3人が、弓張(ゆみはり)提灯(*3)を持ち、日本酒が入った1升瓶(1升は約1.8ℓ)とタイのお頭付きを下げて嫁宅へ向かいます。どうしてもタイでなくてはいけないわけではなく、頭が付いている魚であればイワシでも何でもいいんですよ。そして婿が帰るのと一緒に嫁がついて行きます。同時に、嫁の親せきの者が、布団(ふとん)と普段着くらいの荷物を運んで行きます。婿宅に到着した嫁は婿の親や親せきにあいさつをし、その晩は婿宅には泊まらずに自宅へ戻りました。婿宅に寝泊まりするようになるのは、本祝言を挙げてからです。」

 (ウ)本祝言

 「本祝言の朝、まずヨメムカエ(嫁迎え)の行列(嫁側から見るとムコイリ〔婿入り〕の行列)が出発します。列の先頭は、婿の親せきのうちから選ばれた10歳くらいの男の子一人が歩きます。この男の子は、伊予絣(かすり)の着物と紋付きの羽織やはかまで正装していました。肩にはサス(天秤棒のこと)を担ぎ、その両端にタケで編んだ直径が6、70cmの大きさの籠(かご)を一つずつぶら下げて運んでいました。籠の中には魚と酒が入っており、上からはきれいなふくさが掛けられていました。特に粟井(あわい)地区では、これをタルサカナと呼び、婿の親せきの大人が運びました。
 サスを担いだ男の子の後には、順に仲人、両親、婿、そして親せき代表が続きました。行列は10人くらいで、この人数は、後からお話しするヨメイリの行列の人数と同数になるよう、事前に両家間で調整をしました。嫁宅ではすでに祝宴が催されていて、ヨメムカエの行列はこの会に合流しました。
 嫁宅での祝宴が終わると、今度はヨメイリの行列が出発します。この時、ヨメムカエの行列としてやってきた人たちは、この行列に加わって婿宅へ帰ります。したがって、行列の人数は倍増します。行列の並び方は、列の先頭には、きれいな着物を着た10歳くらいの女の子が一人いて、婿から届けられた魚・酒の返礼としての足袋(たび)、下駄(げた)、扇子などを籠に入れて運びました。婿の後に嫁が続き、その後婿の関係者と嫁の関係者が交互になりました。この並び方は、婿と嫁の両家の仲のよさを表現しているのだと思います。
 ヨメムカエやヨメイリの行列に加わっている子供たちは、列の先頭の男の子の役はカゴカキとかカゴニナイ、婿の後に続く場合はモコヅキ(籠は持たない)、また女の子の役はアトツキ・オトギ・ヨメヅキなどと言われました。これらは立派な一人役とみなされ、披露宴での座席が設けられてお膳が付き、さらには祝儀ももらえましたので、子供にとってはうれしい役目でした。
 ヨメイリ行列が通る時には、大勢の見物人が沿道に出ていて、特に睦月地区では、そのお嫁さんに砂をかけて祝いました。結局、これが周囲へのお披露目(ひろめ)になるわけです。昭和40年代くらいまでで、こうした行列はほとんどなくなってしまいました。もし、今の若い者が行列を見たら、おとぎ話の世界での出来事のように感じるでしょうね。
 昭和20年代ころまでの話ですが、披露宴についてもおもしろいことがありました。披露宴は婿宅で催され、そこには嫁側の親せきも当然出席します。そして宴席の準備がありますから、出席者の人数や氏名は婿側にも知らされています。しかし、開会の時刻になっても嫁側の親せきは会場に来ていません。出席者がそろわないと披露宴を始めることができませんから、婿側の者がそれぞれの家まで連れに行きます。でも、一度連れに行ったくらいでは簡単には腰を上げてはくれません。何回か出直してやっと披露宴に出席してくれます。なぜ、このように出席を渋るのかといいますと、それは自分の親せきの娘を嫁に出すことをもったいぶっているのです。『うちの娘はいい子だから、そんなにたやすく嫁にやれるもんか。なかなかやらんぞ。』というわけですね。親せきの中には、『わたしは、絶対に披露宴に行かん。』と意地になり、行く行かないで大騒動になってしまったこともありましたよ。現在では、結婚においては当人同士の気持ちが優先されるようになってきていますね。しかし、かつては、表現は少しおかしいのかもしれませんが、家と家との結婚式という色彩が強かったんです。ですから、今お話ししたようなことが当たり前に行われたのでしょう。
 披露宴では、戦前は日本酒が皆に振る舞われていました。1斗瓶(1斗は10升)入りの日本酒があって、それを平釜(ひらがま)で沸かしては、大きな徳利(とっくり)につぎ分け、宴席に運んでいました。戦後間もなくは日本酒が貴重品となり、昭和30年代までは、自家製のイモ焼ちゅうが主に飲まれていたと思います。ビールがまだ珍しかった時代ですからね。
 本祝言が終わって3日目に嫁が里帰りをしていました。これをミツメ(三ツ目)と言っていました。そしてその時に、紅白の大福餅(もち)とおこわ(赤飯のこと)を重箱に入れて、主だった親せきや近所に配りました。餅は婿方が作り、おこわは嫁方が作りました。また、この餅はミツメノモチ(三ツ目の餅)と言われました。嫁は、ミツメが終わるまでは、高島田(*4)を結ったままだったそうです。ミツメが済んで1週間から10日ほど後に、主だった親せきが嫁を招いてもてなしていました。これはヨメヨビと言われました。」
 「(**さん)睦月地区では、ミツメと同じようなことですが、本祝言が終わってから嫁が婿方に3日間泊まり、4日目に実家へ里帰りすることが行われていて、これをアラワレと言っていました。里帰りの際には、餅を手土産として持ち帰り、5日目に今度は嫁側から餅を持って嫁ぎ先に帰って行きました。」

 (エ)ニオクリ(荷送り)

 嫁入り道具を婿宅に送ることをニオクリ、あるいはドウグオクリ(道具送り)と表現することは町内で共通している。またその時期については、睦月地区のように、本祝言の朝一番にたんすや長持(ながもち)などが婿方に運び込まれて近所の人に披露される場合もあったが、一般的には本祝言の当日よりもかなり遅れて届けられていた。
 「(**さん)特に元怒和地区や津和地地区では、本祝言後3年くらい、長ければ5年くらいたってからニオクリが行われました。なぜこれだけ遅らせるのかというと、そのころになると夫婦に子供もできて、もう離婚する心配もないだろうと見なされるからです。この確認がとれるまでは、荷は送らないという考え方に基づいているのですね。そしていずれの地区においても、このようなしきたりを持つニオクリが行われていたのは昭和30年代後半までだったと思います。
 嫁入り道具の数はだんだんと多くなり、また荷物を運び込む時期も本祝言の3、4日前から遅くても前日までには行われるようになって現在に至っています。現在でも、嫁入り道具を運ぶことはニオクリと言います。そして、例えば、たんすが届くと『まあ、見てくださいや。』とその引き出しを開けて、中に納めてある着物を近所の人に披露するように変わってきています。」

 ウ 河辺村の婚姻儀礼

 **さん(喜多郡河辺村北平 明治42年生まれ 89歳)
 **さん(喜多郡河辺村川崎 大正11年生まれ 76歳)
 河辺村のくらしの移り変わりに詳しい**さんと**さんに、主に戦前において村内で一般的に行われた婚姻儀礼について聞いた。

 (ア)ムコイリ(婿入り)とヨメイリ(嫁入り)

 まず、ムコイリとヨメイリのようすについて、**さんと**さんに話してもらった。
 「戦前は、見合い結婚とかいいなずけというものが多かったです。親同士や親せき同士が相談をし、その取り決めによって男女が結ばれるという形ですね。その一方で、本人の意志が尊重される場合もありました。いかに親が相手を決めていても、自分が好きな人の所へ遊びに行くのは自由だったんです。ヨバイ(夜這い)というのがこれです。ヨバイの相手との結婚も可能でした。また女性も好きな男性のところへ遊びに行く事は自由でしたが、現実には行く事はなかなかできませんでした。戦前は、男女の出会いの機会がずいぶんと少なかったので、こうした形になったのでしょう。相手は村内に限られることなく、村外との通婚もありました。
 大正末期から昭和初期の婚礼のようすをお話しします。祝言の当日に、まず婿が嫁をもらいに嫁の家まで歩いて行きます。これをムコイリと言いました。朝早くに出発するのですが、この時、婿とともに仲人夫婦と婿の親(または親替わりの者)、それとムコトギ(婿伽)と呼ばれた、婿の親せきや近所の友達の中で婿と年齢が似通っている者数名が雇われて、行列を組んで同行しました。この行列が嫁の家に到着してからは、特に儀式はなくて仲人さんの口上(口で言う、型どおりのあいさつのこと)があったくらいです。しかし、口上で何が言われていたのかは覚えていません。その後、お膳が出されて昼御飯となりました。食事が済むと、ヨメイリの行列が出発しました。行列は嫁とその親(または親替わりの者)、仲人、そしてヨメトギ(嫁伽。ムコトギと同様の条件を満たす女性数名)からなっていて、ここまではムコイリの行列と同じ顔ぶれです。異なるのは、嫁入り道具(長持や鏡台・たんすなど)を担ぐために雇われた人が加わることです。この人は、ニモチ(荷持ち)やニカタギ(荷かたぎ)、あるいはコシマキカタギ(腰巻きかたぎ)と呼ばれました。先ほどお話ししたムコイリの行列の者も、この行列に加わって一緒に帰ります。つまり、婿が嫁を迎えに行って自分の家に連れて戻るという儀式ですね。このムコイリやヨメイリの行列に雇われた人には、御祝儀として金一封が送られました。嫁はかなり長い距離を歩くこともありましたから、その場合には道中は普段着に近い衣装で、そして婿の家に到着してから婚礼衣装に着替え、祝言を挙げたりしていました。婿が嫁を連れて戻ってくるころは、大方夕方になっていました。今のように自動車がどこにでもある時代ではありませんから、3里(1里は約4km)も4里も離れた場所から嫁いで来る嫁は、道中の長さに一苦労でした。
 ヨメイリの行列が通る沿道には、見物人がたくさん出ていましたね。『今日はどこそこの御祝言と(祝言だそうだ)。』『そしたら、嫁さんがもう来るぞよ。』と、こんな具合で人が集まってきます。そして、嫁さんが近づいて来ると、だれという区別なしに『嫁さんヨー、ヨー。』と行列に向かってはやしていました。今の人の考えからすると失礼な行為のように見えますが、そのころは、はやさない方が逆に縁起が悪いと考えられていました。この行列が、今でいえば披露宴に相当するのではないでしょうか。当時の披露宴には、両家の親せきと行列の関係者以外は、ほとんど招待されませんでした。たまに新郎新婦の友人も招かれる場合もありましたが、それでもよほど親しい者が2、3人でした。それは、このように制限しないと、当時の民家には多人数を収容することができる広さの座敷がなかったからです。したがって近所の人たちにとっては、この行列が、花嫁を見ることができる最初の機会だったのです。」

 (イ)ヨメトギの思い出

 **さんには、ヨメトギの経験がある。その思い出を話してもらった。
 「昭和12年(1937年)ころだったと思いますが、ヨメトギとして、ここから村前(むらさき)(現在の喜多郡内子(うちこ)町村前)まで行ったことがあります。下駄(げた)ばきではとても長い道中には耐えられませんから、わら草履(ぞうり)を作ってそれを履(は)いて行きました。片道4里くらいは歩いたと思いますね。御祝言の行列に加わっているということで、自分がぶかっこうに見えていないかどうかばかりが頭の中にあり、とても緊張していましたよ。今なら、自動車を使えば2、30分で到着する程度の距離なのですが、その時は、尾根越えをしながら、山道を歩いては休み、また歩いては休みの繰り返しで、本当に遠くに感じたことを覚えています。ヨメトギは、自分の着替えは持って行きませんでしたから、婿の家に到着した時にはもう汗びっしょりで、そのままで披露宴にも出席しなければならず、本当にこたえよりました(本当に大変でした)。」

 (ウ)祝言に墓石のまじない

 嫁が婿の家に到着して以後のようすについて、再び**さんと**さんに話を聞いた。
 「三三九度のサカズキゴトは婿の家の座敷で、周囲を屏風(びょうぶ)で囲んだ中で行われました。出席者は、新郎新婦とそれぞれの親、そして両家の親せきの代表者と、オチョウ(雄蝶)・メチョウ(雌蝶)と呼ばれた、お酌をする男の子と女の子でした。この儀式が終わると、次に披露宴となりました。
 披露宴のお膳には、ハコゼン(箱膳)ではなく四隅に足の付いたヨツアシゼン(四足膳)が使われました。料理は、現在のように仕出し屋に頼んで用意するのではなく、近所の女性たちが協力して作っていました。祝言は喜ぶことだからというので、ごろ合わせでコンブを使ったりマメを用いて料理を作るということはありましたが、その他は特に変わった点はありませんでした。披露宴では、皆さん夜遅くまで飲んで騒いだものです。『どんな嫁さんが来たのかな。』と見てみたい気持ちは、だれしもあるものです。披露宴の最中に、近所の人が障子に穴を開けては、代わる代わる見に来たりもしました。
 祝言の翌朝のことですが、婿の家の軒下は大変なことになっているんです。婿の祖先の墓石が、いっぱい並べられているんですよ。だれがこんなことをするかというと、それは近所の若い衆で、披露宴が終わってみんなが帰った後に墓石を置くんです。これは、悪意のあるいたずらではなくて、この辺りの風習なんです。『嫁さんに、この家に収まってもらわんといけん(収まってもらわないといかない)。婿の御先祖様もここに来ているのだから。』という意味があると伝えられています。この墓石を墓地まで戻しに行くのは、婿の家の者の役目なんですが、これがとても骨が折れるんです。そのころは土葬でしたから、埋葬した人それぞれに墓石を置いていました。ですから、一口に祖先の墓石と言っても、相当な数に上るんです。現在のように、『○○家累代(るいだい)の墓』として一つにまとめられてはいませんからね。また、墓石には氏がなく、名前だけが彫られているものがほとんどでしたから、どこの家のものやらなかなか分かりませんでした。一日掛かりで元の位置へ戻したという話も聞いたことがありますよ。
 祝言の日から数えて3日目に、嫁が婿を連れて、あいさつのために里帰りをしました。これをサンガニチ(三が日)と言いました。また、5日目に里へ帰る場合もあり、こちらはゴカニチ(五か日)と言いました。しかし、日数を省略して、祝言の翌日にすぐに里帰りをする嫁もおりました。
 すべての婚礼が、今お話ししたような古くからのしきたりにのっとって行われていたわけではありません。夜中に婿一人だけが嫁を連れに来て、嫁は、自分の着替えを2、3枚ふろしきに包んだだけで嫁ぐという場合もありましたよ。」

 (エ)消えた風習

 続いて**さんに、河辺村でのこうした婚礼のしきたりがいつごろまで続いていたのかを聞いた。
 「婚礼にはさまざまなしきたりがありましたが、それらは一つ二つと姿を消し、最も続いたしきたりでも太平洋戦争前までだったと思います。戦時中は、祝言らしい祝言はほとんどありませんでしたし、戦後にはもう、昔からのしきたりにのっとった婚礼は行われませんでした。こういうしきたりは、一度途切れると、再び始めることは難しいのかもしれませんね。例えば、軒下に墓石を並べたり、それを元に戻しに行くことは、『面倒くさい。もう、やめようや。』とは思いながらも、『昔から続いていることだから、そういうわけにもいくまい。』というので、行われてきたのだと思います。しきたりとはそういう性質のものですから、一度やめてしまうと、もうそれまでですね。
 わたしは、昭和9年(1934年)に27歳で結婚しました。嫁は、立石(たていし)(現在の上浮穴(かみうけな)郡小田町立石)の出身です。立石から南山(みなみやま)(現在の小田町南山)を通り、笹峠を越えて北平(きたひら)へ迎えましたが、その道中で『嫁さんヨー、ヨー。』とはやされた記憶がありません。ですから、この風習は、もうそのころには廃れていたのかもしれません。戦後、昭和20年代には挙式や披露宴会場が婿宅から地区の集会所などへと移り、自宅で婚礼を行うというと珍しがられたものです。現在では、ほとんどが大洲(おおず)市などの民間の結婚式場等で行われていますね。」
 

*1:婚礼におけるサカズキゴトの際に、1対の銚子や堤(ひさげ。銚子の一種で銀や錫などで作られた、つるのある小鍋形の
  具)に付ける雌雄の蝶をかたどった飾り。金銀紙や紅白の和紙、水引などで作る。これは、小笠原流の礼式が一般化して広
  まったものと考えられる。転じて、この銚子等でサカズキゴトの酌をする一組の少年・少女のことも指す。
*2:能の一つ。世阿弥の神物。住吉の松と高砂の松が夫婦であるという伝説を素材とし、天下泰平を祝福する。婚礼などの祝
  賀の小謡に常用する。
*3:竹を弓のように曲げ、提灯をその上下にひっかけて張り開くように造ったもの。
*4:女の髪の結い方の一つ。主に未婚の女が結った島田髷の根を高く結ったもの。御殿女中などに行われ、明治以後は若い女
  性に喜ばれ花嫁の正装となった。

図表2-3-1 土居町の民家の間取り(一例)

図表2-3-1 土居町の民家の間取り(一例)

**さんの原図により作成。

図表2-3-2 忽那諸島略図

図表2-3-2 忽那諸島略図


図表2-3-3 河辺村周辺略図

図表2-3-3 河辺村周辺略図