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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)学校生活の思い出

 ア 大島

 大島小学校は明治7年(1874年)に潤身(じゅんしん)小学校として設立され、その後明治25年(1892年)、大島尋常小学校となり、高等科が大正13年(1924年)に併置され、大島尋常高等小学校と改称された(⑫)。**さんの入学した大正9年と**さんの入学した昭和7年(1932年)の児童生徒数は、それぞれ187人と264人であった。昭和10年から20年の間はずっと300人前後である。昭和30年代後半に200人を、50年代には100人を割るというように児童数が減少し、平成10年の小学生は15人である。中学生は8人で、島外の中学校へ渡海船で通学している。ここでは大正期から昭和15年ころまでの思い出を聞いた。

 (ア)着物に草履で登校

 **さん、**さん、**さんの話。
 「(**さん)わたしは大正9年(1920年)の人学じゃけんど、入学式の時、えび茶の袴(はかま)と赤や白の井筒模様の入った銘仙(めいせん)(絹織物の一種)の着物を着て行ったですよ。普通の日は、袴なしで着物だけじゃったけど、式の時には、その一張羅(いっちょうら)(持っている着物の中で一番上等のもの)の着物と袴を履いて行ったんです。着物を着て袴を履くと背中までしゃんとなりよったですよ。わたしらは4年生から裁縫があって、島外から来ていた先生が、さらし(水で洗い、日にあてて白くした綿布)や浴衣のお古を使ってパンツや帽子の縫い方を教えてくれたんです。パンツや帽子は、その時が初めてですよ。女の子が、帽子なんてかぶったことないんじゃけん。白い布の帽子をかぶって、運動会の時に、タンタタン、タンタタンと歌のリズムに合わせて踊るんです。帽子をかぶって踊ることがうれしく、帽子をなで回したもんです。今でも忘れられんですよ。体操服は、白と紺でお腹の当たりにボタンをつけて、つり下げるようになっていて、半パンのような形じゃったね。それは学校で買ってました。普段は腰巻きで、その上に着物を着て、男の子と同じ3尺(1尺は約30cm)の兵子(へこ)帯(*11)をつけとりました。卒業まで着物じゃったね。」
 「(**さん)わたしは昭和7年(1932年)の入学です。2年生ころに服に変わりかけたように思いますが、大体3年生ころまで草履に着物でしたね。着物だから、子供同士でちょっとじゃれると、すぐ肩の所からはずれるんですよ。ほとんどの子供が片袖か、両袖ともはずれていましたね。それは、夏冬関係ないんです。子供だから遊び方もひどい。引っ張られると引っ張り返すから、すぽっとのいてしまうんです。それをまた、帽子のように頭にかぶってみたりしてね。」
 「(**さん)わたしらは5年生ころから、灰色の夏服を着ていた子がいたね。俗に『簡単服』と言って、スカートも一緒に引っ付いていて、帯ひものないワンピースに似たような物じゃった。それを買ってくれるところは、安気(あんき)(生活が豊か)なうちで、卒業まで着物じゃった子の方が多かったですよ。」
 「(**さん)履物は、わらの草履でした。式の時に履く草履は、藤裏とか麻裏とか言ってました。裏は薄いゴムをひっつけたもので、表はイグサで編んでくれた畳表のような草履じゃった。それは式の日のものだから、帰るとすぐのけておいて、普段用のわらで作った草履に替えたですよ。女の子は鼻緒(はなお)にきれいな色の布を編みこんで作ってもらったりもしてました。その方がかわいいし丈夫だったんです。雨が降ったら下駄で登校しました。下駄は、歯がちびたら差し替えれるものでしたが、まだまだ貴重品じゃったから、小雨ぐらいだったら草履で学校へ行きました。」
 「(**さん)学校へは草履だったが、運動場で走り回るような時は、はだしで飛び出すんですよ。そうせんと草履はすぐに傷むんじゃけん。学校から帰ると、山へ駆け上がる以外は、大抵ははだしでしたね。草履でも学校へ履いて行くのと、もんてから履くのとは別にしとったし、作業用は足半(あしなか)(写真2-2-27参照)ですよ。長さはちょっと短めで、かかとまでない草履をはいたですよ。」

 (イ)弟妹背負って学校へ

 「(**さん)わたしは一番上じゃったから、毎日下の子を背負って学校へ行きました。背負っている子が寝とる時だけは勉強できたけど、起きてぐずり出したりすると、先生に『外へ出なさい。』と言われる。廊下へ出て窓の所で、両手で揺すってあやしながら、黒板の方を見よったです。勉強はなかなかできんかったですよ。弟や妹のほとんどを負うて行きました。子供も少しはい出すようになると、負うて行ってもらおう思うてじゃろかね。わたしが学校へ行く準備しよったら、子供の方から、ほうて(はって)来よったですよ。おむつは二替わりぐらいは、いつも持ってました。寒い時は、おむつを、わたしの背中と子供の腹との間に入れて、暖めるようにしていました。おしっこをしたら、その暖かいのと替えて、汚れたものは袋へ入れて持って帰って洗ったね。その当時は、おしめは皆、木綿ですから、使い捨てどころかまた洗って使うたんですよ。ナイロンの袋などないから、袋は手で縫うたんです。もし足らんようになると思ったら、学校の運動場に干して、乾いたらそれを当ててやりました。わたしらの学校にはポプラの木がようけありました。木の枝に干したんです。わたしのほかに何人もがそんなにしておりました。男の子も子供を負うて来よったです。子供を負うてきたことを笑ったり、干したおむつに悪さをする者などはおらんかったね。子守りは大勢の兄弟の中では当たり前のことだったんですよ。」

 (ウ)島あげての運動会

 **さんと**さんに聞いた。
 「運動会は面白かったね。何せ、むら全部が集まって、島全体のみんなの楽しみな行事でしたよ。そのころは、250戸くらいはあったでしょうか。家族の人数は多いところでは10人ほども居たですから、その人たちが狭い運動場に寄ってくるんです。子供が多かったから、どの家も大抵2、3人は出とるでしょう。子供が居ないところの人も、隣近所で誘って来とったです。若い連中もようけおったし、お年寄りも楽しみにして来てました。だからにぎやかじゃった。家族が多いから、お弁当も、重箱にごちそうを一杯作って、その重箱をなんぼも持って来とりました。やはりかけっこが一番の人気じゃったね。楽隊が演奏しよる。子供も大人も必死で歓声を上げて応援する。わたしらも皆が見とるから一生懸命になる。そうすると、おなかがすくでしょう。みんなで一緒のお弁当はおいしかったし、楽しみじゃったね。わたしらの時は、かけっこするのも、一組に30人以上居ましたから2回も3回もに分けないかんかったです。それに、景品は帳面か鉛筆ぐらいじゃったけど、ものすごくようけあったように思います。もらうとうれしかったね。」

 イ 八坂地区

 八坂小学校は明治27年(1894年)に松山市で3番目に、当時の南八坂町・現在の三番町一丁目に第三尋常小学校として誕生し、昭和4年(1929年)には八坂尋常小学校と改称された。大正期から昭和20年代にかけては、ほとんど増減なく、ほぼ1,000人の児童が通学する大規模校だった。昭和20年(1945年)に戦災で校舎は焼失し、一時児童数は減少したが、現在の湯渡町(ゆわたりちょう)に新築移転し、昭和30年代初め、1,400余名に達した(⑭)。昭和30年代後半から生徒数の減少が始まり、平成10年現在は223人になっている。

 (ア)入学そして学校生活

 「(**さん)わたしは昭和3年(1928年)に小学校へ入学しました。入学式は着物と袴でした。3年生ころまで式には袴を履いて行きましたが、特別な気持ちになって、袴を履くのがうれしかったですよ。」
 「(**さん)わたしは昭和6年(1931年)の入学じゃけど、その時は着物を着てる者は居なかったですよ。わたしの主人が入学した昭和4年の時には、男の子は服が多かったけど女の子はまだ着物の人が多かったと言いますから、この2、3年間が着物から洋服への境目じゃったんじゃね。」
 「(**さん)わたしが入学した時は古い校舎で、窓側はガラスだったけど、廊下側は障子でしたよ。それが3年生の時に建て替えのため、わたしらは今の番町小学校まで通いました。わたしは、学校では帳面を使いましたが、家で算数の計算や字のけいこなどをする時は石盤(せきばん)も使いました。石筆を使って、石盤に書いたり消したりしたですよ。石筆は道路や石の上でも書くのに使いました。外は土ですから、上の砂を手で払いのけて、固いところに書いたりしたですね。」
 続いて授業や先生のことについて**さんと**さんに聞いた。
 「授業は、低学年の時には、読み方、習字、算術、修身、唱歌、図画、高学年になると理科、国史、地理、裁縫などを習ったように思います。どの教科も教科書をよく読んでました。中身がどうこうと言うより、とにかく読むことが中心じゃったですね。読み方は本当にその名のとおり、暗唱するくらい先生が読んでくれて生徒も読んだですよ。机は長机で腰かけも二人掛けの長いすでした。木製の机は古くて、年輪が浮き出てなかなか字が書けなかったのを覚えています。5年生ころから一人掛けの机やいすになったように思います。クラス名は雪・月・花の3クラスで、学校全体で千人くらいおりました。雪は男、花は女、月は男女でした。組替えは3年か4年の時に一度あったように思います。
 先生方の服装は、男の先生は、ほとんど背広にネクタイになっていましたが、女の先生は、着物で袴をはいていました。紫や小豆色の袴だったと思いますが、それに革の編み上げ靴をはいている先生もいました。それがハイカラだったんでしょうか。校長先生は鼻ひげをはやして、式の時には、ちょうネクタイでえんび服だったように思います。」

 (イ)学校での遊び

 **さんと**さんの話が続く。
 「学校では、女の子には双輪(そうりん)が一番人気がありました。鉄棒を二重の輪にしたようなもので、全体が回転するようにもなっていたんです。双輪に乗って前後の回転をしたり、ぶら下がったまま回ったり、足掛けで上がったりしました。ぶらんこは二つしかなくて、なかなか乗れなかったね。肋木(ろくぼく)ではよく遊びました。遊具はそんなに無かったけど、砂場で砂に字を書いたり、山をこしらえたり、国取りや陣取りなど、運動場いっぱいに、とにかくじっとしないで、学校でもよく遊んだですよ。先生は厳しい先生もいて、たたかれたりする子もいましたが、授業中はともかく、学校へ行くのは楽しかったね。遅刻をしたら立たされよりました。そんなかったからかね、皆時間はきちっと守りよりました。」

 (ウ)式典

 「(**さん)式典は、入学式や卒業式の他に、国の祝日で四大節であった元旦の四方拝や、紀元節(*12)(2月11日)、天長節(*13)(4月29日)、明治節(*14)(11月3日)等がありました。その日は、先生は正装で、生徒も普段と違う一張羅を着ていました。各学年ごとに、講堂に集まって式典があるんです。まず『君が代』を斉唱します。その後、白い手袋をした校長先生が、奉安殿(*15)より教育勅語(*16)を取り出して読まれる。話があって歌がある。きちんと真っ直ぐに並んで、列を乱さず、しんと静かに、しかも不動の姿勢でやるんです。全員が物音一つ立てない。このころ、朝日が昇り、陽光がガラス戸を通して、室内を静かに照らしだすんです。身も心も引き締まる一瞬でした。いかにも清々した雰囲気、そんな印象が残っています。それほど長くはなかったかもしれんが、倒れる者もおったです。それほど緊張した時間でしたよ。でも式日は勉強の時間が無いんです。それがうれしかったね。緊張と解放というか、そんなものがあったように思いますよ。」

 ウ 日吉村

 **さんは日吉村の、下鍵山にある日吉尋常高等小学校、**さんは父川尋常小学校、**さんと**さんは富母里(とんもり)尋常小学校へ通った。高等科は日吉小学校にだけ併置(大正4年〔1915年〕)されていて、他の小学校の卒業生も、すべてそこへ徒歩で通学した。昭和10年(1935年)の児童生徒数は日吉小329人、父川小98人、富母里小91人であった。日吉国民学校(昭和16年から、昭和22年に日吉小学校と改称するまでの呼称)は、昭和20年には県内外の各都市からの疎開児童受け入れのため、4月に2学級、2学期には更に3学級が増加している(④)。
 昭和30年代後半から40年代に入っては、児童数の減少が始まり、昭和59年(1984年)に父川小学校は閉校となった。平成10年の児童数は、日吉小107人、富母里小3人である。4人の方々にそれぞれの学校生活の思い出を聞いた。

 (ア)父川小学校の思い出

 「(**さん)わたしは大正15年(1926年)生まれで、昭和8年(1933年)の小学校入学なんです。『サイタ サイタ サクラガサイタ』の教科書は、わたしらの時から始まったんです。その前年までは『ハト マメ マス』の教科書でした。教科書に、カラー印刷が入ったのも、昭和8年からです。習った教科はいろいろあったけど、社会科はなかったですよ。その中で修身(*17)が一番重要だったでしょうかね。1週間に1、2度は、裁縫室で校長先生の話を聞いたんです。まず天皇陛下へのごあいさつ。そのころは、校長先生が姿勢を正して『恐れ多くも』と言いましたら、どんなに足を崩していても、さっと直さんといけん時代でした。その後に『天皇陛下』という言葉が出てくるんです。職員室へ入るとちょっと高い位置に、天皇・皇后両陛下の御真影がありました。普段は扉を閉めていました。職員室に用事がある時は、必ずそのお写真にお辞儀をしてから先生の所へ行くんです。式がある時は、その飾ってあるお写真が職員室から式場へ運ばれていました。式では、御真影にあいさつして、『君が代』を斉唱してました。その時必ず、教育勅語を全員で暗唱するんです。あれを全部覚えるんですよ。それにしても、あのころの式はしーんとしていました。低学年の子でもそうしないと、しかられるんです。今の子供たちには想像できんかもしれんですね。
 授業は複式でした。授業は一つの教室の中で、こちらは国語、あちらは算術というように分けての授業なんです。先生は一人で二つの学年の子供たちを教えるんですから大変だったと思います。でも昔の子は先生の言うことをよく聞きましたよ。『静かにして勉強せい。』と言われたら、静かにしていました。騒いだらしかられる。それも根ブチ(竹の根っこの節が続いたようなもの)でたたかれましたよ。先生が、男の子の器用な子に、根ブチを作ってこいと言われるんです。生徒がちゃんとそれを作ってきて、それで『お前は何してるんだ。』と言ってたたかれたりしたんです。時には、チョークが飛んできたり、黒板ふきが飛んできたりしましたよ。それでも生徒は絶対服従でしたね。昔は、そんなことは、家に帰って親に言うような者も居ないし、今とは違っていたんでしょうかね。でも先生はかわいがってもくれました。放課後、運動場で遊んでくれたり、遠足の時には、一緒にはしゃいでくれたりして、時には友達のように遊んでくれたりもしたですよ。」

 (イ)雪の日も足半(あしなか)

 **さんと**さんに聞いた。
 「学校へ通うのは、昭和15年(1940年)ころはわら草履ですよ。雨の日は下駄や親の地下足袋(じかたび)を履いた者もおったが、ほとんどは足半でしたよ。富母里小学校は、冬には、一辺が1mほどの真四角の火鉢が各教室に置いてあった。そこに炭火をおこしていたんです。雪の積もった朝などで、雨でも降って雪が解けると、家を出た瞬間にズボンも何もぬれてしまって、足が真っ赤になってなし(なってね)。それでも、草履に素足が多かった。何にも暖める物などないんです。学校へ来て、炭火で手足をあぶるくらいなものです。帰る時には、足半が凍っとったですよ。それでも、風邪ひとつ引いた覚えはないですね。
 最近は余り雪も積もらんが、わたしらのころは、雪が降るというたら1m余りも積もったです。そんな時は、親が先に出てスコップで雪をのけたり、箱に石を乗せて引っ張って道を平らにしたりして、登校する道を造ってくれる。下駄で歩くと下駄のはまに雪がだんだん詰まって、転んでしまうんです。深い雪の中は、冷たいと言うても、はだしの方がまだましですらい(ですよ)。
 近くの人はまだいいんですよ。遠いところ、節安(せつやす)が4kmほど、奥藤川(おくふじかわ)が5kmほどもあったかな、そんな所の子は大変じゃったですよ。それでも足袋にわら草履を引っかけて来よりました。そして、いつでも草履の予備を1足か2足、かばんの横につっておったです。昔、わたしらが履いた草履は、かかとの方まではない、少し短めのもので、足半とか足半とんぼ、あるいはとんぼ草履などと言いましたが、器用な子は自分で編んで来よりましたよ。ところが、顔も手足も真っ赤にしながら、難儀して学校まで来たら、『今日は学校休みとう(休みだそうだよ)。』じゃのと友達から聞かされて、『エエー』とへたりこんだりしたことも時にはあったですよ。今みたいに電話も有線放送もなかったですからね。今から考えると、想像もつかんほど難儀じゃったはずじゃが、それでも苦しいから学校へ行くのが嫌じゃったという覚えもないな。」

 (ウ)厳しさと熱心さ

   a 恐ろしかった修身の先生

 **さんと**さんに聞いた。
 「富母里小学校の先生が特別のはずもなかったろうが、先生は厳しかった。まこと(本当に)先生は怖かった。『だれ先生の受け持ちぞ、先生に言いつけるぞ。』などと言われると、飛んで逃げた。ちょっとでも悪いことをすると、立たされたり、根ぶちでたたかれたりするんです。これは痛かった。一人悪いことをしたら、共同責任じゃと言うて、全員がやられるんですよ。何の時だったか忘れたが、両方のほおをたたかれて、今度は、先生が『先生も同じじゃ。たたけ。』と言うんですよ。相手が先生じゃけん、ちいとは加減するでしょう。そうすると『こういうようにたたくんじゃ。』と、こっちを思いっきりたたくんじゃけん。だから、いやでも先生を思いっきりたたくんです。そしたら『よし。』と言うて、こらえてくれるんです。特に修身の時間の先生は恐ろしかったな。」

   b 校長先生が担任

 「(**さん)わたしらは5、6年の時、校長先生が、担任を兼ねて教えてくれました。非常に熱心で、皆が必死になってきたら、次の時間もそのまま続いてやってくれたりもしました。国語と歌の好きな先生で、皆に分かるように教えてくれたんです。賢い子だけと違って、クラスの皆が似たように、国語はよくできていたように思います。国語を3時間もぶっ通しだったこともありました。先生があれほど一生懸命だから、その熱心さにつられたんですかね。楽しかったですよ。でも怖い先生でもありました。授業の合間にどんなにワイワイ騒いでいてもガラリと戸が開いて、先生が教室に入ってきたら、ぴしゃっと静かになりました。先生は恐ろしかったですから。ところが一方で、先生は、神仏への礼拝を本当にきちんとされていました。お寺さんがあれば頭を下げて通る。鳥居が見えれば頭を下げて通る。そんな姿を見せてくれました。先生は厳しいしつけもあったけど、優しいこともあったですよ。それに、ここでは礼拝、ここではあいさつじゃと言うだけではなくて、先生がするから、みんなもするもんじゃと思うてついていったんです。」

 (エ)キビと麦飯の弁当

 **さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)弁当は、サツマイモやトウキビだけのこともあるし、キビや麦の入ったキビ飯や麦飯がほとんどじゃった。イモを蒸してもらったら一つずつくるんで、新聞紙などに巻いて持ってきたんです。遠いところから通っている者は、道具は、唐草模様の入った風呂敷で腰に巻いたり、首から肩へかけて、胸の所で結んで、その上にイモやトウキビを重ねて縛るんです。それも朝焼いたものだから、昼には冷たくなっている。それが弁当じゃったですよ。」
 「(**さん)わたしが高等小学校に進学して、富母里から3里ほどある日吉へ通った時、弁当の時間が嫌じゃったな。おふくろが『日吉の学校へ行くんじゃから、米の飯を入れてやらにゃあ。』と、米の弁当を持たしてくれる。ところが、弁当の検査があるんですよ。先生がわしの弁当を見て、『お前のは、米ばかりじゃないか、国賊が!』と言うて、げんこつをかまされるんですよ。げんこつを入れられるのが嫌じゃ言うても、おふくろは、『自分とこ(自分の家)で作った物入れるんじゃ、そんなことはありゃせん。』と詰めてくれる。またしかられる、そんなかったですよ。当時は戦時中の食糧難の時代で、米も強制供出で国へ納めないかんかった。だから普段は米だけの飯を食べることはなかったんです。まして、生徒が米の弁当を食べるじゃのいうのは、ぜいたくで許されんと考えられていたんでしょうな。また、昼食を食べる前と後にはちゃんと言うことがあった。『箸(はし)とらば天地御代(あめつちみよ)の御恵み、父母や師匠の恩を忘れな。』『いただきます。』となる。食べ終わったら、『箸を置く時に思えよ。御恩の道に怠りありはせぬかと。』『ごちそうさま。』と声に出すんです。当時その意味が分かっていたかどうかは別として、習慣とは恐ろしいもので家の食事の時も、つい手を合わせて言ってしまうこともあったですよ。」

 (オ)戦時下の小学校生活

 **さん、**さん、**さんに聞いた。
 「昭和17年(1942年)ころの運動会の種目に『敵前上陸』というのが入っていました。麦わらで、側だけを作った舟を、上陸用舟艇と言うてました。10人ほどが入れるようなもので、途中で飛び降りて、それから竹の棒を鉄砲に見立てて、パンパン言いながらワーッと突っ込んでいく。そういう風なことが小学校にも入ってきたんですよ。軍事教練とかいって、女の子は長刀(なぎなた)を習う。男は剣道や柔道を習う。竹刀(しない)もなかったので竹を切ってきてそれでやりました。
 終戦前の昭和19年(1944年)ころからは、学校の庭に防空壕(ぼうくうごう)を掘ったり、その周辺はカモフラージュするためにサツマイモを植えたり、荒れ地の開墾をして、イモを作ったりしとったですよ。戦時体制の物資不足や食糧難の時代ですよ。それに戦争協力として、学校で炭俵を編んだりしたですよ。炭を焼く人はそれに専念し、木を切り出したり炭を焼いたりする。炭俵は他の人が作る。そのために小学校でも一斉にその炭俵作りをやったんです。焼いた炭も山から出さないといけない。それも小学校から集団で行ったんです。山の上から道路まで背負うて降ろすんです。そんなこともやったですよ。
 高等小学校の時だったが、朝礼でずっと並んでいて、整列の体勢で教室に入る。それを教室の高い所から校長先生が見よって、列がちょっとでもいがんで(曲がって)おったら、皆が教室に入って、席に着くころに、非常召集がかかる。そろうまでやり直しじゃ。そして勉強し始めると、今度は、『防空演習じゃ』と言うて、また非常召集じゃ。そんなふうに、避難訓練じゃの防空演習じゃのがあって、勉強なんかまともにはできんかったですよ。もうひとつ、学校に行っても、出征兵士があった家に勤労奉仕で手伝いに行く。それが日課じゃった。」
 ここにも、今と形は違うが、時代の流れというか、大人社会の影響下に逆らえない子供たちの姿があった。


*11:男子または子供のしごき帯。もと薩摩の兵子(へこ)が用いたからいう。
*12:神武天皇即位の日を設定して祝日としたもの。第二次大戦後廃止。
*13:天皇誕生の祝日。第二次大戦後天皇誕生日と改称。
*14:明治天皇を記念して制定された祝日(明治天皇誕生日)。1948年廃止。
*15:御真影(天皇・皇后の写真)や教育勅語謄本を安置するために、学校の敷地内に造られた施設。
*16:明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語。1890年制定、1948年廃止。
*17:旧制の学校の教科目の一。国民道徳の実践、徳性の涵養を目的としたもの。明治10年代から重視され、第二次大戦後は
  廃止。

写真2-2-27 草履と足半(あしなか)

写真2-2-27 草履と足半(あしなか)

足半(右上)、わろぞうり(左上)、鼻緒に布を編み込んだもの(右下)。平成10年12月撮影