データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛のくらし(平成10年度)

(1)人生の「きり」

 子供が13歳から15歳くらいになって心身の成熟期を迎えるころになると、一般に成年式と呼ばれるさまざまな儀礼が行われ、これを通過することによって、公私ともに一人前の大人として認められた。当時は一人前とは、一人前の労働力を持つことが基準とされ、成年式は単なる儀式ではなく、大人として生まれ変わるという重い意味を持っていた。成年式には、ふんどしをしめる祝い、特定の服装を付ける祝い、特定の場所で心身に試練を加える山登りの儀式などがあった。若者組(*17)への加入儀式も、成年式の一部と認められて、この式を境に、家庭でも村の中でも子供を一人前の大人として扱い、社会的な自覚と責任を持たせ、自治組織によって若者同士で鍛えるという方法がとられた。

 ア 家からの巣立ち

 (ア)北浦青年団への加入

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正11年生まれ 76歳)
 **さん、**さんは北浦に生まれ、地域と深くかかわりながらくらしてきた。**さんは、昭和5年(1930年)に、**さんは昭和12年(1937年)に青年団に加入した。太平洋戦争前の北浦は青年たちの出稼ぎの盛んなところであった。一方青年たちの活動も盛んで地域へのかかわりの強いところでもあった。
 **さんと**さんに、若者組の伝統を残した青年団の体験を聞いた。
 「(**さん)『伯方島誌(②)』には、『明治のころまでは、男子は15歳になると若衆宿への出入りを許されてふんどしをもらい、女は13歳になると娘宿へ入ってオバクロ(おはぐろ。歯を黒く染める)をつけるようになったといわれ、このときから成人の仲間入りを承認されたといわれる。』と昔の成人式について記録がありますが、わたしらの時代には、そのような伝統は大分薄れていました。青年団には、尋常高等小学校を卒業した昭和5年から入りました。入団のときには、あいさつ代わりに酒を1升(約1.8ℓ)持っていくことになっていました。なかには持っていかない人もいましたが、親がたいがい持っていかしておりました。なんと言っても、まだ子供ですから。ここでは青年団に入っても寝泊まりはしていませんでした。」
 「(**さん)青年団に加入すると、その夏に初めて袖の付いた浴衣を母親が作ってくれていました。そして、冬は久留米絣(くるめがすり)の羽織と着物の上下を着て、帽子は、冬は山高帽(やまたかぼう)をかぶり、夏はかんかん帽(麦わらを固く編んだ頂の平らな男子用の夏の帽子)をかぶっていました。青年団に寄る(集まる)ときには、それが制服のようなもので、それを着ると、若いし(若者)になったという気持ちにさせられよりました。夏は浴衣の袖を肩にたくしあげて、粋(いき)がっていました。太平洋戦争の始まる少し前ころから着物から洋服に変わりました。」

 (イ)中組青年館へ

 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正14年生まれ 73歳)

 一本松町増田は、増田川流域の盆地に位置し、今も江戸時代の旧村の氏神様がそのまま祀られ、住民の地縁的なつながりが強く、遠い昔からの伝統やしきたりが地域の行事の端々に残っている。花取り踊り(県指定の無形民俗文化財)で有名な安養寺のある増田中組(図表2-1-9参照)には、太平洋戦争中まで若いし宿(青年館)があり、地元の若宮神社に若者組(若いし組)が石灯籠(いしとうろう)を寄進するなど、青年たちの活動が盛んな地域であった(写真2-1-25参照)。
 **さん、**さんは、増田中組に生まれ、地域と深くかかわりながらくらしてきた。**さんは増田中組青年館に昭和7年(1932年)に加入した。**さんは昭和15年に加入し、太平洋戦争で若者が少なくなり青年館の活動ができなくなったころまでの体験者である。今では数少ない体験者となった二人に、青年館での体験を聞いた。
 「青年館は、地域の若者の泊まり宿でした。当時増田は、戸数300といわれ、その下部に5、60戸ずつが一つの組をつくっていました。それが、葬式や念仏講の単位でもあったのです。この組に当たる、ほぼ、今の集会所単位ごとに、青年館が建てられていて、増田地区には5か所ほどありました。わたしの加入した中組の青年館は、空き家になっていた近くの民家を移築したものでした。
 わたしらのときには、若いしの仲間に入れてもらうことが成長の証(あかし)でもありました。『学校さえぬけたら(卒業したら)青年館へやってこいよ。』という感じでした。
 若いし組への入会は、普通は尋常高等小学校を卒業した14、5歳で、中組の者はだれでも入会でき、兄弟で参加している場合もありました。青年館への加入は一般的には父親が一升瓶と少々の肴(さかな)を下げ、布団を担いで青年館に頼みにきていました。入会したその日から夜は青年館で寝泊まりしていました。昼間の仕事を終えて、夕飯を食べ終わると、三々五々と青年館に集まるのです。毎晩14、5人は枕を並べて寝ていたでしょうか。小学校を卒業して結婚するまで自分の家で寝る者はほとんどなかったくらいでした。」

 イ 男の一人前

 一人前として認められる基準は二つに大別される。一つは年齢による基準、いま一つは労働力による基準である。青年団に加入するとか、徴兵検査を済ますなどは、年齢による基準といえる。一方、米俵1俵(約60kg)を担ぐとか、日に5畝(せ)(5a)の稲刈りができるといったことは労働力による基準である。一人前となった男子は、村普請(むらぶしん)・みこしかき・農や漁の作業への参加が認められていたのである(⑬)。

 (ア)男の裸の式典-徴兵(ちょうへい)検査-

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正4年生まれ 83歳)
 わが国では、明治6年(1873年)徴兵令が出されて、国家が国民に兵役義務を課し強制的に徴集して兵役に服させる徴兵制度が発足した。徴兵令により満20歳に達した男子はすべて兵役に服することになった。最初の徴兵検査は、明治7年に延期されて実施された。愛媛県においては、同7年に実施している(9月24日から始まり10月1日に完了)。以後、太平洋戦争後に昭和2年に出された兵役法が廃止されるまで、徴兵検査は青年男子にとって一人前の基準とされた。
 **さんにその体験を聞いた。
 「わたしが徴兵検査を受けたのは、昭和10年(1935年)のことでした。明治7年の徴兵検査は東予地区では現在の西条市で行われたようですが、いつのころからか、越智郡上島(かみじま)諸島(弓削(ゆげ)島・生名(いきな)島・岩城(いわぎ)島・魚(うお)島など)と大三島・大島・伯方島の若者の徴兵検査は、木浦の小学校(現伯方小学校)で実施されていました。この地方での検査は、4月から5月ころでした。その年の検査を受ける人には事前に通知が来るのです。通知があると島外に働きに出ている人も本籍地に帰って受けていました。弓削島・魚島などから来る者は、前夜は木浦に宿泊していたようで、緊張して眠れぬ夜を過ごした者もいたと聞きました。北浦のわたしたちは、当日の朝各自が、誘いあって、検査場に弁当持参で集合しました。以前は1里ほどの山道を歩いて行ったそうですが、北浦から木浦の道も大正12年(1923年)に改修されたので、ほとんどの者は自転車で行きました。会場に着くと役場の兵事係が出欠を確認しました。軍国主義の盛んなときですから欠席でもしたら、理由のいかんを問わず厳しく処罰されますから、時間厳守でずいぶん神経を使いました。服装も以前は紋付袴(もんつきはかま)(和装の礼服)の時代もあったそうです。わたしたちのときは、頭髪は、全員短く切っていました。服装は、日中戦争の始まった昭和6年(1931年)ころから、国防色の洋服が多くなってきましたがまちまちでした。
 検査は学科試験と身体検査がありました。学科試験は小学校6年生程度の算数と国語の筆記試験でした。身体検査では、越中ふんどし一つの裸になり整列するのです。一言の私語も許されない緊張のひとときでもありました。軍の衛生下士官が身長・体重などの身体検査をして、軍医が胸とか心臓や、手足の機能検査などをした後、最後に痔(じ)や陰部の検査がありました。
 痔の検査は、床に描いた足形と手形に合わせて四つんばいになって受けました。異常がなければ『よし』といって尻(しり)をたたかれていました。性病の検査は、軍医が若者の男根(だんこん)をつかんで、ちょうど乳牛の乳を搾る要領で親指と人差し指に力を入れてしゃくるのです。病気にかかっていると激痛が走りうみが出るのだといっていました。検査の判定には、甲種、第1種乙種、第2種乙種、丙種、丁種(兵役免除)がありました。甲種に合格した者は2年間の兵役に服すことになっていました。
 最後に、聯隊(れんたい)区司令官(聯隊区徴兵官首席)の代理の者の前で、書記官から検査の発表があり、それを本人が復唱(ふくしょう)していました。書記官が、配属の希望なども聞きました。わたしは、そのころ、国を守らなければという意識が強く働いていたので、中国東北地方(旧満州)の独立部隊を希望してそこに入隊しました。
 当時甲種合格というのは、一人前の男の折り紙(証明書)でもあったので、甲種合格といわれたら確かに気分はよく、うれしいことではありました。しかし、それは2年間の兵役に服すことで、戦時になれば戦場に赴かなければならないこともあり、当然その覚悟が必要でした。徴兵検査を受ける前に本人が志願する志願兵もいました。
 徴兵忌避(徴兵を嫌って避けること)は当時は許されないことで、逃げ隠れしても、草の根を分けても憲兵(軍事警察をつかさどる軍人)と警察が捜しました。徴兵検査を受けることも兵役に服することも個人の意志を越えて、逃れられない国民の義務(*18)でもありました。
 親は、甲種合格になる者はだいたい予測できるので、覚悟はしていたと思います。『甲種合格になればいいが、ならねばいいが。』と内心、子を思う親の気持ちは半々で、揺れ動いていたのが人情の実際であったと思います。そのころには甲種合格の者でも『くじのがれ』といって軍の定員の関係で、くじで兵役を免れる人もあったわけです。
 徴兵検査。それはまさに、男だけの裸の成人式でした。個人にとっては、この検査は大人への区切りであり、人生の節目でもありました。」

 (イ)石山稼業(いしやまかぎょう)-石山の徒弟制度-

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正11年生まれ 76歳)
 手職を求め親方のもとに弟子入りして修業し、一定の年季を経て初めて一人前になる制度を徒弟制度と呼んだ。ここでは、石山での徒弟のくらしを通して一人前になる職人の姿を探った。
 伯方町北浦の石山稼業(石材を切り出す仕事)は歴史的には、慶長年間(1596~1615年)に行われた藤堂高虎(とうどうたかとら)(1556~1630年)による今治城の築城にまでさかのぼるとされている。北浦の人々は水軍時代の経験を生かして、小船を駆使して築石を運んだり、石積みなどを行い築城に大いに貢献した。その熟練工は、普通の人夫賃の3倍という特別待遇を受けたという言い伝えがあり、これが北浦の石山稼業の起源であると言われている。
 特に、太平洋戦争前の北浦では、小学校を出た若者はほとんど例外なく石山へ働きに行き、これに行かなかった者は一人前扱いされなかったほどであるという(②)。
 **さんは、昭和5年(1930年)に石工としての見習いになり修業の後、太平洋戦争後に独り立ちして、各地の工事現場で活躍した。また**さんは昭和12年に石山に行き、短い期間であるが、石山での見習いの体験をしている。
 **さんと**さんにその体験を聞いた。

   a 石山でのかしきのくらし

 「(**さん)伯方島は出稼ぎが盛んなところですが、それには歴史的な背景と離島農村の経済的理由がありました。この地方では、石工に弟子入りすることを、『かしきに行く』と言っていました。『かしき』とは、飯炊きやのみ焼きのふいご吹きのことで、それを手始めに3、4年間修業をするのでした(図表2-1-10参照)。
 昭和12年にわたしが行ったのは、岡山県小田郡北木島(きたぎしま)(現笠岡市)の大きい丁場(ちょうば)(石切り場)で、石工が20人くらいいました。毎朝4時起きでしたが、16歳のころの4時起きは、眠くてつらいものでした。起きたら、まず飯炊きとお茶を沸かしていました。5時がきたら皆を起こして、食事が終ったら、すぐ皆現場に出ていました。食事は1日に4回食べていたのでその世話は大変でした。
 丁場は、たいがい離れ小島とか山の奥とか人里から離れた所が多く、特別の世界でした。それこそ『不自由しに行くようなもの』でした。山の上では水くみが大変で、風呂をたまに沸かして大勢が入ると、後の方の湯はどろどろになりましたが、わたしはそれに入っていました。電灯も畳もない丁場も多かったです。たくさんのノミがいても、くたびれているからそれでも寝ていました。電気がなければランプに油をついで火を付けるのもかしきの仕事でした。
 梅雨のころで長雨が続くようなときは別としても、雨の日も大抵のみを焼いたり道具の修理がありました。月に1回紋日(もんぴ)と言って決められた休みの日がありました。親方に食べさせてもらっているので、休みの日でも、普段の労働時間の4分の1は食い料分として働くことになっており、午前9時ころまで仕事をしてから休んでいました。
 かしきのころ、いつも腰掛けてふいごを吹いているので、ズボンの尻には穴がよくあきました。たまの休みに繁華な所に行くと、その穴を見た娘たちが『丁場のかしきじゃ、かしきじゃ。』と言って冷やかすので恥ずかしかったです。親方が、月に一度くらい刺身を造って皆に振る舞ってくれました。かしきには、ズボンとシャツ程度は買ってくれていました。町に飲食店くらいがあるところだったので、食事の後片付けをして遊びに出かけていました。賃金は月7円から、多くても10円ほどでした。北浦出身の者は、旧正月と喜多浦八幡神社の春市と盆にはたいがい帰っていましたが、それが楽しみでした。」

   b 見よう見まねで仕事を習う

 「(**さん)石山での若者は、厳しい徒弟制度のもとで重労働に就くわけですが、丁場の階級には上から親方、棟梁、若いもんなどがあり、若いもんには、かしき・ふいご吹き・鍛冶(かじ)などの係がありました。
 かしきの主な仕事は、飯炊きから水くみやよろず雑用係でした。ふいご吹きは、のみを焼くときのふいごの係で、職人が鍛えた石割のみに焼刃を入れるのが鍛冶係でした。かしきは、用事のないときは、現場に出て仕事も習わなくてはいけません。また『ずり』といって、割りかすのこっぱを丁場から出したり、『かしき、雨がふりょるぞ(降ってきたぞ)。』と言われたら、石灰で固めた石出し道が雨で流れないように、急いで保全に行ったりしました。とにかく雑用は多いのです。
 石を割る道具は、げんのう(大型のかなづちのこと。セットク、ハンマーとも言う)とのみでした(写真2-1-26参照)。
 かしきあがりになるのは18歳くらいで、棟梁のところで小割りなどをしながら石の特性を身につけていくのです。小割りとは、大きく割った石を地形石(じぎょういし)(建物の基礎に使う石)や石塔の台石などの製品に合うように割っていく作業を言うのです。石山から大きな石の塊を割って落とすのを大割りといって、ある程度の技術とこつを会得していなければこの作業はできません。大割りは何人かが並んで競争でえんしょう穴(火薬を詰める穴)を掘るので、みんなに遅れると一人前のように言われなかったから競争でしていました。そんなにしながら、自然に体で石そのものを知るのです。ハンマーでたたいてみて石の性質が分かるようにならないと一人前ではないと言われていました。あれもこれも手ほどきしてくれる職人は、ほとんどいません。たたかれたり、いじめられたりしながら、見よう見まねで自然に体で仕事を習得していくというのが普通でした。徴兵検査を受ける20歳ころまでは、雑用の仕事はずいぶん多かったものです。そのころまでにはたいがい一人前になっていました。」

   c 危険と隣り合わせの搬出作業

 「(**さん)山の丁場から石材を運び出すには、ほとんど、曲がりくねった急な坂道を下ろさなければなりませんでした。その石材搬出車には、『又車、かせ車、猫車』などがありました。猫車や又車は、上がりは採石場まで背負って上がっていました。又車は、重さ12、3貫(1貫は約3.75kg)もあるので元気な者でなければ石山仕事は困難だといわれていました。鳥居などに使う長い石材は、かせ車で出していました。坂道の下りは、石の後ろをすらして出すのですが、大勢がかかってすることとはいえ、曲がり切れずに転落することもあり、死にもの狂いでした。あんな、お粗末な運搬用具であの重いものを運んでいたのかと、今では不思議なくらいです。石の搬出はいつも危険と隣り合わせでした。」

   d 独り立ちの『かち行き』

 「(**さん)兵隊から帰った後、『かち行き』に出ました。かちは、石割り道具を担いで工事現場を渡り歩く石工のことで、かちとして出稼ぎに出ることをかち行きと呼んでいました。かちの語源ははっきりしないが、独り歩きという意味だと思います。石工で一人前にならなかったら、かちにはなれなかったのです。工事現場へ行って間知石(けんちいし)(石垣用石材。奥に行くに従い細くなっている形のもの)などの石組みの石を割ったりするので、石の目が読めてどんな石でも割れるようにならないとできないわけです。安山岩(あんざんがん)、鉄平石(てっぺいせき)など石も多種類です。また地殻の変動で石の目が狂っているときもあるので、仕事に行ったらその地方の腕のたつ親切そうな職人の仕事ぶりをよく観察して、その地域の石の特徴と割る要領をのみ込むのです。
 伯方町北浦の石工は、太平洋戦争前、釜山(ふざん)(現在のプサン)や中国東北地方(旧満州)にまで石垣を築きに行きました。日本の鉄道工事のほとんどに北浦の石工が行って石垣を築いたと言われています。コンクリート工事が主流になって、石垣の需要が減って、石の切り出しや、石積みの仕事は少なくなりました。
 かちとして全国に雄飛できた背景に、若い時分に石の特性を体で覚えたことと弟子の時分の苦労が職人としての精神的土台になっていたのだと思います。」

 (ウ)力石で鍛える

 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正14年生まれ 73歳)
 「増田地区(一本松町)の青年館にはどことも力石が置いてありました(写真2-1-27参照)。わたしらのところ(増田中組)には4斗目石、5斗目石、6斗目石、8斗目石がありました。一番小さい4斗目石が米1俵(4斗)の重さにあたる16貫(約60kg)でしたが、14、5歳では担げませんでした。先輩たちから『4斗目石が担げんのは一人前ではない。』と言われたり、『4斗目石が担げるようになったらヨバイにつれていっちゃる。』とからかい半分に言われていました。担げれば、話の種にもなりますし、力が強くなるのは皆の夢でもありましたので、皆暇さえあれば、一生懸命練習をやっていました。8斗目石は32貫もある重いもので、他の館にはなかったかもしれません。さすがにこれが担げる人はほとんどおりませんでした。力石は、たくさんの自然石の中から目方を計って選び出してつくったものです。」


*17:若連中・若衆組などともよばれ、藩政下の村々の若衆によって自然発生的に組織されてきた年齢集団であった。大体15
  歳前後で加入し、婚姻と同時に脱退した。青年の社会教育の場であると同時に、祭礼行事の執行や村の警備や病人の搬送な
  どの役目をになっていた。規律の乱れなどもあり、明治38年(1905年)に表面的には解消され、明治41年(1908年)に
  村単位の青年会に発展して、各地区ごとに支部が置かれた。大正11年(1922年)に青年団と改称された。しかし、その村
  での本質的機能や習俗、慣習は残り、近年におよんでいる(③)。
*18:軍隊に編入されて軍務に服す兵役義務は、旧憲法では、納税・教育とともに臣民の3大義務の一つとされた。

図表2-1-9 一本松町増田中組周辺図

図表2-1-9 一本松町増田中組周辺図


写真2-1-25 若者組の寄進した石灯籠

写真2-1-25 若者組の寄進した石灯籠

平成10年9月撮影

図表2-1-10 「ふいご」と「のみ焼きばさみ」

図表2-1-10 「ふいご」と「のみ焼きばさみ」

**さんからの聞き取りにより作成。

写真2-1-26 石割り道具のいろいろ

写真2-1-26 石割り道具のいろいろ

右の二つはげんのう、左はのみのいろいろ。平成10年11月撮影

写真2-1-27 力石

写真2-1-27 力石

一本松町広見の「水掛け」の鳥居の側にある4斗目石。平成11年1月撮影