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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)安産を祈念して

 「子供」という新たなる生命がこの世に出現するということは、めでたいことだけれども、出産はときには産婦にとっても、新生児(しんせいじ)にとっても生死にかかわることがある。したがって、人々は昔から無事な出産を願い続けてきた。と同時に、生まれ出た小さないのちが1日1日と無事に育ってくれるようにという親の願いもまた、昔も今も変わらないものである。誕生から初宮参りまでの1か月の問に小刻みにお祝いをするのは、子のいのちが無事に成長することを確かめるためで、その儀礼には親や近親者たちのこまやかな心がこめられている(①)。

 ア 伯方町北浦

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正6年生まれ 81歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正10年生まれ 77歳)
 越智郡伯方町は、愛媛県の北部、芸予(げいよ)諸島のほぼ中央に位置する伯方島にあり、平成11年の瀬戸内しまなみ海道(本州四国連絡橋今治~尾道ルート)の完成により、今治市と尾道市(広島県)を陸路で結ぶ交通の結節点として新しい時代を迎えようとしている。伯方町北浦は(図表2-1-1参照)、伯方島の北東部に位置し、地名は北に開く港の意による。北浦は、室町時代から見える村名で、明治22年(1889年)からは西伯方村の、また昭和30年(1955年)からは伯方町の大字名となった。かつて、塩浜(塩田)と島外への石工(いしく)稼ぎが盛んであった。集落の一角にある喜多浦八幡大神(きたうらはちまんだいじん)神社(以下、喜多浦八幡神社と記す)には、村上水軍の遺風(いふう)と伝えられる弓祈禱(ゆみぎとう)の行事が今も続いている。また、江戸時代に石工の出稼ぎに行った若者たちが奉納した巨大な亀石や石のちょうず鉢(手水をいれておく鉢)がある(②)。
 **さんは、昭和12年(1937年)に長女を出産後5人の子供に恵まれた。**さんは、昭和15年(1940年)に結婚して、昭和18年に長男が誕生したが、その2か月後に機帆船に乗っていた夫が徴用召集で戦地へ行った。幸い昭和21年に夫が復員し、昭和22年に長女、昭和25年に次男が生まれた。
 二人から出産儀礼などについて聞いた。

 (ア)帯祝い・安産祈願

 「(**さん)この地方では新しいいのちを見ごもった妊婦が腹帯を締める帯祝いのことをオビトリといいます。妊娠5か月に入った月の始めの干支(えと)の戌(いぬ)の日を選んで岩田帯(*2)を締めました。戌の日は、イヌのお産が軽いのにちなんでのことなんです。わたしの里から白いさらしを1反(大人の着物が1着できる布の長さで、約10.6m)持って来てくれたのを、神棚へ祀(まつ)って家の者で御祈念しました。その日は、産婆(さんば)さんが診察をしてくれ、さらし1反を帯にしてきれいに巻いてくれました。それが済んでから、アズキ御飯を炊いて、産婆さんとわたしと夫の両親とでお祝いをしました。
 この地方では、弘法大師(こうぼうだいし)(*3)が安産極秘の法を伝えた寺として有名な、小松町(周桑郡(しゅうそうぐん))にある子安大師さん(香園(こうおん)寺、四国霊場61番札所)にお参りする人が多かったです。以前は子安講がありました。船で2時間かけて今治港まで渡り、汽車を乗り継いでですから、1日で帰ろうとすると一生懸命でした。桐(きり)の箱に入った『子持ち子安地蔵像』と『安産護符(ごふ)』をいただいて帰っていました(写真2-1-1参照)。2、3番目の子供の出産の時になると子供を連れてなかなかお参りできないので、いただいてきた子安さんのお姿にお願いしていました。
 子安大師さんでもらった安産の護符(人間を災害から守る力があるという神仏の札)は、幅が5mm、長さが2cmくらいの薄い紙の札に、6文字の梵字(ぼんじ)(古代インド語〔サンスクリット〕を記す文字)が書かれていました。お産の前に産婦は、この紙の札を浮かべた水を飲ませてもらいました。お大師さんの御加護を信仰してのものでした。」
 「(**さん)この地域の人たちは、善福寺(図表2-1-1参照)の近くにある七人地蔵さんに線香を一把(いちわ)(1束)あげて安産のお願いをしていました。子供が生まれるとお礼参りに行って、お豆を供え線香を一把あげて、その豆を子供7人に接待するのです。わたしが子育てをしていた時分には、近所の畑ではソラマメがたくさんできていました。それが子供のおやつでしたので、『子供ができたんよ。お接待よ。』と言って渡していました。今は近所に子供が少なくなったので、大人も含めて7人ということにしていますが、ソラマメも少なくなったので、駄菓子などを買ってお豆に替えています。わたしは、子供が熱をだしても七人地蔵さんにお参りしていましたが、今はお参りする人も少なくなりました。」

 (イ)お産・後産(あとざん)(*4)・産後の養生・産見舞・産の忌(い)み(*5)

 「(**さん)この地域では、わたしのころは嫁は里へ帰ってお産をしていました。昔は畳を裏返し、むしろを敷いてしていたようですが、わたしらの里でのお産は、畳はそのままで布などを敷いてしていました。昔と違い特別な産屋(うぶや)ではなかったです。
 昔は巧者なトリアゲバアサンがいて、わたしは、そのトリアゲバアサンに取り上げてもらったんだそうです。昔は、赤ちゃんをお酒で拭(ふ)いたら出来物ができない。肌の色が良くなると言ってそうしていたようです。
 わたしがお産をしたときは、もう免許を取った産婆さんで、年を取った人と若い人の2名いました。お産のとき夫は産婆さんに連絡するのと、湯を沸かす程度でお産の場には入れてもらえませんでした。産気づいたら、赤ちゃんがつるっと出るようにと、そうめん汁を作って産婦に食べさせていました。また産婆さんは、生卵を食べるようにとも言っていました。伯方島の女性で自転車をいち早く購入し、利用したのは産婆さんであったと聞いていますが、わたしがお産をしたころも自転車に乗ってきていました。産婆さんは、1週間ほど自宅へ通ってきて赤ちゃんに湯を使わせてくれました。」
 「(**さん)後産は、その年のアキホ(明(あき)の方(ほう)、恵方(えほう))を向いて、海岸の砂浜に埋めに行っていました。海岸へみな胎盤を埋めていたのです。お正月の11日に喜多浦八幡神社の弓祈禱がありますが、あれはアキホを向いて矢を射るのです。アキホは年ごとに変わるので、その時の方位を確かめてそちらへ行くのです。それも必ず女二人連れで、かつ胎盤をお日さんに当てたら罰があたると言うので、日の出前か日没後に行っていました。埋めた後、二人のうち、どちらかがそれをまたぐのです。最初にイヌなどの動物がまたぐと、赤ちゃんがそれに恐れるようになってしょうがないから、埋めに行った人が先にまたげと言われていました。それからお線香をたいて拝んで帰っていました。」
 「(**さん)オヒチヤ(お七夜)には、赤ちゃんは産毛(うぶげ)をそっていました。
 そった産毛とへその緒を一緒にして残していました。へその緒は桐の箱に入れて産婆さんが名前を書いてくれていました。またその箱には、ほうそう(種痘(しゅとう))をしましたという証明の赤い紙を小さく折って一緒に入れていました。
 へその緒は、後産と同じく、赤ちゃんの分身であって、その子の将来の運命を定める力があるとされ、その処置の仕方は重要な意味をもつと考えられていました。日本の風土に伝えられてきたいのちにたいする考え方を示しているのだと思います。
 産湯(うぶゆ)は、アキホを向いて流していました。日に当ててはいけないといって、日中に生まれたりすると、たご(担いおけ)にとっておいて日暮れにアキホを向いて捨てていました。
 産着には、男の子も女の子も、赤子だから赤い着物を着せたらよいと言われていたので、昭和12年(1937年)と14年(1939年)に生まれたわたしの子供には、赤い産着をつくってやりました。赤い色には魔除(よ)けの意味があるようですが、それとかかわりがあったのでしょうか。後の子供には物不足で新しい布を買って作ってやることができませんでした。着物の裏をとったり帯のしんをとったりして、産着を縫って着せていました。
 産婦は、産後33日まではゆっくり寝て休養している方が、元の丈夫な体に戻りやすいと言っとりました。自分の里ですのでゆっくりできましたが、それでも初めての子はいいのですが、2人目3人目になってくると、上の子供も手掛け(世話をする)なかったらいけませんから、そうゆっくりもしておれませんでした。
 赤ちゃんには『生まれたらすぐにフキをしゃいで(つぶして)飲まさにゃいかん。』と言っていました。これは毒下(どくくだ)しと言って、これを飲ませると御腹(おなか)の中がきれいになると言われていました。フキをたたいてその汁をとり、白湯(さゆ)に溶かしてガーゼにしませて(染み込ませて)、赤ちゃんに吸わせていました。初めての食べ物ですから、苦(にが)くてもちゅうちゅう吸っていました。
 なぜか分かりませんが、産婦は、悪い血が早く下りるようにと、産後3日以内にチヌを食べていました。しかし、3日を過ぎたら今度は100日まではチヌを食べたらいけないと言われていました。果物では、カキも100曰くらいは御腹が冷えてよくないから、食べてはいけないと言っていました。
 お産見舞いの品は、大抵お魚でした。産着のお祝いをくれるのは肉親ですが、隣近所などはお産見舞いに白身のお魚をくれました。それから、ヒアケ(初宮参り)までに、昔はネル(毛織物の一つ)の布とか、一つ身の着物(背縫いのない乳児の着物)などを出産祝いにくれました。
 昔は、女は出産したとき、産の忌みが明ける30日ころまでは外出してはいけないという風習があったようです。わたしらのときには、それほど厳格ではありませんでしたが、やはり、外に出るのは、なるべく控え目にしていました。」

 (ウ)名付け・呪法(じゅほう)・初宮参り

 「(**さん)出産後7日目には、名付け祝いといって命名の儀式がありました。夫の家でしていました。嫁と産まれた子供が、まだ嫁の実家から帰っていなくても夫の家で名前を書いた半紙を神棚にはって、祝っていました。お祝いに炊いた赤飯を盛り、子供にかわいいえくぼが出るようにと赤飯を指で押さえてくぼみをつくっていました。名付けの日には、夫の家のかまどの炭を赤ちゃんの額にまじないとして付けていました。これは、初宮参りのとき、危難除けにかまど神に守ってもらうのだと言われていましたが、あちこちで行われてきた邪悪なものを防ぐ魔除けの風習とかかわりがあるのではないかと思います。」
 「(**さん)ある家で男の子ばかりが続いて生まれた後に、女の子が生まれると、その子が元気に育つことを願っていったん橋の上に捨て、女の子ばかり生まれて元気に育っている家の人にすぐ拾ってもらい、その家で名付けをしてもらっていました。女の子ばかりが生まれている家に、男の子が生まれても同じようなことをしていました。わざと四つ辻(つじ)とか橋の上の危険な場所へ捨てるのは、それによってその後の災いをまぬがれることができるという、まじないの考え方に基づいているものと考えられます。子供がなんとか元気に無事に育ってもらいたいとの親の願いから出たのだと思いますが、そんな風習がありました。」
 「(**さん)嫁は、ヒアケ(ヒアキ。産の忌みが明け、新生児を初宮参りをさせる日)までは実家にいました。この日は赤ちゃんが生後はじめて氏神に参拝する儀式で、嫁ぎ先の母親と里の母親と嫁の女だけ3人と赤ちゃんとでお参りしていました。男の子は32日目、女の子は33日目に行うことが多く、お宮参りに行ってはじめて氏子になるのです。神前に酒1升(約1.8ℓ)と米1升(約1.5kg)をお供えして、神主さんにその子の名を言ってお祓(はら)いをしてもらい、お札と御饌米(ごせんまい)(神前にお供えした米)をいただいて帰っていました。お宮参りのこの日の晴れ着を宮参り産着と言い、嫁の実家から贈られる習わしでした。
 この日はまた、お客さんを呼んでごちそうをし、引き出物として記念品を出していました。お客に呼ばない人でも、産見舞いや、出産祝いをいただいた方へは、半紙を細く短冊形に切って、それに子供の名前を書いて、お返しの品に添えて配っていました。」

 イ 一本松町正木

 **さん(南宇和郡一本松町正木 明治45年生まれ 86歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 昭和5年生まれ 68歳)
 南宇和郡一本松町は、江戸時代は宇和島藩に属し、明治22年(1889年)に正木・増田・小山・広見・中川・満倉(みちくら)が合併して一本松村となり、昭和37年(1962年)に町制を実施し現在に至る。東は篠(ささ)川を隔て高知県宿毛(すくも)市と接する県境の町である。北の県境域にそびえる篠山(標高1,065m)は、古くからおささと呼ばれ信仰の山として尊ばれている。山頂には篠山権現を祭る篠山神社があり、登山口に当たる南ろくの一本松町正木では、篠山権現の祭礼に、花取り踊り(*6)を奉納する。また大正の終わりころまでは、6月1日から8月20日まで「篠山日参」が行われていた。この期間には、毎日各戸2人ずつ交替で出て、お札を担いで篠山へ日参し、家内安全、五穀豊作を祈ったといわれる(④)。正木地区は篠川に沿って位置する山間地域で、四方を山に囲まれた農山村地帯で穏やかで純朴な人間をはぐくむ。隣同士の高知県宿毛市とは、通勤通学の交流も多く密接な関係を保っている。
 **さんと**さんは共に正木で生まれ、そして結婚し、正木の風土のなかでくらしてきた。**さんは、かじ屋を生業とした夫を支え、11人の子供に恵まれた。長子は昭和5年(1930年)の誕生である。**さんは夫と共に林業を営み、3人の子供に恵まれた。長子は昭和28年(1953年)の誕生である。二人に成育儀礼などについて聞いた。

 (ア)帯祝い・安産祈願

 「(**さん)腹帯は、赤ちゃんの体位を安定させるのと、御腹を冷やさないためだったと思います。オビトリ(帯祝い)は産婦としての自覚を持たせてくれました。わたしも実家からもらった、白いさらしの岩田帯を妊娠5か月の戌の日に、はじめて助産婦さんのところへ持って行って締めてもらいました。初めての子のときは、赤飯を炊いて夫とわたしの親からお祝いをしてもらいましたが、次の子供の時からは、お祝いはしてもらいませんでした。
 篠山の登山道の脇道に、子安地蔵と言われているお地蔵さんがあって、正木の御在所(ございしょ)組(御在所の自治組織)では、安産祈願のお講をつくっているのです。
 わたしも、長男が生まれた昭和28年には子安地蔵にお礼に行きました。そのころは、まだみんなが酒、肴(さかな)を持って現地に行ってにぎやかにやっていました。地蔵さんのある場所が山の中腹なので、険しい山道をかなり歩かなくては行けないのです。今は現地にみんなが行くのは大変なので当番を決め、その年の当番の人が子安地蔵さんへ代参して、御在所集会所で年に1回、講を開いています。旧暦の2月24日でしたが、今はなるべく皆が集まりやすいその前後の日曜日を利用しています。その日は、集会所に祭壇を設け、おだんごをお供えして、各家で安産のお願いやお礼を言うのです。ちょっとした料理なども作り、女性たちで食べています。この御在所組は、今20戸余りありますが、この組の既婚(きこん)の女性たちの楽しみの一つになっています。この子安地蔵のほかにも、この地域には、安産を祈願した見合い地蔵さんが残っています(写真2-1-4参照)。見合い地蔵の名は、ここは川一つ隔てて土佐の山北と接していますが、藩政のころは他国で往き来は簡単にできなかった。そのころ、若い男女が川の両岸に立って見合いをしたりすることもあったというのが起こりのようです。」

 (イ)お産・後産・産後の養生・産見舞・産の忌み

 「(**さん)『あの人は、昨日は田植えしょったで。』『それでも、昨夜でけた(昨夜子供が生まれた)いうよ。』そんな会話が交わされるくらい、農家の産婦は、子供が生まれる直前まで働いて、お産の前に休むということはほとんどなかったのです。また1週間して床あげをしたら仕事をしていました。
 わたしは、昭和5年に長男を産みました。それも7月のちょうど暑い盛りに、暑い部屋の中での出産でした。お産の後すうっと体が涼しくなったのを覚えています。
 わたしのところは家が狭いから、別には産室はありませんでしたが、部屋は一般には『別室の奥』と言われ、奥の間の部屋に入ってお産をしていました。その部屋は普段は長持(ながもち)(衣服・調度などを入れておく長方形のふたのある箱)などを置いたりして物置に利用していました。そこを片付けて産室にするのです。食事は家の人に作ってもらって食べていました。
 わたしは、産婆さんにはお願いしませんでした。2番目の子供までは、この地区に器用な人がおり、その人に取り上げてもらいました。3人目のお産からは、赤ちゃんの取り上げも、自分でしました。出産が間近になると、いつ生まれるか分からないので、はさみやへその緒をくくるひもなどをそろえて、枕元へ置いて寝ていました。赤ちゃんが生まれるときには、いつも主人が湯を沸かしてくれていました。自分で赤ちゃんを取り上げてから、産湯を使わせて、自分の身じまいも、きちっとしてから休んでいました。
 子供を産むということは、女にとって大役ではありましたが、ごく普通の、ありふれた日常のくらしの一こまとしてとらえられていました。そして、お産というものは、もともと病気ではなく、人間の体に備わっている自然の営みだと考えられていました。
 この地域では、夫か家族の者が後産(胎盤)はお墓に持って行って始末をしていました。また産湯は、産室の床下の土を掘ってそこに流していました。」
 「(**さん)産着は母親に教えてもらいながら、白いガーゼで作りました。生まれるまでには、熱湯で消毒をして準備をしていました。おむつも使って柔らかくなった浴衣などを解いて何十組も用意をしました。
 わたしの長男が生まれたのは、昭和28年でしたが、夫が一本松の今の町役場の近くまで助産婦さんを自転車に乗って呼びに行きよりました。そこに開業助産婦さんが二人ほどいました。片道10kmほどの道のりでした。道路は、まだ舗装もされていないでこぼこ道でしたが、自転車は当時としてはほとんど唯一の便利な交通手段でしたのでその道の悪さも苦にならなかったのだと思います。当時はベビーブームも一段落していたので、産婆さんも手のあいているときには、名付けまでに1回くらいは赤ちゃんに湯を使わせにきてくれました。
 へその緒は、1週間くらいすると乾燥して自然にとれますが、それを箱に入れて大切に保管していました。太平洋戦争前には赤子の髪をかみそりで坊主頭にそるが、耳の横と首の後にちょっと産毛をそり残す風習がありました。
 産後の食べ物は、サトイモのズイキ(サトイモの葉柄、茎。乾かしたものは『いもがら』といい食用にする)と、餅米の粉をだんごにし、みそ汁に入れたものが、それがもう一番のごちそうでした。普段は、おムギやイモの御飯ばっかりでしたけど、お産のときにはそれを作って産婦に食べさせていました。早く乳が出るようにと、餅米を食べさせたのです。確かに、餅米を食べたらよく乳が出ると言われていました。この地域では、当時は、田植えは近所が労力を出し合うテマガエで共同で行っていましたが、乳飲み子を連れた母親が田植えに出ると、そのときは赤飯をもらって食べるから、お乳がよく出ると皆が言っていました。普段は、今のように白いお米の御飯は食べられず、雑穀を多く食べているから目に見えて効果があったのでしょうか。」
 「(**さん)めん類を食べよるとお乳がよく出よりました。そしておみそ汁のだしにはアユを必ず使っていました。お産が冬でしたらもうアユは捕れませんので、秋に夫が川に行っては捕ってきたアユを、火にあぶって干し、それをベンケイ(魚の串などを刺す、わらを束ねたもの)に刺して天井につるしていたのをだしに使いました(図表2-1-3参照)。この地域では子供ができたら必ずアユを食べていました。
 産後は、青魚のような油の多いお魚はいけないということで、赤ものといってタイなどのような白身のお魚とズイキをみそ汁に入れていました。ズイキは、血の巡りを良くするということで、必ず入れていました。お産のあるうちでは、『今年は子ができるから、ズイキを取っておかなくてはいけない。』と言って取っていました。
 赤ちゃんが生まれたというと、近所の人々が産見舞いに、まずぼた餅をつくって名付けまでに持って行きます。それから後で、赤ちゃんの衣類にする布や毛糸などの出産祝いをするのです。
 正木地区では、『産後は、33日を過ぎるまでは、丸木橋を渡ってはいけない。』と言っていました。元の体に戻ってないので気分が悪くなったり、目を回したりして足元がふらついてはいけないので産婦を保護し、危険を防止するための言い伝えではないかと思います。
 お産は赤火(アカビ。死の忌みのクロビに対して血の忌みをいう)といって不浄と思われていたので、産後7日目までは、『産をした』といいましたらその家へは足がけ(出入り)をしませんでしたですね。お産のあった家の者が、他の家へ行っても気に入らない人もありました。」

 (ウ)名付け・呪法・初宮参り

 「(**さん)最初の男の子や女の子は、名付けといって、床の間に名前を書いた半紙をはり付け、近所の人や親せきを呼んでお祝いをしていました。一本松町町内にある出雲大社に、名前をもらいに行く人もありました。地域で信望の厚い人に名前を付けてもらいに行く人もありました。また祖父母や両親の名前の1字をもらって付ける場合もありました。本家の子供などは、祖父母や親せきの期待も大きく、皆で相談して決めたりもしました。親の考えだけではなかなか決められませんでした。」

   a 三十三つぎの着物

 「この地域にも、子運が悪くて、子供が何人生まれても育たない家では、33軒を回って、1軒から1枚ずつ、全部で33切れの布切れをもらって、それらを縫い合わせて一つ身の着物1枚を作って子供に着せる風習がありました(写真2-1-5参照)。わたしの実父は、先に生まれた二人の兄弟が病気で死んで、3人目に、やっと元気に育ったんだそうです。おばあさんが『これが、お父さんが元気に育つようにとの願いを込めてわたしが作った、三十三つぎ(三十三はぎともいう)の着物じゃ。』と言うて、大事にとってありました。また、わたしも、知り合いの女の人に、ちょっと病弱な子供ができたときには、うちは男の子が二人とも元気で育っていたので、その人の子の三十三つぎの着物をつくるために、絣(かすり)の着物の端切れをあげたことがありました。みんなの力を借りて、無事に育ってもらいたいということでしょう。」
 赤ん坊の着物は、その成長と関係が深いと考えられていた。もしも子供が丈夫に育たぬときには、百はぎの布でつくった着物を着せるとよいといわれ、布切れを百か所からもらうという地方もある(⑥)。

   b オヤドリ・トリコ

 「(**さん)病弱な子供ができましたら、オヤドリ(親取り)という風習がありました。親がふさわしくないのだろうか、名前がふさわしくないのだろうかと案じて、別の家に頼んで仮の親になってもらい、戸籍の名前のほかに、呼び名を付けてもらうわけです。これをオヤドリと言っていました。そんなわけで二つ名前がある人がたまにいました。仮親になってもらった人とは、親子関係が続くわけですから、お正月にはあいさつに行きよりました。
 また、子供運が悪かったり、生まれた子が虚弱であったりすると、よい日を選び、その日の末明に道の四つ辻に出て、用意してきた酒と料理を持って人の来るのを待つのです。そこで最初に通りかかった人にその子の仮の親になってもらう。これをトリコ(取り子)と言っていました。そんな風習がこの地方にもありました。
 わたしにも病弱な子供があり、わたしもトリコをしてもらいました。子供の仮親になってもらった人がこちらにいる間は、お正月にはあいさつに行っていました。その人も、最近よそへ出て行ってしまい、そのため、行き来も途絶えました。トリコをしてもらった子供も無事に成長し、今も元気にくらしています。
 取り上げ親、名付け親、親取りなど、親と名の付く者が今日よりずっと多いのは、親と呼ばれる者を多くし、その力を集めることで幼児期の子供の生命の不安定さを克服し、子供の成長を願うという、一つの親心の表れと思います。
 出産後33日目にはお宮参りに行きよりました。それが済んではじめて里へ行きよりました。33日になったら産婦の体も元の状態に戻るんでしょう。忌み明けの時期であり、生まれた子が氏神様に公認してもらうわけです。」


*2:斎肌帯(いはだおび)のこと。斎(さい)はモノイミのことで着帯のときから産の忌(いみ)に入る。岩田の字をあてたのは、
  丈夫に育つようにと岩の字を用いたためと言われる。
*3:空海(774~835年)のおくり名、平安初期の僧で、日本の真言宗の開祖である。讃岐(香川県)の人。最澄らと入唐
  し、恵果に学ぶ。806年に高野山金剛峯寺を開く。
*4:胎児の分娩後、母胎の子宮内壁と胎児とをへその緒でつなぎ栄養供給、呼吸、排泄などの作用を営んでいた盤状の胎盤
  が、続いて排出される。これを後産といい、排出された胎盤を胞衣(えな)という(③)。
*5:日本では古来、死や出産をけがれとして、一定の期間は忌みつつしんでいないといけないとした。忌みは段階的に明けて
  いくので、出産の場合は、7日目をお七夜といい、21日目や30日前後を忌み明けとして宮参りの機会とする例が多い
  (③)。
*6:採物踊りの一種で、刀を用いるのが特色。高知県から流入したといわれ、南予に分布し呼び名や催される時期はところに
  より異なる。一本松町には増田中組や正木に現存し、特に増田中組のものは、県指定無形民俗文化財に指定されている。太
  鼓で囃し、刀を振り、歌につれて踊られる。

図表2-1-1 伯方町北浦周辺図

図表2-1-1 伯方町北浦周辺図


写真2-1-1 子安大師にお参りして

写真2-1-1 子安大師にお参りして

安産護符(左)、安産御守(中)、子持ち子安地蔵像(右)。平成10年11月撮影

写真2-1-4 見合い地蔵さんに祈願して

写真2-1-4 見合い地蔵さんに祈願して

御在所の篠山登山口にある。右側の地蔵に「見合い地蔵大菩薩、明治19年6月吉日」と刻まれている。平成11年1月撮影

図表2-1-3 アユをベンケイに刺して

図表2-1-3 アユをベンケイに刺して

**さんの聞き取りにより作成。

写真2-1-5 三十三つぎの着物

写真2-1-5 三十三つぎの着物

平成10年11月撮影