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愛媛のくらし(平成10年度)

(4)お宿の神様ごめんなさい

 吉田では古くから亥の子がさかん(*33)で、今もお宿への宿泊や亥の子大会など興味深い点がみられる。そこで、ここでは、今回の調査でほとんどの人が吉田の代表的な行事として真っ先にあげた亥の子を取り上げることにした。

 ア 吉田の亥の子

 亥の子は、本来旧暦10月の亥の日に行われる行事であるが、現在吉田(旧町内)では、学校が休みになる11月の第2土、日曜日の2日間、愛護班や公民館の行事として、亥の子を行っている(平成10年は11月14、15日に実施した。なお、吉田町でも他の地域では現在も亥の日に実施しているところが多い。)。
 吉田の亥の子全般について、**さんに聞いた。
 「亥の子は昔からの行事で、吉田は石(*34)でついています。現在は愛護班を中心に、だいたい11月の第2土・日曜日にやっています。前の日は地区の家々を一軒一軒ついて回り、翌日、亥の子大会ということで、吉田公民館の広場に集まってつき上げるんですが、子供たちが色とりどりのたすきをして、なんとも華やかなんです。以前は、女の子は絶対に亥の子組に入れてもらえなかったんですけど、今は子供が少なくなった関係か、あるいは時代の流れか、小学校6年生を頭に男子も女子もいっしょに亥の子行事に参加するようになっています。
 昔は亥の子は子供たち独自でやっとりまして、いろんな決まりみたいなことを、先輩たちが下の子供に伝えていく場としてすごくいい行事だったんですけど、今はその良さがちょっと薄れてきているように感じます。行事の意味もだんだんわからなくなっているようで、あるとき、亥の子をついた穴を子供がまたいだんですけど、お年寄りにものすごく怒られましてね。『そこ、またいでもろたら、うちの嫁さんに子ができんようになる。』言うて。わたしなんかもずいぶん心配しましたが、無事、男の赤ちゃんができましたけどね。
 お供えも、今は寄付(金)になりましたが、昔は子供たちが家々を回って、お餅とか野菜や果物、お菓子など、神様にお供えするものをもらいよったんです。すんでしまったら、今度は、お供えを出してもらった家一軒一軒にそれを配りよりました。皆さんにおすそ分けいう感じで。」

 イ 亥の子宿

 次に、亥の子の2日間を、元町の亥の子組に焦点をあてて、今年(平成10年)その世話をした**さん、**さん、**さん、**さんの話を総合しながら再現を試みた。
 「今年の元町の亥の子組には24名の子供が参加しています。今の時代ですから、多い方だと思います。昔は、亥の子いうと、男の子だけのお祭りだったんですけど、人数が少なくなったので、今は女の子もいっしょにやっています。
 6年生が『トウドリ(頭取)』とよばれるリーダーを務めます。今年は6年生が4人おり、その保護者であるわたしたちが責任者になりました。人数の少ない地区では、小学生の保護者全員でやりよるとこもあるようですけど、元町では、6年生の親がやっとります。
 亥の子が近づくと、まず上級生が元町地区の各家庭に寄付のお願いに回ります。これが4、5日かかります。次に亥の子唄(うた)の練習をします。毎晩6時ころから1時間くらい公民館でやります。これも4、5日続けます。唄は10曲くらいあるようです。わたしらが子供のころは、上級生から口伝えで教えてもらっていましたが、今は歌詞をコピーして配っています。ですから、今ごろになって、『ああ、こういう意味だったのか。』と気付くことがたくさんあります。
 亥の子当日(土曜日)は、お昼くらいまでいろいろな準備をします。これにはトウドリとその保護者があたります。山からハチクを切ってきて、お宿(元町公民館)の飾りや幟のさおにします。また、ヤマクサを採ってきて、亥の子石を飾りつけます。ヤマクサはなかなかありませんから、前もって探しておくんです。さらに、ササを切ってきて、それに『元町子供亥の子連中』と書いた長い短冊を下げます。これは、亥の子をついたときに、その家に配るもので、60本くらいは作っています。お宿には、『段飾り』いいますか、お餅などのお供えを飾ります(写真1-3-37参照)。昔は餅も自分らでついていましたが、今は買っています。
 午後からは地区の家々をついて回ります。昔は家ごとに唄を換えていましたので、今も子供たちには、農家では『豊年じゃ 豊年じゃ 今年の稲は豊年じゃ』というような唄を、また、商売をしといでる家では『おいでた(いらっしゃった)なあ おいでたなあ 大大黒(おだいこく) おいでたなあ』というような唄を歌うように言うんですけど、最近の子供らは『長い唄はいや』言よりまして、できるだけ短い唄をやるようです。つき方も、昔はもっとゆっくりしていたような気がするんですけど、最近はテンポが早くなりました。一軒で30秒もかからんくらいですけど、まあ、あれだけ早いと息切れして長い唄はできませんなあ。昔は、5年生の中で一番力がありそうな子が二人、『ハタガン』いいまして、亥の子石を運んだり、唄の出始めをやったりしよったですけど、今はトウドリが出てやりよります。
 夜は『お宿回り』いいまして、6時ころから8時半ころまで上級生とわたしたち(トウドリの保護者)で、旧町内のお宿をついて回ります。お宿は、今はだいたい集会所(公民館)でやっているようです。このときは必ず、『お宿の神様ごめんなさいちんちんがらりや まんがらや なるは滝の水の音』という唄を歌います。これを歌うのはお宿に行ったときだけです。
 夜はほとんどの子供がお宿に泊まります。昔は個人の家でお宿をやっていましたが、公民館でお宿をやるようになったのがわたしが6年生のときですから、もう40年近く前ですね。ちょうどそのころから小学生だけになったんです。それより前は、中学2年生くらいまで亥の子をつきよったんですけど。
 食事は、夜と翌日の朝、昼は公民館で出します。原則として6年生の母親が作ります。昔は全部作っとったんですけど、最近は夜は弁当をとるようになりました。朝は毎年雑煮と決まっとります。昼は今年はカレーです。昔は1回は必ずお赤飯がでました。
 子供たちは夜はなかなか寝ません。修学旅行の延長みたいに枕投げなんかをしたりして、2時、3時まで起きていることもあるようです。けど、まあ、それが楽しいんでしょう。お宿には6年生の男親が泊まります。
 2日目(日曜日)は、6時ころに起こします。もっとも5時すぎにはかなりの子供が起きとります。起きたら、まず四つ辻に亥の子をつきに行くんです。このとき、なぜかダイコンを持って行きます。つくのは6か所くらいですかなあ。それが終わって、雑煮を食べ、それから、公民館に行って亥の子大会に参加します。
 昼からはお札配りです。八幡様のお札に、寄付のお礼として餅やミカンやお菓子を添えて家々にお返しに行きます。全部の家ですから、これもけっこう時間がかかります。子供の取り分については、学年によって差があります。やはり、トウドリが一番たくさん取ります。それは、わたしらのころと変わっていません。」

 ウ 亥の子大会

 以上の話にあった、日曜日の午前中、吉田公民館で行われる『亥の子大会』は、吉田独特のものである。**さんに聞いた。
 「昔はどこも土でしたから、亥の子はどこででも思い切りつけてたんですが、今はアスファルトですから、土の上で亥の子をつくときの、手の感触を子供たちに味わわせようということで、『亥の子大会』が始まったんです。今年でもう24、5回になりますから、かなり歴史がありますが、最近は参加する組がだんだん減ってきまして、今年は8組(北小路1・2区、東小路1区、西小路、裡町2区、魚棚1・2区、元町、御殿内1区、同4区)でした。
 亥の子は公民館の『自由の広場』でつきます。さかんなころは、町内をパレードしていたらしいんですけど、ここ何年かは数も減ってきたので、集まって亥の子をつくだけになっとります。10時ころから、最初は各組が一つずつ、広場の真ん中に出て唄を歌ってつくんですが、最後は全部一斉に競争みたいにつきあいをします。つきまくるんです。昔は穴の深さを測ったりして競争しよったですけど、今はしていません。一つの組がつく時間も、昔は長かったけど、今は短くなりました。あっと言う間です。昔は何曲も歌いながらついていましたが、今は一つか二つ歌うたら終わりです。子供たちはみんな色とりどりのはちまきやたすきをしています。
 わたしの方の準備としては、広場に飾りの旗を立てるくらいですかね。あとは参加者に配る文房具やお菓子を用意するくらいです。」

 エ 亥の子の思い出

 先にも述べたように、亥の子については、多くの人からいろいろな話を聞くことができたが、最後に**さんと**さんの話を、できるだけ重複を避けながら拾遺(しゅうい)的に記録しておくことにする。
 「(**さん)12、3年前になりますか、わたしの子供が6年生でトウドリをやったとき、是非お宿をさせてくれいうことで、わたしとこでお宿をしたことがあります。昔は、お宿をさしてもらうんやけん、費用を持つのが当たり前というようなことがありましたので、かなりの出費を覚悟していたんですけど、みんなが出してくれて、個人的な持ち出しはほとんどなかったですね。
 わたしらが子供のころは、亥の子唄の練習のときには、『度胸だめし』がつきものでした。どこそこへ行って何々を取ってこいと言われ、途中に隠れとったトウドリにたまがされて(びっくりさせられて)は帰ってきよりました。それも最近はしよらんようです。」
 「(**さん)わたしらのころは、亥の子は中学(旧制)に行ったら入れなかったんです。というのは、小学生はお宿に泊まりに行ったりできるんですけど、中学生になると夜間外出がだめだったんです。昔の中学校は厳しかったですけんなあ。ですから、小学校の高等科2年生がトウドリになって、フクトウドリが高等科1年生で、シメシトウドリいうのが6年生。中には、お亥の子のトウドリになるために中学には行かないというのがおるぐらいでした。
 昔は、亥の子石の割りあいこをよくしていました。石を置いといて、代わる代わるたたきあいこするんです。当然、大きいのが強いんですけど、大きいのは人数の多いとこやないとつけんでしょ。ですから、人数が多いとこが、石が大きくなって強なって……。一番強いのが魚棚3丁目でした、人数が一番多いんで。わたしとこの本町3丁目も40人くらいおったかなあ。子供の数が今とは全然違うけんなあ。夜のお宿回りのときに会うと、けんかしたり、はちまきの取り合いをしたり、昔はがいな(すご)かったですよ。」


*33:江戸末期、文政6年(1823年)の文献には、亥の子が子供の遊びとは思われないほど華美になったことや、本来の行事
  が正しく行われなくなったことを嘆く文章がみられる。また、安政4年(1857年)には御家中と町内の亥の子連中の衝突
  (「吉田の亥の子騒動」)が起こるなど、吉田の亥の子の過熱ぶりがうかがわれる(②)。
*34:愛媛県では、石亥の子とわら亥の子をつく地域がある。その分布は、宇摩・新居・周桑地方および温泉郡東部地方がわ
  ら亥の子、松山平野から上浮穴郡・喜多郡地方は混在地域、その他はおおむね石亥の子地域となっている。なお、石亥の子
  地域には亥の子宿が設けられ、子供組の中心行事として実施されているところが多い(⑯)。

写真1-3-37 亥の子宿となった元町公民館

写真1-3-37 亥の子宿となった元町公民館

平成10年11月撮影